満18歳にして諸国行脚の旅に出て、修行は徐々
に実を結び、最終的に満23歳のとき、白隠は新潟
県高田市の英巌寺で神秘体験Aに到達した。彼は
この体験こそ真理であると確信したが、気がついて
みると周囲に同じ体験をした人間がいない。スペイ
ンのテレサは155年前に同一体験に到達したから、
彼女に聞けばよいのだが、彼女はすでに亡くなって
いる。そこへ宗覚が現われて、飯山の正受老人に
会って見たらと、助言してくれた。彼が連れていってくれるというのである。喜んだ白隠はこの誘いに乗り、山越えをして飯山に乗り込んだ。

 正受菴というのは、再興されていまでも飯山にある。JR飯山駅の裏手で駅からそんなに遠くない。妙心寺から住職が派遣されているようだが、再興されたときに、元の位置から山手のほうに約10メートルほど移動させられたようで、白隠が縁側から突き落とされて、石垣の下に転げ落ちた史実とは一致しない。裏手に正受老人とその母、李雪、ならびに宗覚の墓が並んでいる。

正 受 老 人 の 鉄 槌

 正受老人(しょうじゅろうじん)という人は、大阪冬の陣ならびに夏の陣で大活躍した真田幸村の甥にあたり、正受の父親であった信之は、幸村の一つ違いの兄だった。幸村が大阪夏の陣(1615)で討死したとき、満48歳であったから、それから93年後の宝永5年(1708)に幸村の兄の子供が満66歳でまだ生きていた、というのは勘定が合わぬように思われるかもしれないが、じつは正受は、信之が満76歳のときに側女との間に「間違って」生れてきた子供であり、それゆえ真田家の家系図には載せられていないし、母李雪の素性もはっきりしない。

 「間違って」生れてきたのであるから、「私はなぜここにいるのか」という哲学命題は彼が幼少のときから、彼が親しんでいた問いであった。そこで大悟したのも異常に早く、わずか満15歳のときに卓見に到達してしまい、その後は、ブラブラと人生を送ったのである。

 人は至道無難が正受の師匠だとしているが、無難と正受では格が違う。正受のほうがはるかに人生の達人であったように思われる。

 では、人生の達人であった満66歳の正受は、満23歳で青二才の白隠になにを教えたのであろうか。

 引き続き、中村博二『正受老人とその周辺』を読み進むこととしよう。

写真:飯山正受庵、(入口)
        1996年秋撮影

 白隠は宗覚に随って正受菴へやってきた。途中で老人が薪を採っているのに出会った。宗覚はその老人に言った。

「これは駿河の鶴上座(かくじょうざ)(鶴は慧鶴で、後の白隠である)というものです。老師にお会いしたいとやって来ました。どうか一度会ってやって下さいませんか」。

 老人はふり返ってうなずいただけであった。それから宗覚は薬石(夕食)の用意をした。老人は山から帰って来て鉢を手にもって座に着いた。白隠は下座(しもざ)で食事をしたが、老人は白隠に対して一言も発せず、食事が終わると自分の室に入ってしまった。白隠は「ここの老師は尊大で礼儀を知らない。しかし、弟子となるには、師弟の礼にかなった美しい行いをしなければならない」と思って、宗覚に言った。

「どうか相見(しょうけん)の礼に従って老師に相見させて頂きたい」。


 そこで、白隠は威儀を正し礼拝して、自分の見解(けんげ)を偈にしたものを差し出した。正受はそれを一見し終るや、その偈を左手にもって言った。
「これは学得底(がくとくてい)(外から学んで得たもの)だ。どれが貴公(きみ)の見得底(けんとくてい)(自分の本性を徹見して得たもの)か」。
と言いながら右手を前に差し出した。
「もし見得底で呈するものがあれば、すっかり吐き出さなければならない」。
と白隠は答えて、嘔吐の声を発した。

 次に正受がまた質問した。
「参は実参(師家について実際に禅の修行をすること)でなければならない。狗子仏性はどうか」。
「手を下す所も在りません」。
と白隠が応じたところ、正受は手を伸ばして白隠の鼻づらを抑えて言った。
「大いに手を下したぞ」。
 白隠は進むことも退くことも片言を発することもできない。満身に汗が流れるだけで、思わず拝服した。正受は大笑して言った。
「穴蔵禅法」。
 白隠は無言であった。すると正受はさらに言葉を続けた。
「貴様はそんなことで満足しているのか」。
「何の不足のことがありましょう」。         (同上)

 新到が正規の禅堂に入るためには、一,二週間の庭詰、旦過詰(たんかづめ)といわれる苦しい入堂試験を課せられるが、禅堂入りを許されて師家に相見するためには、さらに相見香(しょうけんこう)をたき、三拝九拝したり茶礼(されい)をする「相見の礼」がある。

 宗覚が正受にその旨を告げると、正受は言う。
「すでに相見はおわった」。
 そこで宗覚はさらに言う。
「彼は一度親しくお目にかかりたいと申しております」。
「それでは連れて来い」。
と正受は応じた。

写真:飯山正受庵