結局、あかねは二日間佐野家に世話になった。
 丁度休日出勤もなく、土日と休みだった明子も一緒に。
 土曜日にはすでに起きるくらいはできるようになってはいたが、それでもまだ完治したわけではなかったので、あかねや明子の遠慮を振り切って雪絵が引き止めた。看護婦志望だった雪子の口添えもあって、二人はもう一日だけ世話になった。

 その日は大騒ぎだった。
 幸治から聞いたらしい綾たちが、雪絵の家に午前中から押し掛けてきたのだ。
 あかねがまだ完調ではないと知って、綾たちはすぐに帰ろうとしたのだが、何故か雪子が引きとめた。昼を振舞われたり、おやつを出されたり―――昼は明子と綾が腕を振るって、おやつは勿論、緑茶と煎餅―――して、結局、綾たちが帰ったのは夕方頃だった。

 話題は主にあかねたちが通う学校の話。
 雪絵と同じクラスのリョーコや冬哉が学校での雪絵のことを話し(とは言っても、別にリョーコも冬哉も雪絵と付き合いがあるわけではなかったので、それほど話題は多くなかったが)、あかねと同じクラスの綾や透があかねについて話した。
 自分の話題が出る度に雪絵は渋い顔をしたが、それでも口を挟むわけでも席を立つわけでもなく、ただ黙々とお茶をすすっていた。

 それは、騒がしくも平凡な休日の日。
 ただ、どうしたわけか。
 幸治はその日、姿を現さなかった―――

 

 

 


あるひあるときあるばしょで

シャレにならない彼女の事情

第九話「ツレない母への娘の誤解―――或いは小松あかねの一つの決断」


 

 

 

 

 朝に目が覚める。それは当然のこと、と受けとめながらあかねは半身を起こした状態で腰から上を身伸。
 ほ、と吐息。
 朝の空気に自分の吐息が混じるのを感じつつ、すでに慣れ親しんだ天井を見上げる。

(・・・私って、意外と適応能力高いよね・・・)

 誰にとっての意外か―――と、ふと考え悩む。
 自分が自分のことを意外に思うというのは、実は奇妙なことだと思う。何故ならば、人は他人のことを解らない以上、なによりも自分のことを知らなければならないのだから。

(自分を意外に思うって・・・なんだか、自分よりも自分以外の誰かの方が良く知っているというような)

 心の中で呟き。
 なにを考えているかと自分の思考に疑問。
 朝っぱらからなに不思議なことを考えているのかと―――ああ、そうか、と続けて納得。

「これが哲学ってやつだね?」

 問いかけは虚しく朝の空気に混じって消える。
 だからこそ、彼女ははっきりと問うた。誰にも聞かれない―――故に自分以外には答えられない問いを。

「果たして私を一番良く知るはずの私は、私をどうしたらいいと考えてる?」

 この数週間に起こったこと。
 それから、この街に引っ越してから雪絵に出会ってからのこと。
 さらには、あかねが産まれる前に、母親があかねを身篭ってしまった時からのこと。

 過去から現在へ。
 全てが連なる “今まで” を思い返して黙考。
 果たして小松あかねはどうすれば良いのかと。

「きっと」

 答えを、そして決断を言葉に込める。

「もしも私が居なければ、もう少し、みんな幸せになれたよね」 

 IF。
 もしも、という言葉はかつての後悔。
 今となっては無意味になってしまった意味。

 しかし。

「今だからこそ、まだ少しだけ、意味があるかも知れないよね」

 

 

 

 

 布団を畳んでいると、雪絵が朝食ができたと呼びにきた。
 あかねの畳んだ布団を見やり、雪絵は眉をひそめる。

「病人で客人のあなたがそんなことする必要はないでしょ」
「病人で客人でお世話になったからこんなことする必要があるんだよ」

 切り返されて、雪絵は呻く。
 その様子をくすりと笑い、あかねは雪絵の真正面に立つとゆっくりその頭を下げた。

「お世話になりました」
「一生お世話してあげてもいいのよ―――――冗談よ」

 真正面に立つあかねから視線を外し、雪絵はぶっきらぼうに言う。そのままあかねに背を向けて。

「そんなことよりも朝ご飯。それくらい食べていきなさいよ? 私が作ったんだから」
「うん」

 頷いて、あかねは雪絵のあとに続いて三日に渡って過ごした部屋を後にした。

 

 

 

 

 朝食を食べ終わり、雪絵はあかねを外へと連れ出した。
 明子と雪子はそのままダイニングに残り、明子はあかねにそのまま先に帰ってもいいから、と告げる。

「・・・なんか妙に仲が良くなっているのよね。あの二人」

 と、特に目的もなく、ただ道を歩きながら雪絵は自分の両親のことを言う。

「そうなの?」
「見たいよ。―――気をつけなさいよ、あかね。そのうちあなたの母親、ウチのママに取られちゃうわよ?」
「それは困るなあ・・・・・っと」

 不意にバランスを崩すあかねに、雪絵はあ、と声を出して支えようと手を出す。
 が、なんとかあかねは道路脇の塀に手をついて、転倒を免れた。
 差し出した手を所在なげに振ってから引っ込め、あかねを心配そうに見る。

