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渡邊家住宅:長野県宝  
 

出発にはちょっと時間があったので、徳本さんのお墓を見学。 

 渡邊家住宅へは学習館の裏を通る、中山道を通って行きます。

 

 

旧渡邊家住宅は、11/43/19日までは休館だそうですが、今回は特別に見せていただきました。 

 高島藩士の武家住宅は、現在残っているのは3軒だけだそうで、

1軒は諏訪にある志賀家住宅で諏訪市指定有形文化財になつており、

2軒目はここ渡邊家住宅で、三大臣の出生の場所でもある事から、土蔵とともに県宝に指定されているそうです。

  3軒目は武井武雄氏の生家である、武井家住宅で、

こちらは改築が進み文化財とはなっていないそうです。 

 渡邊家住宅は、江戸中期・渡邊惣八政隣が諏訪藩士となる少し前ぐらいに造られたものだそうで、

幕末になって斧蔵によって改築されだそうで、現在の建物は平成3年に改修されたものだそうです。 

 今は冬支度も済んで、休館期間に入っているので、

部屋に上がっての見学は出来ませんでしたが、土間からちらりと部屋の様子も見せていただけました。

 
板の間・斧蔵の時に土間を改築、寺子屋教室にしたのだそうです。 台所・奥は次の間と座敷。
   

土蔵にあった渡邊家家紋・渡邊星。 

 渡邊家は平安中期に起きた嵯峨源氏を祖とする一族だそうで、

鎌倉初期に渡邊四郎政時が山城から、諏訪にやって来て諏訪の豪族・千野伊豆守頼憲の家臣となったのが、

諏訪における渡邊家の始まりだそうです。 

 南北朝時代には、千野氏とともに宗良親王を擁護したそうです。 

 戦国時代になつて、千野氏とともに武田の家臣となつたが、

北条との戦に敗れともにしてきた千野氏は滅亡、武田家家臣・山県三郎兵衛のの家臣となり、

諏訪郡大和村の渡部沢城主となったそうです。 

  その後、諏訪越中守頼豊に打たれ一時は浪々の身となつたそうですが、

関ヶ原の戦の後、諏訪頼忠・頼水が諏訪に戻った折に志願した所、

兄は藩士に復帰、諏訪若狭守が分家して旗本になった時にともに江戸に出たそうです。

 弟の渡邊松沢は藩士にはなれず、東堀村で農業にたずさわったのが、東堀渡邊家の始まりだそうです。 

 この時が1601年、1605年には横川が氾濫、平福寺も流失したそうですが、

中山道開通で平福寺が移転した1617年には方丈一宇を建てて寄進したそうですから、

この頃すでにかなりの力を蓄えていた様です。 

 この東堀渡邊家が諏訪藩士となったのは、江戸中期になってからだそうです。 

  諏訪の豪族千野氏の方は、北条氏との戦で滅亡してからは、

しばらくは諏訪の地で力を蓄えていたのか、諏訪氏の復帰に合わせて藩主に協力、

上社・御射山の開拓等にも協力し、頼水が初代高島藩藩主となった時には、

頼水の弟・頼雄を二の丸家老に、千野頼房が三の丸の家老になったそうです。  

 高島藩6代藩主・忠厚の家督相続をめぐつて、二の丸と三の丸が対立、

三の丸家老・千野兵庫が窮地に陥った所、兵庫の詩文の友でもあつた、

渋川虚庵(天龍道人)の助言もあり、老中・田沼も認める中で、一門に訴えて無事に事件が解決出来たのだそうです。

  そんな事で、二の丸一派は処罰され、欠員が出来たためか、

この時の渡邊惣八政隣が天龍道人と親交が深かったためか、それによるなんらかの功績があった為かはあかりませんが、

惣八が藩士となる事が出来たのだそうです。  

千秋・国武が学んだ藩校の長善館は、この時に天龍道人の助言もあつて造られたものだそうです。

   

横川からの汐と砥川の水を引いた五兵汐の立体交差する、ちょっと珍しい場所がありました。 

 帰りは、横川の水を引くことが難しかった頃、私財をなげうって砥川の水を引く為の汐を造った、

西堀の名主・武井五兵衛の五兵衛汐の脇を通って学習館に戻りました。

ちょっといっぷく:ライフプラザマリオ  
日は、本年最後のマリオ倶楽部と言う事で、亡年会をかねてマリオさんでの昼食となりました。
 
  会場も、午後から講義していただける宮坂さん所蔵の諏訪の日本画家達の作品に囲まれて、

まるで美術館での食事の様、午前に講義していただいた講師の方達にもおいでいただき、まずはワインで乾杯です。 

 今日のメインデッシュは、北欧にちなんでノルウェイサーモンだそうです。 

 おかげさまで、今年も一年色々と楽しませていただきました。 
   
諏訪の日本画家達:  

午後からは、宮坂さんのお宝の日本画を基に諏訪での、日本画家の歴史をお話していただきました。

  これだけ多くの、諏訪地方出身の日本画家の作品が並んだ様はなかなか壮観です。

  日本では、鎌倉時代までは仏画・大和絵が、室町になって禅僧による墨絵も出て来たそうですが、

諏訪には仏画以外は残っていないそうです。 

 諏訪での日本画は高島藩三代藩主・諏訪忠春が狩野派の絵を残したのが始まりだそうで、

江戸中期には、天龍道人が作品を残したそうです。 

 幕末になってからは、江戸中期にでて来た四条円山派、幕末の谷文晁派、

南宋画の流れが諏訪にもやつて来て多くの地元作家が出て来たそうです。

写真左の一番左は諏訪忠春の作品。  

 写真右の右は渡邊雪湖・扇画をコピーてまとめたもの、その左は岩波其残。

先生の後ろ右は、上社神長官・守矢篁山、その隣は小池裸石。 右から二番目は岡部光成、三番目は中村静思。
   

四条円山派・牛山鳳石の龍、右が浜弧嘯。左が谷文晁派・佐原永泉。

先生は、掛軸文化がだんだん衰退していくのを嘆いておられました。 

 私の知識では、なじみの無い作家が大勢出てきましたが、

これを期にもう少し御馴染さんが出来るかもしれません。 

 今回は渡邊家という事をテーマに鎌倉から現代にいたる、

一連の一大絵巻を眺める事ので来た気分になつた一日でした。

  これで、2015年のマリオ倶楽部も終了、

来年も又素晴らしい出合いがある事を期待して今回の旅を終える事が出来ました。  

感謝!! 感謝!!

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