第三部 連休一日目の一人の午後 ・・・あるいは西山幸治の最大の危機。

 

あるひ、あるとき、あるばしょで。

「あれ?」

幸治は周りを見回した。

ぼんやりとする記憶の中、かろうじて覚えていた。

自分の部屋だ。

意外ときれいに片づけられている自分の部屋のベッドの上に、幸治はあぐらを掻いて座っていた。

小学校のころから使っている(と思う)勉強机の上の置き時計は六時ちょうどをさしていた。

「なんだ・・・? やけに連続して起こるな・・・」

今までにないことだった。

あるとして一ヶ月に一回。多くて週に一回というところだったのだが。

一日おきに連続してというのは始めてだった。

「本気で医者にいったほうがいいかな。このままじゃ何かまた不都合が起きそうだ」

幸治は「給食」の一件を思い出して―――とはいえ、幸治にしてみれば「さっき」の出来事なのだが―――渋い顔をしてうめいた。

「『突発性記憶喪失症』はいいとして・・・」

いいのか? おい

「二重人格症は問題だよなあ」

ふうっ、とため息をつき、

「給食の話は流れたし・・・」

給食の一件を再び思い出して天を仰ぐ。

「俺の死活問題なのに・・・」

そう独り言をつぶやくと、幸治はこてんとベッドの上に転がった。

ふと、後頭部を押さえる。

記憶のない間だ、頭でも打ったのか少しうずく。

しばらくそのままぼぉっとしていたが、やがてふと思い出して、がばっと跳ね起きる。

「っと、そういや記憶が失われる前、綾と二人っきりで部屋にいたんだよな」

もし、その時二重人格症が出て、綾になにかしていたら・・・

いや、なにかどころか、あんな事やこんなことしていて、行き着くところまでいってしまっていたら・・・

さすがにぞおっとして、幸治はつぶやいた。

「・・・やっぱ、責任って取らなくちゃいけないのかな・・・?」

最悪の事態を想定して、幸治は思わずつぶやいた。

・・・・・しばし黙考・・・・・

 

