1."私の日常"

 

 目が覚めた。
 ベッドから身を起こし、すぐ近くのカーテンを開く―――と、眩しい朝の光が部屋の中を明るく照らす。
 朝の光を浴びたまま、ベッドの上で少しぼんやりする。
 気怠い。
 割と朝は強い方で、いつもは起きてから朝の光を浴びれば完全に目が覚めるんだけど。
 今朝はとても眠い―――というのも、昨晩はうっかりと夜更かししてしまったからだ。
 時計を見れば、いつも起きる時間だった。時間通りに起きれた自分を偉いと褒めつつ、ベッドからおりると眠い頭を軽く振って、洗面所へ向かう―――と、寒気を感じてくしゃみを一つ。

「う〜・・・裸で寝るのはまだちょっと早かったかな」

 鼻をこすりながら、私はベッド脇にたたんで置いた下着を身に着け、ついでに制服も着る。
 今はもう6月の中頃。高校生になって早いものでもう二ヶ月が経過した。この学生寮に移り住んでからは二年近くだなあ・・・なんて、感慨に耽りながら着替え(というか着るだけだから着衣か)を済ませた私は洗面所で顔を洗う。
 それから制服の上にエプロンを付けて、お昼のお弁当と一緒に朝ご飯を用意する。昨日、学食のお姉さんからジャガイモを一箱貰ったんで、冷蔵庫の中にあったベーコンと合わせて炒めてみる。

「・・・てゆーか、ここに来てから食事のグレードが上がって困るなあ」

 ジャガイモをつつきながらご飯を食べて、つい苦笑してしまう。
 ここで使われる食材は、どれも町のスーパーなんかじゃ到底並ぶことのない一級品だ。この新ジャガだって、段ボール一箱分のお値段がどれくらいになるのか考えたくもない。
 変に舌が肥えると、もしも昔の生活に戻った時に困るなー、とか思いつつ朝食を食べ終える。
 簡単に食器を洗い(台所には食器洗い機なんて備え付けてあるけど、一度も使ったことがない。なんか怖くて)、エプロンをはずして通学用の鞄を手に取る。昨晩のうちに学校の用意は済ませてあるので、後は鞄を持って出るだけ―――っと、一つ忘れてた。
 私は勉強机の上に置いてあった文庫本を手に取る。学園の図書館(図書 “室” ではない)のもので、表紙には白く長い髪をした “妖怪” と黒髪の少女の絵が描かれている。それぞれ白と赤の着物姿で、少女は不安そうな表情をして、 “妖怪” は優しげに微笑んで少女を抱き止めている。そんな表紙。
 私はそれを鞄の中に入れると、他に忘れ物が無いことを確認して、玄関近くの大きな姿見の前に立つ。そこで身だしなみを確認する。

「問題ない、かな」

 鏡の中にはいつも通りの私が居た。
 学園の制服である白いブレザーに身を包んだ私。胸元にある一学年を表わす赤いリボンタイと、瞳の色以外は真っ白だ。
 鏡の中の私は、さっきの表紙にあった “妖怪” のように、白い肌と、同じ色の長い髪の毛をしている。日本人とは思えない色だけど、瞳の色は黒で顔立ちも普通に和風だった。いっそのこと、碧眼で欧米風の顔立ちであれば良かったのにとたまに思う。
 ちなみに髪が白いからって、以前に死ぬような目にあったとか、恐怖を感じたと言うことはない。この髪は地毛であり、単なる遺伝。
 姿見の隣、靴箱の上に視線を向ければその証拠がある。
 靴箱の上には写真立てが一つあり、そこには私と同じ白い髪をした―――私と違って短髪だけど―――女性が、幼い私を抱きかかえて幸せそうに微笑んでいる。背景の場所は、二年前に母が亡くなるまで暮していたアパート近くの公園だった。

「行ってきます、母さん」

 いつものように母に挨拶して、私は部屋を後にした―――

 

 

******

 

 

 ―――龍皇女学院。
 なんか悪と戦う少女達が通ってそうな名前の女子校だと知り合いが言っていたけど、特殊な力に目覚めたり前世からの使命を背負った女の子達はいない常識的な学校である。多分。
 ・・・いやまあ。この学校、いわゆる “お嬢様校” と言うヤツで、ちょっと人里離れた山奥の盆地(一番近い市街地から車で一時間以上)にある広大な敷地に作られた学園であり、小中高が一緒になっている。ちなみに付属に龍皇幼稚園、龍皇女子大なんてものもあるけど、そちらは都会の街中にある。
 当然、そこに通う生徒数も多く、中には特異な運命に弄ばれた女の子とか居るかも知れない。いないとは思うけど―――とにかく。名前はちょっとアレだけど、普通の女子校だったりする。・・・もとい、普通ではないか。規模的に。
 山奥にあるので色々と不便かと思われがちだが、広大な敷地内にはコンビニから病院まで各種施設が揃っていて、生活するには何不自由無いように出来ている。学園内で生活する生徒達に不満があるとすれば(私はそうでもないけど)娯楽施設が無いということくらいか。
 女学院の名前にある “龍皇” というのは日本でも有数の資産家らしいけれど、私は詳しいことは知らない。数年前まで母と二人で狭いアパート暮らしだった私は、たまに耳にするかなと思う程度のもので、貧乏人にはとことん縁のない名前だったからだ。
 ただ、感謝はしている。母さんが病気で亡くなって、当時中学生だった身寄りのない私がこうしてまともに生活出来るのも、龍皇の当主であった人のお陰なのだから。

