4."月下の妖怪"
「奈津子さん!」
司書室に入るなり、私は声を上げて奈津子さんに詰め寄った。
図書館の大きさに比べ、司書室の中は割と狭かったが、狭いなりにきちんと整頓されて―――って、今はそんなことはどうでもいい。「お前がここに来るなんて珍しい―――というか初めてじゃないか? ちょっと待て、今コーヒーを・・・」
前の人が残したのか、飲みかけのコーヒーを備え付けの流し場に捨て、軽く洗いながら奈津子さんが言う。流し場の隣の台には、アルコールランプ付きのコーヒーメーカーがコポコポと音を立て、香ばしい香りを立てていた。
「いやコーヒーなんてどうでもいいから! 奈津子さんに聞きたいことがあるんだけど!」
そのために、わざわざカウンセリングの列に並んできたんだ。
「なにを焦っているのか知らんけど、時間はまだある―――ほら、そこに座れ」
そう言って、奈津子さんはコーヒーの入ったカップを二つ手にして、入り口近くの二人がけのテーブルに座る。私もそれに習うと、コーヒーが目の前に差し出された。
「飲め。紅茶派だっていうならティーパックしかないが」
「・・・いただきます」喉は渇いていたので、とりあえずカップに口を付ける。この司書室にカウンセリング目的で入った事は無かったが、コーヒーは何度も御馳走になった。正直、私はコーヒーの善し悪しなんてよく解らないけれど、奈津子さんののコーヒーは嫌いじゃない。
軽く喉を湿らせる程度にコーヒーを飲むと、その対面で奈津子さんも同じように飲んでいた。私が司書室に入るまで、十人近く並んでいたが、その十人ともこうして同じようにコーヒーを飲み交わしていたはずだ。信じられないことだが、奈津子さんはコーヒーを日にリットル単位で飲む。なんでも昔はヘビースモーカーだったけど、禁煙の際に気分を紛らわすためにコーヒーを飲んでいたらハマってしまったとか。煙草を吸うのとコーヒーをガバ飲みするの、どっちも健康に悪いと思うのは私だけか?「・・・・・・なるほど。それで、雪菜にフラれたと」
顛末を話し終えると、奈津子さんはぽつりと呟いた。
「逃げられただけです」
「似たようなもんだろう―――それで?」
「それから雪菜のこと探し回ったんですが、どこにも見あたらなくて」昼休みも残り僅かだったが、ギリギリまで粘って一学年の全教室を見回したが雪菜の姿は見つからなかった。放課後になって、下駄箱を探してみたが “龍皇雪菜” のネームプレートが付いた靴箱も見つからなかった。
「奈津子さんは雪菜のこと知ってるんでしょう? あの子が今どこにいるか、知らない?」
「・・・・・・」私の問いに、奈津子さんはコーヒーを飲み干してから―――首を横に振る。
「知らないの?」
「知ってる。でもお前に教えるわけにはいかない」
「どうして!」
「・・・雪菜が逃げた理由、解ってるな?」問い返され、私は一瞬口ごもってから答える。
「・・・私が、人間だから? 妖怪じゃなかったから?」
「そうだ」
「でも、それって雪菜の思いこみでしょ! 人間とは友達になれないだなんて、雪菜の勝手な思いこみじゃない!」
「そうだ」私の言葉に奈津子さんは頷いてから続ける。
「けれど、誰もがお前みたいに強いってわけじゃないってことだ」
「はあ?」なにそれ。強いとか弱いとか、今そんな話してないじゃんか。私は話をはぐらかされたと思って奈津子さんを睨むと、彼女は席を立つ。
「奈津子さん!」
「コーヒーのお代わり、要るか?」
「要りません!」そうか、と短く呟いて、彼女はカップにコーヒーを注いで戻ってくると、コーヒーをひとすすりして一息つく。・・・このマイペース朴念仁が。
「お前はみつきに拒絶されてもすぐに立ち直れただろ?」
いきなり桜坂のことを言われて、私は面食らった。
「別に立ち直っちゃいませんよ。今でも気にしてるし、あいつに無視されるたびにイラっとするし」
「そういうの、立ち直ってるっていうんだ」くっくっく、と奈津子さんは珍しく可笑しそうに笑った―――が、珍しいレア顔はすぐに引っ込めて、いつもの無愛想な真顔に戻る。
「雪菜は親友から拒絶されたことからまだ立ち直ってない」
「それと私に居場所を教えないことと、どんな繋がりがあるって言うんですか!」
「雪菜と会ってどうするつもりだ?」どうする? そんなことは決まってる!
