一面に満たされるのは白だった。
濃密度の白い霧が辺りに充満している、と言うわけではない。
ただ白いだけで何も無い。床も壁も天井も地平さえもただ白い。白しかなく、影も闇も光さえも無いので白しか見えない。
そんな世界に、セイ=ケイリアックはただ一人で歩いていた。金髪の、少し背の低い少年だ。
ただその金髪は少し汚れているために、くすんだ金の色。
いつもは飄々とした表情だが、今は酷い疲労を顔に滲ませている。
綿で出来た布のズボンとシャツ。その他は飾り気の無いブレスレットを右手に付けているほかは、身に付けているものは無い。ただひたすらに歩いている。
まっすぐに。時折、直角に曲がり、後はただまっすぐに。
果ての無い、白い世界をただ歩いている。―――ふと、立ち止まった。
しばし考えるように顎に手を置き、それから意を決したように。「こっちか?」
右に身体を向けて、一歩踏み出した。
踏み出した状態のまま、しばし硬直―――――が、やがてほっとしたように息を吐くと、セイは再び歩き始めた。
だが。「―――ッ!」
4歩進んだところで、ギクリとしたような表情となり、立ち止まる。
あちゃーっと顔を片手で覆って、がくりと項垂れた。「・・・また、やり直しか」
呟いて、表情にさらに一層、疲労の色を濃くして、方向を変えると再び歩き始めた。
セイ=ケイリアック
白の牢室、と言う結界術がある。
神に使える僧侶たちが使う法術の一つで、白で塗り込められた結界。本当の使い道は心に異常をきたした精神病患者を閉じ込め、絶対的な白い色で心を塗りこめて、精神を白紙―――赤ん坊のような状態にしてしまう、そんな結界である。
だが、手の付けられない凶悪な犯罪者を更正させたり、或いは拷問用として使うこともある。今、セイが閉じ込められている結界は、その牢室をルーンが強化したものだった。
白の牢室を上回る圧倒的な白。影すらない、白以外は何も無い空間。
ただし、白の牢室とは違い、完全に閉じ込められたわけではない。歩いて脱出できる結界だ。もっとも、ただ歩いて出れるわけは無い。
歩いて出るには、決まった ”道順” を辿らなければならない。目印などなにもない道順を見つけなければならない。
もしも道順を外してしまえば、スタート地点に戻される―――しかも、いきなり景色が変わったり、戻されたと感触があるわけでもない。下手をすれば、戻されたことに気づくことなく一生、彷徨い歩くことになる。だからセイは、白い結界に呑まれないように意識をしっかりと保ちつつ、一歩一歩に神経を注ぎ込み、一歩一歩を記憶に叩き込み、道順を間違えてはやり直し、やり直しながら正しい道順を見つけていく。
それは途方も無い作業だった。
セイ自身、どれくらいの時間が経ったのか解らない。どれくらいの距離を歩いたのかも記憶に無い。結界の作用か、腹が減ることは無く、肉体的な疲労も無かったが、それでも精神は次第に磨り減っていく。
ただ、少しずつ調べ上げていく正しい道順だけを頭に叩き込み、ひたすら歩き続ける。
―――水晶玉の中には、白い中を歩き回るセイの姿が映されていた。
それをじっと、黒いローブ姿のルーン=ケイリアックは見つめていた。
魔道都市カルラドーファの外れにある魔女の森。一つの国が飲み込めるほどの広大な森の中心にある小さな家。
その家の主であるルーンの自室―――禍々しい不気味な光をたたえる宝石のついた指輪や杖。暗い赤や青や緑色やら桃色やらの毒々しい色のした薬品の詰まった瓶。黒い、光すら吸い込まれそうな黒い、手の大きな人間ならば片手に乗るくらいの立方体、 “黒界” と呼ばれる凶悪な獣魔を閉じ込めている魔道器やら、色々と細々としたかつ限りなく物騒な代物が散乱した自室で、彼女はじっとそれを見続けていた。「・・・それほど心配ならば、止めたらどうなのよ?」
「うっひゃあっ!?」いきなり背後から聞こえてきた冷淡な声に、ルーンは飛び上がらんばかりに驚く。
ここにクレイスかシード―――もといイーグが居れば、ぎょっとしたことだろう。
だが、付き合いは短いが、それなりにルーンのことを知っているフロアは、むしろ苦笑して。「それほど心配なら、止めたらどう?」
再び同じ言葉を吐く。
