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水戸天狗党との和田峠合戦の話をして頂きました。

見世に置かれた御柱の引き綱。  和田峠合戦の図。

天狗党は1829年水戸藩主家督相続争いの折、後の藩主・斉昭を推した一派が始まりだそうで、

その後は安政になつて、13代将軍継嗣問題で息子・一橋慶喜を推した一橋派と、

後に14代将軍となった慶福を擁する南紀派と対立、南紀派の井伊直弼が大老になり、藩主・斉昭は謹慎となつたそうです。

   そんな事もあり天狗党も再編成・分離がくりかえされていたそうです。

  元治元年・1864年に幕府に横浜の鎖港を要求して、5月に筑波山に56名で挙兵、

それに呼応して天狗党等の攘夷派の人々が結集大発生となつたのだそうです。 

  これに対して幕府側は、水戸藩保守派の諸生党と幕府の連合軍でこれを鎮圧、

敗れて逃れた千名ほどが、武田耕雲斉を頭に大子町に集結し

、禁裏御守衛総督だった一橋慶喜を通じて朝廷に尊皇攘夷の志を訴え様と、京へ向かう事になったそうです。

 西上に当たっては、かつて天狗党が軍資金不足で暴徒化した事もあり、軍規を定めて111日に出発したそうです。

  1116日には下仁田で高崎藩兵を破り、1120日には和田峠に来て、

それを迎え打った高島藩・松本藩の連合軍と樋橋で合戦となったそうです。  

 天狗党の悪評を聞いていた、西餅屋では4軒有った茶屋を焼いて避難したそうです。

 連合軍もあまり気乗りがしなかったのか、双方あまり被害のないままお通り願って、天狗党は伊那谷を行ったそうです。  

 そこから東山道を進もうとしたが、街道が封鎖されており北へ迂回し1211日には越前国新保宿に到着したそうです。

   一橋慶喜は、自ら朝廷に願い出て、加賀・会津の兵を連れて討伐に向かったのを知り、

慶喜への願いを断念、1217日投降したそうです。 

  投稿した人数は828名、内352名が処刑され残りは遠島・追放されたそうです。

 和田峠の合戦場に建てられた、浪人塚へは13回のマリオ倶楽部でも一度訪れています。

赤報隊名簿・官軍御用人馬帳 皇女和宮・宮御移轉掌中覧要。

続いて、赤報隊の話をしていただきました。

次に説明して下さったのは、魁塚の話です。 

  明治維新となった年の18681月に、薩摩藩の浪士隊総裁として旧幕府軍に工作活動をしていた

相楽総三を隊長とした赤報隊(13番隊)が近江国松尾山・金剛輪寺で結成され、

西郷・岩倉等の後ろ盾を得て、東山道官軍先鋒隊として、京を出発、

新政府での年貢半減を宣伝しながら、江戸へと向かったのだそうです。

   隊が下諏訪まで来た所で、政府は年貢半減は困難として、方針を変えて呼び返そうとしたが、

応じなかったので東山道軍は赤報隊を偽官軍として、捕縛命令を信濃各藩に出したのだそうです。

  総三は樋橋にいたが、東山道軍総督・岩倉具定(具視の次男)に呼び出され、

捕縛され二昼夜、秋宮の欅に縛られていたが、本体到着後33

下諏訪宿はずれの矢木先の礎田(張付田)で幹部以下8名が処刑されたそうです。 

  二番隊は新政府に従い京へ、三番隊は各地での略奪行為が多く桑名あたりで多くの隊士が処刑されたそうです。

    明治3年に伊那県大参事・落合直亮(元赤報隊)等により建碑の嘆願書が出され、

処刑場跡に魁塚(相楽塚)が建てられ、昭和3年には総三の孫・木村亀太郎や関係者の努力で名誉を回復、

総三は正五位・渋谷は従五位が贈られたそうです。 

  そして翌昭和4年には、靖国神社に合祀されたそうです。 

  地元では、毎年43日に相楽祭を行い供養しているとか。   

  魁塚へは、131回のマリオ倶楽部で中山道を歩いた時に一度立ち寄った事があります。

明治中頃の花嫁衣装

   

時間切れも近くなり、最後に客間を見学。  

 床の間に本陣にあたものか大名宿泊の鑑札がありました。

雛祭りも近いので、古いお雛様も展示されていました。  

  下諏訪の本陣は、最初は小口弥右衛門が務めていたそうですが、

二代目が不都合となり、以降は岩波家が引き継いだそうです。 

   明治維新近くの動乱期に下諏訪で起きたい幾つかの事件を感じた所で、歴史民俗資料館を後にます。

   坂を下って、次の訪問先の武井家へと向かいます。

坂を下って来ると、旧やまに衣料店さんの所では、雛人形やてまりが展示されていました。

食祭館で一休み、その間に足湯を楽しまれる方もおられました。

ノ町武井家:明治蔵美術館  

武井先生が門前て我々を迎えて下さいました。

  ここから、武井劇団・明治蔵物語の幕が開きます。  

 この門は薬医門で江戸末期の弘化四年に6代目当主が造ったものだそうです。 

  瓦には丸に武田菱の武井家家紋があり、梁には今井家の巴の家紋が付けられていました。  

  ここ友ノ町武井家は、西堀武井家と今井の豪族・今井家がここに千坪の土地を確保し

農業を軸とした共同経営を行ったのが始まりだそうです。 

  又、西堀武井本家は武田家の一人、武田郷右衛門が武井郷右衛門としたのが武井の始まりだそうで、

郷右衛門は塩尻の合戦で死亡、その子武福も武田家につかえていたが武田家滅亡後、

諏訪藩に仕え西堀村の名主となったのが始まりで、童画家の武井武雄氏は本家の出になるそうです。

  一方、豪族の今井家は、木曽義仲の四天王・今井四郎兼平の末裔だそうです。 

 この門の前には、武井家が松本連隊副隊長の宿となった事もあり、連隊旗が立った事もあったそうです。 

  今ではこの門前町で残っているのは、この門とそばにある銀杏の木だけになってしまったそうです。

武井先生の本業は外科医だそうで、病院の外来入口の横が画廊になつていました。 

 明治蔵の入口はもう少し奥、新しい門をくぐります。

入口の門にしつらえた武田菱

佐久の切り絵作家・柳沢京子氏デザインの手ぬぐい。

先生の着ているはっぴのデザインも柳沢さんのものだとか。 

 切り絵は、奈良井の長泉寺にもありました。

蔵の脇にある梅の古木、春には蔵の小さな窓の明かりで読書する、

武井少年に良い香りを送ってくれたそうです。

 
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