パニック!
シード編・第四章
「イーグ=ファルコム」
F【贖罪という意味の義務】
―――――――――――――――――――――――――――――――――――どかっ!
・・・・・っつっ・・・・つつっ・・・
な、なんだぁ?
部屋の中の景色が変ると同時に浮遊感。
ついで、唐突に俺の身体は横向きに地面に墜落した。―――墜落、といってもせいぜい一メートル足らずだったが。
それでも、真っ直ぐに立っていたはずが、何時の間にか重力に対して横向きになっていたために平衡感覚が狂い、受身も取れずに腰を強かに打ち付けてしまった。痛ひ。
周囲を確認。
見まわせば、周囲の半分を赤茶色の荒野が続いて、もう半分は世界の果てを思わせるような断崖絶壁が俺の前に立ちふさがっている。
その、断崖絶壁にぽっかりと洞窟が口をあけていた。
どうやら、ここが例の洞窟であるらしいが・・・・
「うおー! なんだここはどこはだれだ僕はなんだー!?」
「錯乱するな馬鹿野郎」
立ちあがると、近くで吼えていたクレイスに蹴りを入れる。
・・・セイの姿は―――あれ、居ない・・・?
「クレイス。セイのヤツはどうしたんだ?」
「知らん」
「・・・だろうな」
初めっから期待はしていない。
瞬間移動の時にはぐれたのかもしれない―――俺には良く解らないけど、クレイスが唐突に飛び込んできた所為で、どうとかとかゆー感じで。
さて、と。どうするかな。
アイツがどこに消えたか不明だが、セイを待つべきかそれとも先に洞窟に入るべきか―――
『うひょおおおおおおっ!?』
・・・へ?
なんだ!? 今、洞窟の中からクレイスの悲鳴が―――って、クレイスのヤツどこ行ったぁぁぁっ!?
見まわせばクレイスの姿はどこにも見えなかった。
舌打ちしつつ、俺はぽっかりと断崖絶壁に開いた、洞窟の中へと飛びこむ。あの馬鹿、やっぱり連れてくるんじゃなかったぜ!
・・・いや、勝手に付いてきたんだけどさ。
洞窟の中は、あちこちに光ゴケが生えてるせいか、意外に明るかった。
―――そーいや、洞窟の中進むってのになにも装備を持ってこなかったな。暗くても「天空八命星」にはあまり関係はないけど。
「おおおおおいっ。たーすーけーてー」
「・・・・・・・」
洞窟に入ってすぐ。ほとんど垂直に近い下り坂の下でクレイスの馬鹿が吼えている。
坂は結構深くに降りていて、光ゴケのに照らされたクレイスの姿がぼんやりと底に浮かんでいる。
・・・ここ、降りたら戻るのは不可能だな。こりゃ。
さてどうするか。
「たーすーけーてー!」
「ああっ、うるさいっ」
下のクレイスに怒鳴り返すと、俺は自ら坂へと飛びこんだ。
靴の裏を坂の面に合わせ、そこだけで下へと滑り落ちていく。
「なに考えてるんだお前は―」
べこっ。と、坂の下についた瞬間、クレイスのネオ・ルーンクレストソードとやらで軽くどつかれた。
「お前まで降りてきたら、どうやってここを登ればいいんだよ!」
「喧しいッ! 他に道はない様だし、この先にミストがいるなら進むしかないだろうが!」
わんわんと洞窟内に叫び声を五月蝿く反響させながら、げしっ、とクレイスを蹴り返して―――ふと、クレイスが持っている剣に気付いた。
「・・・・・あ。そいやお前、今まで気にしてなかったけど、その剣をどうしたんだよ? エクスカリバーの模造品みたいだけど」
「キンクフォートの土産物屋で買ったんだ。やはり僕には、こういう高貴な剣が相応しい」
「高貴ってな・・・・模造品じゃねーかよ」
「模造品でも聖剣だ!」
「はいはい」
どーでもよくなって、適当に相槌を返す。
ったく、どちらにしてもコイツは戦力にゃならんわな。
身体の砂埃を払いつつ、奥深く続く洞窟の闇に目を凝らしてみる。
光ゴケが自然群生しているとは言っても、その光量は微々たる物だ。
暗闇の先の先まで見通せる訳でもなかった。
「・・・・・・・」
「なんだ? ヘンなモンでも食べたか?」
「いや、ふと思ったんだが・・・・・本当に、ここがミストの捕まっている洞窟なのか?」
そいやあまし確認しないで飛びこんだような気がする。
半ば独り言で呟くと、クレイスはうむっ、と大仰に頷いた。
「間違い無いぞ。だって僕もセイと一緒に偵察したからな!」
「うっわ、すっげぇ信用できねーコンビ」
とはいえ、その信用できないコンビを信用するしかない。
俺は溜息一つ付くと、洞窟の奥へと歩みを進める。
随分と下る。
さっきから俺たちは、地下へ地下へと緩やかな坂を下りつづけていた。
入り口の急坂から歩いて数十分―――天の灯が見えず、ともすれば時間の感覚を錯覚しそうな中で、正確に体内時計が機能しているのは、俺が “暗殺者” として訓練を受けた賜物・・・などと思って苦笑する。
人と言うのはどんなにイヤな経験でさえも、今日を歩くために役立ててしまうモノなのかもしれない。
「・・・疲れた」
ぽつり、とクレイスが呟いて、その呟きが洞窟内にわんわんと響き渡る。
常人にとっては時間感覚など皆無に等しい暗闇の中を歩くのだ。光ゴケのお陰で最低限、歩く程度の灯りはあるものの、それも “最低限” にしか過ぎず、そんな暗い中をでこぼこした凹凸のある洞窟の地面を、転ばないように歩こうとするだけで、疲労が溜まるだろう。
わからないでもなかったが、俺はクレイスの呟きを無視した。
もしかしたらもう殺されたかもしれない―――でも不思議と、そんな気はしていない―――ミストのことが気がかりで・・・
―――まったく。
いつの間に俺はあの女に惹かれたんだろうか。
