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名主であった武井家の間取り図(天保年間)  
 

享保15(1730) 友ノ町火災後、再建された旧宅の間取り図。  

 この旧宅も、敗戦直前に強制疎開で取り壊しになり蔵だけが残ったそうです。 

 蔵は二つになっていたが、現在の蔵は明治四年に7代目当主によって建てられたものだそうです。

 

   

い蔵の扉が開いて、中に入れていただきます。 

  中に入ると、四方はカーテンで覆われ、中央にテーブルが一つ、その上に幾つかの包みが乗っています。 

 ここで落語の公演会も行われるそうで、照明設備も完備しています。 

  左手に横たわった、二本の木は、椅子代りに座らせて頂きましたが、旧宅の床柱だつた様です。

最初に登場したのは、皇女和宮の降嫁の折、戸川播磨守一行86人の宿を務めたそうで、

その時下社神宮寺・三精寺で使われた俎板三枚の内の1枚だそうです。 

  勅使の宿を務める事もあったそうです。

次に登場したのは、古書籍。 

 真ん中にデンと積まれたのは世界画報・日支大事変号。

  風呂敷の中から出てきたのは、東海道中膝栗毛・元治武鑑・衆方規矩・西醫今日方等の古書達でした。

醫道日用・衆方規矩。

十返舎一九の滑稽本・東海道中膝栗毛。  六編。  ここで、辞世の句をひとつ。

    此世をばどりゃおいとまにせん香とともについには灰左様うなら。

武井家で一番古い医学書。  二代当主・忠蔵が使っていた醫書。

   家庭の医学という様なもので、医者でない人の一般教養としても使われたものの様です。

 西醫今日方。  幕末の医学書。  

武井家で、医業を開業したのは、七代当主・半嶽からだそうで、それ以降は四代医業が続いているそうです。

先生の愛読書もありました。新ロビンソン漂流記。

古新聞・萬朝報 明治36611日号。

  お雛様をつつんであったものだとか、紙は変色しているが丈夫の様で、今でも広げて読む事が出来ます。 

 虫眼鏡で記事を読と、その時代にタイムスリップ。  

最後にお宝の発句集・三夜月を見せて頂きたいとお願いした所、

二階まで取りに行くのに同行させて下さいました。 

二階は赤松の太い梁があり、その下には神棚があり幾柱かの神々か祀られていました。

二代当主・忠蔵は文化人だったそうで、諏訪藩主の学問の教授もしていた方だそうです。

 三夜月は親類縁者と9人でお伊勢参りをした折に、道中で折にふれそれそれが呼んだ句をまとめた道中記だそうです。

  素敵な袱紗につつまれていました。 

 最後に薬研の実演を見て、明治蔵物語 第1幕の終演となりました。

1幕の終演を記念して、皆でニッコリ。

2幕の会場へバスで移動。   

 四つ角には、今取り組んでおられる憲法九条を守る運動の幟が掲げられていました。

ちょっといっぷく:ライフプラザマリオ

さあ明治蔵第二幕の開演です。 

 まずはワインで乾杯、先生のご挨拶の後、食事をいただきながら色々お話を伺いました。 

  武井家にまつわる話としては、三代将軍・家光の導師を務められた

位産上人・増上寺22世住職も西堀武井家の遠祖にあたるそうで、

武井家の菩提寺・来迎寺で得度されのだそうです。 

 来迎寺門柱の六方石に刻まれた文字は、位産上人のものだそうです。 

  先生の作家としてのスタートは、1971年に出版した柿木のない村の話が最初だそうで、

辰野で療養していた時の話を書かれたものだとか、

40歳に近くなつてからの執筆てしたが、その後は次々と出版されておられます。 

  先生も既に80の年は越えておられますが、今だ衰えぬ活力にはつくづく感心させられます。 

  先生曰く、だめなのは死ぬ時で、けしてだめとは言わぬ事だそうです。 

  会長さんの方では、午後からは講演でもと予定されていたのかもしれませんが、

先生の方は明治・大正の唱歌の部へと進みます。   

 そして、最後は琵琶湖周航の歌を全員で歌い、明治蔵物語の終演となりました。 

 今回の美術館訪問では、美術品の展示にはお目にかかる事は出来ませんでしたが、

明治蔵はまだ開いて間も無いので発展途上、

こんごは美術品の鑑定も進みどんどん明治蔵も膨らんでいくのが期待されます。 

  今回は、武井先生の演出にすっかり引き込まれ、武井劇場を十分堪能出来た一日となりました。

  感謝・感謝。

   
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