パニック!
シード編・第一章+α
「クレイス=ルーンクレスト」
A【アバリチアの愉快な日常】
冬の、まだ日も明けぬころ―――
シードはむくりと起き上がった。
右手で自分の黒髪を掻きあげる。
「ふああ…」
黒い漆黒の瞳に涙を溜め、彼はあくびをしながら軽く伸びをした。
「……」
しばしボーッとした後、毛布を除けて立ち上がる。
少年は、暗い部屋の中を見回した。
部屋の中は簡潔だった。
今、彼がどけた毛布、彼の上着がかかっている椅子、窓、そしてこの家の主人が使っているベッド。それに付け加えるならば、絨毯といったところか。
窓の外がまだ暗く、ベッドの上に誰もいないことを確認すると、彼は上着を取って羽織る。
見たところ15,6の普通の少年である。
ただ、彼は普通の少年とは違うところがあった。
彼は元暗殺者だった。
彼は上着のきごごちを確かめるように軽く袖を伸ばした。言われるままに彼が選んだ。
黒のフード付きのジャンバーである。彼は黒が好きなのだ。
…この上着は彼が買った物ではない。
と、いうか、彼の今着ているものは下着からなにまでこの家の主人に買ってもらったものだった。
元着ていた黒い服は、その娘のミストが『汚い』と言って、あっさり捨ててしまった。
…まあ別にシードにしてみれば、それほど愛着のあった服でもないからどうでもいいことだったが。
上着の温かさを感じ、彼は部屋の出入り口に進んだ。
隣の部屋でミストが寝ているかどうかなんて確かめはしない。
昨日は確かめたお陰で、騒動に巻き込まれ、なんだかんだと引き止められてしまったのだ。
彼は静かに部屋を出ると、台所兼居間を通って、玄関に出る。
彼はドアノブに手をかけ、一度だけ振り向いた。
「…悪いな。俺にはやらなければならないことがあるんだ…」
静かにつぶやき、二度で口の方にむき、ノブを回しドアを開ける―――
不意に、頭上から何かが落ちてくる気配を感じ、とっさに―――というか、理解するより先に身体がかってに前に転がっていた。
地面に体が触れる瞬間、彼は視界の隅に映った、『落ちてきた物』を確認する。
『落ちてきた物』が地面に激突し、甲高い金属音をあげる。
落ちてきたのは”やかん”。
何故やかん!? と、彼に驚愕の声を上げることはできなかった。
地面に身体が落ちた瞬間、地面が抜けた。つまり、
「おとしあなぁぁ!?」
今度はきっちり叫びながら意外と深い穴の中に落下した。
カーン
と、鐘の鳴る音が聞こえ、ミストは目を覚ました。
鐘とは家(アパートだが)の入り口のドアに仕掛けてある『罠』に連動してある鐘である。
ドアを開けて、やかんが落ちる罠が発動すると同時に鐘が鳴るしくみになっている。
「ん…シード君かな?」
つぶやきながら身を起こすと、玄関の方で金属音が聞こえた。
ややしばらくして、
「おとしあなぁぁ!?」
予定通りシードの叫び声。
『罠』の事をしつこく何度も父親に頼んでおいて正解だったようだ。
「どうやらちゃんと仕掛けていってくれた様ね」
いつも朝早すぎるくらい早い父親に感謝しつつ、ミストはベッドから降りた。
「うぅ、さむっ」
冬の朝の寒さに少し身を震わせながらいそいそと着替えた。
水色のセーターの上に赤いチョッキを羽織り、擦り切れた愛用のピンクのジーパンをはいて、黒革のベルトで締める。これがおおむねいつもの格好だった。
ちらと鏡を見る。そんなに長くない、赤い髪が少し跳ねていたが、彼女は「まぁいいか」とつぶやくと軽快な足取りで玄関に向かった。
「またおとしあなぁぁ!?」
ドアノブに手をかけた瞬間、再びドアの向こうで叫び声があがった。どうやら一つ目の落とし穴から這い出たシードが再びもう一つの落とし穴に落ちたらしい。