命を助けられた時かもしれないし、借金をカタに強制的にアバリチアに引きとめられた時かもしれない。
始めてケンカした時かもしれないし―――もしかしたら、森で “不意打ち” を食らった時かもしれない。
自分でもいつあのバカ女に惚れたのがよくわからないし―――今となってはどうでも言いことだ。
ただ。俺にはもう、ミステリア=ウォーフマンという存在が必要になってしまっている。
かつてイーグ=ファルコムが姉を、そして姉を失ったときに二人の親友を必要とした様に。
人は一人では生きられない。
そんな陳腐なフレーズが頭に浮かぶ。
・・・けっこう、寂しがり屋なんだな。俺って。
誰か、大切な人がそばに居てくれないと、俺には生きる意味も義務も無くなってしまうんだろう。
アイツが居ない―――そう、考えるだけで心に穴が開いて、ひゅうひゅうと風が通り過ぎる。
もしももう―――死んで居たら? 殺されたらと考えるだけで、焦燥がつのっていく。
けれども。
「なぁ、クレイス。一つ賭けをしてみないか?」
「・・・・・?」
よほど疲れているのか返事はなく、ただこちらの言葉を耳にしているとだけ気配を感じ、続ける。
「俺たちがヤツラの所へ辿り着いたとき、ミストのヤツが殺されているかどうか―――」
「ころ―――そんなわけ、ないだろッ!」
殺される。という単語を口にしかけて、クレイスは吐き捨てるように叫ぶ。
わんわんわん、と喧しく洞窟の中を声が駆け響いて行った。
俺は肩を竦めると、やれやれと嘆息しながら笑う。
「それじゃ、賭けにならないな」
「当たり前だッ! 物騒なこと言うなよッ!」
・・・大分まいってるみたいだなー、こいつ。
精神的にも体力的にも、疲労が溜まってるみたいだし。
やっぱり、置いて来たほうが良かった―――ってコイツが勝手についてきたんだけど。
―――と。
俺は立ち止まった。
というか立ち止まざるをえなかった。
「行き止まり・・・!?」
そう。
俺たちの前には、真っ黒な壁が行く手を塞いでいたのだ。
舌打ち。
「くそっ。この洞窟じゃなかったのか!?」
もしかしたらセイの瞬間移動が失敗していたのかもしれない。クレイスが突然割って入ったせいか、セイ自身とははぐれるし・・・クレイスの言葉を信じるにしても、外観が良く似た “全く別の洞窟” であると言う可能性も否定できない。
「クレイス、戻るぞ!」
「待てよ」
引き返そうとした俺を、クレイスが呼びとめた。
振り返れば、クレイスは丹念に壁を調べている所だった。
手で壁の肌を撫でてみたり、握り拳で軽く叩いたりと―――自分で意味を理解して行っているのか疑わしいが。
「・・・この壁、おかしいぞ」
「あん?」
クレイスの言葉に、俺も壁を触ってみる。
ざらざらした普通の壁。
叩いてみれば、ドンドンと重い音が返ってくる―――別にどこも変だとは感じないが。
「どこがおかしいんだよ?」
おかしいのはお前だろ。なんて思いながら尋ねると、クレイスはこちらを一瞥もせずに壁を触ったまま。
「この壁だけ光ゴケがついてない」
「・・・あ」
言われて見て初めて気がついた。
確かに、他の壁に付着していた光ゴケが、この壁だけ無い。
真っ黒い壁肌を、裸でさらしている。
もう一度壁を叩いてみる。
しかし、返ってくるのは重い音。どうしてもこの先に道があるとは思えない。
「なあ、クレイス。たまたまこの壁だけ光ゴケが繁殖しなかっただけなんじゃないのか・・・クレイス?」
見ると、クレイスは行き止まりの壁ではなく、横の―――光ゴケが普通に付着している壁を見つめていた。
「今度はなんだ?」
「・・・魔法だ」
「え?」
クレイスの肩越しに、クレイスの見ている物を見やる。
クレイスが見ていたのは、壁の、光ゴケが付着していない部分―――幾らなんでも、壁にびっしりと光ゴケが生えてるわけはなく、壁肌が露出している部分は所々ある。
「魔法文字・・・」
クレイスが見つめていた壁には、通常の生活で使われていない文字が書いてあった。
魔法文字――― “ルーン” とも呼ばれる、魔道士が使う文字。
そっ・・・とクレイスがその文字に触れると、ぽぅ・・・と光ゴケの灯りと似た色に、文字が発光した。
ちょっと見た分には、文字が浮き出てきたようにも錯覚する。
クレイスは、しばらくそうやって文字に触れていたが、やがて離すと諦めたように頭を振る。
「・・・ダメだ。これは、特定の人間の魔力によって動く魔法仕掛けみたいだ」
「その “仕掛け” とやらが動くとどうなるんだよ?」
「隠し通路かなにか開くんじゃないか?」
「へぇ・・・」
言われて、俺は苔の生えていない壁を見る。
コンコン、と壁を軽く叩く。
―――返ってくるのは、硬い土が受け止める鈍い音。
「その隠し通路が開くとしたら、やっぱりこの壁かな?」
「だろうな。だから苔が生えていない」
「でも、この先に通路があるとは―――」
「魔法ってモンを、常識で考えないほうが良いぞ。反響なんて誤魔化す方法は幾らでもある」
「・・・・・・」
「なんだよ」
「いや、お前・・・本当にクレイスか?」
ちょっと不安になる。
闇の中にうっすらと浮かび上がるのはクレイスの姿形だが、この闇の中だ。もしかしたらいつのまにか摩り替わっているのかもしれない。
そして、本物のクレイスはすでに・・・・
―――などと、思っていると、当のクレイスは不機嫌そうに。
「なんだよ。僕のどこが僕じゃないって言うんだ!?」
「・・・シリアス過ぎる」
「どういう意味だよッ! お前こそ、ヘンなんじゃないのかっ!?
