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岡製糸で使用された水分検査器(我が国第1号機)
   

これらの機械は、品質改善と生産性向上、技術者育成を目指して造られた官営の富岡製糸場で使われていた機械で、

昭和14年民営化されたされたおりに合併した三代目・片倉兼太郎が18年にコレクションとして保管したものだそうです。 

 水分検査器とは、絹は水分を含みやすく重量取引だつたので、

乾燥し無水状態の重量を計測、それに公定水分量11%を加えてものを正量としたのだそうです。

フランス式繰糸機(岡製糸151-152番機)

次は、岡谷の製糸産業の歴史について勉強します。  

 江戸時代の鎖国政策が解けてからの最大の輸出品は生糸だつたそうです。 

 日本の製糸産業には、四つの転換期があったそうで、

一つめは明治期で欧州技術を吸収改良して世界一の生糸輸出国となつた時代。  

 この時期は、明治5年官営の富岡製糸が創業を開始した翌明治6年には、

岡谷で片倉家先代め市助氏が10人取りの座繰製糸を始めたそうです。 

  明治初期から10年代にかけては、生糸がかさばり出荷の大量化に対応する為に、

共同荷造りをを狙った結社が幾つも出来たそうです。 

 鵞湖社(上諏訪)、白鶴社(下諏訪)、皇運社・確栄社・協力社・開明社(岡谷)等があるそうです。

  明治8年武居代次郎がイタリア式フランス式を折衷した

フレーム木製、鍋は陶器製でコストを1/30以下におさえた諏訪式繰糸機わを作り、100人繰りの工場を操業。

  明治11年には、初代片倉兼太郎が32人繰の様式機械を導入して垣外製糸場を始めたそうです。

諏訪式繰糸機・陶器ま鍋は高遠焼や赤羽焼が使われたとか。

江戸時代以前から使われた繰糸機。 

明治12年に平野・川岸の同盟者18名、でスタートした開明社は尾沢金左衛門方が共同荷造所、

林慶蔵を計算方としたそうですが、後に尾沢福太郎・片倉兼太郎・林国蔵の3名が連番社長を務めたそうです。  

 開明社では、徹底した品質管理のもとに生糸を生産、出荷を行う共同揚返し方式を明治17年に確立、

品質安定の評判を得て明治21年には県下第一の結社となつたそうです。 

 そして、20年代の結社は共同揚返しを行う結社として、

皇運社は矢島社、確栄社は平野社、中山社は改良社等に再結成されて行ったそうです。

 その後は、結社を構成する各社も大きくなり、明治27年には尾沢福太郎が尾沢組として分出、

28年には片倉兼太郎が片倉組として分出、開明社は明治40年に解散になつたそうです。 

 明治30年代からは、岡谷製糸6(片倉組・一山カ林製糸所・尾沢組・山一林組・笠原組等)

