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博多祇園山笠六番・真紅兵貫義。

最後に真田丸大河ドラマ館を見学しました。  

 武者溜に造られた、旧市民会館をNHKが、大河ドラマの終わる来年1月まで、

1年間借りてドラマで使った道具や衣装、解説のパネルが展示してあるのだそうです。

大阪城の秀吉の居室の様子がバーチャルリアリティーの画像で見ることが出来ました。

台風13号も近づく中、管理のお姉さんに聞くと今日はちょっと人出も少ないとの事でしたが、館内は結構賑わっていました。

  街の中も、あちこちに幸村の姿が見られます。 

 午前の部はここまで、食事処に向かうバスに乗った所でついに雨が降ってきました。

 

ちょっといっぷく:草笛上田店

今日の昼食は、小諸に本店のある蕎麦の草笛さんでいただきました。 

 平日の台風日和にもかかわらず駐車場も店内も満員。 

 蕎麦は小諸城主・仙石秀久公を始祖とする七割蕎麦、

蕎麦粉をこねる所から、切る所まで一渡り蕎麦打ちを見学した所で、やつと席に着くことが出来ました。

  蕎麦が出てくるまでのあいだに、会長さんの用意して下さった資料で、

真田丸の時代の諏訪についてちょっと勉強。 

 そうこうしているうちに、ボリュームたっぷりな蕎麦も出来てきました。 

 完食できたのは3人だけだったとか、満腹・満腹。

午後からは、いよいよ真田の里へと向かいます。 

 食事の間に雨も上がり、まずまずの天気です。

 

山家神社:白山大権現

 

ここ長山家の郷は、滋野系海野氏につながる真田氏の私牧が有った所だそうで、

ここ山家神社は郷の産土神を祀った神社として古くから有ったそうです。  

最初は、岩井山か四阿山を御神体とした神社だったそうですが、

後に日本武尊一柱を祀った神社となったそうです。(日本武尊は、鳥居峠を通って上州に出たとか) 

 奈良時代になって、白山信仰が伝わり養老2(718)に奥社を四阿山山頂に奉遷したそうです。 

 奥社は二社あり、南向きが信濃社、東向きが上毛社だそうです。

 (山も信濃側では四阿山・上州側では吾妻山です。)   

里宮は、岩井山にあったそうですが、平安時代・857年に洪水で崩壊、

鎌倉時代になって源頼朝により現在の地に造られたそうです。

  白山権現は神仏混合の神であり、里宮には、白山寺も造られた様で、

しばらくは白山さまとして慕われてきたとか。

 ここは、上田城の鬼門除けとして、歴代藩主からも庇護されてきたそうです。 

 明治になって、廃仏毀釈により白山寺は取り壊され、再び名前も山家神社に戻ったのだそうです。 

 山家神社は、四阿山から流れる四流の水系一体の守護神・水分神だった様です。 

 現在の神社は明治20年の真田大火で焼失、翌21年に再建されたものだそうです。 

 石段の上に屋根を被った木がありました。 

 杉の木で雷にやられたものだそうです。  

今日は、正式参拝をお願いしてあるそうで、押森宮司さんに御祈祷をしていただきました。 

 山家神社の神官は押森家・四阿山奥宮別当は松尾家・白山寺住職は松本家の世襲になっているそうですが、

山奥の神社で専従は厳しく、数十年の間専従の宮司さんは居られなかったそうですが、

数年前に諏訪大社に居られた押森宮司が戻られ、専従としてがんばって居られるのだそうです。

拝殿の中は、一段上がった所に幣殿があり、

本殿に行くにはさらに幅の狭い階段を上がる造りになっていました。 

 神社の横に、平成8年の時に下された鬼瓦がありました。 

 神社の神紋は三つ巴。

真田神社:

ここからは、ガイドの舛山さんが案内して下さいました。 

 雨がパラついて来たので、社務所の軒下に避難して説明をしていただきました。 

 山家神社と上にある長谷寺は、上田城取り壊しの折、一緒に壊されてしまったそうですが、

翌年には再建されたそうです。

境内には、真田伯爵の明治の参拝記念碑(ガイドさんの足元)や、

14代当主・幸俊氏・工学博士の植樹されたコウヤマキがありました。

   

