労働問題研究者 
戸塚 秀夫 
自撰小論集

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自撰小論集私の道標―(1)                       
                     戸塚秀夫 2011年4月
はじめに
東日本大震災に直面して、私の研究者生活の「総括」の作業を急がなければと痛感する。そのための準備として、これまでの仕事のなかから、悩みながら生み出したエチュード類を俎板に載せてみたい、と思う。「小論」に絞るのは、実証的な仕事を重ねてきた自分の逃げ場を狭くしたい、という考えからである。読み易いものにしたい、という気持ちもある。
去る2月中旬にHamilton Libraryで、“Academic Questions”(Fall 2010)に掲載された一論(The Glut of Academic Publishing・・)を手にしたことも、一つの刺激になった。いま、人生の最後を迎えて、自分自身の軌跡を総括するためには、鬱蒼たる密林に身を隠す退路を絶って、時代と対話した自分の思想の質を露出しているような、あえて稚拙な作品をふりかえることが有意味であろう、と考えたのである。
・  この小論集の編集は、ある意味では自分自身の手による墓標つくりの仕事となる。そこで、大まかな時期区分をして「小論」を並べてみることを最初の仕事としてみたい。それは、1)助走(taxying) 2)離陸(take-off) 3)飛翔(flight) 4)乱気流(turbulence
5)
 着陸(landing)いう項目で括ってみることが出来そうである。
 それぞれの時期について、時代との関わり、主要な作品を記した上で、収録する「小論」発表の経緯、現時点でのコメントを注記することにする。

1) 助走(taxying)                                           
 私は学生運動での大きな挫折をへて、1954年に大学院に入学した。挫折するなかで、大河内一男先生の著作に惹かれて、労働問題を勉強してみたい、と考えてのことであった。学生運動ではなく、労働運動のなかに光を見出したい、という執念があった。都立第三商業高校の毛利分校(定時制)で英語を教えながらの「苦学」であったから、落ち着いて勉強できたとはいえない5年間であったが、「歴史的、実証的な研究」で先学たちを超えたいという思いが強かった。当時の「社会政策の本質論争」がいかにも不毛に見えたのである。イギリス工場法の成立過程についての研究を始めるかたわら、氏原正治郎先生周辺の労働調査を吟味しながら労働問題の研究方法を探っている、というのが当時の状態であったように思う。修士論文は「イギリス初期工場法成立史論」と題するもので、その一部は社会政策学会の年報に発表された。後の博士論文の骨子はこの頃出来かけていた。

 大学院五年間の勉強として有益であったのは、修士課程に入るときに、@横浜の埠頭で大河内先生から薦められたM.W.Thomas, The Early Factory Legislation(1948)に接したこと、Aイギリス産業革命史関係のかなり多くの原典、文献類を読み漁ったこと、B大河内、磯田進両先生が中心になってすすめていた、日本の組合婦人部のリーダーたちの座談会記録の整理にあたったこと、Cやがて座右の書の一つになる、Webb夫妻のIndustrial Democracyを一夏かけてともかく読み通したこと、などであろうか。
 この時期に公刊された仕事としては、次に掲げる小論のほかに、@座談会記録整理「組合運動の中の婦人」(『講座 労働問題と労働法 6婦人労働』弘文堂、1956)A「イギリス初期綿工場労働者の形成と展開ー―初期工場法成立史論序説としての一考察」(社会政策学会年報 第6集『生産性向上と社会政策』、有斐閣、1959)B「中小企業争議の一断面-―高村建材争議の調査ノートから」(『季刊労働法』第34号、1959)がある。
 
 当時の私の思想の骨格は、A)「「賃労働における封建性」論-―戦後労働問題研究の方法的回顧――」(『経済セミナー』1960年5月号)と、B)書評:大河内一男・氏原正治郎・藤田若雄編『労働組合の構造と機能』(『社会科学研究』第11巻4号、1960年3月)に良く現れていると思う。
A)では、講座派の先輩たちの仕事から学ぼうとしながら、そこにまつわる限界を宇野派の段階論の発想から学んで乗り越えようとしていること、B)では、技術革新が日本の賃労働の「型」を打破していくという、当時の「近代化」賛美の風潮への批判をこめて、生産力の発展よりは社会関係の変化に注目する観点を強調していること、が示されている。         
 ともに明治大学に就職した直後の発表であるが、実質的には大学院時代の到達点を表現するものであった。

A)が発表された経緯は正確には思い出せないが、おそらく「戦後経済論争史」という特集企画での依頼に対して、私の考えでこのテーマを選んだのであろう。今でも適切なスタートだったと思う。B)は氏原先生の依頼であった。原稿の段階で、明治大学の高橋洸氏にみていただき、励まされたことを覚えている。名指しで大河内先生を批判していたが、むしろ好意的にうけとめてもらったと記憶している。


A)「「賃労働における封建制」論」.pdf
B)書評「労働組合の構造と機能」.pdf                                         



自撰小論集――私の道標――(2)     
                    2013年11月 

 

はじめに やや長すぎる中断を余儀なくされた事情についての弁明。もちろん、避けがたい急ぎの用件の処理に追われていたということもあるが、主としては、どの論稿を取り上げるべきかという問題について、あれこれと迷っていたからである。大学に職をえてから、折々の注文に応じて執筆するエッセイの類がかなり増えることになった。そのなかには、当時の私の心境を思い浮かべる上でかなり役に立つものがあるが、結局、私のその後の研究の進展に深い影響を与えているものを拾うことにした。研究者としての私の自立の過程をふりかえるうえで無視できない仕事。その仕事にもとづいて発表した比較的に短い論考を取り上げることにする。

2)離陸(take-off

 身辺の記録、文書類を渉猟した結果、私の「離陸」は明治大學への就職から、学位論文の提出(1966年、学位授与は1967年2月)までの時期に行われた、と整理しうると判断した。以下、その理由について簡潔に説明する 

 は1959年4月に、大学院博士課程を修了した時点で、明治大學政経学部に専任講師として採用される幸運に恵まれた。それは同学部で、外部から若手教員を採用してはどうか、という「改革」の機運が強まる中での「準公募」の人事であった。おそらくは、東京大学で大河内一男教授の指導を受けてきたという「学歴」が評価されたのであろう。既に触れたような「業績」の審査と英語・ドイツ語の筆記試験、簡単な「面接」だけで採用されたのである。やがては、「社会政策」の担当になるが、当面は、主に「外書購読」を担当してもらう、同時に、「特殊講義」として「社会保障」も担当して欲しい、という話であった。