ミストが殺されてるのかもしれないんだぞ! もっとマジメにやれよっ!」
うっわ。
今の一言はかなりショックだ。
あのクレイスに「マジメにやれ!」なんて言われるとは・・・
ああ、しかしそうか。そうだよな、普通。
知り合いが―――それもとても親しい人間が殺されているのかもしれないんだ。これでマジにならん方がヘンだよな。
・・・じゃあ、俺はなんだろう。
なんでこんなに落ち着いているんだろうか?
落ち着いている、というよりははしゃぎ出したい気分。
ミストが殺されている―――そう、想像するだけで。
・・・興奮している。
一息。
「やばいなぁ・・・クレイス、俺はやっぱりヘン見たいだ」
「フン、そんなの昔っから解り切っていることだろうが!」
さらに不機嫌そうに、クレイスは声を荒らげて。
「ミストに対等に付き合える―――その時点で変人なんだよ」
「・・・違いない」
俺は苦笑して、ナイフを抜く。
空を斬る、音無き音が現実には響かずに、俺の耳のみに幻聴として残る。
白く光刃の残影が暗闇を凪いで、まるで白刃が踊っているようだった。
そのダンスの軌跡を頭に思い浮かべながら、俺はナイフの切っ先を目の前の壁に向かって突きたてる!
天空八命星・虚空殺!
通路をさらに進む。
魔法で欺かれた行き止まりを越えてさらに進むと、さらに広い通路に出た。
見たところ光ゴケの類はないが、代わりに光ゴケよりも明るい光が、どこからか差し込んで来ている。
天然の洞窟。
見上げれば、錐の様に先の尖った鍾乳石の切っ先が見えた。
軽くジャンプすれば届くだろう―――無意味だから試す気もないけどな。
「光源はどっからきてんだ?」
「多分、自然の精霊の力を利用した魔力光だ」
と、よくわからんクレイスの説明。
便利なんだなー、魔法って。
精霊を使ったりと使わなかったりと、区別は良く解らないが、ともかく便利だ。
同じモンを “スモレアー” で使えば燃料費の削減ができるかもしれない。
・・・ってぇ、今はンなこと考えてる場合じゃないな。
自分の思考に自分で苦笑して、俺は足を止めた。
「? どうした?」
足を止めた俺を見て、続け足を半歩だけ先じた状態で、クレイスも足を止める。
俺はクレイスには顔を向けずに、洞窟の奥の方へと顎を向けた。
嘆息。して苦笑。
俺は俺自身にもよく理解できない感傷を胸に浮かべ、俺達の行き先の薄明かりに立つ人影を認めて呟いた。
「お迎えだ」
俺の顎で指し示した先には―――風の精霊士、フロア=ラインフィーが、虚ろな両眼をこちらに向け、立っていた。
ひどく、違和感を覚える。
俺が知っていたフロアという彼女は、いつも笑っていた。
にこにこと、楽しそうに。笑顔で、俺やシード=アルロードを眺めていた。
虚、とは全く正反対の印象を持つ彼女。
彼女の両の瞳からは、意思の光が失われている。
俺が組織から逃げてからなにが起こったのかは知らない。
けれど、確実に言えることはただ一つ。
色んな意味で俺達は変りすぎてしまった。ということ。
その彼女は、闇色のローブに身を包み、金の髪をゆらしつつ、フロアは俺たちを案内するように前を歩いていた。
彼女の後を歩きながら、ふとその背中にかかる髪の毛を―――ちょっと乱雑に不揃いに切られている髪の毛を見て、俺はなんとなく口を開いた。
「フロア、髪伸びたな」
「・・・・・」
「でも、なんか雑な切り方だなー。床屋には行っているのか?」
「・・・・・・髪、シード、切ってくれた」
驚いて、思わず立ち止まった。
まさか、返事が返ってくるとは思わなかったからだ。
・・・もっとも、俺の記憶にある姉ぶった楽しそうな口調ではなく、抑揚のない棒読みに近い口調だったが。
「シードって・・・お前のことか?」
ふと、クレイスも立ち止まって俺に尋ねてくる。
俺は首を横に振って。
「ちげーよ。俺の、昔の友達のことだ」
「うわ、お前って友達いたのか」
「・・・どういう意味だコノヤロウ」
「言葉通りの意味だコノヤロウ」
いーっと、歯を剥き出しにして睨み合う。
と。
びゅぅっ、と風のないはずの洞窟内に風が吹いた。
首を巡らせる。
すると、フロアがずっと前の方でこちらを振り返って、俺達を見つめていた。
「・・・こっち」
「あ―――ああ」
多少なりとも戸惑いながら、俺とクレイスはフロアについて歩き出す。
・・・なんとなく、思うことが一つ。
俺の目の前にいるこのフロアは、実はフロアじゃないんだろうか?