「友達になる!」
「・・・だからそれが駄目なんだ」
「だからどうして!」
「今までの話で解らないか? ―――そうか、お前には解らないか」ムカ。
なんか馬鹿にされた気がして、私は勢いよく席を立つ。「コーヒーごちそうさまでした! それじゃ!」
「おい? どこに行く!?」
「これ以上奈津子さんに聞いても無駄だって解りましたから、あとは自分で探します!」そう言って、私は司書室を出る。
「待て! だから雪菜はトラ―――」
出る間際、奈津子さんがなにか言いかけたが、私は無視して勢いよく扉を閉める。バン、と大きな音が立ち、カウンセリング待ちの生徒達―――いや、図書館中の生徒達が驚いた様子で私に注目したが、私は無視して足早に図書館を飛び出した―――
******
それから私は雪菜を探し求めた。
休み時間になれば学校中を駆け回り、昼休みになれば屋上で一人でお弁当を食べながら、雪菜がひょっこり顔を出すのを期待した。雪菜が居ないから、すぐに屋上から締め出されるかもと思ったが、そんなことはなかった。もしかしたら屋上にある監視カメラはダミーなのかも知れない。
けれども一週間経っても雪菜の姿は見えず、 “廊下の妖怪” が出たという話も聞かない。あれから図書館には行ってない。奈津子さんと顔を合わせ辛かったし、行っても雪菜の事は何一つ教えてくれないだろう。
七月も中旬となり、夏休み直前で連休の話題が頻繁に話に出る頃には、私は諦めはじめていた―――
******
「・・・やっぱり、妖怪と人間は相容れないってことなのかなー」
はあ、と私は嘆息する。
昼休み。今日は屋上には行かなかった。なんとなく気分が重くて行く気がしない。教室でお弁当を食べていたが、あまり食欲もわかずに半分以上残して終わりにした。その後、私はぼーっと文庫本を読んでいた。もちろん “月下の妖怪” である(私は小説の類はこれしか持っていない)。この小説の筋書きも、最後はゲッカとセツナ―――つまり妖怪と人間は死に別れる展開になる。ゲッカは妖怪であることを隠してセツナと一緒に暮していたが、それが村の人間にばれてしまう。妖怪は退治するべきと言い出した村人達に、セツナはゲッカと一緒に逃げようと言うが、ゲッカは本性を出してセツナに襲いかかった―――ところを、都から来た侍によって斬り殺されてしまう。友人に裏切られ、傷心のセツナはそのまま侍に引き取られ、数年後結ばれることになる。結婚式の前夜、セツナの目の前に霊体となったゲッカが現れ、祝福するように微笑みかける。それを見たセツナは、そこでようやく友人の真意を知る。ゲッカはセツナも自分と同じように “妖怪” として忌み嫌われないように襲って見せたのだと―――
私にはゲッカの気持ちが良く解る。私だって自分の髪のせいで一緒にいる誰かが変な目で見られたら哀しいし、もしも私がゲッカの立場だったら似たような事をしたと思う。「今日は屋上に行かないの?」
ぼーっとしたまま小説を読んでいると、いきなり声がかけられた。高崎とゆかいな仲間達だ。面倒だったので、私はそちらには視線も向けずに無視する。が、構わずに高崎は話しかけてくる。いや嘲笑してくる。
「最近さあ、あの “妖怪” 姿を見せないけどどうかしたの? ケンカでもした?」
イラッとする。明らかにこちらを挑発している口調だ―――いつもだったら軽く受け流すところだけど、今日はどうにもムカついて仕方がない。私は文庫本を閉じると、高崎の方を見上げた。
「だったらどうなの?」
「べっつにー。あたしたちにはカンケーないしー―――あれ、その本・・・」高崎は私の本を見て気がついたようにタイトルを読み上げる。
「ゲッカノヨウカイ? あはっ、あんた読む本まで “妖怪” なんだ」
高崎の仲間も「妖怪が妖怪の本読んでるー」と可笑しそうに笑う。頭にカッと血が昇る。思わず立ち上がりかけて―――なんとか自制。いけないいけない、いちいち反応したら向こうを楽しませるだけだ。
「ねえ、ちょっと見せてよ」
と、私が答える前に、高崎は文庫本をひったくる。そのままパラパラとページを適当にめくって―――不意に背後に向かって放り捨てた。