「大丈夫? まだ身体の調子が―――」
「そうじゃなくて、靴が・・・」

 言われて雪絵あかねの靴を見る―――パジャマのまま裸足で雪絵の家までやってきたあかねは、雪絵の靴を借りていた。本当は昨日、明子があかねの着替えや靴を持ってくるはずだったのだが、結局、家から一歩も外に出ずに雪子と談笑していた。どうやら本当にあの二人は仲が良いらしい。本気で母親を取られそうな危機感を感じつつ、あかねは苦笑。

「雪絵ちゃんって私よりも靴が大きくて」
「悪かったわね。足のデカい女で」
「ゆ、雪絵ちゃんは悪くないよ。私が小さいだけだよ」
「・・・中国では足の小さい女性ほど、美しいと言われていたらしいわね」

 雪絵はあかねの足元を見て、それから半眼で顔を見やる。

「もしかして、自分が美人だって自慢してる?」
「そ、そんなことないよっ。雪絵ちゃんの方がすっごい美人だし!」
「当たり前じゃない」
「は、はう・・・」

 平然と肯定する雪絵に、ちょっとだけあかねは落ち込んだ。
 そんなあかねの頭を撫でながら、

「まあ、私の方が美しいけど、あかねの方が可愛いわよ」
「そ、そうかなあ・・・」
「そうよ。私があかねに嘘言ったことある?」
「え、ええと・・・」

 いけしゃあしゃあと言い放つ雪絵に、あかねは言葉に詰る。
 しばらく悩んで、それから軽く頷いて。

「雪絵ちゃんがそう言ってくれるなら、それでいいよ」
「・・・・・・・」

 笑って頷くあかねを、雪絵は無視して前に歩く。照れた表情をあかねに見せないように。
 少しだけ早歩きで進む雪絵の背中を追いかけながら、あかねは口はその背中に尋ねる。

「あ、あれっ、私、なにかヘンなこと言った?」
「別にー。それよりも転ばないように気をつけなさいよ」
「うんわかったっきゃあっ」

 悲鳴と、転倒した音。
 吐息とともに振り返る。

「言ってる傍から」
「だって・・・」
「全く・・・ほら」

 と、雪絵はあかねに手を差し出す。
 差し出されて、あかねはマジマジとその手を見た。そんなあかねに、雪絵は怪訝そうに、

「なに? 手相でも見てるの?」
「え・・・ううん―――ありがと」

 あかねは雪絵の手を取って立ち上がる。
 そのまま、掴んだ手を離さずに。

「なに?」
「ううん―――ええと、私、また転ぶかも知れないから、手を握っててくれる?」

 くれる? と上目づかいに問われて雪絵は思わず赤面。なんだか愛おしさがこみ上げてくる。
 子犬を相手にしたような、守ってあげたいという保護欲が沸きあがり、あかねを抱きしめてやりたいと感じつつ。

「か―――構わないわよ」

 平静を装ってそれだけを言う。
 そんな雪絵に、あかねは嬉しそうに笑った。

「ありがと、雪絵ちゃん」
「私だって、転ばれる度に手を貸すのは面倒くさいし―――それよりあかね、怪我とかしてない?」
「ん。大丈夫だよ」
「・・・あなた、転ぶの上手いわよね。昔から」
「中学のとき、体育の授業で柔道をやったとき、受身だけはプロ並だって褒められたんだ」
「そういえばそうだったかしら」

 適当な会話で思考を反らす。
 きゅ、と握られたあかねの手。その温もりを感じて、その温もりを無視するように吐息。

「なんか、嬉しい」

 不意にあかねが呟いた。
 なにが、と問うと、あかねはうん、と頷いて。

「もう二度と雪絵ちゃんと手を繋ぐなんてできないって思ってたから―――こうやって、笑って話をすることもできないって、そう思ってたから」
「馬鹿ね。そんなことあるわけないじゃない」

 言ってから、顔を渋く染める。
 そんなことがあったのだ。少なくとも、つい三日程前までは。

「あかね」
「なに、雪絵ちゃん」
「・・・・・・・ごめんね」

 ―――気がつくと、何時の間にかアパートの前に辿りついていた。
 あかねは驚いたように手を放し、雪絵を見る。
 それから、え? と疑問の音を漏らし。

「なにが?」
「―――本気でわからないって言うなら怒るわよ」

 そして、と雪絵は言葉をつなげて。

「わかっているのに、わからないフリをしているなら絶交よ」
「・・・雪絵ちゃんには、謝られたくなかったなあ。っていうのは私の我侭かな」

 ふと幸治のことを思い出す。
 いつか、あかねが幸治に向かって、綾に対してもっと優しく示せばいいと言ったとき。彼は一言で「嫌だ」と否定した。
 今ならば幸治の気持ちがよく解かる。―――弱さも知りつつも、それでもその弱さを無視して強さだけを見る。それは自分が大好きな人間に対する、我侭な望み。