フロアが変った―――というよりも、全く別の何かが、フロアの身体を借りている・・・と、言うそんな印象。
最初は、誰かに操られているのかとも思った。けれど、このフロアには自分自身の “意思” というものがハッキリと存在している。
そして、その “意思” がフロア自身の物とは、俺にはどうしても思えない。
「フロア!」
叫ぶ。
俺の声が、洞窟内にわんわんと反響して行く。
びくっ、と身体を振るわせて、フロアの歩みが止まった。
おそるおそる・・・と、金の髪を揺らしながらこちらを振りかえる。
「お前は―――」
“お前は、誰だ?”
シルヴァ=ファルコムと同じ言葉が頭に浮かぶ。
頭を振ってその言葉を追い出した。
「・・・・・いや、なんでもない」
今はまだ、聞いちゃいけないことなんだと思う。
なんとなく、そう思う。
「・・・・・・・・・ぁ」
低く、フロアがうめく。
気がつけば、フロアは小さな子供が怯えてるような―――そんな、泣き出しそうな表情でこちらを見つめていた。
その瞳の意味を・・・どういうわけだか、俺は気づいた。
助けを求めて居る―――俺が知っているフロアが、一度も俺に向けたことのない瞳。
「大丈夫」
ぽんっと、手をフロアの頭に乗せる。1年前は、まだ俺と同じくらいの高さだったその頭は、拳1個分ほど低くなっていた―――いや、俺が何時の間にか背が伸びていたんだろうけど。
安心させるように、彼女の金の髪を優しく撫でる―――1年前は、逆の立場だったのにな。
「きっと、上手くいく。なんとかしてやる。―――だから、絶対になんとかなるって思ってろ」
「あ・・・」
ふと。
フロアは小さく笑った。
「あの人と、同じ・・・」
「・・・へ?」
疑念に駆られ、尋ね返そうとした時には、すでにフロアは背を向けて歩き出していた。
まぁ、いいか。
俺は、そう思うと彼女の後について再び歩き出した。
洞窟内を進む。
フロアの後ろを追いかけながら、しかし周囲に気を配って。
シード―――俺が知っているシード=アルロードの性格からして、十中八九罠があると踏んで居たんだが、今のところその兆項らしき物すら見えない。延々と鍾乳石が続き、それらの鍾乳石の合い間と合い間。自然に生まれた通路を縫うように進んでいく。
どこにも人の手が加えられた様子も無く、人工物の匂いは感じられない。―――つまり、罠らしきモノもないってことなんだが。俺はちらりと前を行くフロアの背中に一旦視線を送り、それから俺の後ろをついて歩くクレイスに、こっそりと振りかえった。
「・・・おい、クレイス」
「ん?」
「なにか、魔法的ななんかとか感じないか? こー。罠っぽい魔法とかそういうの」
罠っぽい魔法。
自分で言っててよくイメージ沸かないが、魔法と言うもの全般に疎い俺にとってみれば、そういう表現方法が精一杯だ。
「罠・・・・・?」「罠なんてありません」
訝しげなクレイスの言葉と重なるように、前を行くフロアの声が洞窟内に響き渡る。
慌てて前を向くと―――目の前にフロアの顔。いつのまにか、立ち止まっていてこちらを向いていたらしい。―――クレイスを振りかえりながら、歩いて居た俺は彼女と衝突しそうになる。
「うわっ・・・と」
ギリギリで止まる。
その俺の後ろにクレイスの馬鹿がぶつかってきた。・・・堪える。
「オマエ、危ないだろう! 急に立ち止まるんじゃないっ!」
後ろからクレイスの罵声。
それを無視してフロアの瞳を見つめる。と、フロアはそれ以上なにも続けずに、再び前を進む。
嘆息。してから俺はフロアの後に続く。後ろから、なにやらブツクサ呟きながら、クレイスの足音がついてきていた。
なんだかよくわからないことだらけだが、解ったコトは一つ。
さっきまで確信を持てなかったが、目の前を歩いているのはフロアであってフロアじゃない。先ほど、俺が彼女の名を呼んだ時、彼女は怯えていた。
俺に対して、恐怖を持っていた。
操られているなら、恐怖なんて感じないハズだ・・・・・・・と、俺は思う。操られていないフロアなら、俺の声一つであそこまで怯えるコトもない。
人は変る。1年間で、ただ一人との出会いで、あるいは別れで、人の立場も性質も変わってしまう者なのかもしれない。
それでも空白の1年間よりも、俺は長い時間のフロアを知っている。きっと、目の前のフロアはフロアであってそうじゃない。
・・・なんていうのは、俺がそう思い込みたいだけなのかもしれないな。
「おいこら、お前―! いつまで続くんだよ、この洞窟! いい加減に僕は疲れまくったぞ!」