「なにこれ、つまんなーい」
うん、キレた。
言って置くけどケンカ売ったのはそっちが先だからな、と私は高崎ズが哄笑を上げる中、立ち上がろうとして―――「―――少し、よろしいかしら?」
哄笑の中に透き通るような声が分け入ってくる。高崎ズは笑いを止め、声の主を振り返った。
「な・・・なによ、桜坂・・・さん」
やや狼狽えた声で高崎がかすれた声で呟く。他の仲間も、萎縮して唐突に声をかけてきた桜坂を凝視していた。私はあんまり気にならないけど、やはり “桜坂” の名は特別らしい。
桜坂が出てきたならこの場はお終いだ。ケンカを買う直前だったので少し気分が収まらないが、無理矢理抑え込んで私は席に着き直す―――と、その目の前、机の上に文庫本が差し出された。それはさっき高崎に放り捨てられた “月下の妖怪” で―――「え?」
反射的に顔を上げてみれば、そこには桜坂の姿があった。常に無視していた瞳は、まっすぐに私へ向けられている。
「少し、よろしいかしら?」
先程と同じ言葉―――って!?
「わ・・・私っ!?」
思わず狼狽える。だって春休みから三ヶ月―――もうすぐ四ヶ月になるか。その間、桜坂はずっと私を居ないものとして無視し続けてきた。その桜坂が、文庫本を拾ってくれただけではなく、私へ声をかけてきたなんて、実際に目の前で起こっても信じがたい。それは周囲も同様で、クラスメイト達はざわめき私と桜坂に注目していた。
「話があるのですけれど、よろしいかしら?」
再三の問いかけに、私は無言でこくこくと頷く。気圧されたわけではないが、突然の事に呆然としていた。そんな私に、桜坂は少し眉をひそめたが、すぐに気を取り直して尋ねてくる。
「雪菜さんの事、諦めたのですか?」
「・・・!」雪菜の名前を出され、どきりとする。
・・・そうか。雪菜は桜坂のことを知っていた。それなら桜坂が知っていてもおかしくはない・・・けど。「アンタには関係ないでしょ」
「ええ、関係ありません。ただの好奇心です。・・・雪菜さんをこのまま放っておくつもりですか?」久しぶりに声をかけてきたと思ったら、なんでそんなことを言われなきゃならないんだ。苛つきながら私は桜坂から視線を反らす。いつも無視されてるお返しに、今日は私の方が無視してやる―――そう思ったんだけど、続く桜坂の言葉にカチンと来た。
「貴女なら雪菜さんの “友達” になれると思ったのですが、私の買いかぶりでしたか」
「なに、それ」高崎にケンカ売られた時の怒りが再燃したように、私は感情を抑えきれずに再び桜坂を振り向いて、睨付ける。ずっと無視して来たくせに、何を “買いかぶって” いたって!? 私と雪菜が友達になろうとなるまいと、 “元” 友達の桜坂には関係ない! 大体―――
「人の気も知らないで! アイツも・・・アンタだって、先に絶交してきたのはそっちでしょうが!」
「・・・・・・」
「どうせアンタ達は最初っから私のことを友達だなんて思っちゃいなかったんでしょ! 髪が白いヘンなヤツだからお嬢様の気まぐれな好奇心で近づいてきただけなんでしょっ!」そんなこと、私は考えても居なかった。けれど激情任せに口から飛び出した言葉は、妙に説得力があるような気がした。結局、友達だと思い込んでいたのは私の方だけ。桜坂も、雪菜も、ただの気まぐれで私に付き合っていただけ―――そう思うと、自然と目元がじんわりと熱くなって視線を落とす。泣きそうになった顔を、桜坂なんかに見られたくなかった。
落とした視線がぼやける―――寸前、見えたものがあった。桜坂の手。それは何かの感情を抑え込むように強く強く握られていて、細かく震えていた。「今の・・・言葉は本気ですか・・・!」
頭の上から降りてきた桜坂の言葉は、いつも通り―――を、装っていた。けれどほんの少しだけ震えていて、私は思わず目元を拭い、視線を見上げる。
「貴女こそ、私や雪菜さんがどんな思いをしているか・・・」
桜坂は厳しい瞳で私を見下ろし、最後まで言葉を綴らずに口を閉じた。それを見て、いつかも聞いたことのある言葉が耳の奥に蘇る。
―――ならば君は私の気持ちがわかるかね?