ミストは鼻歌なぞ歌いながらドアを開けると、さらに軽快な足取りで一つ目の落とし穴を飛び越え、もう一つの落とし穴を覗き込んだ。
「おはよっ。シード君」
「ああ、おはよ」
にっこり微笑んでいったミストの声に、シードは仏頂面で応えた。
「何でこんなに落とし穴が掘ってあるんだよ?」
穴を板で塞ぎながら、シードは激昂した。
落とし穴は、別に昨日今日掘った物ではなく、木の板でふさいでその上に土をかけてあった穴を、再び板を取って、少し細工しただけの物らしい。
シードが落ちたのは二つだが、道に出るまで後二つもあるらしい。
シードの問いに、ミストはどこか遠いところを見つめて。
「子供のころの思い出よ」
その一言でシードは納得した。
「それにしても、人をこんな穴に落とすか? ものすごく深かったぞ!」
鉄製のシャベルを持ち、シードは板の上に土をかけながら言った。
穴の深さは大人の身長ほどあったろうか。下手に落ちれば骨折ぐらいしていただろう。
ミストは憤然として言い返した。
「なによー。借金残して逃げようとするからいけないんでしょ」
「いやだからだな。俺にはやらなければならない事が…」
「マフィアに追われてる特殊な彫刻家が、何をやらなければならないと言うの!」
「だから、俺は暗殺者だって言っているだろが!」
がしゃんっ! と、シードはシャベルを地面に叩き付けた。
「ふっ…あなたらしいトリックね!」
不敵な笑みを浮かべて言うミスト。
「…なにが『俺らしい』のか解らんが、とにかく、俺は暗殺者であって彫刻家なんかじゃないっ!」
「証拠はっ!?」
「彫刻に使う道具なんか持ってなかっただろがっ!」
「なるほどね…つまり…」
ミストは静かに肯いた。
シードには次に来る言葉を予想して先手を打った。
「家に忘れてなんかないからな」
「落したのね」
「こ、この女…」
歯ぎしりするシードに、ミストは勝ち誇ったように高笑いをあげた。
「ほーっほっほ! あたしの完璧な推理の前にはへたな偽証など簡単に打ち崩されるのよ!」
「てゆーか、真実までも打ち崩してる事に気づけよ。お前」
疲れたようにシードはつぶやいた。が、ミストには聞こえなかったようだ。
「ま、納得したところで…」
「誰がいつ納得したっ!」
シードの叫びを、しかしミストは決然と無視した。
「借金返すために働きに出るわよっ! シード君」
「……」
やたら元気そうに宣言するミストに、せいも根も尽き果てたシードはなす術もなく引きずられて行った。
東の空が、少し白み始めていた…
「うぅ…疲れた…」
ぐたーっとなってシードは食堂のテーブルに顔を突っ伏した。
朝のあのあと、シードはミストに『スモレアー』まで引っ張っていかれた。
そこでシードは借金のかたに働かされたのだ。
水汲み(このアパートもそうだが、『スモレアー』には水道なんてない)、薪割り(『スモレアー』では火をおこすのに、石炭ではなく薪を使っている。そっちの方が安上がりだからだ)、薪運び…
「さらには掃除に、お使い、ウェイター…」
シードは指折り数えて、今日やった仕事を反すうした。
まぁ、どんな環境でも適応できる様にと、さまざまな訓練を受けていたお陰でそれほど苦にはならないが、さすがに水汲みや薪割りといった力仕事はこたえた。
そんな俺を見て、ミストはやさしく微笑んだ、
「ふふ…働いたあとって、気持ちいいわね…」
「てめえは何にもしてねえだろうがっ!」
シードは残っていた力を振り絞って叫んだ。
ミストは心外そうに、口に手を当て。
「ええっ、あたしはちゃんとシード君の監督をしてたじゃないの!」
「テーブルでお茶飲んでただけだろうが…」
もう叫ぶ気力もなく、シードは弱々しくうめいた。
「なぁ…なんでもいいから食べる物ないか…」
「うーんそおねえ…」