自分で自分の思考に苦笑をしていると、後ろからクレイスの怒声。
その声にも、幾分かの疲労が感じられた。・・・・そういや、悩み事をしててあまり気にしなかったけど、もう随分と歩いているはずだ。
けっこう、深いんだなァ、この洞窟。
大分地下に潜っている。段々と辺りの空気も冷えてきた。鳥肌が立つほどじゃないが、それでも肌寒く感じるほど。周囲を見まわす。
相変わらずぼんやりとした灯りが洞窟内を満たし、太陽に照らされて居る昼間―――とまではいかないが、それでも辺りを観察するのに苦労はないくらいだった。
周囲を見まわす。
が、さっきからと何が変るというわけでもない。
氷柱のように、鍾乳石が天上から突き出されている。時折、その先端から雫がぽたりと地面に落ちて、ぴちょんと水のはじける音を洞窟内に響かせる。
一つの疑問がある。
クレイスはこれを精霊の力を利用した魔力の光だと言った。
なら、この魔力の光は生み出したのは誰なんだろう?もしかしたらこれは天然の物なのかもしれない。俺には良く解らないが、多分あっても不思議じゃないと思う。
或いは、実はこの洞窟はなにかの遺跡―――俺たちが生きている、この時代よりも遥か昔。 “神話時代” と呼ばれた時の遺跡には、魔法仕掛けの照明とか、罠とか、そんなものが沢山あるらしい―――で、シード=アルロードとフロアは、それを利用して居るだけなのかもしれない。しかし、もしも、そのどちらでもなかったら?
シード=アルロードは魔法を使えない。少なくとも俺の知る限りでは。キンクフォートでシード=アルロードは、 “影” を使った。
影使い。と呼ばれる、魔族の一部が使う力。
話によると、影使いは光に極端に弱いらしい。昼間、ティルと剣を交えた時に、あっさりと退いたのもそのためだろう。
だから影使いが、こういった光を生み出す魔法を使えるとは思えない。
「フン、まあな。普通の人間なら、光と闇の魔法を両方使いこなすことも可能だが、影使いなら話は別だ」
俺がクレイスに尋ねると、疲労しながらも、相変わらず偉そうな口調だけは変えずに答えてきた。
「影使いはその本質が影だ。影が存在するには光が必要だが、自らが光になってしまえば影は掻き消えてしまう」「だから、影使いは “光の力” を使うことはできずに、その力に弱いのか?」
「そういうことだ。とはいえ、全くの闇の中でも存在は出来ない。影は影。光と闇があって初めて、存在できる存在だからな」
「どうでもいいけど、お前ってどうして普段からそう言うこと言わないんだよ」
俺は一通りの解答を耳にしてから、飽きれてクレイスに言った。
見なおした。というか、なんか裏切られた気分だ。
例えば「あの女の子は清楚で上品」だとか思ってたら、校舎の裏でしゃがみ込んで煙草を吹かしているのを目撃してしまったような気分。
馬鹿だ馬鹿だと思ってたのに、実は馬鹿じゃなかったら、なんかこっちが馬鹿みたいだし。そんなことを思ってると、クレイスは「フン」と鼻を鳴らして。
「魔法は嫌いだ」「・・・は?」
「魔法なんてあってもなんの役にも立ちはしない。結局、魔法なんて力は無力に過ぎないんだ」
「そうか? 使えたら使えたらで、けっこう便利だと思うけどな」
「・・・・・・・・・・・」
俺の言葉には応えず、クレイスはそっぽを向いた。
・・・なんなんだ、一体?コレ以上、なにか言っても応えは返って来ないと判断して、俺は再び歩くことに専念―――しようとして、気付いた。
前方。道が二つに分かれていた。
この洞窟に入ってからの、初めての分岐。
「・・・・・こっち」
と、フロア―――フロアの姿をした “なにか” がY字に別れて居る洞窟の左を進もうとする。
俺もフロアの後に続こうとして。
―――私は殺されないわよ。だって、必ず助けにきてくれるもんね。
声が、聞こえた。
「・・・シード?」
クレイスの声。
それと、視線の先でフロアが立ち止まり、首を傾げながらこちらを振り返っている。
つまり、いつのまにか俺はその場に立ち止まっていた。
―――絶対に、なにもかも上手くいくって―――そうなるって、信じなさいって!
それは、声。
声、だけど音に響く声じゃなくて―――
「どうしたんだよ、お前―――?」
クレイスが今言ったように、耳から入ってきた声じゃなくて。
「!」
俺は、身を翻すと洞窟ないを駆け出した。
二つの分岐。その、フロアが指し示した方向ではなく、もう一つの方向。
「そっちは駄目ッ!」
フロアが叫ぶ。だからと言って、聞くつもりは全くない!