 

 

******

 

 

 寮を出た私は、自転車をこいで、そのまま高等部の校舎には向かわずに、図書館へとむかった。
 学園内の移動は普通に乗り物を使う。徒歩では移動するだけで日が暮れるほど広く、私のように自転車や或いはバイクを使うことが当たり前で、中には自動車を使う生徒もいる(当然、18歳未満では免許が取れずに公道は走れないし、学園内に限った仮免許の発行も一般の教習所よりも厳正であり、また交通規則も非常に厳しいらしい)。
 また、学園内には無人バスが定期的に回っている。自転車に乗れないような生徒(小学生―――初等部の子達に多い)はそれか、タクシー(タクシー会社一つ分が学園内にあったりする)を使ったりする。

「おはようございます」

 鞄を持って図書館に入り、貸し出しカウンターに向かう。
 普通の学校なら図書委員が居るはずだが、この学園にはそんな役職は存在しない。
 基本的に一般の学校で言う “生徒会” というものがないのだ。何故なら学園の規模が大きすぎて、生徒の手には余ってしまうからだ。それなら下手に委員会を作って時間を割くよりも、学業や部活動に精を出して貰った方が良いと学園側は考えたらしい。
 現に、この学園が設立した当初(50年くらい前らしい)はちゃんと委員会があったらしいが、次第に生徒数が増えていき、それに伴い学園の規模も大きく複雑化してしまったために、私が学園に入る数年前に委員会は無くなってしまったとか。
 ただし “生徒会” は存在する。もっとも、一般的に言う生徒会とは異なり、こちらは “部活動” としての生徒会だ。学園内で起こる問題事などを自主的に解決していく人達で、生徒間のトラブルなど学園側が直接手出しし難かったり、できないような事に対応している。ただし、あくまでも “部活動” としてなので、他の生徒達に指示命令する権限は無い。生徒会と言うよりは、何でも屋とでも言った方が良いのかも知れない。
 それはともかく。
 カウンター、というか図書館の中には生徒の姿は見えない。まだ、朝だからこんなものだろう。いつも二、三人居るかいないかだから、誰もいなくても不思議はない。・・・けれど、図書館の中には人は居なくても、カウンターの奥にある司書室には人の気配―――なにやら話し声が聞こえる。ドアは締められているため、話の内容までは解らないが―――と、なんとなく耳を澄ましていると、部屋の中から物音が聞こえ、続いて司書室のドアが開く。
 中からは私と同じブレザーの生徒が現れた。ただ胸元のリボンタイは赤ではなく青色―――だから高等部三年だと解る。

「・・・・・・っ」

 その生徒は、私に気がつくとびくっと身を震わせた後、そそくさと気まずそうに私の傍をすり抜けて図書館を出て行ってしまった。

「なんだ、来たのか」

 三年の先輩が去っていくのを見送っていると、司書室の方から声をかけられた。
 見れば、別の女性が部屋から出てくるところだった。制服であるブレザーは着ていない―――つまり学園の生徒ではない。この図書館を管理する司書の先生だ。
 黒尽くめの女性だった。身体にフィットした、胸元の開いた黒いシャツと黒いズボン。肩の辺りまで無造作に伸ばしている黒髪とやや釣り気味の黒瞳。闇夜に紛れればそのまま見失ってしまいそうだ。
 名前も “黒木 奈津子” と言って、名字まで黒が入っている。
 身長はかなり高く、私も170台だけど、彼女はさらに高くて180を越えるらしい。
 常に無愛想な表情だけど、キリッとしていて格好良い。声も心に響いてくるようなハスキーボイスで、まあ、その、なんていうか―――

「なにか言いたそうだな」

 ジロリと睨まれ、私は思わず目を背けた。今朝は随分と不機嫌だと、ここ二年ほどの付き合いで解る。ついでにその原因もなんとなく察しが付いた。

「・・・ “あっち” の方、だったんですか」
「・・・・・・」

 奈津子さんは答えない。それが或る意味答えとなっていた。
 長身で、声も低く、顔立ちも良い―――なにが言いたいかぶっちゃけると、奈津子さんはこの学園の生徒(当たり前だけど、女子である)にとてもモテる。
 私が学園に来てからのここ二年間で、告白された現場を幾度となく見てきたし、バレンタインやら誕生日の時は凄いことになっていた。さっきの先輩も、奈津子さんに告白しに来て―――玉砕したのだろう。そう言えば、ちょっと泣いてた気もする。
 そんなことを思いながら、私は自然と奈津子さんの胸元に目を向けた。大胆に広げられた胸元は、さらに大胆にもブラが着けられていなかった。・・・・・・と、いうか着ける必要がないというか、むしろ着けられないというか―――