 「外書購読」には多少の自信があったが、当時の私には、・・実は現在でもそうなのだが・・、「社会保障」の制度的な仕組みの詳細について講義するだけの蓄積は全く欠けていた。そこで、当時はただ、山中篤太郎編著『社会保障の経済理論』(東洋経済新報社、1956年)に頼った総論と、イギリスにおける貧困問題と貧困対策の歴史についての応急の勉強で責めを塞いでいたに過ぎない。おそらく、福祉国家論のバラ色の解説にとどまっていたのではないか、と反省している。今日の福祉国家の崩壊の危機を予見するような講義ではなかったのである。

 しかし、小島憲教授が退職されてから担当した「社会政策」については、かなりの準備をもとにやや大胆な「試論」を展開し始めていた。それは、当時のスタンダード・テキストとされていた大河内教授の『社会政策総論』(有斐閣)を解説しながらも、それを歴史的・実証的に批判し、さらに日本の社会政策学者たちの業績を思想史的に吟味するというような、かなり独特なスタイルをとり始めていたのである。

 大学における研究・教育を「職業」とし始めた私の「離陸」は、以上のような日常のなかで進められた。当時の明治大學で出会った先輩・同僚たちは、このような未熟な教員に寛容に接するだけでなく、教職員組合や専任教授連合会などのアソシエーションの場などを通して色々な刺激を与えてくださった。

 私の就職直後に、いわゆる「安保反対」の嵐が明治大學をも襲い、その渦のなかで、学部の枠をこえた同僚たちとの交流が始まったことは、とても幸せであった。とりわけ、当時の学生自治会のリーダーたちの要望に応えて、明治大學社会科学研究所が組織した「八幡製鉄の労働者状態」についての調査団に参加する機会をえたことは、本格的な労働調査の体験として、実に貴重であった。調査の企画、実施、総括の過程で、大河内ゼミの先輩、高橋洸教授とご一緒できたことで、多くのことを学んだのである。

 論文A)「八幡製鉄の作業長制度――職場調査を中心に」(『月刊労働問題』1964年9月号)には、その調査によって固まってきた私の考えが簡潔に語られている。詳しくは、明治大學社会科学研究所編『鉄鋼業の合理化と労働』(白桃書房、1963年)の第二章を参照されたい。*(1)

 論文B)「争議調査の方法と課題」は、藤田若雄・塩田庄兵衛両先輩が組織していた「労働争議研究会」での私の報告の記録である。この研究会は、1960年はじめから、1950年以降の「典型的な争議」を取り上げて検討する趣旨で十数名の研究者の参加で始められていたが、私はその総括の段階に1,2度、顔をだしたに過ぎない。当時、私は独自に、第二精工舎下請企業での争議の調査をしていた。下請企業の争議についての調査は珍しいということで、私の調査報告「下請企業争議――第二精工舎下請K企業の事例研究――」は、藤田若雄・塩田庄兵衛編著『戦後日本の労働争議』(御茶の水書房、1963年)に収録されることになったが、そこで私が争議調査の方法について触れていることに着目した塩田先生から、研究会の場で報告してくれないか、という依頼をうけて私見を述べた。そのときの速記録がこの論文B)である。

 実は、研究者としての私の労働争議への関心は、これ以前に始まっていた。明治大學に就職した直後、氏原正治郎先生の依頼に応じて、東京中野区で発生していた中小企業での争議について、ごく簡単な調査をおこない、それを雑誌に発表していた。*(2)さらに、私が明治大學に就職した頃は、三井三池の大争議、病院争議などが社会的な関心事になっていた。労働問題を研究する以上、労働争議を正面からとりあげなければならない、そのためにはどんな研究方法が必要になるか。それが私の関心事の一つだったのである。

 丁度その頃、A.M.Ross&P.T.Hartman ”Changing Patterns of Industrial Conflict“ 1960)という興味深い文献が出版された。当時、明治大學の夜間部で「労働問題」を講義しておられた藤本武先生と、私の研究室で、この本について懇談する場を持ったことを覚えている。*(3)

 このように振り返ると、A),B)に代表されるような作業を進める中で、労働問題研究者としての私のスタンスは次のように固まりはじめていたことが分かる。@ 労働問題の核心に迫るためには、職場における労使の対抗の実態にメスをいれる調査が不可欠である。そのためには統計調査だけでなく、事例調査が必要である。A その事例調査では、労使がおかれている客観的な諸条件を調べるだけでなく、労使双方のアクターの社会的体質、その意識、イデオロギーとその根拠などについて、つまり、運動主体の特質に立ち入ることが必要となる。B それを学術的な調査として進めるためには、調査対象者に協力して貰わなければならないが、そのためには、研究者の側でも、調査者として守るべき職業的な倫理を自覚する必要がある。*(4)

 当時、私が明治大學教職員組合にかなり深く実践的に関与していたことも、このような研究関心の成熟と関係があるように思う。*(5)

 私の「離陸」期のいま一つの仕事は、イギリス工場法成立過程についてデッサンした私の修士論文を理論的にも実証的にも補強して、学位請求論文としてまとめていくことであった。明治大學政経学部の紀要『政経論叢』は、そのドラフトを自由に掲載する場を提供して下さった。*(6)

 国家の労働政策の形成、展開の根拠を捉えるためには、立法過程で動いた政治家たちの主張を追うだけでなく、政策が対象とする労働問題自体の構造、その当事者たちの動向、そこで展開する社会関係、つまり労使関係の展開自体を追いかける必要がある、というのが私の研究方法として自覚されてくることになった。

 論文C)「社会政策本質論争の一回顧――「社会政策論争の再構成」のための前提――」(『社会政策学の基本問題』大河内一男先生還暦記念論文集 第1集、有斐閣、1967年)は、このテーマに関する私の到達点を示すものであった。*(7)この論文は、私の学位請求論文『イギリス工場法成立史論――社会政策論の歴史的再構成』(未来社、1966年)の第一章「研究の方法」の補論に収められている。

 論文D)「社会政策論の変遷」長幸男・住谷一彦編集『近代日本経済思想史U』有斐閣、1971年)は、大河内理論の社会思想史上の意義を批判的に検討したものであり、私の明治大學における「社会政策」講義の到達点を展開したものであった。社会問題に関する議論は、理論・学説史の上で検討するだけでなく、それを社会思想史の上で位置づけるような、二つの観点から吟味べきであるという考えが、この論稿を脱稿した頃には、私の確信となっていたように思う。*(8)