「雪絵ちゃんは、私にとってのヒーローなんだよ。独りぼっちの私を救ってくれた英雄。だから、謝って欲しくない」
「・・・謝ってしまう私は幻滅する?」
「どうかな」

 と、自分に問う。
 ずっと憧れてきたもの。崇めてきたものが壊れて、失われていく。
 それでも、とあかねは自分の心から繋げて、言葉を出す。

「私にとっての英雄でなくなっても、例え幻滅したとしても、私は雪絵ちゃんが大好きだよ」

 きっと、その事実は変わらない。
 こだわることを捨て去っても、受け入れることができるなら。

「・・・一つ、いいかしら」
「なに?」
「英雄、って男に使う言葉よ? ヒーローも同じ」
「雪絵ちゃんが男の子だったら良かったのに」
「なによそれ」

 笑う雪絵につられて、あかねも笑う。そして。

「あかねの誕生日って、私よりも早いわよね?」
「え? うん。そうだね」
「私、あかねのことを絶対にお姉ちゃん、なんて呼ばないから」

 言われて。
 あかねは驚きに目を見開く。

「そ、それって―――まさか、幸治君が!?」
「呼んだか?」

 と、幸治がアパートの二階から階段を降りてやってくる。
 寝起きなのか、髪の毛が寝癖づいている。見ればパジャマのままの格好だった。
 雪絵はそれを見て、あかねに向かって手を振って、

「じゃあ、私は帰るから―――靴と服は明日学校で返してくれればいいわ」
「え?」
「気を利かせてあげるのよ。―――頑張って。彼、あかねのために本気で怒っていたんだから」

 そう、言い残して、雪絵は去っていく。

「なんなんだ・・・?」

 聞いていた幸治が、いつもの無表情よりも、どこか憮然とした仏頂面で呟く。
 そんな幸治を、あかねはジロリと睨み。

「・・・幸治くん、言わないでって言ったのに!」
「なんのことだ?」
「わかっているのに、わからないフリをしているなら絶交だからね」
「絶交してくれて構わんが」

 幸治はそのままあかねに背を向ける。
 え、と呆然とするあかねに、幸治は背を向けたまま。

「もう、俺は必要ないだろ」
「なに、それ」
「言っただろ。俺はお前に同情したんだ。独りで可哀想だったから、助けてやりたいと思った。―――もう、お前は一人じゃないだろ」

 突き放された言葉。
 昔の自分なら、それだけでなにも言えなくなってしまっただろう。そして後は部屋に戻って泣き寝入りするだけだ。

 けれど。

「そうだね。私には幸治くんは必要ない」

 あかねは笑って言葉を返す。
 楽しいような、嬉しいようなとか、そういう形容詞がつかない、普通の―――自然な笑み。

 あかねの言葉に、幸治の肩がぴくりと動いた。
 だが振り向かない。
 構わずに、あかねは言葉を続ける。

「だけど、あのね」

 言葉を繋げようとして―――上手く言葉が出てこない。
 伝えたい想いははっきりと自分の胸の中にあるのに、それが上手く言葉になってくれない。

 言葉もなく立ち尽すあかねに構わず、幸治はアパートに戻ろうとする。
 仕方なく、あかねも幸治の後に続いて歩き出した。

「あのね」

 繰り返し、だけどもう、想いを言葉にするのは諦めて。
 代わりに機会を求める。

「今夜、8時に、公園に来てください」

 幸治はアパートの階段の中ほどで足を止める。
 あかねはそのまま歩みを止めない。

「・・・多分忘れるぞ。俺は」

 今度はあかねが答えずに、幸治の横をすり抜けてアパートの階段を駆け上がっていく。
 幸治の表情をちらとも見ずに、一度も振りかえらずに、ただ前を向いて自分の部屋に飛び込むと一息。
 一日だけ空けた部屋は、不思議ともう何年も帰って無かったような懐かしさがあった。その空気を吸い込むと、不思議と心が落ち着く。

「でも、もう、これも――――」

 

 

 

 

 

 母親が帰ってきたのは夕方頃だった。
 お昼は食べた? と尋ねてくる母親に、食べた、と嘘をつく。
 その日、あかねはずっと部屋に居た。部屋のベッドに腰かけて、手を組んでじっと動かずに、ただ時間が過ぎるのを待っていた。

「あかね、ちょっと話があるんだけど」

 8時。
 公園に向う前に、明子と一緒に夕食を取り、部屋に戻って大きなバッグを持って自室を出た時、ダイニングのテーブルに座っていた明子が呼びとめた。
 が、玄関に向かっていた娘に気付くと、