「くをら」

 不意に奈津子さんは身軽にカウンターを飛び越えると、私の背後へ回り込む。
 あ、と思った時には奈津子さんの大きな手が背後から私の胸をがっちりロック。

「今、とても失礼な事考えてただろ貴様ー!」
「に゛ゃああああああっ!? ひっ、人の胸揉まないでーーーーー!」
「ああどうせ私の胸は小さいさ! もうちょっと色気があれば初対面で100%男と間違えられたり女の子に惚れられたり告白されたりしないだろうさ!」
「いや、小さいって言うか皆無―――」
「・・・パワーアップ」

 私の胸を揉む奈津子さんの力が強くなる。
 ちょっ、マジやめてっていうか痛いし制服にシワがあああああっ!
 この学園、実は毎朝服装チェックがある。淑女たる物、毎日の身だしなみは大切だとかで、きちんとした格好をしていないと、放課後に一時間ほど説教された後に反省文を書かされることとなる。なので、出る前にわざわざ姿見で確認したのだが。

「この半分・・・この巨乳の半分で良いから私も胸があれば、今頃結婚くらいしてたかなー」

 ちなみに奈津子さんは御歳29歳。なんかもう婚期を逃し

「・・・今、また失礼なことを考えなかったかね?」
「いえいえなにもなにもっ! ・・・ていうかいい加減、胸から手を離してください」
「こうして揉んでたら恩恵にあやかれるかと思ってな」
「そんな霊験はございません。というか、そういうことは他の女の子に試してください」
「知り合いの中じゃお前が一番巨乳だし。そもそも他の子に試したら完璧変態だろうが」
「私で試しても変態です! ていうか巨乳言うなっ」

 いい加減、私が怒り始めたのに気がついたのか、奈津子さんは素早く私から離れる。
 ほんと、カンは鋭い人だなあ、と思いつつ、私は服装を正す。

「・・・・・・あんまりシワはできてないかな?」
「当たり前だ。そこら辺は配慮した」
「配慮出来るならそもそもやらないでください―――っと、私の鞄は・・・」

 いつの間にか手元にはない。
 見れば、近くの床に落としてしまっていた。拾い上げ、中から図書館―――というか、奈津子さんに借りた文庫本を出す。

「これ、ありがとうございました」
「ん。どうだった?」

 文庫本を受け取りながら奈津子さんが聞いてくる。

「え、おもしろかったですよ」

 答えつつ、ほんの少しだけ視線を反らす―――瞬間、しまったなあと思ったが、すでに遅い。ほんの些細な私の仕草を見とがめて、聞き返してくる。

「・・・ラストがまずかったかな?」
「いえ、そんなことは。せつない終わり方だったけど、あれはあれで・・・」
「じゃあ “妖怪” あつかいしたことが気に障ったとか」
「それは事前に言われて、私も承諾しましたし」

 いつもの無愛想ながらも、ほんの少しだけ不安そうな顔をする奈津子さん。その手にある文庫本には “妖怪” と少女の表紙と、 “月下の妖怪” という文庫本のタイトルと、それから “黒木 奈津子” という作者の名前が表記されている。
 つまり、そういうことだった。
 奈津子さんは司書の傍ら、中高生向けの小説(ライトノベル、とか言うらしい)を書いている。私は小説とかあまり読まないから知らなかったけれど、そこそこ売れている作家さんらしい。
 で、今回、私をモデルにした小説を書いたというわけ。さっきも述べたように、私は小説とかあまり読まない方で、だから本が発売された時に一冊贈呈すると奈津子さんが言ってくれたのを辞退した。それからしばらくして、その本が図書館に入荷されたというので、折角だから読んでみることにした・・・・・・というか、奈津子さんにひたすら勧められたというか。図書館に来るたびに(私は本は読まないけど、自習しに図書館には良く来る。参考書も揃っているので)勧められて、最終的には懇願されてしまった。どうしても私に読んでもらいたかったらしい。

「本当に面白かったですって」

 私は繰り返し感想を言う。
 なにも嘘偽りはない。本当に面白かった。ろくに小説など読んだことのない私が、たった一日で読み切った挙句、さらにもう一度繰り返して読んでしまったほどだ。
 話の内容は妖怪 “ゲッカ” が人間の少女と出会い、親交を深めていくという話。

「正直、最初は私がモデルと言うことで、ちょっと気恥ずかしかったですけどね」

 けれど読み進めていくうちに気にならなくなっていった。私をモデルにしたと言っても、それは外面だけであり、境遇や性格は似通ってるところもあるけれど、どちらかと言えば―――