あの時と同じだ。私は自分の感情を優先して、相手の気持ちを解ろうともしていない。もしも母がこんな私を見たとしたら、母と最後に会話した時のように私を叱ってくれるのだろう。
私が呆然としていると予鈴が鳴り響く。見れば、私が呆けている間に桜坂は自分の席へ戻っていた。まるでもう話は終わりだと言わんばかりに、私の方を見向きもしない。「・・・・・・」
私は席を立つと、そのまま教室の入り口へ向かう―――と、丁度担任が入ってくるところだった。そう言えば次の教科担当だった気がする。彼女は私に気がつくと目を剥いて驚いたように怒鳴る。
「な、なんですか貴女! 席に―――」
「すいません! 気分悪いので早退します!」担任の言葉を遮るように怒鳴り返し、そのまま教室を出ようとする―――ところに背中の方から「お待ちなさい」と、呼び止める声が聞こえた。
今日は良く話しかけてくるなあと思いながら振り向けば、桜坂が立ち上がって私の方を見つめている。「彼女が何処にいるか、教えて差し上げましょうか?」
その言葉に、私は笑いながら首を横に振る。
「いらないっ。だってあの子は私の友達だから!」
理由になっていないような気がしたけれど、そんな気分だった。私だけの力で彼女を見つけ出したいとそう思った。―――けど、桜坂のその言葉はとても、すごく嬉しかった。だから。
「ありがとっ、桜坂」
そう言い残して私は教室を飛び出す。
出る間際、桜坂は私に向かって微笑み返してくれたような―――そんな、気がした。
******
雪菜から貰った鍵を使い、屋上の扉を開ける。キィィ・・・と軋んだ音を立て、鋼鉄の重い扉は開かれる。屋上に出る(・・・やっぱり校舎から屋上に移動する時は “出る” で、反対が “入る” なんだろーか)。扉を閉めて周囲を見回すが、そこにはやっぱり誰もいない。数台の監視カメラが無機質なレンズを屋上の至る所に向けているだけだ。
「・・・・・・」
嘆息して、しかし私はそのまま立ち去らずに進み出た。いつも雪菜と一緒にお昼を食べていた場所へ座り込む。そこは丁度給水塔の影に当たる場所で、最初は屋上の縁で食べていたけれど、段々と日差しが強くなってきたから少しでも影のある場所に移動していたのだ。私の白い肌は他の人よりも日焼けに弱い、それを雪菜が気遣ってくれたからだ。
馬鹿だ、と思う。それはさっき自分が言ってしまった言葉に対する想い。雪菜も―――それから桜坂も、どんなに優しくて、どんなに私のことを気遣ってくれていたかということを、私は忘れてしまっていた。絶交されたのはショックだったけど、それなりの理由があるはずだ。そう思ったからこそ、私は雪菜を探し続けていたんじゃなかったのか。「雪菜・・・」
私は “月下の妖怪” の文庫本を持つ指に力を込める。早退するといって飛び出したくせに登校用の鞄は置いてきてしまった。代わりと言うわけではないが、何故かこの本だけは持って来ていた。
私は文庫本を手にしたまま、給水塔に背を預けて座り続ける。視線の先にはこちらを真っ直ぐに見つめる監視カメラのレンズがある。監視カメラもいつの間にか慣れてしまっていた。最初のうちはやはり落ち着かず、せめてカメラの死角でお弁当を食べようと提案したのだが、その度に何故か雪菜は表情を暗くするので、最終的には私が折れた。この監視カメラ、学園の警備室に繋がっているはずだが、今まで―――雪菜と絶交してからも、私は警備室に呼びだされたことはない。今だって本来なら警備員がすっ飛んで来なければおかしいと思うのだが、その様子はなかった。やっぱりダミーなのだろう。「・・・・・・」
そんなことを考えながら、じっと私は待ち続けた。
待っていても雪菜が姿を現わすという根拠はない―――が、学園内の探せる場所は探してしまった。ならば来るのを待つしかない。ここは雪菜のお気に入りの場所だ。待っていればいつかは来るかも知れない。それが何時になるのか解らないけれど、一日中でも一晩中でも、何日でも待ってやる!