 

 *(1)なお、この報告書が発表された時点に、拙稿「合理化の展開と労働組合――八幡製鉄所労働組合事例調査覚書」が『政経論叢』第31巻第5号(1963年4月)に掲載されている。『月刊労働問題』に掲載された論文は、本調査報告書とこの補足調査の「覚書」にもとづいて執筆されている。なお、この一連の調査については、山本潔『日本の労働調査 1945〜2000年』(東京大学出版会、2004年)の第6章が立ち入った検討を加えている。

 *(2)拙稿「中小企業争議の一断面――高村建材争議の調査ノートから」(『季刊労働法』第34号、1959年12月)第二精工舎下請企業の争議調査を行ったのは、実は、この「調査ノート」を目にしたある定時制高校卒業生からの情報に応じてのことであった。当時の私は、日本の労働運動の前進を担う主体は中小企業労働者たちかもしれない、と考えることもあった。

 *(3)この文献については、当時、長い書評論文「ロス、ハートマン共著『労働争議の類型的研究』」を執筆し、『政経論叢』第31巻第3号(1963年1月)に発表した。

 *(4)この点は、八幡製鉄調査の過程で強く迫られた。われわれの調査は労働組合ルートでの調査であり、また、職場活動家の情報提供によるところが多い調査であったが、組合側の協力者は、「仮にも調査報告原稿を経営側に先に見せるようなことはしないで欲しい」という厳しい要望をだし、私たちは、「その要望を守る」と約束することで職場活動家との面接をすることができた。私が調査研究者の守るべき職業倫理に関するアメリカ文化人類学者たちの議論に接するのは、1970年代半ばのことであるが、1960年の職場調査で、すでに、同質の問題にぶつかっていたのである。

 *(5)「安保反対」の街頭デモに熱心に参加していたこともあって、就職直後、私は明治大學教職員組合の執行委員を二年間つとめることになり、組合活動に熱心に関与していた。八幡製鉄の調査団には、その過程で知り合った友人たち数人が参加していたことも記録しておきたい。

 *(6)『政経論叢』第28巻第1号(1959年6月)、同第29巻第3号(1960年9月)、同第30巻第1号(1961年6月)、同第32巻第3号(1964年6月)、同第33巻第3・4・5・6合併号(1965年5月)、同第34巻第3・4合併号(1965年12月)に掲載の拙稿。私はこの一連の論文を発表する過程で、欧州経済史の分野での新しい研究動向から強い刺激を受けていた。

 *(7)この論文は、私の学位請求論文『イギリス工場法成立史論―-社会政策論の歴史的再構成』(未来社、1966年)の第一章「研究の方法」の「補論」に収められている。

 *(8)この論文の発表は1971年となっているが、主要部分は明治大學在職中に固められていた。東京大学に赴任した直後に発表した拙稿「戦時社会政策論の一回顧」(『社会科学研究』第21巻第1号、1969年2月)は、かの「東大紛争」時に突如作成したものではない。明治大學時代に行っていた講義ノートが論文Dの前提となっている。思想の科学研究会編『共同研究 転向』(平凡社、1960年)に収録された高畠通敏の思想史的な論文「生産力理論――大河内一男・風早八十二―」を、理論・学説史として吟味する、というのが、当時の私の意図であった。


論文A)「八幡製鉄の作業長制度――職場調査を中心に」pdf

論文B)「争議調査の方法と課題」pdf

論文C)「社会政策本質論争の一回顧――「社会政策論争の再構成」のための前提――」pdf

論文D)「社会政策論の変遷」pdf



自撰小論集―私の道標―   (3)  

               2014年4月

はじめに 研究者としての私の飛翔は、明らかに、1967年4月の東京大学社会科学研究所への着任によって始まった。

東大社研からの突然の招聘は、思いがけない光栄と受け止めたが、当初はやや荷が重すぎるように感じたことも事実である。丁度、1966年から戦後日本の労働・社会調査の総括を志す「労働調査論研究会」に参加して、東大社研中心に進められてきた実態調査研究の再検討が必要だと思い始めていた矢先のことで、それが容易ではないことも分かり始めていた頃のことであった。*(1) 転任を決断できたのは、結局のところ、その研究会の代表者、氏原正治郎先生の強いお薦めがあったからである。*(2)

 そこで着任当初は、漠然と、それまでの私自身のイギリス研究を深めるだけでなく、社研の労働調査に新風を吹き込むことができないか、と考えていた。だが、落ち着いて机に向かい始めた私は、思いがけない数々の事件に遭遇し、「時代の嵐」に晒されることになった。まずは足もとを襲った「東大紛争」である。あの「暗い谷間」のなかで考えたことが、その後の私の航路に大きな影響を与えたように思われる。そこでまず、当時の私の発言を収めておくことにする。

 評論(A)「私の提案〈要旨)」は、教授会〜評議会のルートに意見を上げるだけでは当面の紛争の解決は望めないという判断にもとづいて、東大内の友人・知人に届けたものである。1968年10月8日以降、私は教官だけでなく「東大全共闘」の諸君ともこのような考えで接触をひろげていった。

     

評論(B)「暗い谷間の底から」は、和田春樹氏が創刊した『発言』第1号(1969年2月)に投稿したものである。和田氏の「発刊の言葉」とともに掲載しておく。*(3)

      

評論(C)「自律的な運動をめざして―「発言」への批判者にこたえる―」は,『発言』第2号

(1969年5月)に投稿したものである。この評論には、私の明治大学時代の体験などが生かされている。

      

評論(D)「<とりまとめ>に当たっての問題点」は、東大紛争への社研の対応について総括的に議論した1969年4月24日の社研教授会に提出した私見である。

       


   評論(A)「私の提案(要旨)」PDF


   評論(B「暗い谷間の底から」および「発刊の言葉」PDF


  評論(C『自律的な運動をめざして――「発言」への批判者にこたえる」PDF

  

  評論(D「<とりまとめ>に当たっての問題点」PDF     



3) 飛翔flight)――(その1)