が、ルーンは振り向きもせずに。「ノックもせずに私の部屋に入ってくるなんて―――死にたいの?」
「したわよ。ちゃんと。誰かさんが気づかなかっただけで」
「・・・うっ」
「シルファがね、朝食ができたから呼びに来たんだけど、弟のことに夢中になっている誰かさんは全然気づかなかったから、私が来たってわけ」フロアの精霊であるシルファは、普通はフロアにしか見えない。
だが、どういうわけかルーンには “解る” らしいのだが、それは姿が見えるとか声が聞こえるとか言うことではないらしい。だから、ルーンが気づかなければ意思の疎通は出来ない。
ちなみにイーグもルーンほどではないが、シルファの気配程度は解ると言う。「クレイス君やイーグのことでもそうだけど、心配するならやらなきゃいいのよ」
「うっさいなあ」不機嫌そうにルーン。
それから、ちょっと疑問を付け加えて。「・・・クレイスはともかく、なんでイーグが出てくるのよ」
「手術が終わって、アイツが目が覚める寸前までオロオロしてたのは何処のどなた様でしたっけ?」
「私が心配したのは、それだけ。でも、ちゃんっと魔族の細胞も馴染んだようだし、もう心配なんてしてない―――あの子は鍛えられているし」ルーンの言葉に、少しだけフロアは眉を寄せた。
自然と、ある女のことが思い出される。
その心を読んだかのように、ルーンは小さく頷いて。「そう。リウラ=ファルコム。フィアルディア大陸最強の魔法戦士にして、最強の暗殺者を4人も育てた女―――その4人の中の一人である、イーグを心配する必要なんてどこにもないでしょ?」
「―――成る程ね。でも、どうしてクレイス君やセイにそこまで無茶なことさせるのよ? 肉体を殺して魔力だけで存在させたり、精神を初期化する結界の中に放り込んだり」
「クレイスは自ら望んだでしょ。強くなることを―――天空八命星を上回る強さを。 “終わり” の概念を与える天空八命星に対抗するには、自身が持つ終わりの概念を希薄にすること。死は、人間の最大の終わりの概念だから、それを乗り越えられれば」もっとも、とルーンは心の中で付け足す。
元々人間よりも終わりの概念が希薄な魔族をシード=ラインフィーは滅ぼしている。もしもシード=ラインフィーが本気になれば、終わりの概念があろうとなかろうと、強制的に “終わらせる” ことが出来るかもしれない。「ついでに、魔力のみで肉体を維持できるようになれば、その枷を外した時に強大な魔力を得て、さらにそれを自在に操ることが出来る―――まあ、普通と順番が逆なんだけど」
古代の強大な力を得た魔道士は、魔道を極めたさらにその先に、自らの肉体を捨てて魔力のみの存在として永遠を手に入れたのだ。
それから、とルーンは呟いて、
「セイは精神力で身体能力を高めることができる。逆を言えば、セイの “バースト” はセイの精神が強く成る程強力になる。私が組んだ “牢室” をベースにした “白の迷宮” をクリアすることができれば、あの子はさらなる強さを手に入れられる」
ふうん、とフロアは興味なさそうに頷いて。ついでに、言い訳じみてるわね、と心の中で苦笑もして。
「でもセイは別に強さなんて望んでないでしょ」
「・・・・・・・」
「ねえ、どうしてかなー?」突然押し黙ったルーンに、フロアはにやつきながら黒いローブで包まれた頭を後ろから抱く。
立っているフロアに対し、ルーンは座っている。抱くには丁度いい高さだ。「ねえねえ、どうして?」
「・・・・・解ってるくせに」
「ごめんねぇ。私馬鹿だからぜんぜんわかんなーい」
「・・・うっ」自分の口調を真似されて、ルーンの心が折れた。
やば、とフロアが思った時には遅すぎて。「うぐっ。わ、わかってくせにぃ、私、私、えぐえぐっ・・・」
「ちょ、ルーン泣かないでっ。私が悪かったから・・・・・・!」
「酷いよ。私、セイのことすごくしんぱいでっ・・・リウラ=ファルコムと戦ったって―――知って・・・私」
「うんうん、ごめんねっ。だから泣き止んでー!」やばい、やばいとフロアは焦る。
ローブの下でぐしゅぐしゅと泣くルーンは前も見たことがあった。あれはまだイーグが目覚める前。クレイスを “殺し” て、セイを結界に放り込んだ時、余りにも外道なルーンの行為にフロアは彼女を問い詰めたことがあった。
