1554年、スペインのテレサはアヴィラのご託身修道院で、「一致の念祷」に到達してよろこんだ。喜んだのだが、この体験がはたして宗教者の求める「聖霊」であるかどうか、自信がもてなかった。誰かに裏書をしてほしかったのである。

 同じように、白隠も西暦1708年の春、高田の英巌寺で「氷盤擲砕」に到達した。そして彼もまた、自分の体験を誰かに裏書してほしいと考えた。そこで白隠は行動にでる。

白 隠 の 慢 心 と 宗 覚 の 出 現

 この部分が『白隠年譜』では次のようになっている。独悟の後、直に走って性徹の処へ行き所見を呈したが、性徹の対応が俊敏でないので一掌(平手打ち一つ)をくらわせて出て来た。さらに仏燈及び長首座の処へ行き、所見を呈したところ、いずれの対応にも白隠は納得せず、袖を払って出て来た。そしてこれから、自分の所見は最高であると自任して、まわりの人々をばかにしてしまった。「三百年来自分のように痛快に悟ったものはない。世界中に自分のするどいはたらきに応対できるものはない」と思うようになった。
                 (中村博二『正受老人とその周辺』信濃教育会)

 『白隠年譜』というのは、白隠の弟子であった東嶺が著した白隠の伝記であり、正式には『白隠禅師年譜』という。平手打ちを一つくらわせる、などと表現が穏当ではないが、これは禅の世界で使われる誇張表現であり、実際に白隠が性徹和尚を平手打ちしたことを意味しない。性徹和尚を軽蔑して出てきた、くらいの意味である。

 そこへ突然、宗覚という坊主が現われた。引き続き中村博二の本から『壁生草(いつまでぐさ)』の翻訳を引用しよう。『壁生草』というのは白隠が満80歳のとき、明和2年に書いた自叙伝である。

 その頃英巌寺には、性徹和尚の『人天眼目』の講義を聞くための五百人もの雲水が集まって来て、寺の寮だけだは収容しきれなくなった。そこで隣の曹洞宗寺院の客殿を借り三十余人が分宿したが、白隠はその外宿者の長の一人となった。その時の同僚七,八人の中から連絡係として出ていた団禅人が常住(じょうじゅう)(僧堂の役位の僧の居る所)から帰って来て、あわてて次のようなことを言って引き返して行った。

 「只今、稀有(けう)の新到(新参の僧)がきた。身長六尺、いかめしい顔付をしており、大柱杖(しゅじょう)(禅僧のもつ長い杖)をもち、枯木のように立ち、大音声をはり上げて参加を願っている。どう見てもただものではない。彼のとうなものもまたこの外宿に泊められることになるのかどうか」。
 …………
 白隠と同じように、かの道人に相見するつもりで来て英巌寺に留錫していた長首座が衆寮の役位についていたが、この人がかの曲者(くせもの)を連れて来て、丁重に言った。

 「この新到は信州の僧である。寮の末席に置いて掃除など命じて宜しくご指南のほどお頼み申します」。
 …………
 「それならば承諾いたしましょう。しかし、彼に少しでも怪しい挙動があれば早速常住へ返しますから、その時は間違いなく受け取られよ」

 こんな事で万事了解もついた。

 さて、翌日の開講式も無事終って、皆は互いに祝いの言葉を述べ合った。長首座も入って来て祝いの言葉を言いおわると、白隠の傍らにある『人天眼目』を手に取って開き、「ここを君はどのように考えるか」。「そこの君の所見はどうか」。などと、種々詮議しおわって帰って行った。そうすると、昨日の新到が白隠に話かけた。

 「あの方は役位の一人ですか」。
 「役位のものに何か用事があるのか」。
 「彼は少しはわかっているが、ここの判断はよくない」。
 「それなら君はどうだ」。

 彼が『人天眼目』の一つ一つを順を追って判断して解釈していくと、その意味が明らかになり、同じ寮の者は悉く俄かに見方を改めて、恐れおののき静まりかえってしまった。

 名を尋ねると、正受菴の弟子で宗覚というものであると言う。いつも来て見解を言う法友たちも、これを伝え聞いて全く恐れてしまって一人も来なくなってしまった。しかし白隠は、長い日照りの後で初めて雨に逢うか、他郷で旧知に逢ったような心地で、これより昼夜宗覚と商量(互いに問答して審議すること)し合ったが、その楽しみは比べるものもないほどであった。やがて講了分散の前夜となって、白隠はひそかに宗覚を招いて師匠の名をたずねたところ、宗覚は答えた。

 「わが師は飯山正受菴の端蔵主(たんぞうす)という老隠士である」。
 「わしもまたひそかに飯山に尋ねて行って、その老師を拝そうと思うがどうか」。
 「それこそわが願う所だ。どうか来給え。私が案内しましょう」。
 
 翌朝分散の鐘の鳴るのを待って二人ひそかに曹洞寺院を出て、富倉山を越えて飯山に来た。

画題:狩野元信筆、「祖師図(そしず)」
         室町時代 永正10年(1513)
         東京国立博物館
         http://www.tnm.jp/scripts/col/MOD1.idc?X=A288X

     日本の禅宗は鎌倉時代に始まった。
     このような禅画が描かれるようになったのは、
     室町時代からなのか?