 「紛争」が収拾するなかで、このような紛争自体を調査研究の課題とすることができないか、と考えるようになった。大学だけでなく、労働問題の現場でも、新しいタイプの紛争が広がり始めているのではないか。それを現状調査のテーマとすることはできないか、それを歴史的、国際的な視野で位置付けることができないか。そのように考え始めたのである。

 そこで、東大社研という恵まれた研究環境のなかで、私は未知の世界に進んでいくことになった。23年間の社研在職中の実態調査の経緯については、定年退職の折に一応述べているので*(4)、ここでは寧ろ、私が取り組んだテーマ別に、発表した自分の言論を振り返ることにする。そこにはどんな脈絡があったのか、どんな思想がうまれはじめていたのか。できるだけ平易な文章を選んで並べてみることにする。



 {T} 基層---現代労働問題を如何にとらえるか

 やや多すぎるテーマを追いかけたようにも思うが、そのベースにあった関心事は、戦後世界の相対的安定の終焉を予感させるような時代にめぐり合わせた研究者として、あえて愚直に歴史的現実と向き合いたい、ということであった。

 すでにふれたように、私は社研着任の前から、労働調査論研究会の作業にかかわってきた。おそらくそのためであったと思われるが、1969年6月14日に関東社会学会が「社会科学における実証と思想の問題――社会学と社会諸科学との対話を通じて――」を共通テーマとするシンポジウムを組織した折に、労働調査の分野からの報告を依頼された。

 論文(A)「戦後労働調査の反省」はそのときの報告である。この報告をおこなうに当たって、その直前、6月7日に、労働調査論研究会は私の報告の「予備的検討」のための場を作って下さった。労働調査論研究会『労働調査論研究会ノートNo4』(昭和45年1月)には、そこでの討論の速記録も収められている。そこには氏原先生ほか、当時の研究会メンバーの発言が記録されているが、ここに収めるのは私のシンポジウムでの報告だけである。

  論文(B)「「同情ストライキ」と団体交渉」は、1975年10月21日の東京地裁の「杵島炭鉱同情スト事件」についての判決書についてのコメント論文である。社研着任後の数年間、イギリスの労使関係法の歴史的展開の過程を再検討してきた私は、当時新聞各紙で大きく取り上げられたこの事件についての発言を避けてはならない、と観念して『季刊労動法』編集部の執筆依頼に応えた。10日間ほどで脱稿した論文であるが、労使関係の法的枠組と労使関係の実態との関係を如何にとらえたらよいのか、また、日本の現状をどう捉えるか、といった問題についての、固まりかけていた私の考えが記録されているように思う。執筆に当たっては労働法関係の先輩、友人たちのアドバイスもいただいた作品である。

 論文(C) 「はしがき」「序章 課題と方法」は、戸塚秀夫・徳永重良編『現代労働問題』(有斐閣、1977年)の冒頭に、戸塚・徳永の共同執筆として収録したものである。徳永氏の提唱に応じて友人たちによびかけ、このプロジェクトを立ち上げたのは、1972年春のことであった。ドイツへの長期留学で労働運動の新しい波を体感してきた徳永氏の時代感覚と、イギリスでの「山猫ストライキ」や「労使関係法改革」の動向に注目していた私の問題意識が重なって、数年間にわたる勉強会、『現代労働問題研究会』が組織され、イギリス、アメリカ、ドイツ、フランス、イタリヤの歴史と現状を見渡しながら、現代労働問題の研究方法についての討議を重ねることができた。ここに掲げる「序章」は、それまで「講座派マルクス主義」の伝統に身を置いて来た私が、徳永氏をとおして「宇野派」の影響を受けながら、新しい研究方法の模索へと向かっていたことを示している。この書物の「第一章 イギリス資本主義と労資関係」は「序章」で展開した方法に導かれた習作であった。それは後にふれる「現代イギリスの労使関係」調査にあたって私が依拠した歴史認識であった。

 論文(D) 「「浦和電車区事件」東京高裁判決に関する意見書」(2010年1月21日)は、浦和電車区事件弁護団の依頼に応じて最高裁判所に提出したものであるが、その「T 本論:「公正な仕組みの」の主要な柱――その歴史的根拠」には、論文(C)執筆以降の私の仕事を踏まえた到達点が要約されている。それは、先に触れた「新しい研究方法の模索」がどこに辿り着いたかを示す、私の道標となった。ただし、最高裁判所は意見書の「U 結論:失望・論点・提案」で提起した原判決批判に全く答えることなく、控訴を棄却した。その意味では、私の調査研究が当面の国家意思を動かす力を持ちえていないことを自覚する敗北の道標ともなった。険しい時代に入っていることを強く意識することになったのである。



論文(A) 「戦後労働調査の反省」PDF

 

論文(B) 「同情ストライキと団体交渉」PDF


論文(C) 「はしがき」「序章 課題と方法」PDF

論文(D)「「浦和電車区事件」東京高裁判決に関する意見書」PDF



 *(1) その研究会の作業は、労働調査論研究会編『戦後日本の労働調査』(東京大学出版会、1970年)にまとめられている。

 *(2)当時の東大社研の教官人事は公募ではなかった。私の在任中には、特定分野についての選考委員会が候補者を絞ったうえでその候補者に着任を要請し、内諾を取ったうえで教授会の評決をとる、という手続きがとられていた。突然の連絡に当惑気味であった私に対して、氏原先生は大学院教育以外、一切の負担はかけない、自由に研究してくれればそれで結構である、というような「条件」を説明された。東北大学の岡田与好氏との同時採用であった。当時の教授会記録には、岡田、戸塚の2名を「イギリス部門」で採用、と記録されている。かなり変則的な採用人事であったと思われる。

 *(3) 大学構内に機動隊が導入されて「正常化」が進む中で、社研の和田春樹助教授は『発言』と題する小冊子の発行を決断された。ここに収録するのは、『発言』の第1号(1969年2月)第2号(1969年5月)に投稿した拙稿である。実は、1968年10月8日付けで私はすでに「東大紛争」解決のための「私の提案(要旨)」と題する文書を学内の友人知人に配布して、教授会の場以外での発言を始めていた。「東大全共闘」の諸君ともその趣旨にそって対話し始めていた。ここには、その3点を収録する。いま読み返すと明治大学時代の私の体験を踏まえての発言であり、その後の私の活動につながっていく発言でもあったように思う。

  *(4)座談会「労働問題の実態調査をめぐって」『社会科学研究』第41巻第4号(1989年12月)

     

   

     