ミストは虚空を見上げてしばし考えた。やがて、にこりとシードを見て。
「ミストちゃん特製『スパイシー・辛甘口こってり・赤スープ』なんてどお?」
「……なにそれ?」
シードの問いに、ミストは人差し指を立ててウインクした。
「ヒ・ミ・ツ。それはできてからのお楽しみ」
「……」
シードは無言で立ちあがると、自分の寝室へ引っ込んだ。
次の日…
「朝だよっ! シード君!」
「ああ?」
いきなりたたき起こされて、シードは不機嫌そうにミストをにらむ。
「何だよ、疲れてるんだよぅ、寝かせてくれよぉ…」
「なに情けない事言ってるの! さぁ、今日も勤労奉仕に励むわよ!」
やたら元気なミストにうんざりしながら、シードは窓の外を見た。
真っ暗である。
「何だよ。まだ日も出てないじゃないか…」
「いいのよ。奇襲をかけるんだから」
「奇襲?」
いぶかしげに聞き返すシードの問いには答えずに、ミストはシードを急かした。
「いいのいいの。ほら、早く着替えて!」
…ほんと、なにやってるんだろうな、俺は。
ミストたちとであってから何度も思いつつ、シードはミストと一緒に夜明け前の街を歩いていた。
「で? 奇襲って何の事だよ?」
「クレイスに奇襲をかけるのよ!」
拳を握り締めてミストは力強くこたえる。シードはミストの顔を覗き込んだ。
瞳が炎に燃えている。
どうやら本気らしい。
「…なんかあったのか?」
シードが尋ねると、ミストは肯いて。
「おとといの誘拐事件。発端はクレイスだって事が発覚したのよ」
シードは頭を抱えた。
「それで…仕返しに行くのか?」
当然! とばかりにミストは肯いた。
「ふふふ…このあたしを怒らせた事をたっぷり後悔させてあげるわ!」
「で、何でその仕返しに俺が付き合わなければならないんだ?」
「あら」
目を輝かせて、ミストは微笑んだ。
「だって貴方には借金があるんですもの」
「……あーあ、はいはいわかってるよ。そんなこと」
「だったらいいじゃない」
万事解決。というぐあいに、ミストは手をぽんっとたたいた。
と、ふと疑問に思ってシードは尋ねた。
「そういや聞いてなかったが…その借金っていくらぐらいなんだ?」
「銀貨千枚」
言われた金額は、子供にしては大金だが、返せない額ではなかった。一ヶ月間働けば子供でも返せる。
拍子抜けしてシードはつぶやいた。
「な、なんだそんなもんか」
「利子が」
「へ?」
「エリクサー自体は金貨千枚」
「ぶっ!」
思わず吹き出したシードにミストはにっこり笑って。
「安いでしょー利子がたったの1%なんて」
だいたい、金貨一枚=銀貨百枚である。まあ土地によって変動するが。
「そ、それを俺に返せと?」
「大丈夫大丈夫。一生かかっても返せない額じゃないから」
「半生はかからんと返せないと思うが」
「大丈夫大丈夫」
何を根拠に行ってるのか知らないが、ミストがやたら自信たっぷりに言う。
「はあ…ところでミスト、なんか駅に向かってるようだが?」
「そうだよ。駅に向かってるんだよ」
「クレイスの家ってこの区じゃないのか?」
「うん。中央区だよ」
アバリチアは、五つの区に別れている。
東西南北、そして中央。
現在シードたちがいるのは南区で、東や中央ほどではないがそこそこにぎわっている区である。
簡単に説明しておくと、
東は大河に交わっていて商業が発達しており、南は特色はなにもないがそこそこにぎわっている。
西はスラム街と、西の端にある古代の地下遺跡で一攫千金をねらう冒険者の街で構成されており、
北と中央には上流階級の人間が住み、特に中央はこの街の行政機関がある。
かの有名なルーンクレスト学院があるのもここだ。
「中央区? …まあ確かにどっかの坊ちゃんらしかったからな…」
「そ、どっかの坊ちゃん。…クレイスの家見たらシード君驚くわよ」
