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ちょっといっぷく:前山の一里塚  

陽だまりは強烈な暑さ。   日陰を求めて、一里塚で昼食となりました。   まずはビールで乾杯。

食事の後で、先生と会長さんに、初期の中山道と大久保長安の話をしていただきました。 

 ここ、初期の中山道は、家康に見出され大久保忠隣の与力となり、名前も大久保長安と改め、

家康の関東移転、甲斐の国の再建に功績が有り、八王子代官にもなつた長安が、

関東の交通網を整理して、一里塚・宿駅を整備した折に、

江戸への近道として、この道を中山道と指定したのだそうです。 

  この道は、16年ほど中山道として使われていたそうですが、

長安没後は峠越えが二箇所もある険しさ故にか、塩尻峠を越える道が中山道となったそうです。 

 この道は、中山道で無くなっても、伊那米の木曽への移入路、木曽木材の搬出路として使われたそうです。

 長安は関ケ原の戦いの折には、秀忠に従い戦に向かったと言う事なので、

その折にはこの道を通ったのでしょうか。

また豊臣氏が滅んだ後は、その支配下の金・銀山の統括もまかされ、勘定奉行・年寄りにも列せられたそうです。

また無類の女好きで、側女を7080人も抱えておったそうで、

こちらの方は家康が40人ぐらいだつたそうですから、将軍をもしのぐ勢いだったのかもしれません。 

 ここ、前山の一里塚は江戸から60里にあたるそうです。

一里塚の周りには何本かのシダレ栗が植わっていました。
   
シダレ栗が枝垂れるのは、枝が伸びるとその先端だけが枯れてしまい、脇目が伸びて枝垂れていくのだそうです。  

塚ノ元の一里塚  
オミナエシの仲間のオトコエシ。

食事の後は先生に花の名前を教わりながら、一里先の塚ノ元の一里塚をめざして山を下ります。 

 こちらは、日陰もなく暑い下りとなりました。

ススキの花は1時間ぐらいしか付いていないそうです。

アキノウナギツカミ。 ミゾソバ。 似た花で、ママコノシリヌグイと言うのもあるからややっこしい。

アレチマツヨイグサは、今度は呼び名がメマツヨイグサになったとか。

山口の部落の入り口の庚申塔。 脇に素敵な道祖神もありました。

上の窓は、養蚕の気抜きのなごりだとか。   玄関に小野の祭林寺(曹洞宗)の御札がずらりと並んでいました。

ソバも刈り入れ直前のものと、まだ花盛りのものがありました。
 
道祖神・これは古いものだと地元の人が教えてくれました。

中村の辻に有った公会所・昔はお寺の行屋だったそうで、庚申塔が一杯並んでいました。

あまりの暑さで下村に入った所でリタイヤ、アイスクリームの差し入れで一息つきます。 

 塚ノ元の一里塚はバスの中から見学、最後の訪問先の小野神社へと向かいます。 

 それにしても、昔の人の一日の旅の予定は10里だったとか、良く歩いたものだと感心させられます。

信濃国二の宮:小野神社  
右・八幡宮本殿、中央・本殿、左・副本殿。

ここ小野神社には、8年前のマリオ倶楽部第二回に訪れことがある所です。

  同じ境内に祭神の似た小野神社と矢彦神社とならんでいるという神社でした。 

 両神社とも今年は御柱の年で、新しい御柱が建てられていました。 

 ただ、小野神社の御柱は樅の木ではなく赤松だそうで、皮付きのままの柱でした。

まず最初に皆で参拝をすませます。   

小野神社は、東筑摩の総鎮守だったそうで、松本藩主・水野忠直候の庇護があつかったのか、

神紋には水野家の家紋・沢瀉紋が付けられていました。 

池泉回遊式庭園・大正時代に庭師萩原苔山によって造られたものだそうです。  

 夫婦杉。  左の肌の粗いのが雄、右が雌。   神社の社叢は県指定天然記念物。