 自撰小論集ー私の道標― (4)

                        2016年2月~3月 
  はじめに この小論の(3)を掲載したのは2014年4月であるから、ほぼ2年近く中断していたことになる。再開にに当たって、その事情について一言弁明しておく。勿論、東大社研時代の私の仕事を振り返る作業が、実は当初の予想以上に難航したということもあるが、それと合わせて、予想外の異変が生じたということがあった。

 一つは、2014年夏に来日した旧友ヒラリー・ウェインライトとの再会によって、彼女の持参したペイパー2点の監訳作業を急ぐことになった、ということ。その仕事はAmazonから『私(Private)の悲劇,公(Public)の底力』として2015年5月に刊行された。そこで学んだことは、この小論集のとりまとめに生かすつもりである。

  いま一つは、昨年の夏に、突然、かなり進行している腎臓癌が発見されるという「事件」がおきた。癌研有明病院の名医の診断を仰ぎ、当面は癌との「平和共存」を目指すことにしたが、さらに年末には、圧迫骨折による腰痛が加わるという異変が生じた。その対処に追われるなかで、休載を余儀なくされたという事情もあった。

    以上記して、読者の御寛恕を乞う。


  3) 飛翔(flight) ― (その2)

  大学紛争にもまれる中で、私の関心は、大学の外で広がり始めていた社会紛争の実態を理解したい、という方向へ広がっていった。さきに掲載したように、従来の私の研究は、現代労働問題を労使関係の枠組みの歴史的展開のなかで捉える、という作業として進められていたのであるが、その動態を明らかにするためには、労使紛争の実態に迫らなければならない、そこにチャレンジするのが私の課題ではないか、と考えるようになったのである。当時の東京大学社会科学研究所は、そのような作業をすすめるうえで絶好の職場ではないか、という使命感に当時の私は突き動かされていた。*(1)

      

   (U) 運動―なにを追いかけたか


A ) 「新左翼」の労働運動 先に掲示した論文「戦後労働調査の反省」からも明らかなように、大学紛争に遭遇するなかで、私はこの時代に生きる労働問題研究者として、戦後改革のなかで形成された労使関係の枠組みを揺るがし始めている新たな労働運動の実態に迫る必要がある、と強く意識するようになった。東大紛争が一応収束し始めたときに、東大の社研、経済学部の労働研究者によびかけて、「ニューレフト研究会」を立ち上げたのはそのためである。

  この研究会の経緯については、既に述べているので重複はさける。*(2) ただ、この調査研究での私の主な関心が、「新左翼」といわれる党派グループとその周辺に群がる労働運動の活動家たちとの関係に注がれたこと、結果的に、当時の学生運動、ベトナム反戦運動、公害反対運動などを直接対象とはしていなかったこと、しかし同時に、主に西欧で注目されていた「労働者統制(Workers’ Control)」の運動に強い関心を持ちながら進められていたことは,記録にとどめておきたい。そのなかで、私の交友関係が西欧に広がり、そこからの滋養が私のエネルギー源にになっていたことは、明らかである。*(3)

  論文(A)は、イギリスの新左翼についての現地調査の報告である。生まれて初めての3カ月間の海外留学であったが、このペーパーには、友人の伝手をたよりにイギリス、フランス、ドイツ、イタリーで吸い込んだ、当時のヨーロッパ左翼の雰囲気が漂っているように思う。私にとって大変懐かしい文章である。実際、1970年代から80年代にかけての私の実践的な研究活動に、このIWC(労働者統制協会)との接触は大きな意味を持つことになった。*(4

  論文(B)は、数年間におよんだ「ニューレフト研究会」の最終報告書に収めた私の「意見」である。この研究会で私が分担した主な仕事は、「新左翼」諸党派についての概念図を描くこと、共産同(ブント)が組織した「大阪中電マッセンストライキ」の実態を明らかにすることであった。*(5)この「意見」には、その作業をするなかで固められた私の仮説が率直に語られている。敗北した「新左翼」諸党派の生命力自体については断定を避けながらも、この時点での「反乱」を生み出したものが何であったか、それが遺したものは何であったか、という点についての「意見」が記されている。


  論文(A) イギリスにおける労働者統制運動―労働者統制協会(The Institute for Workers' Control) を中心として PDF 

   
  論文(B)  「新左翼」諸党派の社会的土壌 PDF

  

  *(1)東大紛争を経るなかで、東大社研の教員たちの中には、それまでの研究所の管理運営、教育・研究の内実について、改めて吟味すべきではないか、という機運が生じていた。その兆しは、先に触れた雑誌『発言』(和田春樹発行)にあらわれている。それまでの社研労働部門の調査研究に新風を吹き込めないか、と漠然と考えていた着任直後の私にとって、その機運は有難かった。先任の氏原正治郎、藤田若雄の先生方は勿論のこと、当時の社研の主要なスタッフの方々が暖かく見守って下さったことで、私の社研在任中の調査研究は存分に進められたのである。私の40代、50代の職場であった東大社研は、私にとって「稀有なパラダイス」となった。

  *(2)戸塚秀夫・中西洋・兵藤つとむ・山本潔共著『日本における「新左翼」の労働運動』(東京大学出版会、1976年)上巻、序編「研究の経過」参照 

  *(3)短期海外留学の直後、当時注目したヨーロッパでの論客の主張の翻訳プロジェクトをスタートさせた。戸塚秀夫編『労働者統制の思想―ー危機における労働者戦略』(亜紀書房、1977年)がその結果である。そこに収めた拙稿「補論 労働者統制思想の示唆するもの」には、当時の私の到達点がまとめられている。また、その直後、同質の思想潮流のなかで生まれたアメリカの若手研究者の注目すべき労働運動史研究にであい、共訳プロジェクトをスタートさせた。その結果が、戸塚秀夫・桜井弘子共訳、ジェレミー・ブレッヒャー著『ストライキ!―アメリカの大衆ラジカリズム』(晶文社、1980年)である。それは「ニューレフト研究会」で「大阪中電マッセンストライキ」の実態を追いかけていた私にとって、真の「マッセンストライキ」とは、と考えながらの刺激的な訳業であった。

