添付:

近世後期の小布施を中心とした
交通図。

『高井鴻山伝』
高井鴻山伝編纂委員会 
小布施町 昭和
63(1988)
より転載。

高 井 家 の 生 業

なぜに小布施が重要な交易地になったか、という話を
しておかなければならない。

別図街道図を参照していただきたいのだが、江戸から
きた中山道は信濃追分で分岐し、中山道と北国街道に分
かれる。高田、北陸へ抜けるときは、北国街道が正規の
街道なのであるが、実際には北陸方面へ向かう旅人や荷
物は、沓掛(現在の中軽井沢)から北上する大笹街道へ
入り、大笹で西行して鳥居峠を越え、現在の菅平を経由
して、仁礼から須坂に下がり、谷街道を通って小布施を
抜け、山王島の渡しから神代に至り北国街道へと入って
いったのである。

大笹街道を使えば、小布施から沓掛まで14里であるの
に、北国街道経由だと
23里を要することが決定的要因だ
ったらしい。

では、そもそも信州の高井家はなにを
生業としていたのか?

  高井家というのは、小布施の百姓であ
る。

  初代の新之烝が西暦1620年ころ、佐久
から移住してきた。まず小布施扇状地の
新田開発に従事し、耕地を獲得して農業
に従事した。さらに、小布施で開かれる

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8の日の月6回開かれる六斎市に参加
して貨幣収入を得、六斎市の発展ととも
に商人となり、米の取引を行い、酒造業
を開始し、塩の取引を行い、遠隔地との
交易にも携わるようになった。結果とし
て、地域経済を代表する豪農と呼ばれる
存在になった。また、米穀扱い商人であ
った高井家は、松代藩ならびに飯山藩の
出入り商人として勢威を振るったのであ
った。つまり、その当時の銀行業務をも
兼ね備えたのである。