「どこかに出掛けるの?」
「うん・・・ちょっと、そこの公園まで。―――話って、なに?」
「いえ・・・帰って来てからでいいから」

 なにか思いつめた表情で呟く明子に、あかねは気にはなったが。

「じゃあ、多分、すぐに帰ってくるから」
「あかね? そのバッグはなに?」
「えへ。秘密ー」

 と、笑って外に出た。

「「あ」」

 外に出た瞬間、幸治も外に出るところだった。
 微妙に気まずい空気が流れる。
 幸治はぽりぽりと、頬をかいて、あかねの持つバッグを見る。

「そのバッグは?」
「あとで解かるよ」

 そう言って、あかねは一つ頷いて、

「じゃあ、一緒にいこ」
「そうだな」

 待合わせして、しかし結局一緒に家を出るというのは、この上なく間抜けだが。
 公園に向かう道すがら、あかねは不意に呟いた。

「必要とか、不必要とか、そんなの関係ないよね」

 あかねは横を歩く幸治を見る。
 暗がりの中、幸治の表情は解らなかったが―――まあ、いつも無表情だし、どうでもいいや、と思いながら。

「そんなこと言ったら、私は幸治くんなんて最初から必要なかったし―――あの時の私も、私自身に納得してたんだから」

 雪絵に傷つけられて、高校に上がってから一人ぼっちでも。
 それでもあかねには明子がいた。だから、例え独りであっても―――自分の出生がどうであっても、自分自身を可哀想だとは思わなかったし、明子以外の誰かを必要と感じたことはなかった。

「だから、私が幸治君を必要としなくなったっていうのはおかしいよ。だって、ずっと必要じゃなかったんだから」

 公園についた。
 いつものベンチに向かいつつ、あかねは続ける。

「幸治くんはこういうべきだったんだよ。―――私に同情できなくなったって。だから、もう、私に付き合うつもりはないって」
「じゃあ、そう言いなおす」
「―――けど、それもおかしいよね」

 あかねの言葉に幸治は面食らったようにあかねを見返す。
 あかねはそんな幸治を可笑しそうに笑いながら、ベンチに座った。

「だって、私は幸治君のお陰で綾さんと友達になれた。それでもう私は独りじゃないよね? なのにどうして、幸治くんは私に今まで付き合ってくれたの?」
「・・・・・なにが言いたい?」
「私の言いたいこと、解ってるでしょ?」
「・・・・・・・・」

 幸治は吐息して、なにも応えない。
 そんな幸治の表情をあかねは下から覗き込むようにして見る。
 彼はいつもの如くに表情のない顔だったが、どことなく苛立って居る様にも見えた。それは気のせいだったかもしれないけど、実際に心の中では苛立って居るんだろうな、と思う。

「私のこと、嫌いになった?」
「さあな。だけど、なんか腹が立つ―――自分のことを見透かされてるみたいで」
「嫌いになってもいいよ。それでも私は幸治君のことが大好きだから」
「あー、ムカつくー、ちょべりばー」
「うわ古いなあ。しかも意味解って言ってる?」

 あかねに問われて、幸治はふむ、と頷き。

「超ベリーバッド―――なんで “super very bad” じゃ駄目なのか、真剣に悩んだような気がするな」
「スパベリバじゃ語呂が悪いからじゃないかな」
「そうだな」

 どうでも良い疑問の、どうでも良い返答に、あっさりと同意してから。

「同情したって言うのは本当だ」
「うん」
「助けてやりたいと思ったのも本当」
「うん」
「だけど、お前のことを知っていくうちに、別の意味で同情した」

 幸治は思う。
 同情というのが、他人の不幸を自分のもののように感じることならば。
 自分と同じ人間のことを思うのも、やはり同情なのだろうな、と。

「お前と俺は似ているんだと思う」

 同じように片親がいないという意味ではない。
 性格が似ていると言うわけでもない。
 けれど、西山幸治と小松あかねは似ているのだと、幸治は思う。
 あかねも頷いて、

「だから今まで付合ってくれたんだね。自分のことのように本気になって」

 西山幸治は自分自身に対して本気にはなれない男だ。
 他人であるあかねにだからこそ、本気になれた。

「けど一昨日、雪絵の家で寝込んでいるお前を見てふと思った。なんで俺はこんなところにいるんだろうかと」
「幸治くんが優しいからだよ」
「お前の言った通りだ。俺は結局、必要ない。お前は独りでもどんなに傷つけられても生きていける―――雨の中、病気の身体で雪絵の家まで辿りついたように。お前は俺なんか必要ない程に強い」

 吐息。
 ふと、綾のことを思い出す。あかねが “可哀想” だと―――なにも解っていなかったと、泣いて懺悔した時の彼女を。

(結局、俺も同じだったのかもな)

 幸治も解っているつもりで、結局、あかねの “強さ” を解っていなかった。
 自惚れだったのだろう。自分があかねを助けてやれる、と思ったのは。

「お前は独りでも生きていける」
「幸治君もだよね」
「似ているんだ、俺とお前は―――腹が立つほど。そのことに、一昨日になってやっと気付いた」

 チッ、と幸治は忌々しげに舌打ち。
 あかねの隣に乱暴に腰を下ろした。あかねはただ笑って、うん、と頷き、

「私は、ついさっきだよ」

 いいや、と幸治は心の中でその言葉を否定する。
 あかねは気付いていたはずだった。

 ―――すごくなんかないよ。ただ―――似ているだけなんじゃないかな。

 いつだったか、幸治の “嘘” ―――忘れる、という嘘を見破った時、あかねはそう言った。
 二人ともすごく辛いことがあって、忘れようとして、結局忘れられない―――あかねは忘れることを諦めたけど、幸治は未だに忘れ続けようとしている。ただ、それだけの違い。