「でも、私的にはゲッカよりも “セツナ” の方に共感覚えたかな」

 セツナというのはゲッカと出会う少女の名前だ。
 彼女は物語が始まる前に両親を亡くしていて、身寄りのない彼女は同じ住む村人達に助けられて生きていた。けれど、村人の中には幼くてろくに働けないセツナを疎ましく思う者も居て、ある時セツナを深い森の中に誘い出して、そのまま置き去りにしてしまう。
 セツナは一人森の中をさまよい歩き―――やがて白い花畑のある、開けた場所に出る。その花畑の中央に、一人の妖怪が佇んでいた―――というのが物語の始まり。

「ゲッカってなんでもできる、万能の力を持つ妖怪じゃないですか。あそこまで完璧超人じゃないなーって」
「ああ、そうかも」
「うわ肯定された!?」
「いや別にお前が家事と勉強と巨乳以外、なにも取り柄がないという意味じゃないぞ?」
「家事と勉強はともかく巨乳は違う」

 ていうか、私自身はそんな大きいつもりはないんだけどなあ。奈津子さんが無いから相対的に大きいと思うだけで―――

「・・・・・・」
「ナニモカンガエテナイデスヨ?」

 奈津子さんの視線に気がついて、私はぎこちなく首を横に振る。

「話は戻すけど」
「はい」
「さっき、視線反らしたのはなんだ?」

 やっぱり気がつかれてた。
 仕方ない、話すしかないかなあ。奈津子さんって、気にしないことはとことん気にしないけど、気になることはとことん気にする人だし。

「その、昨日は満月だったじゃないですか」
「ああ。雲一つ無い満月だった」
「で、この学園にも白い花畑があるじゃないですか」
「あるな」
「小説を繰り返して読んだ後、ふと外を見たら綺麗な満月で、ついふらふらっと白い花畑の方に行ってみたんですよ。で、その・・・」

 うわ、なんか思い出すにつれて恥ずかしくなってきたっ。
 顔が火照るのを感じてると、奈津子さんが「それで?」と話の先を促してくる。多分、私の顔は真っ赤になっているはずだから、それを見て察して欲しいんですけど!

「その・・・小説の冒頭の描写のように、だからゲッカのように月を見上げたりして」
「あ、それ見たかったな」

 奈津子さんが呟くのを聞いて、私はさらに顔が熱くなるのを感じた。

「あー、そのー、なんというかー・・・見られまして」
「え? 誰に」
「知りません。胸元のリボンタイは赤・・・のように見えたから、同学年だと思うんですが」
「へえ、羨ましい―――それで?」

 さらに先を促す奈津子さんに、私は目を反らす。

「こ、これで終わりです。以上です!」
「そうは思えないけど―――まあいい、その子を探し出して聞けばいいし」
「・・・解りました、教えますから余計なことはしないでください」

 即座に私は負けを認めた。
 奈津子さんが本気を出せば、昨晩の女の子なんてすぐに見つかってしまうことが解っていたからだ。
 はあ、と思わず溜息をつきながら、私は昨晩のことを説明した。

「――― “ゲッカ” になりきった?」
「だ、だってシチュエーションがぴったりで! セツナと同じ台詞で声をかけられて、ゲッカと同じ言葉を返したら、小説そのまんまの反応が返ってきて!」

 普通 “妖怪” とか言われたらヒくか鼻で笑うと思うんだけど、どういうわけか昨晩の彼女は、 “セツナ” と同じように驚いたまま言葉を失った。
 それで思わず私も “ゲッカ” と同じような反応を返してしまった。あの時は本当に自分が “ゲッカ” になってしまったように、自然と台詞と仕草ができたが、今にして思えばなにやってるんだかと思う。

「まあ、小説と全く同じではなかったですけど」

 私はさっさと立ち去ったが、小説ではセツナがゲッカを呼び止め、セツナはゲッカに助けられて村に戻ることができた―――という展開だ。
 まあ、人が迷うような深い森の中だったというわけではないし、花畑からは学園の校舎や寮までは道が出来ている。だからあの子はセツナと同じように迷っていたというわけではないだろう。案外、私と同じように小説に触発されて花畑に来てしまったのかも知れない。

「まあ、なんにしてもだ」

 奈津子さんは、ふう、とどこかほっとしたような溜息を吐く。

「キャラになりきってしまうほど楽しんでくれたのなら嬉しいよ」

 そう言って彼女は微笑み―――私は思わず見惚れた。
 今までに数えるほどしか見たことのない奈津子さんの微笑みは、普段の無愛想とのギャップもあって、なんというか綺麗で可愛くて、同姓の私でも少しドキッとする。

「・・・奈津子さん、胸がどうの言うよりも、そうやって微笑む練習したらどうですか? そんな風に微笑まれたら、大概の男性はコロッと行っちゃうと思いますが」

 私が言うと、奈津子さんはいつもの仏頂面に戻る。

「好きでもない奴に、どうして笑いかけなければならないんだ?」
「そういう事を言ってるからお見合いも合コンも失敗するんですよ―――あ、ところでその本なんですが」

 再び奈津子さんが私に襲いかかろうと両手をスタンバイしたのを見て、機先を制して奈津子さんが持っている “月下の妖怪” を指さす。

「以前、その本をくれるって言ったじゃないですか」
「断られたけどな」
「悪かったと思ってますよ。どうせ読まないと思ったし―――それで今更ですが、やっぱり一冊もらっていいですか?」
「むう・・・」

