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境内への道はこの石垣の横を通って入ります。 境内は、ちょっと遅いがシャクナゲが見ごろ。
 

ここ開善寺は、執権北条氏一族で伊賀良荘の地頭の江間氏が鎌倉時代に創建したものだそうで、

当初は開禅寺と言われていたそうです。  

 南北朝時代になって、信濃の守護となった小笠原貞宗が師とあおいだ元僧・清拙正澄を招いて、

名前を開善寺と改めて再興したものだそうです。 

  小笠原流礼法は禅の作法を基に作られたものだそうです。 

 信州の禅寺は塩田平に多い様ですが、開善寺は南信濃では最初の禅寺になるそうです。  

  開善寺は、小笠原氏の菩提寺となったそうで、寺紋も小笠原氏の三階斐でした。

室町時代には幕府から諸山十刹に列せられるほどだったそうですが、後半になつて火災に遭い全焼したそうです。

戦国時代になり、松尾城主・小笠原信貴が美濃の名僧・速伝を招いて再興したそうで、

現在の山門はこの時のものだそうです。 

  その後寺は織田信長の信濃攻めのおりに再度焼失してしまったそうですが、山門だけが残ったものだそうです。 

  本堂等は、江戸時代になってから再建されたものだそうです。  

 山門は、三間楼門で二階建だったそうですが、江戸時代になって老松が倒れて上層部が倒壊、

現在の単層切妻の建物になったそうです。   

それでも十分に重厚な感じが残っています。

山門は国の重要文化財に指定されているそうです。

   

シャクナゲはまだ花もかなり残っていました。

柱は、日本では100年で6mmほど細くなるそうです。  

 山門の造りはまだ質素で、室町の中央での禅宗様式をそのまま伝えているものだそうです。

山門からは、苔むした細い道が本堂へと続いていました。

山門は、扉を入れた形跡がなく未完成だったそうです。

境内中庭の池。  本堂の裏にも方丈庭園があった様です。  本堂。  

 ここ開善寺のある所は、天龍川段丘にあり、県内では最も温暖な地帯だそうで、

近くには御猿堂古墳もあるそうです。 

 境内の横にある、藤園、牡丹園はちょうど花盛り。
  
 天気がよければどっと人出もあるのでしょうがまだまばら、

ちょうどTVの中継もやっていて皆さんさっそく見物客で出演。 

 最後は、隣の畑の野采を売っているお店で、お目当ての品を購入して次の訪問先へと向かいます。

   

文永寺は、当初の予定にはなかった様ですが、先生の推薦で急遽見学する事になりました。 

  先生も1度しか訪れた事が無いそうで、飯田に居られた事のある会員の方の案内で寺に向かいます。 

 道は細く、幾つにも枝別れした道を進みます。 

 最後は会員の方に知り合いの方に携帯電話での案内をお願いして無事に到着出来ました。 

  後で聞くと、どうやら案内して下さったのは、文永寺の御住職だったとか、どうもありがとうございました。

二天門の前で車を降りて、最初に先生お目当ての五輪塔を探します。

門は大きさはそう大きくはありませんが、立派な造りの門でした。 

  最初は仁王門かと思いましたが、中を覗いたら右が増長天、左が多聞天の二天門でした。 

  この二天は、鎌倉時代の文永寺の金堂内の御本尊とともに安置されていた四天王の二つだそうで、

兵火での焼失を免れたものだそうです。 

  この門は、後にこの二天を安置する為に造られたものか、

それとも以前は何かが安置されていたのかはわかりません。 

 この建物も結構古そうです。

石室・五輪塔(知久敦幸)・国重要文化財  
 
五輪塔は、二天門を入ってちょっと行った所にある、民家と田んぼに挟まれた道の脇にありました。  

五輪塔は、飯田の豪族・知久氏の二代目・敦幸が62才の時に建てたものだそうたで、

石室床下の納骨穴を塞ぐ様に据えられていたそうです。 

  五輪塔は、石室と同じ花崗岩でつくられており、鎌倉時代の初期の様式をそなえているものだそうです。  

  脇の杉の木に変わった箱が縛り付けてありました。 

 日本ミツバチの巣箱だそうです。 

 知久氏は、そもそもは諏訪大祝・諏訪敦光の子敦敏が知久沢(箕輪町)に住んだのが始まりで、

その養子に同じく大祝・金刺氏の子供をもらったのが、初代知久信貞だそうで、敦幸は二代目に当たるそうです。

   敦幸は、諏訪氏を中核とした鎌倉武士団・諏訪神党に属していたそうです。

(諏訪神党には、一族ではない滋野氏も入っていたそうです。)  

   そんな事で、敦幸は諏訪大社上社神宮寺に普賢堂や五重塔等を寄進したそうです。 

   残念ながら、それらは明治の廃仏希釈の折に取り壊されてしまい、

寺にあった宝物も当時はあまり価値もわからず、各寺に分散してしまったそうです。

南原山文永寺  
勅使門。
   
鎌倉時代に、この地に疫病が流行したそうです。

疫病消除の為醍醐理性院竜亮権大僧都が勅使として都より派遣され

鎌倉時代の初めから本拠を置いた初代・知久信貞に命じ、

理性院の隆毫阿闍梨を開山とし知久氏の寄進を受けて文永寺は建てられたのだそうです。 

この寺には、信州の他の寺には無い勅使門が有ります。  

  室町時代になって第六世宗詢(知久氏の出)が京都醍醐寺理性院に入り、

和歌が優れていたので後花園天皇の寵愛を受ける様になり、

天皇の指示により大元師修法の祈祷所として大元師堂が建てられたそうです。 

  そして、毎年勅使が都より訪れる様になったそうです。  門はその時に造られたものだとか。 

  このころは本堂、経堂、阿弥陀堂、三重塔、南門、西門、住坊として12坊、鐘楼坊等があったそうです。 

 もしかすると、先ほどの五輪塔のあたりも境内だったのかもしれません。 

  寺は戦国時代になって武田信玄によって焼かれてしまったそうですが、この門は焼け残ったものでしょう。

梵鐘・県宝。   年代は記されていないが、あまりにも古いものなので、戦争にも供出されなかったとか。

乳の数は64個と、108個になる前のもので、形も松原諏訪神社(鎌倉)時代)に似ており、

鎌倉時代に知久氏が寄進したものかもしれぬそうです。 

  鐘突き棒として使われるのはシュロの木だそうです。

勅使の松。

勅使が訪れた時に持って来て植えたとされる黒松(海岸に生える)で、

日本三大銘松にもなつているそうです。  

 幹高は12mだが下枝の長さは14mあるそうです。  

  勅使が植えたとなると樹齢はすでに550年以上たっており、戦火にも負けずに生きてきた事になります。

ヒノキの大木。  実はサッカーボールの形をしています。 

 葉裏の筋は、ヒノキがX、サワラはY形をしているそうです。

 

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