「StoYプロジェクト」とは?

里(S)から山(Y)へ移り住もう! という、我が家のプロジェクトのことです。

 
1985年、茅野市の中心街を離れ、郊外の造成された団地内に家を建てました。150坪ほどの土地に家を建て、約15年程が経過しました。家の南側にはちょっとした庭があったのですが、二世帯同居であり、庭は父の好みで和風に作られていました。やがて結婚後、妻が最初はハーブに、続いて薔薇の栽培に興味を示し始め、庭は和洋折衷の姿を呈しておりました。
第一章 土地探し
 まず、土地を見つけること。

 1999年の秋、茅野市民会館で毎年恒例の住宅フェアが開催されました。まだ半ば興味半分で会場を訪れてみました。私達はそれまで150坪の広さの土地に住んでいましたので、できることなら予算の範囲で畑も含めて300坪くらいの土地が欲しかったのです。そんな中で、いくつか目を引く物件がありました。当然のことながら、市街地からはかなり遠くの山麓だったり、別荘地だったりしました。
 玄関は家の北側にあり、玄関周りと塀に鉢物の植物を飾り、団地でも有名な花好き家族と言われていました。しかし、ハーブや野菜を育てるには庭はあまりにも狭すぎたので、家から車で15分、お隣の原村に300坪ほどの畑を借りて野菜を育てていました。そんな暮らしに、これといって大きな不満があった訳ではありませんが、『やっぱり収穫したての野菜を食べたいよね。そして何より念願の薔薇園を作りたいな。』という願望が強く育まれ、1999年に、八ヶ岳山麓のそれはそれは石ころだらけの『原野』を手に入れたのです。

 いくつもの住宅会社やログハウス会社を回ったのですが、何だかどれもしっくり来ない中、あるきっかけから波長の合う会社と人物に巡り会いました。それは、我々の理想とする生活像を理解いただけ、価値観に共鳴、夢を共有して下さった、長野県諏訪郡富士見町にある株式会社「モクハウス」という建築施工屋さんです。(後で知ったのですが、モクハウスの菅社長さんの奥さまは、私の歌の先生だったのです!) 菅社長にご理解頂いた私たちの基本的なコンセプトは、『家は我々の生活の一つの重要なパーツである。しかし、ガーデンを含めた総合的な理想郷の中のパーツという位置づけで、材料から何もかも自然にこだわった家を新たに建てたい。』」というものでした。そんなコンセプトの元で、我々の里から山への移住計画が始まりました。

 ということで、この計画の実現について、ドキュメンタリータッチでページを作ろうと思っています。
↑ 前の家の南側のお庭  東側の一部が洋風ガーデン
↑ 前の家の北側に飾った鉢植えの数々 色とりどりでした
← 原村に借りていた畑 2000年には薔薇をここへ退避した
↑ ここが気に入った! 手前に娘が、奥に妻が写っているのがわかりますか?
   写真の上にカーソルを乗せると、4年後の2003年の写真に変わります。
 次は、ここに家を建てること。

 土地を購入したのが晩秋に差し掛かる頃でした。前述のような経緯で「モクハウス」さんに建設して頂くことになったのですが、このモクハウスの菅社長という方がまた情熱家で、自然の素材の断熱材を開発するのにニュージーランドまで出かけて、何と羊の飼育家と契約を結んでウールの断熱材を作ってしまったという方です。もちろんこれから建てる我が家にもその材料を使っていただけるということで、それまで高気密高断熱云々といううたい文句に違和感を覚えていた私達が気に入ったのは言うまでもありません。また、菅さんが他の建築会社の方と違う魅力を持っていらっしゃる他の例としては、最初のうちは何回事務所(これがまた自然の中にある自然の家なんだな)に足を運んでも、3ヶ月くらいまでは家の具体案の話にはならず、その3ヶ月の間、何をしていたかというと、私たち夫婦の夢や、私たちの好み(イギリス庭園が大好きで、何度となくイギリスに足を運んだことや、食べ物ではイタリアをこよなく愛し、私はイタリアオペラが大好きなこと、妻は薔薇を中心としたイングリッシュ・ガーデンを作ろうとしていること...などなど)について、時には熱心に耳を傾け、時には菅さん自身の経験や夢を語ったりしておられました。