******
「・・・ん?」
―――気がつくと、すっかり暗くなっていた。どうやらいつの間にか眠り込んでいたらしい。七月とはいえ、この辺りは夜中になれば随分と涼しく、夜風に少し身を震わせる。妙に気怠い。寝起きは良い方のつもりだが、変なところで寝入ったせいか、どうにも身体が重く感じる。ぼんやりとした頭で今は何時頃だろうと考える。生憎と、私は時計の類を身に着けていなかった。携帯電話は原則的に学校にいる時は携帯禁止なので寮に起きっぱなしだ。陽は完全に沈み、周囲は宵闇に包まれている。屋上には灯りが無く、けれどなんとなく辺りの様子が解るのは。
「あ」
なんとなく見上げた先に、真白く輝くものモノがあった。夜空に真円を描き輝く満月。その月光が私を含む屋上を照らし出している。
そう言えば、雪菜と初めて出会った時も、こんな満月の夜だった。もう一ヶ月も、というべきか、それともまだ一ヶ月も、と言うべきか。私は悩みながらも月を眺めたまま立ち上がる。
物語の冒頭で “ゲッカ” は月を見上げていた。その理由は “妖怪だから” らしいが、そんなものは理由になってない。妖怪だろうと人間だろうと、こうして月を眺めることはある。それならば―――・・・キィ・・・
軋んだ音が鳴った。
不意に響いたその音に思考を止めながらも、私は月を見上げたまま動かない。
待つ。
もうしばらくだけ。あとほんの少しだけ私は待ち続ける。小さな、音として聞こえるか聞こえないくらいの小さな足音が近づいてくるのを感じつつ、それでも私は月を見上げたまま待ち続けた。やがて足音は止まり、そして。「・・・何を、しているんですか?」
それは、探し求めていた言葉。
私はゆっくりと視線を降ろし、かけてきた声の主を振り返る。穏やかな月光に照らし出され、そこにいたのはこの学園の “妖怪” 。「月を眺めながら待っていたんだよ―――雪菜」
とても久しぶりに、私は彼女の名前を呼んだ。
「待っていた・・・って、私が来なかったらどうするつもりだったんですか・・・?」
返してくる声は震えていた。怒っているのかな? とも思ったけど、少し違うような気もする。私は雪菜に近づこうと、一歩踏み出す―――が、雪菜はそれに激しく反応して、二歩後ずさる。それを見て私はそれ以上踏み出さず、立ちつくす。
「来るまで待つつもりだった」
「どうして・・・?」
「それはこっちの台詞だよ。雪菜が妖怪で私が人間だからって、どうして絶交されなきゃいけないのか私には解らない」
「それは―――・・・」雪菜は答えかけて、口をつぐむ。しばらく待ったが何も言い出す気配がないので、私から言葉を放つ。
「もしかして、私と同じなのかな?」
―――なんとなしに、私は自分の髪の毛をかきあげる。ずっとずっと考えていた。雪菜が私を拒絶した理由。思いついたのは私が最初雪菜を拒んだように―――或いは “ゲッカ” がセツナに襲いかかったのと似たような理由。
「雪菜が “妖怪” だから、私までそのことに嫌な目に遭わせたくなくてそれで―――」
「違います!」それは悲痛な叫びだった。雪菜の顔がキラキラと月の光に煌めく―――のは、その両目からぼろぼろと涙を零しているからだ。私は思わず困惑する。推測を否定されたことだけじゃなく、どうして雪菜がそんな風に泣いているのか解らない。
「わたっ、私はっ、貴女みたいに優しくない・・・っ」
優しい?
