オータンのローマ遺跡

注1:オータンに残るローマ時代の遺跡については、いちまぶろぐの参照をお勧めする。
2:『ローマ帝国衰亡史』3 中野好夫訳 筑摩書房 1981 P143
 副帝の印綬をミラノ市で受けると、ユリアヌスは直ちにガリアヘと派遣された(356年)。従う兵わずかに360、ひどい弱体の一行だった。彼の行動に関しては、コンスタンティウス帝から特命を受けた高官たちがもっぱら指導に当っており、つまりは彼等の監視下に置かれながら、苦痛に充ちた不安の冬をウィエンナ市(現在はフランス、当時のガリア・ナルボネンシスにあったローヌ河沿いの古都市。リヨン市のすぐ南。今日のヴィエンヌ)で過した。が、そこで彼はオータン市攻略とその救出の報を受けた。崩れ落ちた城壁、意気沮喪した守備隊により辛うじて衛られていたこの古代大都市も、こうして寡兵とはいえ祖国防衛のためふたたび武器を執った老練兵たちの断乎たる決意により、見事救われたのだ(356624日)。

サン・アンドレ門(Porte Saint-André

 この門は東方に通じるデクマヌス・マクシムス(古代ローマの都市の中心部を東西に貫く基幹道路)の端にある。アルー門に似通った建築様式を持っているが、特に建築家ヴィオレ・ル・デュクによる多くの修復を受けた。

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ヤヌス神殿(Temple de Janus

 ヤヌス神殿は、信仰地区のたった一つの建設遺跡であり、この街の外に位置している。これは(ガリア起源の)神殿である。この神殿にどのような神が祀られているか分かっていない。ヤヌスの名前はこの地区の地区名「ラ・ジュヌトワイエ」が変形して出来た。エニシダ(les genêts)が生える場所の謂いである。

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クアールの石(Pierre de Couhard

 ガリア・ローマ時代の共同墓地の頂上に位置している。紀元1世紀に建てられたクアールの石は墓の記念碑である。

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アルー門(Porte d'Arroux

 この門は紀元1世紀に始められた。北方に向かって開き、カルド・マクシムス(古代ローマの都市の中心部を南北に貫く基幹道路)の端にある。この門には乗り物の通過のための二つの大きなアーケードと歩行者のための二つの小アーケードがある。

現在に残る古代遺跡は6ヵ所。

ローマ劇場(Théâtre romain

 紀元70年の頃に建築されたローマ劇場は、古代都市の東方に位置しており、演劇上演に使われた。直径148mのこの劇場は、観客2万人を受け入れることができ、ローマ世界でもっとも大きかったように思われる。この劇場は、土地の自然傾斜を利用し、階段によって区切られ、三列に配置された半円形の階段座席を持つ古典様式であった。堂々たる壁がこの劇場の舞台裏にあった。その高さは30mであったと考えられている。

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古代城壁(Remparts antiques(各遺跡の解説

 アウグストドゥヌム(Augustodunum)は紀元前1世紀に設立されたのだが、この街には6kmにわたる名義的な城壁が備わっていて四つの門があった。これらの門のうち、現在残っているのは二つだけである。もっとも良く保存されている城壁部分はマック・マオン通りにある。

画像:Google Map, 2015. 一部修正

画像:Google Map 2015 一部修正

画像:アウグストゥス帝によって建設された長距離のアグリッパ街道

画像:マック・マオン通りのローマ城壁

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歴史

Michelin Guide, France.1991,P73の翻訳です)

 **オータン(町の古名Augustodunum)はアウグストゥス皇帝によって、シーザーのガリア征服より1世紀後に設立された。丘の多いこの場所はリヨンとサンスを結ぶローマ街道上にあり、広いアルー渓谷を見下ろしている。この新しい街についてはローマが手本とされた。;その6kmの長さの城壁のなかに、まもなく美しい公共の建物が造られ(一つの劇場、一つの円形闘技場)、商業活動が活発になった。西側に29km離れたバーヴレ山のビブラクト砦から、ガリアのエデュイ族が感嘆のまなざしでこの都市の成長を見守り、やがて彼ら自身も移り住むこととなった。