「私ね。ずっと自分って、要らない人間だって・・・意味のない人間なんだって思ってた―――今でもそう思ってる」
「本当に必要な人間なんて、どこにもいないだろ」
「そうかもね。けど、少なくとも皆、自分を自分が必要としてる」
「・・・この世に絶対必要な人間はいなくても、自分のことを必要じゃないって思う人間はいない、か」

 幸治の言葉にあかねは頷き。
 だからね? と確認するように。

「私は・・・生きてても死んでてもどうでもいいって思ってる。それでも私が生きているのは」
「明子のためか」
「人の母親を呼び捨てにしないで欲しいなあ」

 苦笑。

「でも、そう。私はお母さんが望まれずにできた私を産んで、そして育ててくれたから―――それを無駄にしないためだけに生きてるんだよね」
「義理だけで生きているのか。馬鹿な奴」
「ある意味、間接的な自嘲だよね。それ」

 幸治はあかねの言葉を無視して言葉を返さずに思う。つまりはそういうことだと。

(明子があかねのことを解らない部分―――義理だけで生きているのだと知ったら、果たして明子はどんな顔をするのだろう)

 だが、あかねは絶対にそのことを明子には漏らさないだろう。確実に、明子のことを傷つけてしまうから。
 明子だけではなく、他の誰にも絶対に言わない。
 それを、幸治にだけ言ったのは―――

「幸治君も、同じでしょ」
「お前と一緒にするな」
「弟さんのために生きてるんでしょ?」
「弟のことは言うな」
「違うの?」
「・・・・・・・」

 無言。
 だが、その無音は肯定に等しい。

「だから腹が立つんだ。お前は俺のことを解りすぎる」

 嘘を見破られたときと同じように、あかねは幸治のことを見抜いている。
 あの時はただ単純に驚いただけだったが、ここまで解った気になられると―――しかもそれが間違っていないと、少し腹が立って来る。

「解るよ。だって幸治くんはもう一人の私だから」

 もう一人の私。
 そう言われて、何故だか幸治は納得できる。
 だからこそ、あかねは幸治のことを解かることができたのだろうし、
 もう一人の俺だったからこそ、幸治はあかねに対して本気になれたのではないかと。

 あかねはじっと、幸治のことを見つめる。

「だから、私は幸治君が私のことで本気になってくれたのと同じように、幸治君のことで本気になれるんだよ」

 あかねも幸治と同じ。自分自身に対して本気になることができない。
 それは、二人とも大切な誰かの義理だけで生きているから、自分がどうなっても―――どう死んでも構わないと思っているからこそ、自分に対して本気になる意味がないと思っている。
 だけど、幸治はあかねに対して本気になれた―――そして、それは自分自身に対して本気になれたということなのかもしれない。

「幸治くんが本気になって、私と雪絵ちゃんを仲直りさせることができたように、私が本気になれば、幸治くんと綾さんをくっつけることができるかな?」

 つまり、とあかねはにやり、と笑って。

「幸治くんが本気になれば、綾さんを―――」
「うるさい黙れ帰るぞ俺は」
「・・・ごめん、ちょっと調子に乗りすぎた」

 てへ、とあかねは幸治に向かって舌を出す。

「この話はこれでオシマイ。本題に移るね」
「なにか至極嫌な予感がするんだが。お前の顔を見てると」
「え? なにか私、ヘン?」

 幸治は頷いて、微笑んでるあかねを見る。

「多分きっと、このままなにも聞かずに帰った方が良いんだろうな」
「そうだね」

 肯定されて幸治は吐息。

「わかったから話せよ」
「うん」

 あかねは何故か頬を染めて、息を吸い込む。
 躊躇うように顎を引いて、幸治の顔を上目遣いに見て

「あの・・・・えと・・・・そのっ・・・もう一度、キスしてください」
「じゃあ、また明日学校でな」
「って、速攻!?」

 いつの間にか公園の入り口で手を振る幸治を、全力で追いかけて―――

「あ」

 転倒。
 とても素晴らしく勢いがついて、あかねの身体が完全に宙を舞う。

「ひゃ」

 と悲鳴。同時に地面に身体がついて―――

 たんっ。

 以外と軽やかな音がして、あかねは地面に激突―――して、その反動であっさりと立ちあがる。
 さっさとアパートへ帰ろうとしていた幸治は、その様子にしばし我を忘れる―――は、としたときには、すでにあかねは追いついていた。

「ひどいっ、私、恥ずかしいのに頑張って言ったのに」
「いや、というか今のなんだ?」
「え? ただの前回り受身だけど?」

 平然と答えるあかねに、幸治はそうか、と返して。

「じゃあな」
「ま、待ってッ」
「待たん」
「待ってくれなきゃ綾さんに言うからッ。幸治君にキスされたって」
「言いたきゃ言え。そんなこと俺は忘れたし記憶にない」
「ああっ、ずるいいいいいっ」