御垣内には、四棟の建物がありました。  

 これらの建物は、江戸時代初期に、松本藩主・水野忠直候によって寄進されたものだそうで、

県の有形文化財に指定されているそうです。  

小野神社の主祭神は建御名方命だそうで、一人の祭神に本殿と副本殿があるのは、

御柱の年に御遷替が行われる為だそうです。  

 神社は、桓武天皇(奈良時代)の勅によって建てられたというから古い神社です。

参拝の後は、石段の涼しい所をお借りして、先生から神社の説明をしていただきました。 

 ここ小野神社は、信濃一の宮の諏訪大社に次ぐ神社で、岡谷の生糸の関連の人達の寄進も多かったとか。 

拝殿の前には、右近の桜、左近の橘ならぬ、右にソヨゴ、左にカジが植えられていました。 

 このあたりでも、サカキが育たないので、あるのは赤い実のなるソヨゴだそうです。 

 ちなみに、サカキの実は黒い実だそうです。    次に隣のや矢彦神社に移動して、見学します。

信濃国二の宮:矢彦神社

建物としては、矢彦神社の方が見所がある様で、まず神楽殿の石畳に腰掛けて神楽殿の説明をしていただきます。

   神楽殿は、立川流二代目和四郎冨昌の作だそうです。 

 冨昌は彫刻に優れていたそうです。

秋宮の神楽殿も冨昌の作だそうですから、似ているかもしれません。 

  駒ヶ根・光善寺の三重塔、海岸寺の観音堂等我々も何箇所かで、冨昌の作に出会っています。

矢彦神社の境内にも、今年立替られた御柱がありました。  

こちらは、諏訪と同じ樅の木で、皮も綺麗に取られていましたが、冠落としはされて居ませんでした。 

拝殿の彫刻。 神楽殿の後ろには、勅使殿がありました。 

 小野神社の勅使殿は御垣内・拝殿の奥ににありましたが、こちらは拝殿の前にありました。 

 こちらも、冨昌の作だそうです。

奥の拝殿は、秋宮同様、幕府御用の宮大工立川小兵衛に学び、

諏訪立川流の祖となった初代・和四郎富棟の作だそうです。 

 富棟は23歳で角間の十王堂を造り、その後茅野の白岩観音も造ったそうです。 

 秋宮の拝殿を造った時は32歳だったそうで、弟子800人を抱えていたそうです。

梁に彫られた模様は蜜教仏具の金剛杵を示しているそうで、

何処かで先生に教えて頂ましたが、思い出せませんでした。

  矢彦神社の方は本殿ではなく、この三棟が県指定文化財になっている様でした。  

 御神体は、霧訪山になるそうです。

拝殿の後ろに、正殿(大己貴命・事代主命)、副殿(建御名方命・八坂刀売命)、南殿(天香語山命・熟穂屋姫命)

北殿(神倭盤余彦天皇・誉田別天皇)の四棟、奥に明治宮(明治天皇)が祀られているそうです。 

 垣内には、幾棟かの社があり、どれかは定かではありません。 

 南殿の天香語山命は、越後国の開祖神でもあり、越後弥彦神社の祭神ですが、そことも何か関連があるのでしょうか。

  いずれにしろ、神社の形をとったのは欽明天皇(古墳時代)だそうですから、小野神社よりさらに古いことになります。

  矢彦神社は、上伊那郡54ケ村の総鎮守でもあり、皇室の御崇敬も篤く勅使もしばしば訪れたそうです。

   この地は、大己貴命(大国主命)が息子二人を連れて訪れた事もある所であり、

建御名方命が諏訪に入る時、洩矢神との戦が収まるまでしばしとどまっていた所でもあるそうです。

  上伊那、東筑摩の総鎮守がここに集まっているのも面白いところです。

   このあたりは、塩尻市、矢彦神社の所だけ辰野町の飛地だとか。 

今回も盛りだくさんの内容の旅でした。  

帰りは神社のちょっと先の御柱道路を通り、

途中からチロルの森の方へ抜け枝垂れ栗が数十本ある所を見学して戻りました。

 
   
   
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