とりあえず、電話して確かめることにした。

しかし幸治はそこで根本的な問題にぶち当たる。

「・・・電話ってどこだっけ?」

少し考えたが、思い出せない。というか、家の間取りすら思い出せないのだ。

よくそこまで重傷でこいつは「気にしない」でいられるのだろうか。

やはりかなりの大物かもしれない。

とりあえず、思い出すより探したほうが早いということに気づき、幸治は自分の部屋を出た。

幸治の家は古いアパートで部屋が三つしかない。

もしこれ以上部屋があったなら毎日自分の家で迷っていただろう。

幸治は母親を幼いころに亡くし、トラックの運転手をやっている父親とともにすんでいる。

本当は、双子の弟がいるはずだったのだが、生まれる前に死んでしまった。そのショックか母親もそのまま亡くなってしまった。

もっとも、こいつはそんな事一遍たりとも覚えてはいないが。

「でんわでんわ・・・」

とりあえず自分の部屋にはないと思ったので、居間を探してみる。幸治の部屋と比べて結構散らかっている。

「ないな・・・」

見つからないので、今度は父の部屋を探してみる。

「げ〜」

幸治は思わずうめいた。

父の部屋は今と比べてかなり散らかっていた。

散らかり具合を幸治の部屋を下とすると、居間は並、この部屋は特上といったところだ。

「少しは片づけてくれよ・・・」

意外ときれい好きな幸司はしかめっ面をして、電話を探しつつ、部屋を片づけていった。

一時間後・・・

「ふう・・・結構片付いたな」

一時間前とは比べ物にならないほどに整然とした部屋を見て幸治は満足げにうなずいた。

「これを見て親父ももう少し片づけてくれればいいんだけどな・・・今度説教してみるか」

もちろん、幸治は忘れているが、幸治は今までにも何度か・・・いや、何十回か説教している。

が、その度にいつも

「馬ぁ鹿、このナイスダンディな俺がきれい好きになっちまったら、非の打ち所のねえパーフェクト親父になっちまうじゃねえか。人間、少し位欠点があったほうがいいんだよ」

そういって豪快に笑いながらパチンコにいってしまうのだ。

次、説教しても同じだろう。

いや、これから先に何度説教しても同じだろう。

と、幸治は満足顔で部屋を見回していたが、ふいにいぶかしげな表情になって

「さて・・・そう言えば、なにしてたんだっけか?」

・・・完全に電話のこと忘れてる。

「う〜ん・・・なんかあったような・・・」

額に手を当て、幸治は黙考モードにはいった。

「・・・」

一分経過。

「・・・・・・」

五分経過。

「・・・・・・・・・・・」

十分経過。

「思い出した!」

おまえは一休さんか。

もっとも、こいつの場合閃くのはとんちでなく記憶だが。

「たしか、仲島先輩に告白するんだったっけか?」

ちがうだろ〜

「そうそう、何せ俺の死活問題だからな。忘れないようにどっかにメモしとこう」

どうやら完全に忘れているようだ。

こうじは自分の部屋に戻ると、机に座ると、愛用のメモ帳を広げた。

鳥頭以下の幸治にとってメモ帳は必須である。

何せ一ヶ月経てば買い換えなければならないほど使用頻度が高いのだ。

もっとも、それが役に立っているかどうかは別だが。

そのせいか、幸治にしては珍しくすばやくメモ帳を学生服から取り出せた。

「え〜と・・・書くもの書くもの・・・」

幸治は呪文のようにつぶやきながら机を見回した。

やがて、ペンたてを見つける。

「お、あったあった」

ペンたてに手を伸ばしかけて、唐突に幸治の動きが止まる。

「ペン・・・?」

幸治は硬直たまま、必死で記憶の糸を手繰る。なにか・・・給食よりも大切かもしれないことが、脳裏をかすめる。

不意に幸治は記憶の扉が全開したような気がして、伸ばしかけてた手を握る。

「おもいだした!」

記憶の本流が幸治の頭の中を駆け巡り、幸治は思わず立ち上がった。

「綾に宿題を教えるんだったっけ!」

―――記憶の扉は半開きだった。

「・・・でも、何でそれが俺の死活問題よりも大事なんだ?」

知るかっ!

幸治はいぶかしげな表情のまま再び椅子に座る。

「まてよ・・・綾、綾・・・?」

再び、記憶の扉が開きかけたかのように、幸治は綾の名前を呪文のようにつぶやいた。呪文のようにつぶやくのは幸治の癖で、忘れないように繰り返しているのだ。

「そういえば・・・」

幸司は明後日の方向を見てつぶやいた。

「綾って誰だっけ?」

バタン。

どうやら、記憶の扉は完全に閉じられたようだ。

「ま、いいか」

いいのか、ほんとに?

作者の疑問もなんのその。

幸治は立ち上がると、部屋を出た。

居間のテーブルに座ると、テーブルの上においてある新聞を手に取った。

「え〜と、今日の番組は・・・」

幸治はテーブルの上にあった漬物をつまむと、それをほおばりながら番組欄を見る。

「ぽりぽり・・・え〜と・・・なんだ今日得番ばっかだな、漫画がほとんどやってな・・・」

呟きが不意に止まる。

幸治は一つの番組に釘付けになっていた。

それは、NHKで九時からやる、

『NHKスペシャル 生命誕生,、感動の時』という番組だった。

『生命誕生』・・・その単語を見たとき、幸治の記憶の扉は跡形もなくぶっ壊された。

記憶の本流が幸治の脳を直撃し、大洪水を巻き起こす!

津波だ、決壊だ、大災害だ!

