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金上倉庫・明治時代の生糸倉。 

丸山タンク。

照光寺蚕霊供養塔。    蚕霊供養塔は、昭和
9年に蚕糸業の発展を祈念して造られた二重塔だそうです。

最後に岡谷駅の近くにある丸山タンクを見学して、午前の部は終了です。  

 タンクは大正3年に、市内塚間川西方一帯の製糸工場が丸山製糸水道組合を結成し、

天龍川の水をくみ上げ供給したそうです。  

土台のみ残っていましたが、直径12mのタンクがのっていたそうです。

ちょっといっぷく:マリオ

今回の昼食はマリオさんに戻って、用意して下さったシルクに関した特別ランチを頂きました。

  まずは、会長さんが宮阪製糸所の売店で買ってこられた、蚕のさなぎの佃煮を肴にビールで乾杯。 

 今日のメインデツシユは桑の葉パウダーで煮るマリオビトンのシャブシャブです。 

  桑の葉パウダーでうつた蕎麦も出てきました。   お腹も一杯になった所で、午後の部へ出発です。

 
旧林家住宅:国指定重要文化財

開明社が生んだ三実業家の一人、林国蔵氏(一山カ林組)の住宅で

会社の敷地内に明治26年から、明治40年の14年間かけて造られた住宅だそうです。

  国蔵氏は大正5年に亡くなっており、二代目も事業(火薬)の関係もあり、

こちらで住む事もないまま、平成の頃になつて岡谷市に寄贈されたそうです。 

  そのため建築当時のままに残っているそうです。

林邸では、今日ご案内いただける小坂さんと横内さんが待っておられました。 

 さつそく二班に分かれて案内して頂きました。  

 造ったのは、大工が大隅流14代・伊藤左久二、欄間・仏壇等の彫り物は立川流で富種の弟子であった清水好古斉(虎吉)と言う、

諏訪での物造りの達人達が、よりすぐった素材を使って、明治時代の西洋建築の良さを取り入れながら、

日本の伝統建築との融合を図って造りだした傑作だそうです。

最初に洋館から見学です。

  旧宅は土蔵造り二階建の離れを中心に、洋館・内蔵・廊下を含めて一体化した形で造られており、

明治20年代に造られたものだそうです。  

洋館には玄関ポーチがあり、ペディメントには古代ギリシヤ建築の装飾にもよく使われる、

アカンサスの装飾がありました。 

 玄関ホール、応接室の天井には金唐紙が貼られ、床や腰板には寄木細工の板が使われていました。 

 信州の洋風住宅としては、最も早い時期の物だそうです

応接室の隅にガスストーブが置いてありました。  

 諏訪湖の天然ガスを利用したものだそうです。 

 玄関ホールには、茶室へと続く扉がありました。  

これは、外国の客人に対して和洋両面の接待に心をくばってのものだそうです。

茶室は、松・竹・梅材を使って純和風つくられているそうです。 

 座敷の床の間の捻じれた柱は藤蔓だそうです。

離れ一階の上座敷には、この建物の特徴の一つでもある金唐紙のサンプルが展示されていました。 

 西洋では革を使った壁紙で金唐革というのが有ったそうですが、日本では和紙を使って作られ、

明治の芸術産業として、ウイン万国博にも出展、輸出もされたそうですが、

当時のものが残っているのは、ここだけだそうです。 

金色の新しいのは、上田尚氏が当時の技法で作成したものだそうです。 

 金色は、錫で出来ているので変色してしまうそうです。

下座敷の押し入れに有る階段を上って二階へ。

当時輸出向けに造られた鳳凰の金唐紙。 

離れ二階の座敷は西洋装飾の芸術・幻の金唐紙で覆われていました。 

  又、柱は鉄刀木、違棚には黒壇・白壇等の唐木の銘木が使われているそうです。

柱に押しボタンの様なものが付いていました。      トイレの引手。 

引手の形は、部屋ごとに変えてあるそうで、トイレの引手は香辛料のチョウジだとか、

トウガラシの方が似ている様な気がします。   仏壇・十六羅漢像。

主屋廊下の六間柱。

蜘蛛の巣欄間
(公私の境)    絵入砂擦りガラス。

座敷に有ったボタンは台所に通じているそうです。

縁側のガラスも含め、貴重なガラスも割れずに良く残っていました。

ぐるぐる回ったので、何処の座敷かわからなくなりました。
上座敷書院の欄間・好古斉 外蔵。

私には良くわかりませんが、師匠の富種が二十四孝の図を好んで彫ったそうなので、

好古斉の彫ったのもその中の一話かもしれません。

一般用玄関、荷物も入る様大戸が開く様になつていました。 

 現在受付のある所は帳場だったとか、ここで繭や生糸の売買が行われたのかもしれません。 

  柱は楓の太柱、今では手に入らないとか。

今回は主屋の二階は見せてもらえませんでしたが、主屋にも洋式の技法が取り入れられており、

骨組にはトラス構造が巧みに取り入れられているそうです。 

  四周には下屋根が回らされており、それを支える構造も見事です。

外蔵・明治26年に造られた繭倉で、このあたりで最初の繭倉庫だそうです。 

  桂材が使われており、桂倉とも呼ばれたそうです。

御倉町公園:

開明社碑。

今回の旅の最後に、旧林家住宅の近くに開明社の碑があるというので見に出かけました。

   公園は、JR中央線の工事に伴ってここに造られた様で、

開明社碑の他にも、御射宮司社等か移されて来た様です。

  近くには江戸時代に御倉(町倉)に年貢米を運んだ船付場の跡もありました。

  生糸もここから運ばれたかもしれません。

私が諏訪に来た時は、すでに産業は製糸から精密機械へと移って行った時代でした。 

  今までは、そんな製糸産業にはあまり関心もなく過してきましたが、

今日一日製糸の歴史を追いかける事で、諏訪の物作りの変遷を強く感じる事が出来ました。 

  現存する製糸の会社も、伝統文化を守るだけでなく、新用途の開発やそれを支える新素材の開発で、

新しいユーザーを生み出し今後も発展し続けられる事を願う一日でした。

 
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