  *(4)1976年10月、私は川上忠雄氏の強い呼びかけにこたえて、労働運動研究者集団の発足に参加し、東大社研の自分の研究室に事務局をおいて、その運営に深く関与することになるが、その大胆な決断を後押ししたのは、74年、75年のヨーロッパ訪問で広がり始めた「ニューレフト」からの情報であった。私の社研の研究室には、イギリスから届く新旧左翼の情報紙誌が溢れることになった。インターネットが普及していない状況でのことである。なお、当時、日本評論社で『月刊労働問題』の編集を担当しておられた渡辺勉氏が労働運動研究者集団の活動に支援を惜しまれなかった。

 *(5)前者は、「「新左翼」諸党派の形成と展開―その組織的系譜についての概観」として、後者は、「共産同と「大阪中電マッセンストライキ」」として、ともに前掲『日本における「新左翼」の労働運動』に収められている。


 B)企業倒産反対争議 私は1973年と74年に短期間ヨーロッパに出かけたが、そこで注目したのは、自主管理的な倒産反対運動が広がり始めている、ということであった。帰国直後、類似の運動が日本でも広がり始めているのではないか、という情報に接することになる。それを頼りに争議現場に足を運んだのがこの調査の始まりであった。

 そこから、この調査の二つの特徴が生まれることになった。一つは、調査は主として工場を占拠している争議団のルートで行われた、ということである。始めは争議団のメンバーに接近し、その了解のもとに工場敷地内に入り、親しくなるにつれて争議団の会議などを傍聴し、関連文書などを収集する、という調査手法がとられた。中小企業の労働者を組織していた全国金属や全国一般の地方リーダー、争議団のリーダーたちの協力なしには進められなかった調査である。倒産企業の破産管財人や旧経営者と面談する機会をもつこともあったが、それらはすべて組合ルートの紹介で行われた。

 いま一つは、この調査を通して、資本主義が危機を迎える時期に労働運動に求められる課題はなにか、というテーマを強く意識するようになった、ということである。第一次オイルショック、狂乱インフレなど、1970年代には高度経済成長期に経験しなかった諸問題が生まれているが、組合運動はこれに有効に対処できているのかどうか。研究者としても新しい態勢を整えるべき時期を迎えているのではないか、という問題意識である。1976年10月に誕生した労働運動研究者集団はその一つの結果あったが、私は倒産反対争議の実態を探るなかで、新しい労働運動の質、そこに孕まれる新しい可能性を掴みたいと考えたのである。

資料(A)は、労働運動研究者集団が1977年から79年にかけて編集した『階級的労働運動への模索』と題するシリーズ7冊を日本評論社から刊行した際に、「はしがき」として掲載した文章である。全7冊に収められた論文のテーマ、執筆者のリストも記載するが、かなり広い分野の研究者たちが組織されている。


論文(B)は、企業倒産反対争議の調査を進めているなかで、調査に協力してくれた労働者への中間報告のつもりで執筆したもので、はじめは『月刊労働問題』1978年4月号に
掲載された。当時は、依頼に応じて同趣旨の講演を何度か行ったと記憶する。

論文(C)は、全国金属浜田精機支部と全国一般墨田機械支部が行っていた、二つの企業倒産反対争議についての事例調査の最終報告の「終章 総括」からの抜粋である。「倒産反対争議の意義」と題するこの部分の末尾には、1979年12月31日に脱稿と記載されている。なお、最終報告「中小企業の労働争議」は、労使関係調査会編『転換期における労使関係の実態』(東京大学出版会、1981年)に収められている。この事例調査は当時大学院学生であった井上雅雄氏の協力を得て実施された。      

資料(A) シリーズ『階級的労働運動への模索』の「はしがき」、テーマ、執筆者一覧 PDF 

論文(B)企業倒産と中小企業労働運動 PDF 


論文(C)倒産反対争議の意義 PDF  


 自撰小論集ー私の道標ー(5)

3)飛翔(fligh)ー(その2)

II 運動ーなにを追いかけたか(続)

          2016年4月〜5月     


  1. イギリス労使関係・労働運動 1977年、東京大学社会科学研究所の所長であった岡田与好氏が、社研創立30周年の記念行事の一つとして労働グループによる海外学術調査を企画できないか、と提起されたのがこの大規模な調査の始まりであった。私は大変ありがたい提案と受け止めて、その具体化に当たったのである。丁度、企業倒産反対争議調査が一段落し、前述の「現代労働問題研究会」の作業も完結する時期に当たっていた。私としてはそれまでの研究を飛躍させる絶好の機会と受け止めて、これに全力を傾けた。この調査の最終報告書が上梓さたのは1987年であるから、ほぼ10年近くの歳月がこの調査に費やされたことになる。*(1)

     この調査の企画、立案、実施の経緯については、すでに私の定年退職時の座談会で述べているが*(2)、次のような曲折があったことは改めて触れておきたい。

  私は当初、日本で行ってきた倒産反対争議調査に接続するような、イギリスでの反合理化闘争の実態調査を実施できないか、と思案をめぐらしていた。だが、それは調査団の力能をこえるのではないか、むしろ日本での労使関係調査で蓄積されてきたノウハウを生かして、着実なイギリス労使関係調査を実施することに専念すべきではないか、というのが社研の同僚の意見であった。*(3)最終的には私もこの意見に同調して、手堅い労使関係調査を実施することが調査団全員の合意となった。私としては、労働運動調査の前提として労使関係調査に着手する、という心構えでイギリスにでかけたといえようか。

   だが、イギリスの労使関係は、われわれが予備調査を実施した1978年から本調査が実施された1979年にかけて、劇的な変動を開始することになる。私はサッチャー政権が登場する歴史的な総選挙を現地で観察することになった。私が文部省長期在外研究の機会を与えられた1980年から81年秋にかけては、新政権に支えられたタカ派の経営者が職場の労使関係の「改革」「合理化」に大鉈をふるい、労使の緊迫する大事件が相次いで起こった。

その中で、この調査は次のような方向で進展することになった。一つは、激動の渦のなかにある労使関係の断面的な様相を、かなり長い時の流れのなかで位置ずける作業が求められることになった、ということである。そして、その歴史的な変化の意義を捉えるためには、労使関係のアクターたちの思想・行動様式に注目しなければならない、ということが強く自覚されることになった。当時の歴史的現実自体が、労使関係の調査と労働運動の調査を結び付ける観点を調査者に迫ったといえようか。

