ホームページ タイトル 本文へジャンプ
思い出のひきだし


思い出深いかたがたに送ったことばをここにまとめて遺しておきたい。

1, 恩師たちの面影

 小学生から大学生になるまでの間にも、いろいろなタイプの先生たちのお世話
になったが、ここでは大学に職を得てからのことに限って、忘れがたい三人の
恩師の面影を記したエッセイを掲げることにする。

 1951年2月、東京大学で学則違反の集会を強行した廉で退学処分をうけて
いた私に声をかけて、復学への道を案内してくださったのは、退学処分当時の学部長、
山田盛太郎先生であったが、復学時の学部長が大河内一男先生であった。
大河内先生は、「大河内理論」を批判的に検討したいと公言していた血気盛んな私を
快くゼミ生にして下さっただけでなく、当時定時制高校での英語教師の生活を続
けようとしていた私に大学院への進学を勧めて下さった。先生との出会いなしには、
研究・教育を職業とすることはなかったであろう。先生は1984年8月に逝去されたが、
その直後、大河内演習同窓会編『わが師大河内一男』(1986年)という文集が
刊行された。ここに掲げるエッセイはそこに寄稿したものである。

 氏原正治郎先生との出会いは私の大学院生時代に始まるが、労働問題の実態調
査研究の重要なモデルを教えて下さったのが先生であった。
この「自撰小品集」の「助走」期に掲載した書評論文は、先生の仕事への
関心を明示している。1966年に、私は先生から、当時勤めていた明治大学か
ら東大社会科学研究所への転出を強く勧められた。あまりに突然な話で少しの迷いが
あったことは事実であるが、研究に専念してくれればいいのだから、というお言葉に
惹かれて転職を決断した。思えばこれが、私の研究者生涯の決定的な転換点となった。
先生は1987年8月に逝去されたが、それまでの約20年間、先生は先輩・同
僚として数々の刺激を与えて下さった。
ここに掲げるエッセイは、同年末に東大社会科学研究所で開かれた『偲ぶ会』で
の報告速記録と『UP』(東京大学出版会、
1987年12月号)への寄稿文である。

 小島憲先生とお会いしたのは、1958年、明治大学政経学部の社会政策担当
教員の準公募試験に応募した時が最初である。大学院が終了するころに、若い研究者を
外部から採用しようとしている明治大学に応募してみてはどうか、という話を伝えてくれた
親切な友人がいた。当時はまだ修士論文と活字論文一本だけで、果たして採用していた
だけるか自信はなかったが、先生の研究室で受けた英語とドイツ語の語学試験、
その直後の教授諸先生との「面接」は、大変好意的な雰囲気であった。おそらく先生方は、
大河内先生のもとで勉強してきたという私の「学歴」を評価して下さったのであろう。
幸いにして1959年4月に専任講師として採用されたのであるが、与えられた研究机は
小島先生のかなり大きな研究室の一角に置かれていた。たまに研究室にあらわれる先生は、
いつも遠慮がちで、私の研究を温かく見守ってくださった。
ときにイギリスの組合運動についての質問をして、私の研究関心を刺激して下さる先生でもあった。
ここに掲げるエッセイは、明治大学新聞創刊45周年記念事業『明治大学、人とその思想』への寄稿文と、
先生から頂いたお手紙である。

恩師たちの思い出 PDF


2、忘れえぬ友人・調査ガイドの面影

私の調査・研究全体を導いてくれた方々は極めて多い。厳密にあげるとすれ
ば、私の著作に明記した文献註などから拾う以外にはない。 だが、私の実態調査研究に絞るとすれば、重要な役割を果たしてくれた方々の名前が 浮かんでくる。その方々の支援、協力なしには、調査対象への接近自体ができなかった という意味では、明らかに調査のガイド役をひきうけてくれた方々である。 主に事例調査法をつかって対象に接近してきた私にとっては、不可欠な存在であった といっても過言ではない。多くの場合、その方々が亡くなったときに、偲ぶ会や追憶集 などでその方々について語ることになった。
   以下、逝去された年度順に、私の仕事との関係を記すことにする。

1)松本礼二 1986年12月没 享年57歳 「東大闘争」の末期に出会っ
たのが最初であるが、その後、私の「大阪中電マッセンストライキ」調査で「スト突入者」 を紹介してくれたのは、この人であった。
2)高沢寅男 1999年8月没 享年72歳 旧制一高以来の親友であった。
私が日本における朝鮮人の運動についての調査研究をはじめたとき、朝鮮総連の幹部、 朴麟植氏を紹介してくれたのは高沢氏であった。
3)倉塚平  2011年5月没 享年82歳、東京大学での学生運動で出会い、 明治大学政経学部の教員として再会。明治大学時代では最も親しく付き合った。 1960年代、70年代の私の仕事には多くの刺激を与えてくれた。
4)樋口篤三 2009年12月没 享年81歳 1969年に出会って以来、 多くの調査の進行プロセスでこの人のガイドを受けた。 私の調査報告に強い関心を示してくれたのも、この人であった。
5)松崎明  2010年 12月没 享年74歳 2007年5月に、動力車
労組の運動の軌跡をあとずけた「JR総連聞き取り研究会」であったの が最初であるが、 その話し手の中心であるだけでなく、私の調査研究の進展にに全面的に協力していただいた。
        
樋口篤三さん 松本礼二さん 松崎明さん PDF

高沢寅男さん 倉塚平さん PDF


3、両親の面影

私の父道太郎は、1890年(明治23年)4月21日に、父元大野藩士戸塚庄次郎と
母よねの長男として、東京府東京市麹町区に生まれた。彼はその後、府立第四中学校に
進み、同校を卒業して1907年に海軍兵学校に入学、卒業後敗戦にいたるまでの35年間、
海軍士官としの職業軍人生活を続けた。
略歴には、昭和21年11月に予備役と記されている。

 私の母藤子は、1900年(明治33年)2月18日に、父岐阜県可児郡御嵩町の士族
安東兵之助と母まつの次女として、2000年(明治34年)2月18日に生まれた。
藤子は県立岐阜高女をへて県立福岡高女を卒業。一時期、生家の郵便局の手伝いをして
いたが、向学心やみがたく、日本女子大学の成瀬先生に憧れて上京し、目白の松柏寮に
入って、社会学、哲学の本などの勉強を始めていた。
社会事業関係の仕事に夢を抱く娘であったらしい。

 父と母は、1922年(大正11年)8月に結婚した。当時、道太郎は海軍大学甲種学生で
あったが、藤子の叔父安東昌喬が海軍大学の教官をしており、姪の藤子との見合い結婚を
とりもったのである。母の最終学歴は、日本女子大学中途退学である。

 道太郎は1966年(昭和41年)3月6日に死去した。享年76歳。
藤子は1981年(昭和56年)7月7日に死去した。享年81歳。

 父母が亡くなった後、『戸塚道太郎追憶』(戸塚藤子刊行、昭和42年)、
『戸塚藤子の憶い出』(戸塚兄弟発行・編集、昭和58年)という私家版が刊行された。
ここに掲示するのは、そこに収めたエッセイである。

両親の面影 PDF