31歳のときに天保の飢饉が発生し、大
塩平八郎の乱が発生し、世の中が大層不
穏になったときに父親熊太郎の要請があ
って、鴻山ははじめて信州小布施にもど
ってきた。そして
4年後の天保11年に熊
太郎は亡くなったから、一家のリーダー
シップは鴻山の手に渡ったのである。

商いをまったく知らぬ家長と発言権の
ない(弟の)番頭の組み合わせはあまり
面白いものではない。

七代徳左衛門、八代作左衛門、九代長
救(ながひら)、十代熊太郎が営々と築
き上げてきた財産は急激に減少をはじめ、
家運は衰えていく。時は幕末であり、世
の中は幕府派、倒幕派にわかれて死闘を
くりかえしていたが、下手に政界に顔の
売れた鴻山はひっそりと隠れていること
ができない。

私生活でも、妻(かず)がおりながら、
妾(ふじ)を東京でつくり、小布施へ連
れてきてしまった。家のなかも乱れた。


  そしていよいよ王政復古も近い慶応2年、
鴻山が
61歳のとき、彼は幕府からの援助
要請のままに、なんと
7年間の延払で1
両の献金を約束してしまう。手元に一銭
の貯えも無くなっていたので、初年度の
献金
1600両の支払いは、先祖伝来の田畑
を質入れした。翌年も
1400両の支払いを
質入れ金でまかなった。このときに、金
扱いを知っていた番頭の弟太三郎がおれ
ばよかったのだが、愛想をつかした彼は、
すでに分家して鴻山のそばにはいなかっ
たのである。

ところが、鴻山の献金は大政奉還の事
態で全く無意味となり、鴻山は多額の借
金を背負って後にのこされ、そして明治

8
年には破産に追い込まれた。

高 井 鴻 山 (2)

小布施の人たちは、往時の鴻山のインテリぶりを「大人
(たいじん)である」として美辞麗句をもって褒めたたえ
るが、こと金銭面から見ると、鴻山は、「放蕩宗」を名乗
った時点で禁治産宣告をうけてしかるべき存在であった。
彼は事業家としては、いわゆる「能なし」だったのである。

彼が貧窮のうちに亡くなったのは、明治1626日(旧
暦)であった。最後まで息子辰二とその嫁さわに迷惑をか
けっぱなしであった。


(添付:鴻山年表)

画像:
高井鴻山記念館パンフレットから
高井鴻山肖像(横山上龍画)

高井鴻山は(旧暦の)文化3315日、(新暦にすると1806
53日)信州の小布施に生まれた。高井家十代熊太郎と母親
ことの四男であり、兄三人は幼少のときに亡くなったので、鴻
山は高井家の後継として一家から期待されて育った。

詳しくは添付する年表を参照していただきたいが、15歳にし
て京都に上り、儒学・絵画・国学などを勉強し、
21歳のときい
ったん小布施に帰り、親戚の娘と結婚した。翌年妻かずを伴っ
て、再び上洛し、漢詩を勉強した。

28歳のとき、漢詩の先生であった梁川星巌とともに上京し、
昌平黌へ通って朱子学の勉強をした。

とこう書けば、彼は勉強ばかりしていたように聞こえるが、
勉強のかたわら、花柳界で金持ち御曹司の乱痴気騒ぎをやって
のけ、自らを放蕩宗と名乗り、そしてその結果、たくさんの友
人を作った。

こうして高井鴻山は信州出の田舎者であったが、遊び人なら
びに、当代一流のインテリとなった。

逆に、金儲けの丁稚仕事はまったくせず、金銭面は、弟太三
郎に任せっきりであったから、ソロバン勘定にはきわめて疎い
人間ができあがったのである。つまり、学問には強かったが、
金儲けの方法を知らず、金銭上の収支のバランスのとりかたが
まったくわからない人間ができあがった。

では、高井鴻山という人はどのような人
だったのかざっと調べておきましょう。