その時、力いっぱい泣かせた後―――ルーンの魔力が暴発した。
大陸の気象を変化させてしまうほどの膨大な魔力を持つルーンだ。こんなちんけな家どころか森も、いやこのファレイス大陸が一瞬で吹き飛んだ。
その後、我に返ったルーンが慌てて “時間を戻し” 、なんとか事なきを得た。
大陸が吹き飛び、それを時間を戻して救済した―――などと、眉唾物だが、残念なことにフロアはその瞬間のことをしっかりと覚えている。シルファも大陸中の風が消し飛んだと言っているし、つまりそれは眉唾でも夢でもなく、現実だった、のだ。「ひぐぅ、うぐっ・・・・・・うん」
泣きやんだ。
そのことに心の底から安堵して。「あー・・・ごめんね、ルーン。あなたが余りにも弟君のことを気にかけるから、ついからかっちゃうのよ」
頭を抱きしめたまま、フロアは謝った。
ルーンは不機嫌そうに、「心配だもん」
前置いて、
「心配だから。手元に居ればどんな危険からでも守ってあげられる。だけど、遠い場所でセイが死にそうな目に逢っても助けられないかもしれない。間に合わないかもしれない。だから、せめて、心配しないで済むくらいに強くしたい」
ぐす・・・と、鼻をすすって。
それからフロアの抱擁を、軽く払いのけて振り返る。
振り返った時に、頭を覆っていたローブが外れて、顔が見えた。その顔は、セイ=ケイリアックと良く似ていた。
双子と言っても可笑しくないほどに。セイの顔を、少し女顔にすればルーンになる。
自分の弟に良く似た顔の輪郭をなぞるように、顎から頬にかけて手で撫でながら。「セイは私のこと憎んでるよね、きっと」
「そうね」
「・・・随分と、あっさり言うんだ」
「嘘ついて欲しかった?」
「ううん・・・でもいいや。セイがどこかで死ぬよりは、居なくなるよりは憎まれているほうが良い」頭を、フロアの身体の方に倒す。
フロアはそれを優しく抱きとめた。「もう、家族が死ぬのは嫌。セイが悲しむのも嫌」
「もうちょっと素直になれば良いのに」
「私がもうちょっと素直だったら、私はずっとセイと一緒に居るんだろうね。でも」言葉はそこで途切れた。
続きを求めるように、小さく唇を動かして。
だが、なにも上手いセリフは思いつかずに、「私は、素直じゃないから」
「今はこんなに素直なのにね」
「フロアだからだよ。フロアはきっとそういう人なんだ」
「え?」
「フロアの前だと、イーグやセイ、クレイスだって―――私だって、みんな素直に自分を曝け出してる。きっと、私は良く知らないけどシードって子もそうだったんじゃない?」言われて、しかしフロアは首を横に振る。
「そんなことないわよ。誰も、私に対して素直じゃなかった。シードもイーグも、アインダーも。誰も私に本当のことを教えてくれなかった―――」
「違うよ。素直、ってことと本当ってことは違う。誰もフロアに本当のことを言わなかったかもしれない。本当の自分を見せなかったかもしれない。でも、それはきっと誰もがフロアのことを好きだったから。心配かけたくなかったからだよ―――素直って言うのは、甘えだよ。フロアと一緒だと、凄く甘えたくなる。そういうのが素直ってことだと思う」・・・思い当たることはあるような気がする。
イーグ―――シード=アルロードはいつもフロアに対して馬鹿をやっていた。イーグ=ファルコムもそれと一緒になって遊んでいた。誰もフロアに対して本当の姿を曝してはなかった。それでも、誰もがフロアに対して素直に甘えていた―――――「・・・きっと、フロアに出会った誰もが、フロアに出合って良かったと思ってるよ。それって素敵なことだと思わない?」
「―――そうかもね」そうかもしれない。きっと、そうに違いない。
もしも、もっと早く、そのことに気づいて居れば。
それは後悔だった。もう、取り戻せない後悔。
もしも、そのことに気づくことが出来ていれば。(もしかしたら、私たちには違う結末があったのかしらね? アインダー・・・)
思い、しかし即座に否定する。
(いえ、駄目ね)
フロアは苦笑。
(私の周りが素直でも、私自身が素直じゃない―――そのことを知っても私はそれに甘えられない)