いたずらっぽくミストが言う。
「そんなに大きいのか?」
「ん、まあね。ま、行ってからのおたのしみっと」
と、ミストはシードに向かってウインクをした。
アバリチアは広い。
一番小さい中央区でも、端から端を歩くのに一日かかってしまう。
そのため交通機関が発達しており、一つの区に乗り合い馬車の停留所が数十箇所あったり、川には乗合船が何十艘と浮いている。
…と、まあここまでなら、王都キンクフォートでも、貿易都市カリィッツォでも普通の光景である。が、
もう一つ、アバリチアにはとんでもない交通機関がある。
魔道列車。
大陸の端から端までを走っているあの大陸横断列車と同じ物だ。
地上を走るいかなる物よりも速く、魔力さえあれば千人を超える大人数を乗せて走るあの列車である。
それが区内を走り、二十四時間営業で区と区をつなげる足になっているのである。
これも、大陸最高の魔導師といわれ、ルーンクレスト学院院長である、カルファ=ルーンクレストの力あってこそである。
ちなみに、列車が止まる駅の数は、馬車の停留所と比べるとそんなに多くない。アバリチア全てあわせて十数個といったところか。
…もっとも、大陸横断列車の駅の数より多いのだが。
ま、それはさて置き。
大陸横断列車は時としてかなり大金を積まなければならない事もあるが、この区間列車は違う。隣の区に行くぐらいなら、飴を二、三個買うぐらいの金額でいけるのだ。
かくしてミストとシードはアバリチア中央区、ルーンクレスト学院前の駅に降り立った。
東の空は白み始めているが、それでもまだ日は出てなく、外灯には白い光が点っている。
「これが…ルーンクレスト学院か」
シードはただ呆然と、あたりを見上げた。
ちょっと見には、何処にでもある普通の学校のようだった。
が、規模が違う。シードが校門から見て、塀の端がかすかに見える程度なのだ。四、五キロはあると見ていいだろう。
なにより、普通の学校とは違って目をひく物があった。
塔である。
校舎の向こうから天を突き刺すように聳え立つ塔。
「なあミスト、あの塔ってなんなんだ?」
シードの知識には、学院に塔があるとは聞いていたが、何のための塔かは忘れてしまった。聞いた事があるはずなのだが、思い出せない。確か馬鹿みたいな理由だったという印象がある。
「ああ。あれ? シード君、『試練の塔』って聞いた事ある?」
「へ? たしか、この大陸のどこかにあって、最上階まで登ると願いがかなうとか言うあれだろ? …って、まさか?」
「そのまさか、あれこそが『試練の塔』…」
「なにいっ、ということは、あの塔に登れば借金返す事も可能!?」
が、ミストは笑いながら首を振る。横に。
「最後まで話は聞いてよ。あれは『試練の塔』のレプリカ。偽物よ」
「はぁぁ?」
一気に脱力しながら、シードはミストをみた。
「一応、登りきればなんかくれるらしいけどね」
「俺でもか?」
「まさか、生徒だけよ」
「ちぇっ、なんだ…」
「ま、そんな事はさて置き、いくわよ!」
ミストは宣言すると、そのまま学院の塀に沿って歩き出した。
「ったく、いつきても無意味に長いわねー」
やっと塀の端について、ミストは誰にともなく文句を言った。
太陽は既に顔を全部出している。
「なあミスト、これからどれくらい歩くんだ?」
シードが腹を押さえてうめく。
…考えてみれば、昨日の夜なんにも食べてないんだよな。
当然朝食もまだである。
「くそ…なんで俺がこんな目に合わなけりゃなんないんだ?」
「ホラ、ぶつぶつつぶやいてないで。いくわよ」
引っ張るように…と言うより実際にシードを引っ張ってミストは塀の隣にある、道に入っていった。
公道ではない。
屋敷へと続く、馬車の私道だろう。公道以上に整備されており、所々に彫像がある。