別に私は優しいなんてつもりはないんだけどなあと思いつつ、一歩だけ雪菜に近づく―――瞬間。「来ないでくださいっ!」
後ずさることはなかったが、はっきりとした拒絶の言葉に立ち止まる。
それ以上踏み出せなかったのは、拒絶されたことも理由の一つだけど、それ以上に雪菜が私に対して怖がっていたからだ。さっきから声が震えているように感じたのも、怒りのためではなく怯えのためなのだろう。けれど、なんで怯えられているのかが解らない。雪菜は私が “人間” だから離れたはずだ。人間が妖怪を怖がるなら解るけれど、妖怪が人間を恐怖するというのはいまいちピンと来ない。「ねえ、私何かしたかな? 雪菜をそんな風に怖がらせるようなこと、何かしたかな?」
詰問にならないように、なるべく優しく尋ねてみる。すると雪菜は首を横に振ると、絞り出すように怯えた声を漏らす。
「違い、ます。貴女は、なにも悪くない・・・」
「ならどうして?」しばしの沈黙。
やがて、雪菜は小さく「怖いんです」と呟いた。「怖い・・・です。友達が―――人間のお友達が、仲良くなって、でも私は “妖怪” だからまた拒まれるんじゃないかって・・・」
雪菜の涙は先程よりは少し治まっていたけれど、それでもまだ少しずつ零しながら彼女は独白する。
「拒まれて、それでまた傷つくのが怖いんです・・・私は」
ぁぅ・・・っ、と小さく呻いて、涙に濡れた目で私をじっと見る。
「私は、臆病で、だから、自分勝手に、あ、貴女の気持ちも、考えずに拒んで・・・でも、どうしようもなくて・・・!」
―――ああ、ようやく解った。雪菜の気持ち。ついでにこの前、奈津子さんが言おうとした事も理解する。早い話、雪菜は “人間の友達” に対してトラウマになってるんだ。
「・・・雪菜は、まだ私と友達になりたい?」
とても大切な質問を私はした。もしもこれで「いいえ」と言われたら、それこそ私にはどうしようもない。
しかし雪菜は少し驚いたように私を見た後、ゆっくりと頷いて―――すぐに首を横に振る。「でも、無理です。貴女はそんな人じゃないって解っていても、でも私は・・・」
「なら話は簡単だね」
「え・・・?」きょとん、とする雪菜に私は笑いかける。雪菜は “人間の友達” に対してトラウマを持っている。だから最初 “妖怪” だと思った私に対しては、普通に友達になれた―――ならばどうすればいいか。そんなもの、考えるまでもないくらい簡単な話だ。
「じゃあ、私も “妖怪” になる」
「えっ?」
「雪菜が “廊下の妖怪” なら、私は “月下の妖怪” のゲッカになる」私が言うと、しかし雪菜は「意味が解らない」とでも言いたげに、泣くのも忘れて呆けたままだ。うん、私も自分で言っててセルフツッコミしたい気分だけど、ここはノリで押し通す!
私は腰を曲げ、雪菜に対してうやうやしく一礼。「私が “妖怪” になったら友達になってくれますか?」
芝居がかった口調で尋ねると、そこでようやく雪菜はハッとして慌てて首を横に振った。
「そんな、駄目です!」
うん、まあ駄目かなあ。大体、妖怪になるにはどうしたらいいかなんて解らないし―――と、私の中の冷静な部分が告げてくるがとりあえず無視して私は一歩踏み出す。一歩近づいてきた私を見て、雪菜はビクッと身を震わせたが、逃げようとはしなかった。代わりに。
「だ、駄目です! “妖怪” になっても良いことなんて何もありません。貴女が傷つくだけです!」
・・・あれ、ツッコミ所はそっち? てっきり「そう簡単に妖怪なんかになれるかーい、びしっ(←裏拳ツッコミ)」的なこと言われるかと思ったけど。もしかしたら妖怪になるのは割と簡単だったりするのかも知れない、とか思いつつ、私はさらに一歩踏み出す。
「良い事はあるよ」
言いながら一歩。
「雪菜と友達になれる」
一歩。
「雪菜と友達になれるなら、私はどんなに傷ついたって構わない」
また一歩。
「―――ていうか、元々 “妖怪” みたいなもんだしね」
白い髪、白い肌。実際にこのせいで何度も “妖怪” 扱いされてきた。だから今更傷つく事なんて何も無い―――ううん。 “妖怪” 呼ばわりされることよりも、雪菜と友達になれない方が一億倍嫌だ!