で日本の出荷生糸の17%を占めていたそうです。 

 第2の転換期は大正3年にバイオテクノロジーによる蚕の一代交配種を使う事で良品質の繭を得る事に片倉組が成功、

日本の優良生糸を作る繭の供給体制が出来た事だそうです。 

  これを期に片倉組は多角化拡大をはかり、

大正5年に林国蔵没後の長野県分の釜を引き継ぎ、製糸業界の最大手になったそうです。

  大正9年には第一次世界大戦による欧州の絹織物業が衰退した事とアメリカが好景気になった事で

、アメリカ向けの輸出が拡大して行ったそうで、二代目片倉兼太郎は、大正8年には朝鮮に製糸工場を開設、

須坂の田中製糸場、上伊那の武井製糸場を併合、さらに大正12年には尾沢組も合併し一大コンツェルンとなつて行ったそうです。

  そんな中、第3の転換期となつたのは昭和初期になって、

アメリカの絹靴下の大量需要に対応出来る多条繰糸機が三代目片倉兼太郎のもとで開発され、

昭和7年には生産・輸出もピークを迎えたそうです。 

 その後は、第二次世界大戦で日本の製糸業も衰退。 

 戦後、経済復興の為に連合軍総司令部の管轄下で製糸業が進められ、

昭和26年に出来た片倉工業が昭和30年に自動繰糸機の実用化に成功、

第四の転換期となった自動繰糸機時代を迎える事になったそうです。 

  そしてピーク時の昭和34年には1871社の機械製糸会社となつたそうですが、

ナイロンの発達、中国等とのコスト競争等により、

現在では大規模な機械製糸は2社、小規模な製糸会社5社が国内に残るのみになつてしまつたそうです。  

奥には、繰糸機が年代順に展示されていました。  

 これらの機械は、県有形民俗文化財に指定されていると同時に、日本機械学会の機械遺産にも指定されているそうです。

  生糸の取引に使われた資料も展示されていました。

家庭で使われていた繰糸機。
   

分検査器、乾燥は電気で行う様に進化。

織田式多条繰糸機は、昭和初期に靴下の立て糸に対応出来る高級生糸を作る為に開発された御法川式多条繰糸と

諏訪式繰糸機を融合しそれに切断防止機構を取り入れたものだそうです。

株式会社宮阪製糸所:工場見学
諏訪式繰糸機。

今回リニューアルオープンした岡谷蚕糸博物館では、動態展示エリアとして実際に稼働している製糸所の見学が出来ます。 

 エリアに入ると、手繰の体験コーナーがあり、メンバーには経験者も居られる様で皆さんさっそく体験しておられました。

宮阪製糸所は経済不況で岡谷製糸が衰退する中8釜の諏訪式繰糸機で創業、

戦後は昭和25年に再開、大日本蚕糸会と新しい繰糸機を開発し、特徴ある生糸製造を行い現存する数少ない製糸所です。 

 手繰の繰糸が残っている国内唯一の会社だそうです。  

 従業員12名で年間1t・千反分の生糸を作っておられるそうです。 

 上州市機繰糸機では、玉繭(蚕が2頭で作った繭)を使い、膨らみや節の有る糸(壁紙の模様に使う)を作っているそうです。

実際の操業に使われているのかはわかりませんでしだか゛、何台かの自動繰糸機も動いていました。マルチ繰糸機。

FR型自動繰糸機は蚕品種の異る繭の糸や、繊度の異る生糸の生産に対応出来る、多種少量生産向けの機械だそうです。 

  マルチ繰糸機の方は、極細の生糸から極太の糸まで,張力の大きさで繭数をコントロール出来る機械だそうです。   

ミヤサカシルクソープ。 遺伝子組換の繭。

絹のたんぱく質フィブロインで肌をしっとり、スベスベにするソープの体験コーナーも。 

 遺伝子組換の繭では、オワンクラゲとの組換では、蛍光色の繭が、

サンゴとの間では、ピンクの繭が、クモとの間では強い糸の繭が出来ているそうです。 

  新用途の開発や、新素材の開発も進んでいる様です。

   

館内では、リニューアルオープンの特別企画展として、

桂由美さんのブライダルシルクファッション展が開かれていました。  

 日本は、和装文化の伸びで世界生糸の1/5の消費国になつているそうですが、

大半は中国、東南アジアからの輸入にたよっているそうです。  

 そんな中、桂由美さんは日本で作るブライダル衣装は日本製の生糸でと、がんばっておられる様です。

奥のカイコふれあいルームは、ちょっと雑然としており何が有るのか良くわかりませんでしたが、

中に入って良く見ると蚕の資料が色々と、生きた蚕も展示されていました。

最後に、まゆちやん工房をチラッと覗いて、博物館を後にします。 

 出る頃には、県外からの団体バスも到着、館内はなかなかの賑わいでした。

谷市内文化・産業遺産見学:
蚕糸公園。

旧岡谷市役所は、製糸家の尾沢福太郎氏(尾沢組)から、岡谷市制施行を記念して寄贈された建物で、

昭和11年に建てられた国登録有形文化財の建物です。 

 前に有る蚕糸公園、その奥には諏訪倉庫が有ったそうです。 

  会長さんの説明を聞きながらバスで移動します。

旧山一林組事務所。

 山一林組は、明治12年創業の製糸所で、明治30年代では岡谷で4番目の規模を誇った製糸所だそうです。 

  事務所の建築は大正10年に建てられたものだそうで、桟瓦葺きの二階建、

壁はレンガタイル張りの建物で、守衛所と合わせて国登録有形文化財になっているそうです。  

  山本茂実の著書・ああ野麦峠にも出てくる様に、昭和2年に女工1300名の参加する、

日本で最初の大規模な労働争議が起きた所だそうで、ストライキは30日におよんだそうです。 守衛所。

  しかしストライキは会社側の強制排除で終結、女工側の惨敗で終わったそうです。

事務所は、今は岡谷絹工房として使われているそうで、工房の方が室内を見せて下さいました。 

 事務所は、工房の機織機が沢山並んでいましたが、天井、リノリウムの床も当時のままで綺麗に残されていました。

 
   
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