真田神社は、藩侯の松平氏への配慮もあって藩のなくなった明治になって、

本家真田伯爵の許可ももらい、明治20年に建てたそうですが、

真田大火で焼失翌21年に長村の山家神社から100mほど離れた所に再建されたそうです。 

 大正八年になって、村では二つの神社の維持が大変になり、山家神社の白山寺跡に移されたそうです。

奥の真田神社本殿。   

名の真の字は、当用漢字には無い字ですが、

真田本家ではこの字が使われているそうで、許可をもらって使っているそうです。 

  祭神は、真田幸隆・昌幸・信幸・信繁公と地元長村の西南〜大東亜戦争の英霊149柱だそうです。

真田神社の鬼瓦・山家神社の屋根の吹き替えと一緒に、平成8年に屋根の葺き替えが行われたそうてす。

  神社に似合わぬ碑がありました。 

 もっともここは、岩井山理智院白山寺という天台宗の寺院の跡地だから不思議はありませんが、

白山寺が廃寺になった時、本尊・十一面観音は実相院に仁王像は鹿教湯文殊堂に移されたそうです。

  この大勢至菩薩碑は、真田幸隆が山家神社奥社殿を修復した時の碑だそうです。

真田山種月院長谷寺:曹洞宗  
   

長谷寺は、真田幸隆によつて造られたそうです。 

真田幸隆が武田信虎・村上義清連合軍による海野平合戦に敗れ、

上野へ逃れその後、武田家も信虎が追われ、信玄の時代になってからは、

幸隆は信玄の配下の武田軍信州先鋒となって力をつけてきたそうです。 

 そんな折、1547年・天文16年まだ村上義清が砥石城にあって、真田の地も支配していた時に、

松尾城にあった無住の種月庵に上州安中の長源寺より晃運和尚を招いて創建したのが長谷寺だそうです。

  上州街道にもあって、砥石城の情報集めもかねて、幸隆が造ったのかもしれません。 

 砥石城を幸隆が攻略したのは4年後の1551年です。 

 長谷寺入口には、松尾城の桝形も残っていました。

長谷寺参道の桜並木を上って行くと、蓮の花びらをかたどった門がみえます。 

 花びらの中に見る景色は前回のマリオ倶楽部で見た散華を思わせます。 

 まだ新しい本堂が見えてきます。 

 本堂は明治23年の真田大火で焼失、現在の本堂は昭和53年に建てられたものだそうです。 

本堂と庫裏をつなぐ渡り廊下の下をくぐると、素敵な庭に出ます。  

庭の左手の道を上がった所が墓地になっています。

   

ここは、真田幸隆公・昌幸公の菩提寺にもなっているそうで、

中央に一徳斎・幸隆公、左に正室・恭雲院、右に千雪公・昌幸の戒名の宝篋印塔が並んでいました。 

1742年にはこの辺りに大洪水があり、墓も流されたそうなので、それ以降のものかもしれません。

真田親子の墓の脇に新しく造られた真田幸村の供養塔がありました。

  松代の長国寺にも、昌幸・幸村公の供養塔がありました。 

  幸隆公は、1574年に砥石城で病死、昌幸公は1611年に九度山で病死という事で、

何等か遺品が埋葬されたのでしょうが、幸村公の死は場所も、

時代も不明のため、墓とはならなかったものと思われます。 

  信幸公が松代へ移封のおり、六代目住職が同行、長国寺を建立したそうです。

   

前方の山は、真田本城だそうです。 

 真田の山城は、鎌倉時代に造られたものだそうで、村上義清は、真田を追った後は砥石城を本拠とし、

真田に戻った幸隆は真田本城を本拠地とし、砥石城番をしていたそうです。

帰りは再びもと来た道を戻ります、雨に濡れた生島神社の鳥居をながめ、

下諏訪に着いた時にはちょうど雨も上がっていました。 

 台風接近の中、休憩・移動の間は雨も降りましたが、幸い見学の間はほとんど雨に合わずにすごせました。

  これも、お願いした神々のおかげかもしれません。   感謝・感謝。

写真を整理している時たまたま点けたTVで大河ドラマ・真田丸をみました。 

 ドラマを見たのは初めてでしたか、丁度今回出かけた上田城の第二回上田合戦をやっており、

ついつい最後まで見ることになりました。

   
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