駆ける。
全力で、洞窟の中を駆け出す。ふぉん。
不意に、空気の抵抗ではない “風” が巻き起こった。
強風。とか突風、ではないが、とてつもなく強い風の力。
まるで、風巨人の手のように、俺の身体は風に縛られて―――そのまま宙に浮く。
フロアの、精霊士としての力。
「そっちに行っては駄目・・・」
轟々と、風の唸りが聞こえる中で、フロアの呟きだけが妙にハッキリと聞こえた。
首を巡らせると、心配してるのか驚いているのか、宙に浮かんだ俺を見てパクパクと口を開け閉めして叫んでるクレイスの顔。それと、無表情なフロアのこちらを見上げた顔。笑う。
「なにが、駄目なんだ?」
声を出すのは苦痛ではなかった。
というか、風に束縛されながらも、身体を持ち上げられる以上の力は加えられていない。
むしろ、風の優しさすら感じる。ずっと昔、姉さんに抱き上げられた時のような感覚。
「・・・・・・」
フロアは応えない。
・・・いや、応えられることができない。だから、俺は確信した。
この先に、誰がいるのかを。
「ミステリア=ウォーフマン」「!」
俺の呟きに、フロアの身体はびくっと震えた。
反応、わかりすぎ。
「居るんだな。アイツが、生きているんだな!」
俺の言葉に、フロアが表情を泣き顔に崩して、ふるふると首を横に振る。「違う・・・違う・・・・」
「黙れよッ!」
怒鳴る。
この先にアイツが居るって言うなら、もう付き合う必要はないっ!瞬間、俺の視界がブラックアウトする。
天空八命星 “虚無” と姉さんに教わり、俺がそう呼んでいた力。
自分と外界の時間軸を僅かにズラすことによって、 “現在” の人間が、違った時間に移行した俺を認識することを不可能とする力。―――まあ、逆に俺自身も周囲の状況を知覚出来なくなったりするんだけど。――― 一瞬後。
気がつけば、俺は地面に膝をつけて着地していた。
「・・・・あ―――」
フロアの驚くような声。
一瞬、俺の存在を見失ったがために風の束縛を解いてしまったようだ。―――やはり、こいつはフロアじゃない。
ほぼ確信して俺は思った。
キンクフォートでもそうだったが、あまりにも集中力がなさ過ぎる。
俺の知っているフロアは、ミストに邪魔されたり、目標を見失ったくらいで、集中を解いてしまうほど弱くはない。膝を付いたしせいから、スプリンターの様に後ろ足を蹴り上げて、全力で前へ前へと駆け出す。
と、再び風。
俺を束縛しようと、風の腕が俺を包もうとする。
「何度も同じ様に行くと思うなよ!」
俺の手には一本のナイフ。
使いやすいようにグリップを若干削り、そして長い時間使いこなしてきたそれは、まるで俺の手や指の延長の様な錯覚すら覚える。俺の身体を風が包み込む。
しかし、持ち上げられるよりも早く、俺の刃が風を裂き、それと同時に叩き込んだ “力” が風を霧散させた。
「―――ああっ!」
フロアの驚愕の声。
それを無視して、俺は駆け出す。滑り易い床に気を配りながら、可能な限り全速力で。
進んだその先に必ず、アイツがいる。ハッキリと、それを感じる。ふぉん。
と、また風。
俺に風の妨害は無意味だとわからないのか!?思いながら、ナイフを構える。―――しかし。
「・・・なに!?」「このさきをとおすわけにはいかないのです」
目の前にフロアが現れて、俺は駆け足にブレーキをかける。
しかし、止まりきることができずに、そのまま盛大にすっ転んでしまった。
「いてて・・・・」
なんとか、怪我はない。
チョットだけ腰を強く打ったが、たいした痛みもない。動くのに支障はないようだ。起き上がる。
フロアを巻き込んじまったかと思ったら、フロア=ラインフィーは泰然として俺の行く手を遮るように存在していた。俺は、鋭く舌打ちすると、フロアを強く睨みつけた。
「そこをどけ」「・・・どうして、なんですか?」
返ってきたのは疑問だった。
意味がわからず俺が戸惑っていると、フロアは無表情のまま―――その瞳の端に涙をためて、こちらを見つめてくる。・・・って、涙?
「ちょっと待て。なんでいきなり泣くッ!?」「ずっと、ずっと、まっていたのです。わたしがよくしるこのひとも、このひとがたいせつだとおもってるあのひとも」
なんだ・・・?
なんか、さっきまでと雰囲気が違う・・・?
「ずっと、あなたをまっていたのです。すくってくれることを、ころしてくれることを、そして “きぼう” を」「なんだと・・・? 何が言いたいんだよ、お前は!」
救ってくれること・・・?
殺してくれること・・・?
“希望” ・・・?コイツは、なにを俺に求めてる?