幸治は新聞を取り落とし、漬物を飲み込み、椅子を蹴り倒して立ち上がった。

混乱した脳のなかをいくつかの単語が駆け巡る。

衝動、交わり、妊娠、出産、母、父、責任・・・

「ああああああああああああっ!」

幸治は叫んだ。

壁が薄いため、隣からどんどんと抗議の意味で壁をたたいてくるが、幸治は聞いていなかった。

とりあえず、幸治は冷蔵庫に飛びつくと、思い切り開けて、中の牛乳の口を開けそのまま飲み干す。

「・・・っはあっはあっ・・・」

幸治は少し落ちつくと、とりあえず次にやるべき事を頭に浮かべた。

とりあえず電話だ! 電話して事の真偽を確かめるんだ。

「・・・もしかしたら・・・いやきっと、俺の思い込みだろうしな」

そう考えると、気が樂になったのか、息を整えた。

「たしか・・・さっき親父の部屋にはなかった。そういえば、うちに電話はなかったようなきもするな」

幸治は結論を下すと、自分の部屋に戻り、自分の貯金箱をあけ、十円玉を五,六枚取り出すとポケットに突っ込む。残りの効果は再び貯金箱に戻しておく。

ついでに、習慣からか、机の上に開きっぱなしにしてあるメモ帳をつかむと、無意識のうちに硬貨を入れたポケットとは反対のポケットに突っ込む。

「・・・考えてみれば、最初っから公衆電話でかけてたほうが早かったな」

そのとおりである。

幸治は外に出た。

外は完全に暗く、夜空に星明かりが見えた。

すべての電灯が壊れてるため、真っ暗な廊下を歩きながら、幸治は一人つぶやいた。

「そういや、公衆電話ってどこにあったっけなぁ…?」

おいおい・・・「ま、適当にぶらぶら歩いてれば見つかるかな」

能天気な奴である。

意外と真理かもしれない。

十分ぐらい歩くと、木々の生える公園に着いた。

幸治は少し考えて、公園の中に入る。

夜の公園。

デートや密会に最適な場所である。

つまりアベックとかがあんな事やこんな事をしている場所である。

幸治はそんな中を無神経にずかずか歩いていく。

つまり、当事者でなければ平気なのだ。この男は。

「公衆電話、綾に電話・・・」

例によって呪文のようにつぶやきながら、幸治は公衆電話を捜し求めた。

「公衆電話、綾に電話、公衆電話・・・あ、あった」

幸司は電話ボックスに入ると、受話器を取り硬貨を一枚入れる。

そして気づいた。

「綾の家の電話番号って何番だ?」

はい、これもまた根本的な問題ですね。

「あ〜、仕方ない、いったん家に戻って・・・」

どうやって調べるというのだ、おまえが?

そのとき、幸治はある本が目に付いた。

電話帳である。

「おおーっ! これぞ今の俺に必要な聖書だーっ!」

・・・電話帳でここまで感動する人間がほかにいるだろうか。

嬉々としながら幸治はさっそく電話帳をめくる。

だが、しかし、幸治の前には更なる難関が立ちふさがったのであった。

「あ、綾の名字って、何だったっけ・・・」

根本的な問題パートスリーである。

しかし、幼なじみの名字ぐらい覚えとけ。一番最初に出てきたときに書いてあるぞ。

「う〜ん、う〜ん・・・そおだ、メモ帳見てみよう」

おもいだし、幸治はポケットからメモ帳を取り出した。

開く。

「・・・あれ?」

少しぱらぱらとやって幸治は呆然と立ち尽くした。

幸治の開いたページには、一番上に『アドレス』とかかれていて、そのすぐ下の欄には、『式条 綾』とそのアドレスが書かれてあったの。

もはやここまでくると、笑い話である。

え? 今までで十分笑い話だって?