  先に触れたような労働運動への関心に突き動かされて、私は労働組合本部だけでなく、地域・工場レベルの組合役員、ショップスチュワード、党派活動家たちへの接近を試み,当事者たちとの信頼関係を深めることに専念したのであった。勿論、経営者側への接近も重ねてはいるが、労働運動側への接近に対比すれば格段に手薄であったことは認めざるを得ない。このような経過のなかで発言したものはかなり多いが、結局、以下の3点を掲げることにした。

 論文(A)「イギリス労働運動の現状」(拙著『労働運動の針路ー労使関係調査からのメッセイジ』(東京大学出版会、1982年)は、長期海外留学を終えて帰国した直後に『新地平』に連載したものである。当時の私がイギリスの労働運動の敗北に失望しながらも、どこに光を見出していたかがかなり率直に記されている。

 論文(B)「民衆的対案戦略運動の構図」共著『現代における労働組合の対案戦略運動』(対案戦略研究会、1990年)は、イギリスでの補足的な調査と日本での新しい運動の萌芽探しを踏まえて、私の労働運動論を提示しようとしたものである。当時は、イギリス調査で探りあてた「ルーカス・プラン」の思想を広める使命感に動かされていたといえようか。*(4)

 資料(C)「イギリスの工場調査の経験から」は早稲田大学人間科学部 「産業社会学調査実習 資料第1集」として刊行(2000年7月)された同じタイトルの冊子からの抜粋である。河西宏佑教授の求めに応じて、労働社会学の若手研究者が集まる「社会調査研究会」で報告したときの速記録である。この冊子には、かなり長い「質疑応答」、榎本環氏の「報告内容へのコメント」、「当日配布レジメ」なども収録されている。なお本調査の直後には、現地での体験をふまえて調査技法に触れたエッセイが別途発表されている。*(5)


    論文(A) イギリス労働運動の現状 PDF

    論文(B)  民衆的対案戦略運動の構図 PDF

    資料(C)  イギリスの工場調査の経験から PDF
  

 *(1)この調査の最終報告書は、戸塚秀夫・兵藤つとむ・菊池光造・石田光男著『現代イギリスの労使関係―自動車・鉄鋼産業の事例研究』上、下(東京大学出版会、1987年、1988年)として刊行されている。また面接調査記録は、東京大学社会科学研究所調査報告第19集(1984年)、第20集(1985年)として、収集された労働協約は、同研究所資料第12集(1986年)、第13(1987年)として刊行されている。なお、この調査は文部省科学研究費(海外学術調査)の助成を受けて、1978年に予備調査、79年に本調査が実施され、80年から81年にかけては、私の文部省在外研究の機会を活かしての補足調査が実施された。さらに82年、83年、85年の夏には、私は個人的に、労働運動の現状を追いかけるイギリスへの「研修旅行」を行った。社会科学研究所はこの全過程に全面的な協力をして下さった。

 *(2)「戸塚秀夫教授を囲む座談会」『社会科学研究』第41巻 第4号(1989年12月)

 *(3) この点を強くアドバイスして下さったのは、山本潔氏であった。なお、この海外学術調査団(労働)は、最終報告書を執筆した「本隊員」戸塚、兵藤、菊池、石田に加えて、「支援隊員」氏原正治郎、松崎義、山本潔の7名で構成されていた。

 *(4)「ルーカス・プラン」運動に触発された日本での動きについては、ワーカーズ・コレクティブ調整センター編『労働者の対案戦略運動―社会的有用生産を求めて』(緑風出版、1995年)を参照されたい。同じ頃、私は「協同社会研究会」に招かれて、「ルーカス・プランとその後」と題する講演を行っている。その速記録は『「協同社会」とは何か』(「協同社会研究会」編集発行、1995年2月)に収録されている。イギリスについては、1985年夏に一年間に及んだイギリス炭労の大規模ストライキをあとずける現地調査を行った。その覚え書きは、拙稿「イギリス炭鉱ストライキの跡を訪ねて」上・中・下『UP』東京大学出版会 1986年1月号、2月号、3月号)に掲載されている。

 *(5)拙稿「イギリス労使関係調査のなかで」(『UP』東京大学出版会 1980年3月号)

     

 D) 在日朝鮮人労働者問題 私がこのテーマに関する研究を始めたのは、1972年のことである。高橋幸八郎教授から社会運動史関係の国際学会が企画している移民問題に関する国際研究集会に、日本からのペーパーを作成してもらえないだろうか、という打診をうけたのがきっかけであった。丁度、社会科学研究所の「全体研究」として「戦後改革」研究が始まり、私も労働班のメンバーとしてこれに参加していた頃のことである。

 そこで当時私が抱いていた大雑把な仮説は、第二次世界大戦後の「戦後改革」は各国の戦時体制と終戦過程の特質によって制約されている、日本の場合には、戦時体制への抵抗が極めて微弱であり、わずかに戦時動員された植民地労働者の散発的な反乱がおきた程度であった点に特徴があるのではないか、ということであった。*(1)丁度、戦時中に「強制連行」された「移入朝鮮人労働者」についての民衆レベルでの調査が広がり始めた時期であった。私としては、これまでの社会調査の歴史を振り返りながら、このテーマに接近したいと考えたのである。

 論文(A) 「日本における外国人労働者問題について」(『社会科学研究』第25巻第5号1974年3月)は、国際研究集会へのレポートを準備する過程で行った作業の覚え書きである。既存の調査研究を振り返りながら、このテーマに関する私の問題意識と方法的な試論が要約されている。

 講演記録(B) 『第2次世界大戦下の在日朝鮮人ー一つの事例調査を通して―』(『「朝鮮問題」学習・研究シリーズ』第19号、「朝鮮問題懇話会」1982年5月発行)は、1981年11月13日に行われた講演の速記録である。この講演は、「朝鮮問題懇話会」のメンバーでもあった隅谷三喜男教授のご依頼に応じて、同教授編著『日本労使関係史論』(東京大学出版会、1977年)に収録された拙論「日本帝国主義の崩壊と「移入朝鮮人」労働者ー石炭産業における一事例研究」をもとに行われた。この冊子には当日の質疑の記録も収められている。

 覚書(C) 「戦時労務動員体制下の「別天地」−在日朝鮮人朴麟植氏の証言を辿って」(『大原社会問題井研究所雑誌』638号、2011年12月)は、私の問題意識に応じてご自分の戦中体験を述べてくれた高齢の在日朝鮮人の証言をてがかりにして、戦争末期の在日朝鮮人の「いま一つの抵抗」の世界を描いたものである。*(2)