「どうしてあなたは、かわってしまったのですか? わたしがよくしるこのひとがしるあなたは、あのひとのところにいってくれるはずなのにっ!」
泣きながら。
涙を流すことだけが、悲しみや嘆きを表す方法だと言うかのように。
哀しい表情の作り方を知らない、とでも言うかのように、フロアは無表情のまま涙を流しつづけていた。多分、俺にはフロアの言いたいことが解っているんだと思う。
きっと、1年前の俺―――イーグ=ファルコムなら、この先には進まない。
さっきの分岐でフロアが示した方向へ行くんだろう―――1年前までと同じ様に、フロアや姉さんに導かれるようにして。だけど。
今の俺は・・・
「俺はシード=ラインフィーなんだよ!」
走る。
フロアに向かって。フロアはその場から動かずに叫ぶ。
「どうしてですか! どうしてあなたはかわってしまったのですか!」
―――そのフロアの声が耳に届いた時には、すでにフロアの顔は目前だった。
フロアは両手を一杯に広げて、俺を立ち止まらせようとする。
自分の力である “風” が通じないと解っているから、それ意外に俺を邪魔する方法を思い浮かばなかったんだろうが。そんなところも、フロアらしくない、と思った、
あいつならそんな無駄なことはしない。“虚無” を使うまでもない。
ただ単純に、簡単に、俺はフロアの脇をすり抜けると、洞窟の先を目指す。
元々、フロアが両腕を一杯に広げたって、塞ぐことのできるほど洞窟は狭くない。
「―――変ったのはお互い様だろ!」
フロアの背中にはき捨てて、俺はそのまま加速した。
「やっほーシード君、お元気してたー?」
大脱力。
自分の身体の中から力と言う力が根こそぎ奪われるような気がして、俺はその場に膝をついた。
「・・・あれ。シード君。どーかしたの?」「お、おおおお前なァッ!」
力復活。がばっと身を起こすと、俺はミストを―――そう、あっさりと生きていやがった馬鹿女を睨み上げた。
「幾らなんでも軽すぎるだろお前ッ! 捕まったなら捕まっていたらしく、もうちょっと憔悴してるとか泣いてるとか、していやがれっ!」
なんかこー、わざわざキンクフォートからコイツを助けだしに来た自分が馬鹿らしく思えてくる。
きっと、こいつは俺なんか助けにこなくたって平気だったんだろうなって思う。と、俺の言葉に反応してか、ミストは「えー?」と首を傾げた。
「そんなこと言われても・・・ホラ、私って誘拐されなれてるし」「それもそれで問題アリだと思うんだが」
「それに、いつもシード君が助けてくれるじゃない。今回もそうだったでしょ?」
「・・・・・・・・・」
でしょ? とにっこり微笑んで来るミストに、俺はなにも言うことはできなかった。
なんか、妙な感情だ。
頼りにされてる・・・ってワケでもないんだろう。きっとミストは誰に頼るでもなく、一人で生きていく。そんな気がする。信じられてる、というのが一番正しいのかもしれない。
いや、 “信じる” って意味ですらない。きっとそれは、 “当然のこと” とミストは思っているんだろう。自分がいて、俺がいる。
多分、これは、もう、当然のことなんだ。と、思っているに違いない。
「どうしたの?」
「いや、別に」
黙ったままなの俺の顔を覗き込んで来るミストに首を振りながら、自分の言葉を思い出す。――― 一年前・・・・俺とミストが出会わなくても―――それでも、ミストは俺を見つけてた。
こんなことを思えてしまうのは、やっぱりコイツの影響に違いない。
「ミスト!?」
と、やっと追いついてきたらしく、いきなりクレイスが部屋に飛び込んで来る―――と、そう言えばここは部屋だった。
フロアを振り切って、走ったその先にあったのはこの部屋。
正方形をちょっと丸くしたような部屋で、俺立ちが進んできた通路よりも、広々と感じる。部屋の中には簡易ベッドが一つ。
それと、身体を洗う為なんだろうか、人一人入れるくらいの水桶が置いて合った。他はなにもない。
湿った地下独特の空気が支配する茶色い部屋。
「ミスト、生きていたんだな!」「なんか、生きちゃいけなかったよーな言い方ね」
ぎゅっと、クレイスが感極まったようにミストを抱きしめる。
抱きしめられながら、苦笑しつつミスト。と、クレイスはミストの抱擁を解くと、ニヤリと笑って俺とミストを交互に見た。
「よおしっ、ならこんな所に長居は無用だ! さくっと帰るとするぞ愚民どもー!」「お前なぁ・・・」
完全にいつもの調子に戻ったクレイスを見て俺は笑った。
「魔法は嫌いだ」―――そう言ったクレイスを思い出す。
きっと、こいつも昔に色々なことが合ったに違いない。俺が知っている、1年前よりもずっと昔に。だけど、俺にとってはこういうクレイスの方が付き合い易い。
「ま。今回はクレイスの言うとおりだな、さっさと邪魔が入らないウチに帰るとするか!」「駄目よ」
部屋を出ようとした瞬間に、ミストの制止の声。
振りかえると、ミストが真剣な表情でこちらを見つめていた。いつか、セイのヤツとはじめてあった時とも違う。
俺が見たことのないような、ミストの表情。
「なにが駄目なんだよ? 早くしないと―――」「やらなきゃいけないことがあるでしょ?」
「え・・・?」
ミストの言葉は、俺に向けられた言葉だった。
と、俺が戸惑っているウチに、クレイスが納得したようにうんうんと頷いた。
「成る程。つまりミストは、誘拐されたのだから容赦なく誘拐し返したいと思ってるわけだな」「アホかお前」
思わず言葉に出た。
今までシリアスなコイツを見てきたから、余計に阿呆と思ってしまうのかもしれない。
とゆーか、シリアスクレイスとのギャップが激しすぎるぞ、馬鹿クレイス。俺の言葉に、クレイスはフン、といつものように鼻を鳴らして。
「アホとはなんだ! 僕は誘拐され返されたんだぞ!」
・・・・そう言えばンなこともあったなー。
俺とミストがあったばっかの頃だから、もう1年になるんじゃないか?ったく、今はこんなことしてる場合じゃないって言うのに・・・!