「なあ…ミスト…」
「なに? たくさんの彫刻に、彫刻師としての心が燃えた?」
「だから違うって言ってるだろ。…聞いてなかったけど、クレイスってどういう家柄なんだ?」
「知りたい?」
「っていうか、なんとなく予想できる物があるんだが…まさかな」
「ふふん。シード君の推理は多分あっていると思うわよ」
「やっぱり?」
そんな話をしながら、歩いていくと、シードたちの視界に立派な門が見えてきた。
門の表札にははっきりとこう書かれていた。
『ルーンクレスト学院院長 カルファ=ルーンクレスト』
「帰る」
「待ちなさいって」
ミストは、あっさりUターンしようとしたシードの襟を引っ張った。
シードはミストの方に向き直ると、激しく激昂した。
「洒落になってないぞ! 事実上この街の最高権力者じゃないか!」
「洒落じゃないわよ。本気だもの」
きっぱりと言い放って、ミストは堂々と門に向かう。
「まてまてまてまて!」
シードは止めようと、ミストを引っ張る。が、既に遅く。ミストは門の脇の鐘を鳴らしていた。
からん…と鐘は一度だけ鳴った。
「なんの御用でございますか?」
「どわっ!」
いきなり門の陰から出てきた初老の男にシードはのけぞった。
髪を白く染め、白いひげを生やし、黒いタキシードを着て黒いネクタイをした男である。多分執事だろう。名前は絶対にセバスチャンだろうとシードは思った。
「ど、何処から現れた!」
「何処と言われてもお客様。見ての通り門の陰からですが」
「…まさかと思って聞くが、ずっと門にいたって事はないよな」
執事は不可解そうに笑いながら言った。
「まさか。あちらの庭園の方から、偶然歩いてきたのですが」
「嘘つけ! 足音なんてぜんぜん聞こえなかったぞ」
シードは無意識のうちに足音を聞く訓練を受けている。一般人が普通に歩いてくるならばその足音ぐらい聞きわけられるはずだった。
執事はにっこりと微笑んで。
「足音を消してまいりましたので」
「……」
あえて理由を聞かずにシードは黙った。考えて見れば執事が門の陰に一日中いようと、何処からともなくやってこようとも自分には関係ないのだ。
「久しぶりね。セバスチャン」
ミストが微笑んで挨拶する。
執事…やはりセバスチャンだった執事はおおっと驚いて、
「おや、これはミスト様。お久しゅうございます」
と、優雅に一礼する。
「して、今日はなんの御用で?」
「クレイスはいる?」
「まだ寝ていらっしゃいますが」
「ちょっと、クレイスを誘拐し返しにきたのよ」
「馬鹿…」
あっさりとミストがいうのを聞いて、シードは叫んだ、
が、シードの予想に反してセバスチャンはにっこりと微笑んで。
「さようでございますか、…実は昨日三階の坊ちゃまの部屋で何故か小火がおきましてな、実は1階の…」
と、セバスチャンは右手で玄関の脇の一つの窓を指し示した。
「…あそこの部屋でお休みになられております」
「そう」
と、セバスチャンは声を潜めて。
「ついでに、何故か偶然にもあそこの窓の鍵が壊れてましてな。外からの侵入が容易でして…」
「おいおいおい」
思わずシードは声を上げた。セバスチャンは顔を上げて真顔で聞く。
「なにか?」
「何かじゃないだろ! そういう事を執事として教えていいのか?」
「おや?」
と、セバスチャンは両手を広げて驚いてみせた。
「私なにかいいましたか?」
「……おかしい絶対に何かが狂ってる」
虚空を見上げてシードはつぶやいた。
「おおそういえば!」
と、唐突にセバスチャンは手を叩いた。
「何故か偶然、不思議にも、その窓の近くに大八車がおいてあるのです。使いたければ御自由に」
「そう。でもいいわ、今日はシード君がいるから」
と、ミストは虚ろにつぶやくシードの腕に抱きついた。