 私が言うと、奈津子さんはちょっと照れたように視線をそらす。わあ、この人が話し相手から視線を反らすって珍しいなあ。

「ど、どうしてもって言うなら」
「どうしてもお願いします」
「し、仕方ない。そこまでいうなら十冊くらい」
「一冊でいいです」

 丁重にお断りする。
 さて、随分と話し込んでしまったけど、そろそろ校舎に行った方がいいかな。そう言えば今って何時頃だろうかと図書館の時計を振り返った瞬間。
 予鈴が鳴った。
 え、と時計を見れば、始業の5分前だった。それを見てさっと顔が青ざめる。

「あああっ、しまったああああああああっ!」

 思わず絶叫する。
 朝、図書館に人が少ないのは理由がある。ここから校舎(ちなみに初等部の校舎は離れているが、中等部と高等部の校舎は同じ)まで、自転車を飛ばして3分―――だけど、自転車を駐輪所に置いたり靴を履き替えたりして、教室に向かえば確実に5分以上かかってしまう。
 そして予鈴は始業の5分前にしかならない―――つまり、予鈴を聞いてから図書館を出ても間に合わず、それで遅刻する生徒が多いためだ。

「じゃ、じゃあ、奈津子さん! また今度!」

 私は慌てて図書館を飛び出すと、駐輪所の自転車に飛び乗って、全速力で校舎へと向かった―――

 

 

******

 

 

「すいません、おくれましたっ!」
「何をしているのですか! 遅いですよ!」

 教室に入ると同時、叱責が飛んできた。
 この学園の教室はどういうわけか、入り口が一つしかない。だから後ろの入り口からこっそりと入る、なんてことは不可能だ。
 叱責を飛ばしてきたのはウチのクラスの担任の先生で・・・なんというか「ザマス」とでも語尾につけそうな、化粧の濃い年取った先生だった。実際に「ザマス」とか言ったりしないけど。
 担任は、私だと気がついた瞬間、怒りではなく嫌悪の表情を浮かべる―――が、すぐにヒステリックに喚き出す。

「まぁたアナタですか! いつもいつもいつもいつもいつも遅刻ばっかりして!」

 弁解しても無駄なので口には出さないが、別に私はいつも遅刻しているわけではない。
 というか高等部に上がってからは今日が初めてだ。
 だが、そんな事を言ってもこの先生は耳を貸さないだろう。それどころか口答えするなと無為な説教が長くなるだけだ。

「しかもなんですかその格好は! 制服が乱れているではありませんか!」

 言われたとおり、私の制服はさっきよりも大きく皺が寄っていた。それも当然で、図書館から全力疾走で自転車をこいできたのだ。玄関で少しは整えたつもりだったけど、やっぱり無意味だったか。

「お前に汗までかいて! ああ、嘆かわしい。どうしてアナタのような人が、私のクラスに居るのでしょう!?」

 この担任のクラスの人間は、汗を掻いてはいけないらしい。
 まあ、なんでも良いけどさっさと終わらせて欲しいなあ―――なんて私が思っていると。

「申し訳ありません、遅れました」

 私の後ろから、別の生徒が現れた。
 如何にもお嬢様然とした生徒で、一応クラスメイトである―――向こうはそう認識してくれていないみたいだけど。
 その生徒を見て、担任は態度を一変すると、気遣うように声をかける。

「桜坂さん、どうかなされたのですか? もしや身体のお加減でも・・・?」
「ええ、最近少々寝不足でして。申し訳ありません」

 意訳=ちょっと寝坊しました。

「いえいえいえっ、お身体の具合がよろしくないのなら仕方ありません」
「席についてもよろしいでしょうか?」
「ええ、もちろん。しかし体調が悪いようでしたら、今日はお帰りになってもよろしいのですよ?」
「いえ、頑張ります」

 桜坂はそうやって微笑むと、自分の席に着く。
 担任の先生はそれを見て、まさに感激と言わんばかりに瞳を潤ませる―――って、うわマジ泣きしてる。

「なんて健気な・・・それに引き替えアナタは―――あら?」

 担任はころっと表情を変えながら私を振り返る―――が、そこにはすでに私の姿はない。
 桜坂と三文芝居やっている隙に、自分の席に着かせてもらった。それに気がついた担任が、またヒステリックな声を上げる。

「アナタ! いつ、席に着いて良いと許しましたか!」
「さっき言ったじゃないですか。しかも体調が悪かったら帰っても良いと優しい言葉までかけて」
「それは桜咲さんに対してだけです! アナタへのお説教はまだ終わっていません!」