心の中で再確認しつつもう一歩―――と、そこでしばらく口を閉ざしていた雪菜が怒ったように怯えたように―――不安を吐き出すように叫ぶ。「どうして・・・? どうしてそこまで私と友達になりたいと思ってくれるんですか!?」
「雪菜が友達になってくれようとしたから」即答。一ミリ秒も考える必要もない簡単すぎる問いかけだ。髪と肌のせいで、私の第一印象というのは限りなく最悪だ。最初から私の様相を受け入れてくれたのは、片手の指で数えられるほどしかいない。雪菜もその一人で、だから私は―――
「私のことを受け入れてくれた人と、私はずっと一緒にいたい。離れるにしたって納得してからお別れしたい!」
思わず叫んで、ふと頭に浮かんだのは桜坂の事だ。ああそうか、と不意に気づく。浩一郎氏が亡くなり、桜坂とも絶交して、私がこの学園に居る理由はもう無いはずだった。それなのにまだ留まっているのはきっと、まだ桜坂とのことを私が納得していないからなんだろう。
「雪菜が私のことを嫌で嫌いで、どうしようもなく一緒にいたくないって言うなら私は諦める。けど、私が “人間” だからってだけの理由なら、私は “妖怪” になってでも雪菜と友達になりたい!」
叫んで、私は大きく一歩前に出て―――そのまま、雪菜の左手を掴んだ。
「あっ・・・」
「ようやく、捕まえられた」ふう、と吐息する。雪菜の手はひんやりとしていて気持ちよかった。「離してください」と雪菜は身じろぎするが、私はそれほど強く掴んでいない。振り払おうとすれば、簡単に振り払うことが出来るはずだった。だから私はもう一方の手を差し出す。
「雪菜は私のこと嫌い?」
「・・・・・・・・・」
「もしも雪菜が私のことを嫌いじゃなくて、もう一度友達になってくれるなら、この手を握って」
「そんなこと言われても・・・」私の言葉に雪菜は俯いてしまう。でも私は出した手を引っ込めるつもりはなかった。雪菜の手を掴んだ右手を振り払われない限り、ずっと左手を出し続けるつもりで―――と、決心した瞬間、雪菜の手が私の手を握る。意外に早く掴まれた手に、私は拍子抜けして―――気でも抜けたのか、不意に目眩がした。あれ? と思った次の瞬間、私は雪菜に抱きついていた。あまりにも嬉しくて思わず抱きついちゃったのかー、とかなんかぼんやりする頭で考え、雪菜の小さな身体を抱きしめようとする―――けれど、妙に力が入らない。
「しっかりしてください!」
さっきまでの不安や哀しみなど微塵もない、雪菜の真剣な声が耳に届いた。すぐ近くで叫ばれているはずのその声は、何故か妙に遠くに聞こえる。私は何かを答えようとして口を開いて―――だけど、何も言えなかった。なんか妙に気分が悪い。目の前がぐるぐる回ってて、吐きそうで、意識が遠く―――・・・。
******
ぼーっとする。
熱いような寒いような変な感覚。
目を開いているつもりなんだけど、周囲の状況が把握出来ない。辛うじて、いつの間にか私は自室のベッドに寝かされているというだけは解る。「世話が焼けるにも程がありますね」
聞き覚えのある、呆れたような声が聞こえた。みつきの声。それを聞いて、私はこれが夢だと理解する。みつきが私の部屋に居るはずがないからだ。
「そんなに怒らないでください。彼女は私のために、ずっと屋上に居たんですから」
「ええ、だから雪菜さんの事も含めて言っているのです。世話が焼ける、と」
「う・・・ご、ごめんなさい」あはは、雪菜がみつきに怒られてる。しかも私の部屋で。それだけでなんか嬉しくなる。ついこの前までは、こんなこと夢でも有り得ない状況だったから。
「・・・あら。変な顔をして笑っていますね。まさか目を覚ましたとか?」
変な顔とは酷いなあ、そう想いながら私は身を起こそうとして―――すっ、と身体から力が抜けていく。みつき達の声も何処か遠くなっていく。目を覚ますのかもしれない。こんな夢はそうそう見られないだろうし、残念だなあと思いながら、私の意識は再び暗転した―――
******
「ん・・・?」
目を覚ます―――と、そこは自分の部屋のベッドだった。しかも窓にかかるカーテンの隙間からは朝の光が漏れて・・・てぇっ!?
