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  西郷隆盛・吉田松陰等の書簡屏風。 

展示室の中も前回とはがらりと変わっていました。 

 中は宮坂さんが案内して下さいました。

  展示室の入口に大きな拓本がありました。 

 国武は、号を無邊とし、麻布にあった自宅を無邊洞と呼び、

自宅前に自筆の無邊洞碑を立てたそうですが、その碑の拓本だそうです。

  自宅があつた麻布では、マンションが建ち、広かつた蝦蟇池も小さくなつてしまったとか。

  碑は麻布から世田谷、澁谷と自宅の移転に合わせて移動されたそうですが、

今は花野井の大同院に寄贈されてあるそうです。

   宮坂さんによると、千秋も国武も書家であったそうですが、

国武の方が時間がとれたのか書は多く残っているそうです。

千秋の邸宅は高輪にあったそうですが、敷地はトヨタに売却、

使用していた和館の方は取り壊されたそうですが、外国人客用に用意された洋館・明治38年築の方は、

トヨタ蓼科記念館として蓼科に昭和57年に移築されているそうです。

  千秋の別荘・分水荘が富士見には有ったそうですが、残念ながらこちらは昭和50年に解体されたそうです。 

 拓本の脇にある額の中央は、国武の書だそうで、

一番上の額は、紙幣の文字のデザイン等も行った、書家・高田竹山忠周の書だそうで、

国武の漢字の師匠でもあった人だそうです。

夜雨荘記・渡邊国武。 天龍道人。      岩波其残。  雪湖。

書簡銀屏風は千秋が、鹿児島県令の時に集めた書簡が貼られているものだそうで、

西郷・吉田の他数名の書簡があるが、只今解読中とのことでした。 

  夜雨荘記は、大磯に千秋の別荘が出来た時、渡邊一門が集まったさいに国武が書いたものだそうで、

漢文の名文とされているものだそうです。

千秋・国武の邸宅、徳本さんの生家等の調査資料も展示されていました。  

雪湖。 最近入手した雪湖の絵、何枚かには、雪湖のサインも入っていました。

千秋の父・斧蔵は書は百瀬流をたしなみ、絵は江戸詰めのおりに習ったそうで、

絵の方は名人といわれていたそうです。 

 そんな事でか、寺子屋も開いていたそうです。

  号は雪湖、若くして亡くなっており、残された絵も少なかったそうですが、

平成3年の渡邊家修復の折、襖や壁の下貼とした古文書・絵が見つかったそうです。

  見つかった絵は77枚あったそうです。 

 又最近になって、市場に出たものもあり入手出来たものもあるうです。 

 宮坂さんによると、祖父の惣八政隣は天龍道人とも親交があったので、

弟子の古田を通して天龍道人の影響も何かあったのではなかろうかとの事でした。

  岩波其残の挿絵を担当した事もあったそうです。 

  同じ諏訪藩士で画家でもあつた岩本琴斎とも親交があったのでは、との事でした。  

掛け軸も、下貼りとして出て来た絵を拡大コピーしたものだそうでそうです。   

   
   

っぷり勉強した所で、学習室へ移動、お茶を頂きながら学習館での活動等について館長さんに説明して頂きました。  

 最後に、北欧フィンランドと諏訪地域の絆・と言う事で

東堀・渡邊家に繋がる渡邊忠雄・暁雄氏にまつわる話を藤森さんにして頂きました。 

  藤森さんは、女性の教育という視点で、フインランドの図書館・女性教育等の研究を始められたそうですが、

そんな中でフインランドと地元・諏訪が110年以上前に繋がっていることがわかったそうです。 

  フインランドは世界で森の割合の一番多い国で、日本は6番目だとか、

諏訪の地も雰囲気がフインランド似ており、

下諏訪にルーテル協会が出来てフインランドの牧師がやって来たのが明治38年だそうです。 

 ここで最初に洗礼を受けたのが、今井邦子・渡邊忠雄他計7名だそうです。 

 忠雄は、三大臣を輩出した渡邊家が七代目に分家したのに対し、後の九代目の時に、

東堀渡邊本家から分家した渡邊家の人だそうです。 

(ちなみに、暁雄(忠雄の子)から7代前のご先祖と、千秋から4代前のご先祖が、同一人物だそうです。)

 忠雄はフィンランドに留学、フィンランド人で声樂家のシーリと結婚、日本人牧師となったそうです。 

  忠雄の第三子の暁雄は東京都フィルハーモニーの指揮者として活躍、

妻として鳩山一郎氏の五女・信子さんを迎えたとか。 

  国武氏が、終生独身だったのは、松本藩・多賀幸右衛門の娘・春子(鳩山一郎氏妻)

さんに失恋したからとの話もあるそうですが、何か縁を感じる所がありました。

  ここで、午前の部の講議は終了、最後に渡邊家の見学に向かいます。

   
   
   
   
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