 ・・・本気で勘弁して欲しい。
 どうせ放課後にも改めて説教されるんだから、朝はもういいじゃんって思うんだけど。

「大体アナタは普段から態度というものがなっていません! アナタは教師である私を敬うという事を知らないのですか!」

 知るわけがない。どうやったらこうもネチネチと説教続けられて尊敬できるというのか。
 ちなみにこういった事は初めてではなかった。遅刻したのは今日が初めてだが、なにかと難癖つけられて、事あるごとに説教だか嫌味だがわめき声をぶつけてくる。しかも私一人に対してだけ。
 理由は単純・・・って、わけでもないか。けどまあ、一言で言うならば―――

「先生」

 担任の説教が続く中、さきほどの桜咲が挙手をして声を上げる。

「もうその辺でよろしいでしょう。これ以上は授業にも差し支えます」

 意訳=この女のために、これ以上無駄な時間は過ごしたくない。
 桜咲が言うと、担任は忠実なロボットのように即座に「わかりました」と答える。
 ・・・一言で言うなら、担任が私を嫌う原因となったのは、この桜坂だったりする。
 桜坂みつき。
  “龍皇” と並ぶ資産家の出身で、おそらくはこの学園の生徒の中で一番 “権力” のある生徒だ。生徒どころか教師でも逆らえない。が、かといって桜咲が横暴の限りを尽くしているということはない。むしろ清楚で大人しく、淑女の模範とも言える。
 しかし本性は無闇にプライドが高く、自分の思い通りにならないことを絶対に許せない女だと言うことを私は最近になって知った。
 私は、その桜坂に嫌われている―――というか拒絶されていると言うべきなのかも知れない。それはきっと、このクラスで桜坂の思い通りにならない唯一の存在が私だからなんだろう。

「桜坂様って優しー!」
「だよねー、あんな “病気持ち” の事を庇ってあげるなんて〜」
「・・・アイツ、桜坂様に逆らってるくせに」

 近くの生徒が、ひそひそと私に聞こえるように囁き合う。
 当然、そんな風に喋っていれば前に居る担任にも聞こえるわけで。

「そこの三人、何を喋っているのですか!」

 担任の叱責にお喋りしていた生徒達が身を竦ませる。
 と、さらなる説教が飛ぶ前に、桜坂が言った。

「申し訳ありません、先生」
「な、なぜ桜坂さんが謝るのですか!?」
「どうやらこの方達、私の事を話していたようで。つまり、原因は私にあるということです。叱るのなら私を」

 意訳=私のことを褒め称えているのだから許して差し上げなさい。

「まあ、なんと心のお優しい方でしょう!」

 また担任は感涙し、お喋りしていた三人の生徒も感動の眼差しで桜坂を見つめている。
 なにかの病気か宗教としか思えない。
 ただ、ここまで狂信的なのはこの三人だけで、他のクラスメイトまで全員ここまで桜坂を心酔しているわけではなく、中には苦笑を浮かべている者も居る―――が、私が視線を向けるとすぐに苦笑を引っ込め、無関心を装って前を見る。
 基本、私に対するスタンスは嫌悪するか無視するかのどちらかだ。桜坂の機嫌を取るという意味もあるが、なによりも親も居らず普通ではない白い髪と肌の変なヤツとまともに付き合おうと思ってくれる酔狂な人間はこのお嬢様学園には居ないと言うことだ。・・・昔、一人だけ居たけど。
 ともあれ、このクラスの中で私は完全に孤立していた。もう慣れてしまったが。なにせこうやって孤立するのはこの学園から来る前からずっとだ―――そう思いながら、私は自分の白い髪をそっと掬った―――

 

 

******

 

 

 遅刻したのは想定外だったとしても、まあいつも通りの朝だった。
 担任には難癖つけられ、クラスメイトからは無視される。それが私の日常。特に無視に関しては桜坂のそれは、思わず拍手してしまうほど完璧だといつも思う。私の存在を完全にいないものとして扱っている。視界にすら入れないようにしているほどだ。
 担任以外の教員も私のことは無視している。だから授業中に質問があって呼びかけても応えてくれない。仕方なく、私はノートに授業内容を写す事に専念し、解らなかったことは図書館で調べたり、奈津子さんに聞いたりしている。この学園で、私をまともに相手してくれるのは奈津子さんと学食のお姉さん(本名は知らない。初対面の時に「学食のお姉さんと呼びなさい」と言われてから名前を聞きそびれている)の二人だけだ。それだけ “桜坂” の影響力は強いということなのかもしれない。
 だから今日も、授業内容をひたすらノートに書き留めて、図書館で復習する―――あ、その前に遅刻の説教と反省文か―――だけで一日が終わるなー、と思っていた。
 ・・・ホームルームの時は。

 

 

******

 

 