      

 *(1)拙稿「戦後日本の労働改革」(東京大学社会科学研究所編『戦後改革 5 労働改革』(東京大学出版会、1974年)には、当時抱いていた仮説が収められている。戦争中の労働争議動向についての統計・報告などをもとに、「果敢な抵抗闘争の端緒が「強制連行」されてきた朝鮮人や中国人によってきりひらかれつつあったにもかかわらず、なお日本人労働者の多くは漸く消極的な抵抗の域にすすみはじめるにとどまっていた」のではないか、という見取り図が示されるにとどまっていた。

 *(2)朴麟植氏には、戦後の体験についての「聞き取り」を度々にわたってお願いしたが、結局、ご協力頂けなかった。この論文が公刊されてから間もなく、朴氏は他界された。彼の戦後の足跡をたどる仕事が遺されていることを注記しておく。

 
論文(A) 日本における外国人労働者問題について PDF

講演記録(B) 第二次世界大戦下の在日朝鮮人- 一つの事例調査をとおして PDF

覚書(c) 戦時労務動員体制下の「別天地」−在日朝鮮人朴麟植氏の証言を辿って PDF



  「飛翔」(flight)への補遺

東大社会科学研究所に在職している期間に行った主要な仕事は本論で述べたとおりであるが、それに加えて、若干の領域に作業を広げ始めていたことを付記しておく。それらは。次に取り上げる「乱気流」(turbulence)の時期にぶつかる問題への伏線をなしていたように思われる。

 1)日本の自動車産業の代表的企業2社の労使関係  これは前述のイギリス調査で得た知見に刺激されて,日本の現状に迫った野心的な調査であった。日産については組合本部、トヨタについては本社からの紹介をとおして、いわば正面玄関から接近した工場調査である。私はこの調査をとおして、当時の労働組合運動の右派潮流の指導者塩路一郎氏と出会い、以降、さまざまな情報に接することになる。右派潮流に属する企業別組合にもいくつかのタイプがあることを突き止めた調査でもあった。

 この調査は文部省科学研究費の助成を受けて実施されたが、その計画調書(昭和57年度総合研究)の「研究課題」には、「『減量経営』下の職場レベルにおける労使関係の実態に関する比較的・総合的研究?ー自動車・鉄鋼産業における労働組合の『職場規制』の様式・機能を中心として」と記載されている。私はその自動車班の作業に関与した。

 最終報告書は戸塚・兵藤共編著『労使関係の転換と選択ー日本の自動車産業』(日本評論社、1991年)として刊行されている。その終章「日本的経営のゆくえと労働組合の選択」に、当時の私たちの到達点が集約されている。

 2)「産業空洞化」と地域経済ーー地域対案戦略の模索  この調査は1987年から1990年にかけて実施されたが、研究助成を受けた自治労への申請書の「研究の目的」には、「最近の円高不況に加速されて。我が国の産業の「空洞化」は著しい規模と速度をもって進行し、多くの地域経済に深刻な影響を及ぼしているが、この研究は、その実態と原因を明らかにするとともに、地域経済の再建にとって必要な方策を、地方自治体にかかわる労働・社会運動の選択すべき戦略を模索するなかで提示しようとするものである」と記されている。この調査会の企画・立案は、兵藤氏と私の緊密な協力のもとに進められたが、12名のメンバーで構成された研究会は「室蘭調査班」「佐伯調査班」と「産業班」にわかれて作業をすすめた。

  「産業班」の報告は東大社会科学研究所紀要『社会科学研究』(第41巻1,3,4,5号、第42巻2号)に発表されているが、室蘭調査と佐伯調査の最終報告は、戸塚・兵藤編『地域社会と労働組合―「産業空洞化」と地域戦略の模索』(日本経済評論社、1995年)に収められている。当時の私の到達点は、先にに掲示した「イギリス労使関係・労働運動」調査の論文B「民衆的対案戦略運動の構図」に要約されている。

 3)現段階における労働組合の国際政策・活動 この調査は文部省科学研究費(1989年度、1990年度)の助成を受けて実施された。その「計画調書」には「最近の国際経済摩擦と多国籍企業の展開は、国際労働組織のあり方に大きなインパクトを与えているように思われる。また、昨今の日本の労働戦線の再編が国際自由労連(ICFTU)への一括加盟の是非を一つの選別軸として進んでいることが示唆しているように、国際労働組織のあり方は、各国の国際労働組織の展開に相当の影響をおよぼしている。」という状況認識を述べたうえで、「この研究は、資本主義諸国における主要な国際労働組織の実態を、a)国際自由労連とその地域組織、b)国際産別組織、c) 多国籍企業傘下の組合活動家の国際組織、d) その他任意の活動家の国際組織、の4つのレベルに即して明らかにし、今後益々活発化すると予測される労働組合側の国際的活動に不可欠な国際労働組織の鳥瞰図を提示することを目的とする」と記されている。私は「現段階における労働運動の国際連帯の多層的な構造」を明らかにしたいと考えていた。

 この研究会の報告書は、『現段階における労働組合の国際政策・活動』(東京大学社会科学研究所調査報告 第27集 1995年)として公刊されているが、私はそこに「労働運動における国際連帯の構造――オーストラリアの事例に接して」と題する論文を収めている。

  当時の私の問題意識は、明らかに草の根の労働運動活動家の国際連帯活動に触発される中で強まったものである。

 4)日本のソフトウェァ産業の経営と労使関係 この研究は1985年に、情報サービス産業を組織化の対象と意識し始めていた電通労連の依頼に応じてスタートした。私自身のソフトウェア産業についての知識は皆無であったが、新しい産業の経営と労使関係の内部秩序の実態を学ぶつもりで、既に一定の知見をもつ若手研究者、中村圭介、梅沢隆両氏の調査に同行したというのが正直のところである。だが、幾つかの事例調査に参加したり、アンケート調査の設計・集計・解析についての議論に加わるなかで、私なりの問題意識をあたため、若干のの仮説を固めることができた。アンケート調査には全くの素人であったが、手堅い事例調査と結び付けることで、実態に迫る一つの方法になることを体験した。

 最終報告書は戸塚・中村・梅沢著『日本のソフトウェア産業―経営と技術者』(東京大学出版会、1990年)として刊行されたが、「序章 目的・方法・対象」と「終章 結びにかえて」には、私が学んだことの要点が記されている。


    

   

  

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