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第五十八回自然と歴史探訪根羽村を訪ねて

 

 
信玄塚:根羽村

今回は、風林火山シリーズの最後をかざるべく、武田信玄終焉の地として

横山先生も確信を持たれた、根羽村を訪ねます。   

出発時には、マリオ倶楽部には珍しく、バスを濡らす小雨が降っていました。   

先生曰く、信玄の涙雨だそうです。   

 信玄の亡くなった所としては、NHKドラマにもある様に、駒場(阿智村)の山中という説がある様ですが、

今日はそれに異説を唱えられ諸説に対する解決編という書まで出された、

根羽村にお住まいの高柳正治氏が「武田信玄終焉地考」の講義をして下さるとかで

期待いっぱいの出発となりました。    

車か飯田のインターを降りた所で、マリオ倶楽部会員の方のお友達だという、

松月さんの銘菓を差し入れに頂戴し、一路国道153号線を根羽村へと向かいます。  

 山道に入ると、アブラチャン、ダンコウバイの黄色い春の花がみられました。

(今頃咲く黄色い花では、クロモジもあるそうです。)   

 標高1191mの冶部坂峠の近くのスキー場は、人工雪かもしれませんがまだゲレンデに雪が残っており、

滑っているスキーヤーも見かけました。  

 途中、七曲の坂で車の焼ける匂いがするとかで、ちょっと点検の休みをとりましたが、

信玄塚にはなんとか約束の時間に到着できました。  

 しかし、現地にはすでに、今日の講師の高柳さんが待っておられました。  

挨拶がすんだところで早速、講義をして頂きます。  

 旧の三州街道は下に見える道だそうで、この道は中馬街道しも言われ、

三河から塩尻に続く太平洋側からの塩の道だったそうです。

(三州とは、信州、遠州と何かなと思っていましたが、後で調べたらどうやら三河の事の様です。)  

 また奥に見える山の所には、県境の杣路峠があってそこにある狼煙台からの信号が、

4時間後には甲斐の武田信玄まで届いたそうです。 

この辺りは信玄の病を悲しんで旗を横にしたので「横旗」今は横畑かな、とよばれているそうです。 

 信玄塚と呼ばれるのは、今は国道の下でこの大きな壁画のあたりにあったのでそうです。 

 又、後の長篠の戦いでは15,000人以上の人が手負いに合いここえ戻った者もあったそうです。

(愛知県にある信玄塚は、武田信玄ではなく長篠の戦いでの戦死者を弔ったものだそうです。)   

  足利義昭の信長討伐の令に応じた信玄は、三方ケ原の戦いで織田・徳川の連合軍をやぶり

遠州刑部の城で越年、天正元年にはさらに京を目指して、野田城を攻略して長篠城に入った

ところで、遠州の23月の空っ風が持病の肺炎にひびいたのか、

病状悪化して鳳来寺で療養したが思わしくなく危篤状態で、

わずかな手勢で根羽村の信玄塚の近くにあった万正寺まで来た所で亡くなったのだそうです。  

 時に天正元年、412日、53歳だったそうです。  

京に居た父信虎は、信玄の死後信州に戻り、49日を過ぎたところで遺体をダビにふして、

位牌の一部を京へ上る信玄の意志を汲んで、京都の勝持寺(かな?)へ送ったのだそうです。   

信玄には、何かの小説で読んだ、徳川勢の鉄砲ではなく前からの持病があったんですね。

信玄が埋葬されたとされる信玄塚は見れませんでしたが、看板の横を登った所に武田神社がありました。

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