「ほほう。良い仲ですな」
「だれがだっ!」
シードは不意に我にかえると、怒鳴った。
執事は意に介さずに優雅に一礼するとそのまま後ろ向きに下がっていった。無論足音を立てずにだ。
「さぁて、なんだかよく分からないセバスチャンが行ったところで行くぞミスト!」
「ど、どうしたのシード君。…目が据わってるわよ」
「うるさい。こんなの開き直ればそれまでだって事に気づいたんだよ! というわけでちゃっちゃとクレイスを誘拐しに行くぞ!」
と、ずかずかと門を開けてシードは敷地内に入っていった。そのまままっすぐに執事に言われた窓を目指す。
「まってよシード君」
慌ててミストも追いかけた。
シードは窓を覗き込んだ。確かにベッドにクレイスが寝ている。シードは窓に手をかけた。確かに鍵はかかっていなかった。
「ちょっと高いな…」
入るのは簡単だが、クレイスをもって出るのは苦労しそうだ。と、シードは台になる物はないかとなんとなくあたりを見回した。
「……」
視線がふと止まる。執事が行ってた大八車の側に何故か踏み台があった。図書館なんかに、高い場所の本を取るためにおいてあるような踏み台だ。
シードは何故それがそこにあるかはあえて考えずに、無言で台を窓の下まで持ってきた。
それから後は簡単だった。
部屋に侵入し、目覚めかけたクレイスに当て身を食らわせ再び眠りにつかせる。そのままクレイスを背負って、踏み台を踏んで外に出た。
と、呆然としているミストに声をかけた。
「いくぞ!」
「……そうね」
ミストは微笑み―――ただしどこか顔が引き攣っていたが―――肯くと、シードの後に続いた。
街はすでに朝を迎えていた。
ちょうど通学ラッシュなのか、学院の学生がうじゃうじゃと歩いている。
クレイスを担いでいるシードの姿に、学生が不審そうに見るが、ミストの姿を認めると何事もなかったように通り過ぎる。どうやら日常茶飯事らしい。
「あ、あれミストじゃないか?」「あら? 本当にミストだわ?」「久しぶりだなー、一年ぶりじゃないか?」「またなんかやってくれよー!」
学生たちの声が聞こえて、シードはミストを振り向いた。
「なぁミスト、お前って…」
「あはは、あたしって結構有名人?」
照れたように頭を掻く。
「さて、んじゃあとっととおいとましましょうか」
と、通りの向こうからやってくる馬車に向かって手を挙げた。
「へい! タクシー」
「なんだそりゃ?」
「しらないの? 停留所でもないのに、乗り合い馬車に乗るには、てをあげて『へい、タクシー』って言うのよ。知らなかった?」
そんな事を話している間に、シードたちの前に馬車は止まった。
ミストは素早く乗り込んで、シードも後に続く。
馬車の中は御者以外無人だった。
御者が振り向き、おや、と笑う。
「ミストちゃんじゃないか。久しぶり」
「うん。久しぶり」
御者の視界には俺もぐったりとしたクレイスも入ったはずだが、なにも言わない。
「なつかしいねえ…一年ぶりじゃないかい?」
「そうね。おじさん。この馬車は何処まで行くの?」
「駅までだがね。だが、ミストちゃんのためなら何処まででも行ってやるよ」
「あらそう? なら、キキタの森まで行ってくれる?」
「あいきた」
御者は肯くと、馬に鞭を入れた。
走り出すのを感じながらシードはミストに聞いた。
「キキタの森なら、列車で行った方が速くないか?」
キキタの森は南区の東に位置する森だ。しかし、シードたちの現在位置は中央区の北側である。
だが、ミストはにっこり微笑んで。
「すぐわかるわ」
すぐわかった。確かにわかった。
馬車は最初は歩くより遅かった。そして歩行のスピードになり、だんだんと人が走る速度になる。さらに加速し、軍馬が戦場を駆けるよりも速くなる!
