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南櫓の近くに、大きな岩がありました。

  1783年の浅間大噴火の時の溶岩だそうで、駅前広場の再開発の時にここに移設されたものだそうです。 

 石垣があるのは、川の流れの強い、こちら側だけ、あとは土塁だそうです。

二の丸堀跡の欅並木。 

 二の丸堀は、かつては水が張られていたそうですが、昭和3年に上田温泉電軌が、

堀を掘り下げ上田―真田間を走る上田交通真田傍陽線を引いたそうです。  

二の丸橋はその時にかけ替えられたそうで、橋の麓にあるのは、公会堂下駅のプラットホームだそうです。 

 鉄道は昭和47年に廃線になったとか。

二の丸前の通りの向こうには、幕末になって松平忠学公が造った藩校・明倫堂跡(:現在・上田二中)

更に向こうには、上田藩主屋形跡(現在・上田高校)が見えます。 

 橋柱に書かれた絵文字は二の○ハシと読むのだそうです。

  シダレクワ。 

橋下の二の丸堀跡。  橋を渡り、櫓台を入ると鐘楼が見えます。 

 今は平和の鐘と言われているそうですが、江戸時代には丸堀の道端で、

時鐘として使われていたものを移築したものだそうです。

二の丸東虎口(小口)は、櫓台の奥に石垣で桝形が造られいいたそうですが今は取り払われ、真直ぐに中に入れます。

  木戸だけで櫓門は無かったそうです。 

 道の脇にシダレグワが植わっていました。 

 上田は製糸の町でもあったそうで、松平氏も養蚕を推奨していたとか。

上田城は、豊臣・徳川の勢力が拮抗していた頃、徳川方にあった真田昌幸が家康の命を受けて、

豊臣方の越後上杉への守りとして、天正11(1583)に築城したものだそうです。 

 本能寺の変で信長が死んだのが天正10年、織田軍についた真田が徳川方となったのも、

天正10年の遅い時期と考えると、1年未満で造られた天正11年の城は、未完の部分が多かった様です。 

 当初は上州からの北条氏、越後からの上杉氏への守りを想定して造られたそうですが、

翌天正12年には真田氏所有の沼田城をめぐる対立で徳川氏と決別、

豊臣方の上杉氏と手を結ぶこととなったそうで、

城の守りも徳川方を想定して、今の形の東重視に変更したそうです。 

 天正13年には徳川軍は、七千の兵をもって二千足らずの上田城を攻めたそうですが、

城は落ちなかったそうです。(第一次上田合戦)

その後は、秀吉の調停で、昌幸は家康の与力大名となったそうです。

  慶長3(1598)秀吉が死去、2年後の1600年に真田氏は会津上杉軍を撃つべく徳川氏に従ていたそうですが、

石田三成の誘いを受けて、犬伏宿薬師堂で家族会議を開き、

長男・信之(信幸)は徳川方に、父・昌幸と次男・信繁(幸村)は石田方に就くことを決めたそうです。 

 そして、関ケ原の合戦の時には、昌幸・信繁親子は、上田城にこもり、西軍加担を表明したそうです。

  これを受けて、徳川秀忠は三万八千の徳川主力軍を率いて、

二千余人の守る上田城を攻めたそうです。(第二次上田合戦) 

この時、徳川軍大敗し一旦、小諸まで引き上げた所で、

関ケ原に向かう家康からの書状を受けてそのまま、関ケ原に向かう事になったそうです。 

 上田合戦で勝利した、昌幸・信繁親子も西軍の敗北で、

城を明け渡し高野山の九度山に流されたそうです。 

 翌慶長6(1601)には、家康の命を受け、諏訪頼水等によって上田城は破却、

その後真田信之は沼田・上田の他三万石の加増を受けて、九万五千石の大名になったそうです。 

しかし、上田では、上田城の再建は許されず、三の丸跡地に藩主屋形を造り、

政治を行い主には沼田城で過ごすことになったそうです。  

上田城が修復なったのは、信之が1622年に信濃国松代藩に十三萬石に加増移封され、

その後に小諸藩の二代藩主仙石忠政が六万石に加増上田に移封され、

更に徳川秀忠も亡くなり、三代家光の代になった寛永3(1626)の事だそうで、

真田信之は上田の領主にはなったが、城主にはならずに松代に行った事になる様です。 

 その後仙石氏は三代上田城主を務めた後、

1706年に但馬出石藩・松平忠周氏と交代し幕末に至ったそうです。

 

   
櫓門左は尼ケ淵。 櫓門石垣の大石・真田石。

右は内堀で水が張られていました。 南櫓の石落とし。 

真田石は太郎山から掘り出し礎石にしたものだそうで、石垣の石材の大半は太郎山の緑色凝灰岩だそうです。

 右の石垣が飛び出しているのは、攻め込む敵の右肩を狙いやすくしたものだとか。 

 城門は平成6年に復元されたものだそうです。

本殿。

城門を入ると、すぐに靖国鳥居があります。 

 廃藩置県後の明治7年に民間に払い下げになり、本丸付近を丸山平八郎氏が一括購入したそうです。 

 真田神社は、明治12年に藩主であった松平氏をしのび松平神社を造ったのが始まりだそうです。

  明治26年には、本丸付近を丸山氏が神社に寄付し、大正14年には神社以外の土地は上田市に寄付されたそうです。

  昭和28年には、歴代城主を合祀して上田神社としたそうですが、

同名他社と紛らわしいので昭和38年に真田神社と改名したそうです。 

 神社の屋根・垂幕には、中央に六文銭・真田、右に永楽銭・仙石、

左に五三桐・松平氏の家紋が描かれていました。

まずは揃って参拝し、少しだけ智恵を授けていただきました。

真田井戸。 土塁の北東の隅に造られた切欠き・鬼門除けだそうです。

本殿へ渡る廊下はかなり長く、途中に石灯篭と、供養塔の様な物があります。

  手前の石垣と合わせ、松平神社の名残りかもしれません。 

  真田井戸は、本丸唯一の井戸(直径2m深さ16.5m)だそうで、

太郎山砦へとつながる連絡用抜け穴もかねていたそうです。

仙石氏の城修復は真田氏の縄張りを基に行われ、各虎口には石垣をもうけ、

本丸には7棟の二層隅櫓と2棟の櫓門を設けたそうです。 

 西櫓だけが、途中修復はあったものの当時のまま残されているそうです。 

 櫓内の芯柱には仙石氏の刻印も残っているそうです。 

 屋根の鬼瓦には、松平氏の家紋・五三桐が描かれていますが、松平氏の頃に屋根の修復も行われた様です。 

 廂は漆喰で塗り固められた寒冷地仕様になっており、

一層の屋根に並べられた瓦は二層の屋根の氷の落下に備えたものだそうです。 

 西櫓は、上田市博物館として使われたこともあったとか。

西虎口の桝形の石垣の上に、二つの窪みが見えます。 

 櫓の柱を建てた跡だそうです。

本丸跡・ここに有った木も民間払い下げで、かなり切られてしまったそうですが、

その後公園として植樹された木がかなり大きくなっていました。  

第一次上田合戦時の記録では天守はなかったそうですが、

発掘調査の時に金箔鯱瓦も見つかっており、

もしかすると第二次合戦の頃には、天守閣があったのかもしれないとの事でした。

鬼門側に見える、真田の山城群(寺山砦・烏帽子形城・冠者ケ嶽城・砥石城)

  さらに奥には鬼門を守る、山家神社があるそうです。  

 城内もそろそろ秋の気配、いろんな木々も実を付けだしていました。

クロモジ・鬼門除けとして三本植わっているそうです。 

   
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