誤解を引き出した背景

「純粋経験が唯一の実在である」という定義が西田幾多郎による独断的かつ独善的な解釈であったとすれば、はたしてどのような事情がこの誤解をひきだしたのか? 幾多郎自身が彼の暗い過去からの脱出を目指したからか? はたまた、彼を指導した指導教官の能力不足なのか? なにが真の理由か?

 人間の心の動きを瞬間的に冷凍固化し、スライスしてその薄膜をつくり、顕微鏡で観察して外部からの観察を行い、構造分析と原因解明ができるものであるならば、そうしたい。しかし、心の外部観察は実行不可能である。

 しかも過去のことである。

 我々はふたたび文字による記録をほじくり返し、資料を集め、状況証拠らしきものをつくりあげなければならない。

 もっとも厭な仕事になる。だが、ここを通り抜けなければ次に進めない。

 筆者は、幾多郎による稚拙な判断は次の四点のいずれか、またはその混合から発生した、と考えている。

1. 本人の資質が悪かった。
2. 本人が暗い過去からの脱出を急いだ。
3. 東大予科でのきわめて貧弱な教育
4. 禅師によるミスリード

 この問題に対処するため、あるいは手掛りをつかむため、幾多郎の教育にあたった雪門と幾多郎の前半生を取りまとめる年代記を作成したので、これを参照願いたい。

1. 本人の資質が悪かった。

 年代記に記したコメント:

              石川県専門学校に補欠入学

              藤岡作太郎の西田評「粗豪にして細密ならず」

              四高を退学。「行状点欠少」

 でおおかたは推定されるのではなかろうか。細密な仕事であ
 る資料の収集と分析という仕事には不向きな人間だったよう
 だ。


2. 本人が暗い過去からの脱出を急いだ。

 年代記に記したコメント:

              21歳、東京帝国大学文科大学哲学科選科に入学。ひた
    すら劣等感。

              選科卒業、金沢に帰る。実家は没落し、帰る家が無い
    状態。

              妻寿美との離婚。金沢四高から免職される。

  学校の成績は劣悪であり、しかも実家は破産し、七尾で結
 婚した最初の妻には離婚され、それが理由で四高から追放さ
 れた。彼にとってはこの世に生きる場所が無かったのであろ
 う。

  庄屋の息子として生れた彼には、もちろん世間体もあった
 に違いない。このような暗い過去とは一刻もはやく手を切り
 たかった。

事態は谷口雅春の青春時代と酷似している。そして彼もまた功名をあせったのだ。

写真:
   双面人四管器座 
   西周
(紀元前1046年−紀元前771年)
      1993年 洛陽市林校より出土
   高さ 15.5cm パイプ径 3cm  
   河南省洛陽博物館
   『洛陽文物精粋』王綉等編 
   鄭州 河南美術出版社 
2001.4


    この人物も四つの柱の上にいる。
    だが、顔は裏表の二つだ。

         いったい全体
    この四つの柱はなにに使ったのだろう。

3. 東大予科でのきわめて貧弱な教育

   東大の予科といえば聞こえは善いが、その内情はまことに貧弱
  で、高等専門学校程度の内容だったらしい。東大の図書館にも入
  室を許されなかったらしい。

   このような貧弱な内容の教育を受けた人に完璧な業績を期待す
  るほうが、無理なのであろう。


4. 禅師によるミスリード

   そして雪門である。

   彼を高僧とみる人が多数であるが、筆者はそうは思わない。

  彼は破戒僧であった。金と縁が切れなかった。金つくりにはわ
  ずかの才能があり、したがって国泰寺の再興のために金集めが必
  要なときには採用されたが、再興が成ると同時に首になった。集
  めた金の使い込みが発覚したのかもしれない。それ以降、彼に住
  持する寺は与えられなかった。

   雪門は臨済宗の相国寺出身であるから、臨済宗の中興の祖とさ
  れる白隠が、師であった正受老人から受けたように、幾多郎に厳
  しい鉗鎚を与えるべきであった。だが、破戒坊主は、殴って崖か
  ら突き落とすかわりに法号を与えた。

   はたして雪門は還俗し、そして事業に失敗した。

  雪門は破戒坊主であり、相国寺から破門されたばかりだという
  のに、幾多郎にたいし授与する権利と資格がないにもかかわらず、
  法号を与えてしまった。

   つまり、西田幾多郎が終生使った「寸心」という法号は、宗派
  による裏づけのない「ヤミ法号」であった可能性が高い。

   しかしながら、臨済宗の名誉のために書いておかなければなら
  ない。林丘寺の滴水和尚は安易な回答を引き出そうとやってきた
  幾多郎を拒絶した。

   だが、彼にはこの拒絶も通じなかった。

   1903年(明治36年)寸心日記に彼は書き付ける。「余は一大真
  理を悟得して、之を今日の学理にて人に説けば可なり。此の外余
  計の望を起すべからず。多く望む者は一事をなし得ず。」。

    彼はひたすらに、神秘体験Aが「唯一の実在」であり、「一大
  真理」であると誤解したのだ。



   注:滴水和尚については
             http://www.itteki.jp/study/001/main.html
       を参照のこと。

写真:
    寸心法号
    
上田閑照
   『上田閑照集−第一巻』
   岩波書店、
2001
     p116

左上写真:

幾多郎写真 四高教授時代
上田閑照
『上田閑照集−第一巻』
岩波書店、
2001
p81