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カリヨン・合鳴鐘。

 

晋平の作とされる曲は1770曲ほどあるそうで、その中でも西條八十作詞の曲は316曲あるそうです。

島村抱月の死により芸術座解散後は、童謡・流行歌・新民謡等の作曲活動を行っていったそうです。

新民謡では、高野辰之作詞・中山晋平作曲の飯山小唄があるそうです。
 

 

   

後半は第一展示室に移り、ちょうど到着した福島の団体さんと一緒に、

砂山・雨降りお月の2曲をリクエスト、晋平も使ったというオルガンを弾いていただき、大合唱。 

  続いて映像で晋平の生涯を勉強しました。

ちょっとよりみち:大日山松山寺
   

映像を見ていましたが、咳が止まらないので途中で抜け出し、目の前のちょっと気になるお寺を見学してきました。

   詳しい事はわかりませんでしたが曹洞宗のお寺だそうで、本尊は大日如来だそうで、

室町時代のものだとか(お寺の開山もその頃なのかな)。  

 中山晋平の墓碑もあるそうです。 

 楼門があり、そこをくぐると本堂があり、屋根には三階松の寺紋がありました。 

 ここ中野には、源義仲に従った清和源氏の流れを汲むとされる高梨氏が居た所で、

戦国時代になり武田信玄に攻められ、上杉家の家臣となり、江戸時代になつて上杉氏と米沢に移るまでは、

ずっと高梨氏の支配下にあった所ですが、高梨氏の家紋は石畳、

寺紋となっていた三階松は甲斐の豪族三枝氏が使っていたとか、寺は戦国時代の名残でもあるのでしょうか。

もう一つきになるのは、高い石垣の上に乗せられた、石灯篭と六地蔵。 

 閻魔堂も残っており、門前には萬霊等も建っていました。 

 そうこうしているうちに時間になり、バスへと戻りました。 

 丁度12時、カリヨンの証城寺の狸囃子を聞きながら、記念館を後にしました。 

中野陣屋・県庁記念館:長野県史跡指定

次の訪問先は、中野市の中心にある中野陣屋・県庁記念館です。 

  記念館の竹内さんの案内で資料室へ(今は月末のひな市に合わせてか部屋の中は資料より、土雛で一杯でした。)

そこで陣屋・記念館の説明をしていただきました。 

 江戸時代になって、中野のあたりは幕府直轄の天領となったそうです、

天領としては信濃では飯島に陣屋を持つ伊那についで大きく、6万石弱の大きさだったそうです。 

  陣屋が代官所としてもうけられ、代官は江戸に居る事が多かったそうですが、

元締・手付等20人ぐらいの人がいたそうです。 

 天領では、米を治めるのではなく、金に換えて治めるので、それにまつわる豪商・豪農も多かったとか。

  明治となって、明治政府はまず天領から手をつけ、県を置き中央政府から知事を送りこんだそうで、

明治39月には中野県となり、陣屋が中野県庁となつたそうです。 

 しかし、12月には久保組・高山村の火葬の煙を一揆の合図と間違えた民衆が、

小布施の砂川に集結、世直し一揆として中野県庁に押し寄せたそうです。 

 この時焼失した家屋は486、中野県庁も焼失したそうです。 

 新政府としては、これを新政府への反発として官軍佐賀藩・松代藩兵を送り鎮圧、

明治41月には政府役人が中野に入り、参加者600余名を逮捕厳しく罰したそうです。

   この中野騒動の顛末を描いた切り絵が壁に貼られていました。 

  また、県庁も善光寺門前の長野村に移されたそうです。 

 明治4年7月には、廃藩置県で大名の藩籍を奉還、県として県令がおくられたそうで、

この時信濃には12の県が出来たそうです。 

  現在の建物は、昭和11年に中野町役場の庁舎として建てられたものだそうで、

記念館となつたのは平成6年からだそうです。 

 前の堀にかかる石垣は陣屋当時からのものだそうです。

中野騒動の顛末を描いた切り絵。

 
ちょっといっぷく:カフェ陣屋

ここで待望の昼食となります。 

  当初予定していた食事処は今日はお休みだとか、急遽陣屋の中にあるカフェ陣屋さんにお願いしたそうです。 

 部屋がちょっと狭いので団体さんは、二手に分かれて食事をさせて頂きました。 

 今日の人気は茸入りのカレー。   

 
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