 二時間目、ちょっとした騒ぎがあった。
 授業の終わり頃、クラスメイト達が唐突にざわめいた。
 私は黒板の内容を書き写すのに忙しく、書き終えてから周囲を見回せば、生徒達は一斉に廊下の方を見ていた。
 学園の教室は、廊下側の壁が硝子張りになっている。だから、廊下から教室内は丸見えで、教室からも廊下を見ることはできる。

「・・・・・・?」

 私も廊下を見てみるが、しかしそこには何もない。
 ・・・いや、視界の端になにかが通り過ぎたようにも見えたけど―――と、私が首を捻っていると、クラスメイト達の囁き声が聞こえてきた。

「ねえ・・・今のって・・・」
「先輩から聞いた事ある―――」
「私も・・・あれは廊下の・・・」
「そうそう! ―――・・・・・・廊下の、妖怪」

 ・・・は?
 ロウカノヨウカイ?
 耳慣れない言葉に、私が困惑していると。

「ほら! お喋りしない! 今は授業中ですよ!」

 先生の叱咤で教室内のざわめきは止む。
 だが、すぐに終わりのチャイムが鳴り響いた。
 日直の号令とともに挨拶して、先生が出て行く。
 私は次の授業の用意をしながら、周囲のざわめきを聞くとはなしに聞いていた。

「ねえねえ見たよね? 廊下の妖怪!」
「私見れなかった〜。ね、本当に居たの?」
「居た! 去年卒業したお姉様に聞いたとおりだったわ。授業中、高等部の廊下に出る “廊下の妖怪” 」

 廊下の妖怪。
 普通に考えればなにかの見間違いだろう。はっきりとした妙な―――それこそ妖怪じみたものであれば、もっと騒ぎになったり、誰かが悲鳴をあげていなければおかしい。
 でもまあ、或る意味納得がいったかも知れない。昨晩の少女の反応だ。普通なら “月下の妖怪” なんて言われてまともに受け取るはずがない。が、この学園に通うのは純粋培養されたお嬢様達だ。妖怪だのなんだのと、そういう不可思議なものをあっさりと信じてしまうものかもしれない。
 ・・・そういや昨日の女の子、多分同じ一年だと思うんだけど、私のことを妖怪だと思い込んで探しに来たりして―――

「ゲッカさん!」

 ―――そう、こんな風に。
 ・・・って、ええええっ!?」

「げっ・・・」

 声のした方―――教室の入り口を見て、私は呻き声を上げた。
 居た。
 昨晩、白い花畑で出会った少女だ。黒目黒髪―――この学園は、基本的に髪染めは禁止されているので、殆どの生徒は黒目黒髪だけど―――の少女。
 彼女は教室内に入ってくると、まっしぐらに私の机までやってくる。

「こんにちは! 初めまして・・・というのもおかしいですよね。昨晩、会いましたもんね!」
「えっ、あの、その・・・」

 余計なこと言うなあああああっ! と、私は心の中で大絶叫。
 昨日、花畑に行ったのは日が変わる頃だ。当たり前だが、そんな真夜中に出歩くことは禁止されている。つまり、こっそりと寮を抜け出して花畑に行ったわけだ。そんな事がばれたらどれだけの説教されるか解らない。いっそのこと、退学にでもしてくれればと思うが、それだけは絶対に無いから逆に困る。
 そんな風にひたすら困っていると、少女は首を傾げて私の顔を覗き込む。
 可愛らしい少女だった。背が低いこともあって、同じ学園とは思えない。

「ゲッカさん?」

 その名前は小説のキャラクターの名前で、私はそんな名前じゃないんです。

「妖怪のゲッカさんですよね?」

 いいえ、違います。私はただの人間です。
 ・・・と、言いたいけれどなんとなく言い辛い。ここでその辺りを暴露してしまえば、私は小説のキャラクターになりきるような痛い人間だと思われてしまう。無視されたり罵倒されたりはなれているけど、流石にそれは恥ずかしすぎる。勘弁してください。

「あ、そうか」

 少女はくすりと笑って私に耳打ちする。

「妖怪というの内緒なんですね?」
「あー、うん、そんな感じ」

 とりあえずこの場はそれでいいやと思いつつ、周囲の反応を見れば、クラスメイト達は私達に注目していた。
 それはそうだろう。桜坂の機嫌を損ねてから、私に友好的に話しかける生徒なんていなかった。それはこのクラスだけではなく、すくなくとも同じ学年中には広まっているはずで、こうして堂々と話しかけてくる生徒が現れたのは異常事態と言っても良い。
 と、桜坂の方を見てみれば、珍しくアイツと目が合った。が、すぐに向こうは視線をはずし、近くにいた他の生徒に何事か囁く。多分「随分と騒がしい人ですね(意訳=目障りだから誰か追い出しなさい)」とでも言ったのだろう。
 案の定、桜坂の近くにいた数人―――先程の狂信者達だ―――がこちらにやってきて、少女に向かって言い放つ。