「馬鹿言ってないで早く逃げるぞ! 早くしないとアイツラが来る!」
ぐいっ、とミストの手を強引に引っ張る。
と、思いっきり振り払われた。
「駄目だよ」
ミストが繰り返す、否定の言葉。
そこに浮かぶ表情は、なんか、どっかで見たことがあるような・・・哀しい、微笑み。
「逃げちゃ駄目だよシード君。フロアさんたちを助けてあげないといけないでしょ」「・・・!」
救って欲しいと、殺して欲しいと―――そして “希望” と、あのフロアは言っていた。
助けてあげなきゃいけない。殺して終わらせてあげなきゃいけない―――それが希望だと、俺の中の “イーグ=ファルコム” が叫んでいる・・・そんな気がする。1年前。俺一人が助かったことの、そして1年間俺がシード=ラインフィーとして生きたことの。
それは、贖罪という意味の義務。
「アイツラは・・・・・もう、俺には関係ない!」「シード君!?」
「いくぞミスト! 早く逃げるんだ―――」
今度は強くミストの手を掴んで引っ張った。
瞬間。
ぱしんっ・・・・
なにか、悲鳴のような打撃音。
ミストが、空いた方の手で、俺の頬を殴ったんだ―――と、気が付いた時には、ミストは俺の手を振り払って、俺から距離を置くように後ろに下がっていた。拳を握り、強く強く、ミストは俺を睨みつける。
それは怒り、なのか嘆き、なのか。
「やらなきゃいけないことがあるでしょう! あなたにしかできないことがあるでしょう!」「ミスト・・・?」
「シード=ラインフィー・・・・その名前は誰の物よ! 貴方が大切だと思っている人の物でしょう!」
「・・・もう。昔の話だ」
頭を振りながら、俺は続ける。
「俺は。俺が今一番、大切だって思ってるのは―――」
ミスト、お前なんだ!
という言葉は不思議と、口に出せなかった。今、この言葉を言ってしまえば、きっとミストは俺を許さない。
何故か、そんな気がした。俺が口を閉ざしたのを見て、ミストは静かに告げた。
「シード=ラインフィー・・・・その名前を返すときが来てるのよ。イーグ=ファルコム」
どくん、と鼓動が一つ。大きく、高鳴った。
目の前が真っ暗になる。
それは、失望と絶望が一緒になって、ごちゃまぜになったような感覚。それは、拒絶だった。
俺を、シード=ラインフィーという俺にしたミスト自身が、シード=ラインフィーを拒絶した。俺は、シード=ラインフィーではなく、イーグ=ファルコムだと。
「・・・俺にどうさせたいんだよ。お前は」
泣きたかった。
ここで無様に泣き喚きたかった。
きっと、イーグ=ファルコムだったらそうしただろう。泣き喚けば、姉さんやフロアが優しくあやしてくれたから。でも、もう俺は泣き喚くコトなんてできない。
俺はもうイーグ=ファルコムではないし、目の前にいるのは、姉さんでもフロアでもない。
「解ってるはずだよ。シード君は」
そう静かに呟いたミストの表情は穏か。
「助けてあげて。シード君がその名前を貰った人達を。そして、 “あの子” も」
あの子―――?
尋ね返そうとした瞬間、不意にミストの足元に黒いシミが広がった。
「ミスト!?」
クレイスの悲鳴のような声。
その真っ黒いシミが、影だということにすぐに気付き、俺はナイフを抜き放つ。
「シード君! 大丈夫だから!」
“影” にナイフを突きたてようとした俺を、ミストの声が止める。
と、それが合図だったかの様に、ずぶ・・・とミスト足首が影の中に沈んだ。
「なっ? 影の中に―――!?」「大丈夫だって。・・・それよりも」
ミストは影の中に沈みながら、苦笑。
そう言ってるうちにも、ずぶずぶとミストの膝まで沈んでいく。
「シード君、お願いね。あの子と約束しちゃったから―――だから」「わかったよ」
嘆息。して、俺は抜いたばかりのナイフを懐に収めた。
正直、自分でもなにが解っているのか解っていない。
それでも、アイツラをなんとかしなきゃいけない―――それだけはわかっている。ゆっくりと沈んでいくミストの身体。
もう、胸の辺りまで沈んでいる―――が、不思議と危機感はなかった。“大丈夫” そうミストが言ったからかもしれない。
その言葉以上の安心がどこにあるというんだろう。
「お前も、シードもフロアも。俺がみんな面倒見てやる」「―――ありがと」
その言葉と微笑みを最後に。
ミストの身体は完全に影の中に沈んだ。そして、ミストを飲み込んだ影も、掻き消えた。