 あかねは幸治の腕を引っ張るが、流石に力は男の幸治の方が上らしい。
 あかねの身体ごとずりずりと引っ張って、幸治はアパートへ向かう。

「・・・わかった」

 あかねは諦めたように呟くと、幸治の腕から手を放す。
 それから苦笑めいた笑みを浮かべて。

「そうだよね。幸治くんはもう私なんかと関わり合いになりたくないんだよね」

 無視。
 腕を解放された幸治は、早歩きでアパートへと向かう。
 その背中を追いかけるように、あかねの言葉が飛んだ。

「じゃあね。もう二度と会うこともないだろうけど―――」

 無視。
 したほうがいいと、思った。
 絶対に立ち止まって振り返らないほうがいいと断じる。しかし。

「・・・どういう意味だ」

 足は勝手に止まって、身体は勝手に振りかえって、言葉は勝手に口から出た。
 あかねは大したことじゃないよ、と笑って。

「死んじゃおうかなって思って」

 

 

 

 

 

 次の日の朝。

「いってきまーす」

 あかねはいつもより多い荷物を抱えてアパートを出る。
 玄関に明子が来てすまなそうに。

「ごめんね、昨日は。待っていたら眠くなっちゃって・・・」

 昨晩、あかねが公園から戻ると、明子はダイニングに突っ伏して寝息を立てていた。
 起こすのもなんなので、あかねは毛布をかけてそのままにしていたのだが。

「仕方ないよ。金曜日からかーさん、私のことで気苦労かけたし。その疲れが出たんだよ」
「今晩、大事な話があるから・・・その、覚悟しておいてね」
「覚悟する話って・・・」

 苦笑するあかねに対して、明子は真剣。
 笑みを消して、あかねは頷く。

「うん。わかった」
「それから、もう、病気の身体で雨の中に飛び出すような真似は止めてね? かーさん、本当に心配したんだから」
「うん」

 頷いて。

(ごめん、かーさん。私、嘘をついたよ)

 心の中でこっそり謝る。

「じゃ、いってきます」

 あかねはいつもの通学用の鞄の他に、雪絵に借りた服や靴、それからその他諸々の入ったナップサックを背負ってアパートの階段を降りる。階段の下では、幸治が待っていた。

「おはよ、幸治くん」
「・・・・」

 挨拶を返さずに幸治は無言。
 あかねは苦笑して。

「おはよ」
「おはよう」
「機嫌が悪いね。どうしたの?」
「別に」
「もしかして、昨日のこと気にしてる?」

 あかねの言葉に、幸治は舌打ち。

「・・・・・・いい」
「え?」
「やっぱり俺は、お前なんかいない方がいい」
「でしょ」

 言って、あかねは幸治にナップサックの中から雪絵の服と靴、それから一枚の封書とノートを取り出して幸治に渡した。

「はい。じゃあ、よろしくね」
「ああ」

 受けとって、幸治は学校の方へと歩き出す。
 あかねは少しだけ、幸治の背中を見送って。

「バイバイ」

 と、幸治とは別の方向に向かって歩き出した。

 

 

 

 

 

 教室に辿りつく。
 幸治が教室内を見渡すと、すぐに大島と小西を見つけることができた。小西の席で、机の上に座っている大島となにごとか笑いあっている。
 淀みない動きで、幸治は二人がダベっている席に向かう。

「小西」
「あん? なんだ西山」

 自分の椅子に座っていた小西は、呼ばれて幸治を見上げる。大島も同様に幸治を見た。
 幸治は黙って、あかねから受け取ったノートを小西に向かって差し出す。

「あかねの書いた小説の続きだ―――預かってきた」
「え!?」

 驚いて小西はノートを見つめると、そのまま幸治に伺うように尋ねる。

「俺が読んでもいいのか?」
「そのために、あかねは書いたんだが。読んでやれ」
「あ、ああ・・・」

 頷いて、小西は壊れ物でも扱うように、ノートを慎重に受け取る。
 と、ふと大島が不思議そうに。

「西山、小松はどうしたんだ? 渡すなら自分で渡せばいいだろ」
「あかねは休みだ」

 それだけ告げると、幸治はさっさと小西の席を離れて教室を出る。出た瞬間、登校してきたばかりの綾と鉢合わせした。綾は幸治を見るなり、目を剥いて。

「ちょっと幸治! あんた先に行くなら行くって言いなさいっていつも言ってるでしょ! アパートに言ったら幸治もあかねも出たあとで―――幸治?」

 綾の激昂を、しかし無視して幸治は隣のクラスへ。
 いつもと様子の違う幸治に、綾は戸惑いながらついていく。

「お。幸治。珍しいな、お前がウチのクラスに来るなんて」

 教室に入った途端、目ざとく冬哉が見つけてくる。
 幸治はああ、と頷いて。

「雪絵に用事があるんだ―――雪絵は?」
「佐野? あいつなら、まだ来てないぞ。今日も休みなんじゃないか?」
「私になにか用?」

 後ろ。廊下を振り返ると、雪絵が立っていた。まさか来ると思っていなかったらしく、綾と冬哉は驚いたように雪絵を見る。
 幸治は黙って、手のものを差し出した。

「これって、あかねに貸した服と靴じゃない」
「ちゃんと洗濯したらしいぞ」
「・・・あかねはどうしたのよ?」
「風邪で休みらしい―――まだ完全に治りきっていなかったみたいだな」
「そう・・・」

