西田幾多郎という人

幾多郎写真 昭和182

上田閑照『上田閑照集−第一巻』
岩波書店、2001 p157
より拝借。

日本における哲学書の基本とされる本が『善の研究』なのだが、有名な本なのに分かりやすい解説書がない。解説書がないから、中身がわからぬまま、風評だけが一人歩きしてしまう。

 鈴木大拙の本を見ても、梅原猛の本を見ても、讃嘆の言葉はあるが、解説がない。「あれは素晴しい本だ」では、批評どころか理解の糸口さえつかめない。

 筆者は前著『純粋経験B』で「西田幾多郎−善の研究」という章を設け、解説をしたのだが、この本を読んでいただいた人に感想を聞くと、この第三章にさしかかったら、突然思考が途切れまったく意味がわからなくなった、と正直に意見を述べてくださった。

 だから、おおかたの理解を得るためには、一工夫も二工夫も必要なのだと悟った。

 この本を理解するためには、工夫が必要なのである。読者のほうも理論武装してかからなければならない。平安時代の『枕草子』を理解するためには、多数の古語をまず理解しなければならない、のと同じように、この『善の研究』を理解するためには、仕掛けが必要なのだ。

では、どのような仕掛けが必要なのであろうか。

 まず、気楽に『善の研究』を読んでみる。一度読んでも中身がわからぬはずだから、筆者がこれから指摘していくポイントに注目して考えたらよい。

順番に述べていくこととしよう。

 まず、西田幾多郎とはどういう人物なのか。ざっとおさらいをしておこう。

 西田幾多郎は、明治3(1870)519日、石川県河北郡宇ノ気村森で生れた。父は得徳(やすのり)、母は寅三(とき)、の長男であった。代々庄屋の家柄で幾多郎は第十二代目であった。

 明治24年、21歳で東京帝国大学哲学科選科入             学。
 明治27年、24歳で同大学選科卒業。
 明治32年、29歳で第四高等学校教授となる。
 明治34年、30歳で雪門禅師より「寸心居士」
            の法号を受ける。

 明治36年、京都大徳寺孤蓬庵広州禅寺に参し
      、「無」字の公案透過。

 明治44年、41歳で「善の研究」を弘道館より
      出版する

 大正2年、  43歳で京都大学教授となる。宗教学講
       座担当。

西田幾多郎が「善の研究」を構築したのは、29歳より
歳までの間で、第四高等学校の講義ノートの上だった
らしい。その核心となる哲学体験はどうやら座禅の場
であったようだ。


 かれは、明治19年、16歳のころ、初めて越中国泰寺
(現高岡市)の住職雪門禅師と接見し、この関係は彼
が四高講師として在職するまで続いた。雪門禅師より
法号「寸心」を授与されたのは、明治
343月、西田
幾多郎が
30歳のときであった。

 「善の研究」は、打座による体験を理論化し、後に
京都帝国大学助教授になった明治
44年に出版された。

 西田幾多郎が、いつ、どこで、どのような原体験を
したかについては一切の記載がない。


 上杉知行著『西田幾多郎の生涯』には明治30年前後
の幾多郎の写真が掲載されている。目つきがするどく、
細面で、耳が張り出し、頭が三角形に上方に突き出し
ており、異形である。禅僧の風格といってもいいかも
しれない。


高岡市国泰寺
仁王門より法堂を望む。
平成15年11月撮影