「フロア」
不意に、ルーンが名を呼んだ。
なに、と問い返す間も無く、彼女は緊迫した声で呟く。「ごめん。折角作ってくれたんだろうけど、朝食は後にして。お客さんが来た」
「客?」
「フロアが良く知ってる人。―――イーグを育てた人だよ」
「・・・・ッ!」フロアの身体が強張る。
だが、ルーンは構わずに続けた。「悪いけど、イーグと一緒に出迎えてくれない? できれば、引き取って貰って」
「解った」小さく答え、フロアは部屋を出る。
その背中に、ルーンは付け加えた。「穏便にね」
多分無理。
と、言葉に出さずに答えて、フロアは部屋のドアを閉める。それを見送ると、ルーンはローブをかけ直してセイの映る水晶玉を振り返る。
その中の様子を見て取って。「・・・もうすぐゴールか。なら、心配は無いね」
呟いて、水晶玉に手をかざす。手を引っ込めた時、水晶玉にはなにも映ってはいなかった。
「リウラ=ファルコム、か」
セイコから聞いたことがある。
フィアルディア大陸最強の殺人者。所属していた暗殺組織を脱走し、この大陸のセイルーンに流れ着いた。世が世ならば、千人斬り《サウザンド》のスモレアー=ウォーフマンを超える名声を手に入れていたに違いない存在。だが、ルーンにはそんなことは関係なかった。
フロアから事の顛末を聞いて、その中でセイがリウラと戦ったという事実を聞いて、ルーンは卒倒しかけた。
戦いの内容まで、フロアは知らなかったが、それでも最強の殺人者とまで謳われたリウラと戦ったのだ。下手をすれば、セイは死んでいたのかもしれない―――そんなことを想像するだけで、悲しみと怒りがない交ぜになって涙すら出てくる。「絶対に、許せないからッ!」
ルーンはローブの下で低く叫ぶと、部屋を出た。
「良し」
踏み出した一歩が正解だったことに対して、セイは吐息。
もうすぐ終わりが近い。そんな直感が、セイの疲れた心を少し癒してくれていた。
気が狂いそうな白い中で、気が狂いそうなほど長い時間、ひたすら歩いてきたがもうすぐ終わりだ。なんの根拠も無い直感だったが、なんとなく信じられた。まっすぐに、歩く。
不意に、立ち止まった。また跳ばされた、と気づいたが。
スタートに戻されたわけではないと気づく。「ん?」
疑問に思い、きょろきょろと周囲を見回す。
周囲は相変わらず白い空間―――――だが、違う。「ここが、ゴールか?」
自信なさげに呟く。
辺りは相変わらずの白で、しかしさっきまでの結界の空間とはなにか違う。
さっきよりも、白の気配が少なくて―――・・・・「あ。そうか」
ふと思いついて、セイは目を閉じた。
眩しさすら感じる白から何も見えない黒へ。
黒の中にイメージを描く。
描くのは、この白い結界に叩き込まれた場所。ルーンの部屋の風景。結界の中で、瞬間移動は何度か試みたが、上手くいかなかった。
しかし、ここでなら―――闇の中に思い浮かんだイメージを手繰り寄せるイメージ。
思い浮かべたイメージがこちらへと迫ってくる。それをさらに強く引っ張り、引き寄せて―――(行け―――――!)
跳ぶ、というイメージを強く念じた!
その瞬間、セイの身体はその白い空間からかき消えて居た―――――
あとがき
・・・むう?
これじゃセイの話じゃなくて、ルーンとフロアの話じゃないかー。とか思いつつ。
パニック!短編第6段。連作としては第5弾。
連作の方は、多分、次の次くらいで一区切り。
さて今回はルーンさんの話です。
いや本当はセイがメインのハズだったんですが、話が間違うことはよくあることですよね!(力説)
ルーン=ケイリアック。このパニック!世界でも最高の魔女。最強ではないので注意。
一応は、『強力存在』と呼ばれる、普通の人間の能力を超越した能力を持つ人間の一人ではありますが、実は戦闘能力は殆ど無し。
ではありますが、随一の魔道技術を持ち、不死まで到達して時間すら支配する能力を持った魔女。
その魔力は膨大であり、暴発させれば一瞬で大陸が消し飛ぶ―――とゆーかすでに何度か消し飛んでいるらしいです。
さて。
次回は姉、来襲。
対するは元暗殺者コンビと魔道メイドのトリオでございますー(多分)。