まぁ細かいことは気にしない、気にしない

とりあえず幸治は気を取り直して綾の家に電話をかけた。

ぴぽぴぽぴぽぴぽぴぽぴぽぴぽ・・・とぅるるる・・・とぅるるる・・・

「はい、式条です」

と、女性の声が出た。綾ではない。おそらく母親だろう。

「あ、あの・・・俺、幸治・・・じゃなくて・・・・え〜と・・・・・」

幸治は名字を名乗ろうとしたが出てこない。

何と、彼は自分の名字すらも忘れてしまっているのだ!

しかし、向こうにはわかったようで。

「あら、幸治君? 綾に用?」

「あ、はいそうです」

もしかしたら将来この人は俺の義母さんになるんだろうか、などと馬鹿なことを考えて一人でどぎまぎしながら幸治は答えた。

「ちょっとまっててね」

と、受話器の向こうから「エリーゼのために」が流れてきた。

幸治はため息をついて、綾を待った。

と、もうすぐで時間が切れそうなのに気づいて慌てて硬貨を追加する。

二枚、三枚・・・四枚目を入れても綾はでない。

やっぱ出たくないのかな・・・

幸治はつのる不安無理に押さえつけた。

五枚目、六枚目・・・

「まさか・・・」

ショックのあまり、部屋で首つってて向こうで大騒ぎしてるとか?

あるいは、バスルームで手首を切ってたり!

そんないやな考えを振り切り、幸治は硬貨を追加してひたすら待った。

七枚、八枚、九枚・・・

一分一分が異様に長く感じる。

十枚目を入れかけたところで、やっと出た。

「・・・」

だが何もしゃべらない。

「・・・」

幸治も気まずくて話せない。

・・・やっぱ、なんかやったのかな・・・

幸治は増大する不安を必死で制御しながら、思い切ってこちらから声をかけることにした。

「・・・あ、綾・・・」

緊張でかさかさになった声が綾に伝わる、声はすぐに返ってきた。

「ケダモノ」

ぷつっ

つー、つー、つー・・・

呆然。

幸治は岩のように硬くなったまま硬直していた。

「ちょっと、早くしてよ」

外から声が聞こえる。

幸治は呆然としたまま受話器を置き、ふらふらと外に出た。

「・・・・・・」

無言のまま、幸治は公園内を徘徊する。

衝動、交わり、妊娠、出産、母、父、責任・・・

さっきの単語が頭の中をぐるぐると回る。

気がつくと、公園を抜け出していた。

「・・・」

幸治は深くため息をつくと、とりあえず歩き出した。

歩きながらメモ帳を取り出すと、地図を開く。

そこには、事細かに草原市の地図が書き込まれている。

「え〜と俺の家は・・・」

なんと、彼は自分の家への道順すら地図にたよならなければならないのだった!

よくぞ今まで普通に生活できたものである。

「お、これだろうな」

と、幸治は地図の左上に赤い印を発見してつぶやいた。

これだろもなにもはっきりと欄外に矢印がしてあって、「西村 幸治の家」とかかれているのだが・・・

とにかく,幸治は街灯を便りに地図を見ながら、ふらふらとした足取りで帰路についた。

と、

ちりりん

後ろから自転車のベルがして、幸治は車道のほうによけた。

ずるっ

「え?」

よけた拍子に何かをふんずけた。空缶である。それもスチール

「うわわっ」

転ぶまいと必死で幸治は体勢を立て直そうとする。

「わったった」

幸治は何とかバランスを取りながら足を進める。

車道のほうへ。

「!」

気がつくと、車は幸治の隣まで迫っていた。

キイイイイイイイイ一!

衝突の瞬間見えたのは、短い今までの人生の走馬灯でも、綾の顔でもなく、なぜか酔っ払って鼻歌なんぞを歌っている親父の顔だった。

―――そして、次の数瞬を幸治は夢のようにすごし、最後に地面と頭が激突して、鋭い痛みと鈍い痛みとの後に意識を失った・・・

 


INDEX

→NEXT STORY
第四部  存在しない筈の弟との心の邂逅・・・あるいは西山幸治の繰り返され、消えていく記憶。