「ちょっと、その、そいつに近寄らない方がいいよ!」

 ・・・おや?
 少し違和感がある。
 桜坂は遠回しな言葉を使うが、その取り巻きは違う。桜坂の意を汲んで、直接的に排除するのがこいつらだ。だから、この唐突に現れた少女が目障りだと言うのなら、そのまま「目障りだからでてけ」とか、強引に腕を引っ張って連れ出そうとすると思ったんだけど。

「どうしてですか?」

 少女(同学年の子に対して “少女” と表現するのも妙かなと思い始めたけどまあいいや)が聞き返すと、桜坂の狂信者は私の髪を指さして叫ぶ。

「見れば解るでしょ!」
「その不気味な真っ白い髪〜」
「・・・そいつ、絶対に変な病気持ってる」

 弁解するのも馬鹿馬鹿しいけど、私は病気なんて持っていない。
 至って健康優良児である。
 でもまあ、私は “病気持ち” であることを否定しない。むしろ肯定していた。
 生まれた頃からこの白い髪で、それが原因でずっと苛められてきた。まあ黒い髪の中に白い髪が混じっていればそれは目立つだろう。目立った杭は打たれるのが世の常―――なんてことを、私は小学生の頃にすでに学んでいた。
 病気持ち扱いされて、気分が良いわけではないが、それでも髪の毛を引っ張られたりするよりはマシだった。だから私は “病気で髪が白い” という噂が流れた時、それを否定せずに肯定した。そうすれば面倒な連中があまり近寄ってこないからだ。

「病気?」

 少女は私を振り返り、白い髪をじっと見つめてくる。
 初対面の相手に病気持ち扱いされるのは嫌な気分だが、下手に私に関われば害になる。私は苦笑して頷き―――かけたところで、少女がまた耳元で囁く。

「・・・妖怪だから健康診断受けてないんですか?」
「そんなわけないでしょ」

 反射的に私が応えると、彼女は「なーんだ」と笑い、桜坂の取り巻き達を振り返った。

「健康診断ちゃんと受けてるらしいですよ?」
「それがなんですか〜?」
「健康診断受けて、他人が近寄ってはならないほどの病気を持っていたら、こんなところでのんびり授業なんて受けていられないと思います」

 まあ、そりゃそうだ。他の生徒達に移るような病気を持ってたら、今頃私は何処かの病院に隔離されているだろう。

「だっ、だけどそいつ、その髪の色! 絶対普通じゃない! 気味悪いよ!」

 取り巻きの一人がそう言うと、他の二人も「そうです〜」「・・・気持ち悪い」と援護する。
 或る意味、良いチームワークだなあと、他人事のように思っていると、少女はまた私を振り返り、髪の毛をじっと見つめる。

「・・・・・・気味、悪いですか?」

 少女は首を傾げ―――不意に、にっこりと微笑んだ。

「私には綺麗な髪だとしか見えませんよ」
「!」

 少女の言葉。
 不意に心の中に蘇るのは、かつてに聞いた全く同じ言葉。

『気味悪い? 私には綺麗な髪だとしか見えないよ』

 もう二度と聞くことはないと思っていたその言葉に、私は―――

「え、ゲッカさん? 泣いているんですか!?」
「あっ、違ッ」

 私は自然と溢れた涙を慌てて拭い去る。
 と、そこで三時間目始業のチャイムが鳴り響いた。

「って、ちょっと! 授業始まっちゃった! あなたも自分の教室に戻らないと!」

 お嬢様校だけあって、この学園の規則は厳しい。
 特に遅刻は厳禁で、朝に述べたように放課後に説教プラス反省文を書かされるハメになる。それは朝だろうと三時間目だろうと変わらない。今朝の桜坂のように遅刻の理由を先生に納得させることが出来れば話は別だが。
 しかし少女はのんびりとした様子で「あ、授業だっけ」と言って教室の入り口に向かう。もうちょっと焦れっての、と少女の代わりに私が焦る。早くしないと先生が―――って、うわ来ちゃった。
 ガラス張りの壁の向こう側、次の担当教師が歩いてくるのが見えた。少女が教室のドアに手をかけたところで、ドアが向こうから開く。

「―――アナタはっ・・・」

 教師が少女に気がついて、一瞬だけ表情を険しくするが、突然何かに気がついた様子で視線を反らすと、少女を無視して教壇へ上がった。
 あれ、どういうこと? と私を含めたクラスメイト全員が不思議に思っていると、少女は教室を出る間際に私を振り返って叫ぶ。

「あ、ごめんなさーい! 名前を言うの忘れてましたー!」

 ンなこと良いからさっさと教室戻れ!
 ・・・という、私の心の叫びが届くはずもなく、少女は私に向かって自分の名を叫んだ。

「私は “セツナ” !」

 ・・・え?

「じゃあ、また後で来ます、 “ゲッカ” さん!」

 それだけを告げて、少女――― “セツナ” は教室を去っていった。
 どういう、こと? 奈津子さんの小説と同じ名前・・・?
 「それでは授業を始めます」と、まるでセツナの存在などなかったかのように、授業を開始する先生の言葉を耳にしながら、私はただ呆然としていた―――

 


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