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ネバーランド:  

飯田街道はちょうど雛祭りだそうで、ここにも珍しい泥人形が飾られていました。

  食事どころの隣は、豆腐工場で外から見学も出来ます。

皆さん、休憩時間にお土産の調達をされていました。

庭の排水抗には、黒い溶岩が敷かれていました。  

ここらは1300万年ほど前の古根羽火山があった所だそうですから、溶岩も出るのかもしれません。

    根羽村は459世帯、1259人の村だそうで、林業が主たる生業としているのだそうです。   

やはり、若者が少ない様で若者定住対策やらやつておられる様です。   

また、ここに5年以上定住すると、一丁部の山林と、50本の丸太がもらえるそうです。

 (但し、1丁部の山林の維持には、年間250万ほどかかるそうですが、皆さんいかがですか。)

廣拯山長岳寺:天台宗  

信玄公灰塚供養十三重之塔。

最後に訪れたのは、阿智村(駒場)にある長岳寺です。   

平安時代の伝教大師の開祖という古い寺だそうですが、古い建物はなにも残っていない様です。 

 このお寺は、もう一つの信玄終焉の地として有名になったお寺だそうで、

境内には信玄の灰塚供養塔なるものが建っていました。  

なんでも、昭和に入ってから、佐久岩村田にある竜雲寺

(甲斐源氏・大井氏の菩提寺で信玄が再興した寺、当時の住職は北高禅師)

境内の信玄の五輪塔の骨壷から、遺骨と袈裟輪が出てきて、

その袈裟輪には天正元年412日に信玄は駒場の山中で亡くなったと記されており、

ちょうと長岳寺の近くに信玄の火葬塚といわれていた所があったので、

そこから灰を持ってきて供養塔としたのだそうで、

特にこの寺に記録が有ったというものでは無い様です。  

根羽村の甲陽軍鑑も岩村田の袈裟輪も、信玄の死亡の日は同じの様ですが、場所の表現が違っている様です。

又、この地からは旧満州への開拓者が509人も出ておられるそうで、

この寺の住職・山本慈昭氏は残留孤児らの肉親捜しや、帰国運動に早くから取り組んで

こられたそうで、慰霊の地蔵尊や中国との友好の碑等が建っていました。

かくして、信玄終焉の地をたずねる旅も終わりとなりましたが、帰るころには信玄の涙雨もすっかりあがり、

暖かい日差しが桜の開花をうながしているかの様でした。  

 信玄終焉の地として、記録の残っている所はもう一ケ所、愛知の福田寺にあるそうですが、

寺伝も火事でやけてしまい、今は残っていないそうです。  

 ただ、言い伝えだと信玄の病死により尊体を埋めた日が、他の記録と違い626日となっているそうなので、

49日以後に位牌の一部を埋めたのかもしれません。  

 いずれにしろ、戦国ロマンにひたった一日でした。

 
 
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