「え!? あれ?! なんで私―――」
勢いよく身を起こす―――とたん、頭痛が走る。てゆーか気持ち悪い・・・。
「ゲッカさん!」
ベッドの上で吐き気に耐えていると、雪菜が駆け寄ってきた。手には水を注いだコップを持っている。私はそれを受け取り、水を飲み干して一息ついた。
「はぁ・・・ありがと、雪菜」
「いえ。おかわりは要りますか?」
「ん」私は雪菜に空になったグラスを差し出す。それを持って、雪菜は台所に水を汲みに行ってくれた。身体が妙に熱くてだるい。どうやら風邪でもひいてしまったらしい。そういや昨日(昨日、で合ってるよね? まさか一日以上寝込んでいたとか考えたくない)はなんか朝からだるくて食欲がなかった。てっきり、雪菜を見つけられなくて気落ちしているだけだと思っていたんだけど。
「はい、どうぞ」
「ん」まともに答えるのも億劫だった。私は雪菜からグラスを受け取ると、水を半分ほど飲み干す。すると雪菜が苦笑して言った。
「もう、本当にびっくりしましたよ。ゲッカさんの手が妙に熱いと思ったら、突然意識を失って・・・」
「えっと・・・ごめん。雪菜が部屋まで運んでくれたんだ?」
「はい―――あ、私一人じゃないんですけど」まあ、私よりも小さい雪菜が一人で運ぶのには無茶がある。警備か救護の人にでも手伝って貰ったんだろう、なんて考えていると、雪菜の手が私の額に添えられる。
「熱は・・・大分下がったようですが、まだ少しありますね。今日の所は病欠の連絡をしておきますから、ゆっくり休んでください。あと、台所におじやが出来てますけど・・・」
「ん・・・ちょっとまだ、食欲がわかないかな」
「わかりました。それなら後で食べてあげてくださいね」そう言って雪菜は立ち上がり、ぺこりと一礼。
「それでは私はこれで」
「あ・・・」行っちゃうんだ。
残念だけど仕方ない、一晩看病してくれただけでも感謝しなきゃならないのに、これ以上を望むのはただの我儘だ。―――左手が疼く。屋上でこの手をとってくれたのは、単に私を心配してくれただけ。結局、最後の最後で友達に戻るチャンスを逃してしまった。
悔しくて、哀しくて、寂しく思いながらも、私は無理矢理笑みを作る。「悪かったね。色々と世話をかけちゃって」
私がそう言うと、玄関に向かおうとした雪菜の動きが止まる。それから何故かぎこちない動作で私を振り返る―――おや、なんか顔が赤い?
「べっ、別に大したことはありません。おっ、おともっ、お友達なら当然ですっ!」
叫びを絞り出すようにしてそれだけ言うと、赤かった顔を一気に真っ赤にして「それではっ!」と勢いよく部屋を飛び出す。バタン、と玄関の扉が閉まる音を聞いて、私は手にしたグラスの水を全部飲み干すと、ベッドの脇に置いて。
「・・・今の、聞き間違いじゃないよね」
気が抜けた。力も抜ける。ぽすん、と枕に倒れ込むように寝っ転がって、抑えきれない笑みを浮かべつつ眠りに落ちた―――