「ちょ、ちょ、ちょっと! こんなむ、ちゃな、はしりかた、した、らばしゃがこわ、れるぞ!」
舌をかまない様に気を付けながら、シードは必死で叫んだ。
信じられない事に御者は笑いながら言い返してきた。
「はっはっは! 大丈夫だぜ、兄ちゃん! これでも何十年と死線をくぐりぬけた馬車だ! 簡単な事じゃつぶれんさ!」
これの何処が簡単な事かっ! とも思ったが口には出さなかった。いや、出せなかった。
「くっ、でも、うま、が、つぶ…あがっ、」
段々増して行く速度とゆれに、ついにシードは舌をかんだ。口の中に血の味が広がる。
それでも意味は通じたのか、御者は豪快に笑いながら。
「がははは! 俺の馬はこんな事じゃつぶれんて。な、相棒!」
「ヒヒン!」
御者の言葉にこたえるように馬がないた。外の景色がはわからないようなスピードで走ってるにもかかわらずにだ。
シードが隣を見ると、ミストは平然と座っている。
く、くるってる。何かが絶対狂ってる!
舌の痛みを我慢しながら、シードは心の中で絶叫した。
馬車が止まり、目的地に着いたとき。
シードはついたところが森でなく、天国だと錯覚した。
「ああ…シード、フロア…もうすぐ会えるぜ…」
「なにいってるのシード君。ついたわよ」
ミストに揺さぶられてシードは我に返った。
馬車を降りると、そこはこの前の森だった。
馬車に乗っていた時間は正確にはわからないが、太陽の位置から見て、一時間と乗っていなかったとシードは思った。
「馬車賃はいらねえぜ」
にっと、笑って御者は行ってしまった。
「…お前って顔広いのな」
「まあね」
シードが感心したように聞くと、笑ってミストがこたえた。
「でも、なんかみんな久しぶりっていってるな。一年ぶりだって…」
そこまで言ってからシードは不意に気づいてしまった。
ミストは少し元気ない笑みを浮かべて、
「うん…一年前、母さんがなくなって…ちょっと、家のなかに閉じこもり気味だったから」
「……」
シードが何も言えずにミストの横顔を見詰めていると、
「さて、いくわよ」
いつもの様子を取り戻し、ミストは宣言すると、森の中に入っていった。それにシードも続く。
森の中をしばらく歩き、この前、ミストが捕まっていたところまでついた。
「さて…」
「ところで、こいつどうするんだ?」
と、シードは地面に降ろしたクレイスを見た。
「そうね。考えてみれば、誘拐してなにしようと思ったわけでもないのよねー」
「…こいつも不幸な奴だな」
シードはクレイスを心より同情した。
「よし。ここに都合よくロープがあるし…」
「何故ある?」
シードは半眼でミストが懐から取り出したロープを見つめていった。
「気にしないで。…じゃあ、これでそこら辺の木につるしときましょうか」
「そだな」
もうどうでもいいやという感じで、シードは肯いた。
「ああっ、お前等なにをする!」
手近な木につるし上げたところでクレイスは気がついた。
「ほーっほっほ。このあたしを誘拐するなんて言う、だいそれた事をするからよ!」
「くぅぅ! 卑怯者があっ!」
「ほーっほっほ。何とでも言うがいいわよ。負け犬の遠吠えとしか聞こえなくてよ」
「くぅぅっ!」
と、ミストは振り返ると、森の外へと向かった。
「帰るわよ。シード君」
「へ? このままにしてていいのか?」
さすがにまずいんじゃないかと、シードはミストに聞いた。
「後でカリストかトレンに連絡しとくわよ」
そういって、ミストはにっこり微笑んでクレイスを見上げた。
「じゃ、そーゆーことで」
木の上から降り注ぐクレイスの罵倒を無視して、ミストは森の外に歩いていった。
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