 私たちが言葉や写真を使いながら、夢のうちの一つの重要なパーツとして、家を建てるに当たっての基本コンセプトを説明し、ようやく間取りや概観や機能(バリアフリー、床暖房など)について話を詰めていったのは、最初に菅さんにお会いしてから3ヶ月くらい経過してのことだったと思います。私達が素人なりに提案した家の構造や間取りを元に、我が家の設計をしてくださったのは、株式会社サイトの浜社長でした。菅さんと浜さんはとても良いコンビという感じで、私たちが菅さんに語ったコンセプトやイメージは、そのまま概観図・設計図となって具現化されました。絵や図面を目の当たりにした時、『浜さんには一度もお会いしていないのに、菅さんに伝えたこと(具体的な間取り等はもちろんのこと、前述のような私達の大切にしているものや、考え方など全て)をご理解下さっているんだ。』と感じました。殆ど修正もないまま、基本的な構想は合意。2000年の春から施工開始、晩秋には完成、という運びとなりました。
第二章 家の建築
↑ 2000年5月 女性の神主さんを招いての地鎮祭
↑ 水分の吸収を図ってくれる、べた基礎の上に敷き詰められた炭
↑ 2000年6月 在来工法による骨組み ほぼ完成
↑ 2000年10月 ウールの断熱材 家が羊毛布団にくるまれる
             ここはダイニングになる、通称「六角堂」
第三章 庭造り
 家の建築が進んでいる頃、つまり家が完成する前から並行して庭の準備を始めました。家の奥(東側)はベジタブルガーデン。元々ある腐葉土をそのまま活かそうと思っていたけれど、やはり土より石の方が多い。鍬は全く役に立たない。使えるのは専らつるはし。このままでは、とても畑にはならない。そこで、ベジタブルガーデンと一部のローズガーデン用に、畑の2倍分の黒土を入れてもらいました。
 左は姉夫妻に作ってもらったビニールハウス。間口6m、奥行20m位の立派なビニールハウスです。家がまだ完成しない10月にはすでにハウスは完成していました。
→ 我が家のガーディナーは、ゆんぼ(パワーショベル)を使いこなします。とは言っても、運転主から即席で使い方を教わり、ピンクガーデンになるところを自分で掘削しているところです。
→ ロックガーデンと石畳のアプローチは知人の専門家に作って頂きました。やはりプロならではの仕事です。
← 左の写真は、我が家で無尽蔵に発掘される火山岩を、ガーディナーがゆんぼで掘った畑の通路に敷き詰めているところです。石だけは売るほどあります。
← 諏訪地方の名産の一つでもある「鉄平石」を使ってのアプローチの脇には、ボーダーガーデンを作ることにしました。掘っても掘っても石しか出てこない土地に半分あきれながら、それでも休日には日の出から日没までの殆どを費やして、薔薇の床作りをしました。2003年の写真と比べてみると...。写真の上にカーソルを当ててみて下さいな。

↓ 雪深い冬を過ごしたあと、春先から庭の土壌作りを始めました。なんと言っても、鍬はおろかシャベルも使えないような土地をガーデンに仕立て上げるのは、想像を絶するパワーが必要でした。時に一年目の庭はこんな貧祖なものでした。アプローチの脇に植えたボーダー用の芝生が見えます。あの頃の我が家の庭の状態を知っている方々は、現在のお庭に驚嘆されています。
 写真と説明書きから、4件の「候補地」を見つけ、現場を見に行くことになりました。最初に訪れたのが、今住んでいる茅野市の上原山工業公園の隣接地でした。私も妻も、やはり何かビビッと来るものがあったんですね。二人ともかなり気に入りました。土地は八ヶ岳山麓の緩やかな傾斜地で、間口が南北に約25m、奥行きは東西に約80m。そこを2区画に分譲し、一区画が約300坪...というものでした。

 妻と私が考えたこと...そう、それはちょっと(いやかなり)予算をオーバーしましたが、この二区画分、トータル2000u、約600坪を手に入れること! それまでは林だった場所で、唐松や赤松は根こそぎ伐採されてはいたものの、八ヶ岳の噴火による大きな石(火山岩)がごろごろと地面にむき出しになった、まさしく原野という地目名の通りの土地でした。

 その後も3箇所くらい見て回りましたが、どうしてもあの600坪の魅力には勝てませんでした。「両方買うから値引きしてよ。」という話が現実的なものになり、結局一ヶ月もたたないうちに後先考えず売買契約を結んでしまいました。こんな山の中の土地ですが、上下水道完備というのは魅力の一つでした。 いまここに移り住み、どこへ出かけるのも車を使いますが、家族みんながここでの生活に充分満足しています。
− 目次 −

 第一章 土地探し
 第二章 家の建築
 第三章 庭造り
「ローズガーデン・むとう