 雪絵の表情は暗い。あかねが風邪を引いたのは自分のせいだと思っているのだろう。それは間違っていない、が。

「お前が気にすることはないぞ。あかねが風邪を引いたのは、あかねの体調管理が悪いせいだ」
「・・・・・なにもしらないくせに、口出ししないでくれる?」
「本当になにも知らなければ―――」
「え?」
「・・・なんでもない」

 言葉を止めて、心の中で続きを呟く。
 本当になにも知らなければ、こんなに苛立つこともないんだろうけどな。

「ちょっと待ってよ」

 疑問を口に出したのは綾。

「さっき、アパートまで迎えにいったけど、あかねは学校に行ったって、明子さんは言ってたんだけど」
「ふうん。―――俺は知らないぞ。あかねに学校休むから、雪絵に渡してくれと頼まれただけだ」
「嘘。幸治、アンタなにか知ってるんでしょう?」
「知らない」
「本当に解らないのなら、忘れた、って答えるはずでしょ」

 以前にも言われたことを思い出して、幸治は舌打ち。

「知ってるけど、言わない」
「言いなさい!」
「・・・なんだ、綾。どうしてそんなに必死になってるんだ?」
「知らないわよ!」

 幸治の言葉に綾は断言。

「だけど、よくわからないけど、なんか気になるじゃない!」
「あかねのほうは気にして欲しいとは思ってないぞ」
「は? なに言ってんの、アンタ」
「いいだろ。あかねがどうなったって―――死んだって」
「なに・・・? どういうことよ、幸治?」
「ちょっと! 死ぬって・・・!? まさかあの子・・・」

 綾を押しのけて、今度は雪絵が幸治に詰め寄る。
 そんな雪絵を幸治は不思議そうに首を傾げて見て、

「なんで心配してるんだ。雪絵。お前だってそう思ってたんだろ。あかねなんて死んだ方がいいって。消えてなくなればいいって」
「そ、それは・・・でも、あの時は―――」
「間違ってなかったよ、お前は。消えるべきなんだ、あいつは」
「・・・もういい」

 綾は言い捨てて、教室の外に飛び出す。

「おい、綾!」

 冬哉もそれを追いかける。
 雪絵は立ち尽したまま動かない―――そんな彼女を、幸治は見やり。

「綾はあかねを探しに行くんだろうな。―――お前は行かないのか?」
「・・・・・・そんな、資格、ないから」
「?」

 怪訝そうな視線を、幸治は雪絵に投げかけた。

「あなたの言うとおり。私はあかねのこと消えてなくなればいいって思ってた。そんな私が、どんな顔をして、あかねのことを探しに行けるのよ!?」
「似たようなこと、この前も言ったよな。お前」
「え?」
「どんな顔をして仲直りすればいいか解らない―――あの時、お前はそう言った」
「あ・・・」
「けど、お前は仲直りできただろ」
「でも・・・あれは、あかねが倒れて―――それで、あかねを助けたくて・・・何時の間にか・・・だから」
「あかねは死ぬ気だぞ」
「!?」

 驚愕に目を見開き、雪絵は幸治を見る。
 そんな雪絵を、しかし幸治は見ていなかった。

(―――考えて見れば。面倒な話だな)

 と、幸治は昨晩のあかねとの会話を思い出す。
 あの時にかわした言葉の一つ一つを反芻して。

(もしかして、ハメられたんだろうか。俺は)

 幸治は時計を見る。
 教室の黒板の上にかけられた、飾り気のない時計は、まだ八時前を示していた。

「まだ間に合う―――か」
「ちょっと! あかねが死ぬ気って、どういうこと!?」
「そのままの意味だ。あいつ、草原駅の一番線ホームから、8時21分発の東京方面行きの列車の前に飛び込んで―――」
「あかねッ」

 雪絵は悲鳴を上げて、教室を飛び出した。
 幸治はそれを見送って吐息。
 と、何時の間にか居たリョーコが、何気なく呟く。

「わざわざ自分が死ぬ列車を決めている―――小松あかねは東京方面行きの列車になにか思い入れでもあるのか?」

 幸治は答えずに肩を竦める。
 答える代わりに、手にしていた封書―――――あかねの母親、明子に渡すはずだった “遺書” を弄びながら。

「生きるのって難しいな」
「そうだな」
「でもそれ以上に死ぬのは難しいって、あかねの馬鹿は知るべきだ」

 幸治の言葉を理解できずに、リョーコは小首を傾げた。

 

 

 

 

 

 駅へ向かう途中、運良くタクシーを拾うことができた。
 学生服姿の雪絵に、タクシーの運転手は妙な顔をしたが、特になにも言わずに駅に向かって車を飛ばした。駅について、タクシーの代金を払うと、お釣りを貰うのももどかしく、雪絵は駅の中に向かって走る!

