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9月20日〜26日 <念願の裏銀座を歩く、そして赤牛岳へ>

<4日目> 9月23日  水晶小屋停滞  夕方は感動的な雨上がり            (水晶小屋泊)
夜中から降り始めた雨は朝になっても止んではいなかった。
予定の赤牛岳往復のリミットは9時、それまで待っても止まなかったら赤牛岳行きは延期し、午後黒部川の源流まで遊びに行ってみようと言うことになった。朝食は5時半から、これもまた温かいご飯に具沢山のおいしいお味噌汁、たぷりのおかず、おいしかった。
仕度ができた人からどんどん出発し、残ったのは私たちとやはり赤牛岳往復予定の単独男性の人の3人だけになった。この人はうちと同じ9連休にしていて、室堂から入り薬師〜黒部五郎を越えてここ水晶まで来ていた。それは予定の行動でなく、混雑を避けていたらここまで来てしまったらしかった。この後は笠ヶ岳まで行き新穂高に下ることにしたらしい。本当は槍ヶ岳〜穂高岳〜西穂へ行きたかったらしいが、大幅な変更になったようだった。
本来なら8時頃から掃除が始まるようだが、人も少なくなったためか、それまでの混雑から開放されてか、掃除は9時頃から始まった。
雨が止む気配はなく、午後に期待することにした。
←小屋内部
のれん、台所案内、等布で出来ているものは手作り。ご主人の奥様、従業員のお姉さんが冬の間作っているとのことだった。
素敵なデザインに加えて、効率的な配置になっている。棚も手作りのようだった。
<水晶小屋の歴史>
小屋の壁に貼られていたのによると、昭和30年代初め、2代目、3代目の小屋は完成直前、直後に倒壊してしまい、臨時に建てたプレハブ小屋が40年以上持ったとのことだった。その小屋が新築なったのが2007年、この時は4月の下見の際、ヘリ墜落という悲しい事故があり、それを乗り越えての新築になった。
ご主人は骨折していることも忘れ新築に向け走り回った、と「三俣山荘」「雲ノ平山荘」「水晶小屋」共同で年1回発行される雑誌「ななかまど」に書かれていた。
小屋の設計はご主人が自ら行い、とても効率的にできていた。木は無垢材を使っていた。風速70mに耐えられるように屋根は低かったが、中2階などもあり、更に中央階段の他に隅に梯子があった。混雑時はこの梯子を使って下りるように出来ていた。
そしてなんと奥様は生後7ヶ月の赤ちゃんをおんぶしていてびっくり。7月20日にブナ立て尾根をご主人がおんぶして登って来て以来ずっと山にいるとのことで、下山の際もおんぶして下るらしい。(ちなみに9/25の宿泊をもって今年最後の営業となっていた)
下にいるよりご機嫌良く、病気もまったくしなかったらしい。空気が良いのと、大勢に接することがいいみたいだった。
また、このご夫婦は山から降りた際は家具を作るような仕事をされていて、鋸の目とぎに茅野まで来る、それもうちのごく近くまで来るってことで、なおさら親しみがわいて、3泊もした下山の時は別れが寂しく、ちょっとほろりとしてしまった。
5泊の予定だったので、この日のお昼は小屋でお味噌汁とおにぎりのセットをお願いし食べた。おいしかった。
午後になっても雨は止まず結局1日どこへも行けなかった。
が、夕食が始まる頃、外は急速に視界が開けて来た。
食事が終わり、慌てて外へ出てみると想像以上の景色が広がっていた。

水晶岳
小屋を見下ろし、野口五郎岳をのぞむ。
小屋では風力発電も行っていた。
ヘリ遭難の慰霊碑。
このお地蔵さまに手を合わせた先が遭難現場になっているらしい。
手を合わせご冥福をお祈りした。
そして日が差して来た。
実はこのとき、宿泊客より従業員の方の方が先に外に出ていて、「早く来てくださ〜〜い」って呼んでくれていた。
今年は雨が多かったため、従業員にとっても感動的な雨上がりだったようだった。
ご主人も写真撮影に夢中になっていた。ご主人の頭の手ぬぐい巻きがかっこいい。
そして黒部五郎岳の右手に夕日が沈んだ。
明日は間違いなく水晶岳〜赤牛岳まで往復できそうだった。
この日の宿泊も20人ほどだった。

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