ところがどうです。ある日、明治維新の頃、突然、全てがドイツに統一されたのです。不思議だと思いませんか。突然の大きな変化というものにはかならず、為政者による「裏に隠された」手の内があるものなのです。この「手の内」を私達は読み解かなければなりません。

文久二年(1862)幕府による欧州使節団派遣の頃には、日本の貿易と借款の70%は英国が占めており、将来誰が日本の外交をリードするかが大問題となっていました。アメリカこそ、その当時、国内で深刻な内戦(南北戦争)が始まっていましたから競争を下りましたが、使節団のアテンダンスについて英仏間で激烈な競争がおこなわれました。誰が旅行費用を負担して誰が日本に貸しをつくるかの競争が行われたのです。結局船旅の費用は行きが英国持ち、帰りがフランス持ちとなりました。各国での滞在費用も受け入れ各国が費用を支払ったのです。

画像:福沢諭吉。日本紙幣一万円札より

 このイギリス政府の冷たい接遇につき、アメリカ人学者Prof. Dr. Alfred B. Sullivanは、「その原因は伊藤博文だよ」と読み解いたのです。まるで、「悪者」は伊藤博文だよ、といわんばかりの言い方ではありませんか。でも、私はここで、彼の言葉のなかに真実を直観したのです。

画像Sir Harry Smith Parkes幕末から明治初期にかけ18年間駐日英国公使を務めた。

文 明 開 化 (2)

 文明開化が、アメリカ、フランス、イギリス、オランダで開始されながら、なぜ明治政府は突然に窓口を閉めて、コチコチのドイツ一辺倒になってしまったのでしょうか。このドイツ主義は実に第二次世界大戦の終戦まで75年間も続き、日本は二度目のみじめな鎖国状態を経験したのです。

 この謎を解くために、文明開化の第一号「新橋-横浜間の鉄道開通」をくわしく調べてみることにしましょう。上の一覧表でもわかることですが、文明開化の第一号は実は「灯台の建設」だったのですが、「灯台」は航海上重要な施設だったにもかかわらず、一般大衆の耳目に訴えることが少なかったので、通常そう目されている通り、「鉄道」を調査対象にすることとしましょう。

画像はいずれも明治村絵葉書(作:木田安彦)から。

  十四年の真面目(しんめんもく)の事実は、私が詳(つまびらか)に記して家に蔵(おさ)めてあるけれども、今更ら人の忌(いや)がる事を公けにするでもなし黙って居ますが、其とき私は寺島(てらじま)と極く懇意だから、何も蚊(か)も話して聞かせて、「ドウダイ僕が今、囗まめに饒舌(しゃべ)って廻はると、政府の中に随分困る奴が出来るが」と云ふと、寺島も始めて聞(きい)て驚き.「成程さうだ、政治上の魂胆(こんたん)は、随分穢いものとは云ひながら、是れはアンマリ酷(ひど)い。少し捩(ね)ぢくって遣(や)っても宜(い)いぢやないか」と、態(わざ)と勧めるやうな風であったけれども、私は夫(そ)れ程に思はぬ。「御同前(ごどうぜん)に年はモウ四十以上ではないか、先づ先づソンナ無益な殺生(せっしょう)は罷(やめ)にしやう」と云(いう)て、笑(わらつ)て分れたことがある。

 詳しく言えば、実はもうひとり読み解いた人がいます。福沢諭吉であります。直接に岩倉使節団について触れたものではなく、明治14年の政変に関するものです。次の記述は『福沢諭吉選書第10巻福翁自伝』岩波書店1981P306から採ったものですが、結局彼はこのメモを公表しませんでした。(文中寺島とあるのは寺島宗則のこと)。欧米新聞を読破していた諭吉は欧州の事情にも通じており、彼は裏事情を読み解ける立場にあったのでしょう。

「・・・・ヨリ格別二懇親丁寧ナル待遇ヲ蒙リシ由、我ニ於テモ深ク謝スル所ナリト、話畢テー同三度揖礼ヲ為シ、後歩シテ退席ス、是ヨリ別席ニ於テ饗応アリ、外務卿ハ別ニ要務アリトテ臨席シカタキ旨ヲ告ク、此席ニ列シ接遇セルモノハ多クハ女皇近侍ノ武官ナリ、右畢テ第三時二十分前発軔、同四時十五分前倫敦帰館ス」

引用:『特命全権大使米欧回覧実記』2 久米邦武編、
                岩波書店
1978 P408 部分

画像:現在のウインザー城での招宴情景

 各国によって大歓迎された幕府使節団の訪問より10年後、1872125日、不当に長く待たされたのち、新生明治政府の岩倉使節団は英国ウインザー城において、ヴィクトリア女王に謁見を賜わりました。が、式後通常ならば、女王臨席のもと壮麗なる歓迎祝宴が催されるべきところ、祝宴はなるほど開催されたが女王は出席せず、外務大臣も要務を口実にして出席せず、接遇したのは女王近侍の武官ばかりだったのです。岩倉団長は当時の明治政府では首相クラス、その地位は天皇から数えて第三位であったにもかかわらず、意図的に英国女王によって「虚仮(こけ)」にされた。この理由を岩倉団長は知らなかったが、我々は知らなければならない。

画像The State Apartments at Windsor Castle

P30 1863(文久3年)

 1863年に、横濱で商取引をしていた32の商会の中で、16は英国人のものであった。三百人の外国人居留民の中で、140人は英国籍であった。一年に出入する170隻の中で、100隻が英国旗を掲げ、65,000トンの貨物総量の中で、35,000トンを積載した。港の貿易総額は1,400万ドルと見積られていたが、その中で1,100万ドルが英国分で、米国分は100万ドル以下であった。日本において米国が英国に対し奇妙に非友好的政策をとるのも、これで説明できるかもしれない。日本は、米国の勢力と機敏さによって、対外貿易をするようになった国である。極東における二大国の関係が、そのために、気まずい状態になっている。

注:『パークス伝』F.V. ディキンズ、高梨健吉訳、東洋文庫429 平凡社、1984を参照のこと。

P56 1865(元治2年・慶応元年)

  次にあげる数字は、1865年に日本における英国の利害関係を示す重要な手がかりとなるものである。輸出入総額は、蚕卵という新しい貿易も含めて、3,200万ドル以上に達した。当時のドル価格では、英貨約8百万ポンドに相当する。ここに記録する価値のあることは、1865年に5シリングの価値であったドルは、この文章を書いている日(1893810日)には、ただの2シル6ペンス1/4であるということである。貿易の大半は英国で、船舶の7分の6も英国であった。関税は横濱だけで452,305ドルにのぼった。この大金のすべてが、長﨑と函館で収められる税金と合わせて、すべて将軍の金庫に入った。このうまいもうけ口を諸大名、特に南国と西国の大大名たちは羨望の眼で見ていた。

画像:記念すべき初の鉄道車輌「150形式蒸気機関車 車号150(1871年製造)(鉄道博物館)