(あかねっ、お願いだから馬鹿なことはよしてよ!)

 駅に入る直前、駅前の広場の時計を見た。
 8時10分。
 まだ間に合う―――幾分安堵しつつ、券売機で入場券を買って改札をくぐり、一番線のホームへ向かった。
 通勤ラッシュのピークは過ぎたとはいえ、それでも人は大分居る。雪絵は一番線のホームを端から端まで駆け抜けながらあかねの姿を探す―――が、

「―――いないじゃない!」

 雪絵は幸治を呪いながら毒づく。
 念の為、もう一度ホームの端から端までを走って探す―――が、いない。
 もう時計は20分を過ぎようとしていた。

『―――次の一番線の列車は、8時21分、東京方面――――』

 問題の列車の構内アナウンスが響き渡る。
 しかしあかねの姿は見つからない。
 もしかして、からかわれた?
 そんな風に思いつき、それが本当のような気がして、雪絵はその場に脱力して座り込む。

「―――あ、あの、大丈夫ですか?」

 雪絵を病気かなにかかと思ったのか、誰かが心配そうに伺って来る。
 その声は、妙に聞き覚えのある声で。

「あ・・・」

 驚いたような声。
 雪絵が顔を上げると。

「あ・・・あかね!?」
「雪絵ちゃん!? どうして!?」

 制服ではなく、私服姿に大きなバッグを持って、あかねは驚いたように雪絵を見つめている。
 思わず二人は見つめ合い―――ベルが鳴る。
 雪絵は反射的に振りかえる。と、電車が入って来る所だった。

「あ・・・私、行かなきゃ―――」
「駄目!」

 入って来る電車に向かおうとするあかねを、雪絵はからだごとぶつかって引きとめようとする。勢いあまって縺れ合い、ホームに倒れる二人。そんな二人を、周囲の人間は怪訝そうに見ながらも、降りてきた乗車客は急ぎ足で改札へと向かい、電車の到着を待っていた者は、せかせかと到着したばかりの電車に乗り込んでいく。

「ゆ、雪絵ちゃん、離して! 私、あの電車に―――」
「駄目! 死なせない! 死なせないから!」
「え。死―――って、なんの話!?」
「嫌、嫌よ! 死んじゃ嫌! 死なないでよ、お姉ちゃん!」

 ぷしゅーっ、と音がして、電車の戸が閉まる。それとともに、ゆっくりと電車は動き出し―――加速していく。
 そんな徐々に加速し、ホームから飛び出して行く電車を見送って、あかねは嘆息。
 自分の腰にしがみついて、嫌、嫌と繰り返す雪絵を振りかえって。

「とりあえず、落ち着こう。ね? 雪絵ちゃん」

 

 

 

 

 

 ホームルームが始まり、学級委員である綾がいないため、担任自らが起立、礼の号令をかけた。担任は綾がいないことについて幸治に尋ね、幸治が「忘れた」と応えると、それ以上はなにも聞こうとはしなかった。
 ホームルームも終わり、一時間目の授業の最中。
 幸治はクラスメイトが読み上げる、ヘタな英文の発音を聞きながら時計を見る。8時45分。雪絵は果たして間にあっただろうか―――きっと、間にあったのだろう。そう仮定して苦笑。

(・・・あかねは怒るだろうか)

 いや、と思い直す。
 怒りはしないだろう。ただ、頭を抱えるだけ。
 あかねの頭を抱える様を想像しながら、幸治は昨晩のことを思い出していた・・・・

 

 

 

「死んじゃおうかなって思って」
「そうか。じゃあまた来世でな」
「はう・・・幸治くん冷たい」
「戯言に付き合う気はさらさらない」

 言いきって、幸治はあかねを睨む。
 睨まれてあかねは浮べている微笑を、ぎこちなく軋ませた。

(う、幸治君、本気で怒ってる・・・)

「母親のために生きてるって言ったばかりで、死ぬと言われて信じると思うか?」
「なにもかもがイヤになったんだよ。死んでしまえばラクになれるって、フツーは考えるでしょ」
「お前、フツーじゃないだろ」
「・・・もしかして私、酷いこと言われてる?」

 首をかしげる。
 が、幸治は取り合わない。

「話がソレだけなら帰るぞ」
「この街を出ようと思うんだ」

 やっと本題に入ったらしいと、幸治はあかねに真っ向から向く。

「この街を出て、一人で生活しようと思うんだ」
「何故?」
「これ以上、私が大好きな人達が、私のことで傷つくのを見るのは嫌なんだよ」
「逃げるのか」
「うん」

 幸治の挑発じみた一言に、しかしあかねは簡単に頷きを返した。

「私はいない方が良いんだよ。かーさんも、雪絵ちゃんも、私がいなければきっと、もっと幸せになれるはずだから」
「お前がいるから幸せなのかもしれないぞ」
「違うよ」

 即座に否定。
 あかねはもう微笑んではいなかった。なによりも真剣に、幸治と向き合っている。

「私がいなければかーさんだって家を出ることもなかったし、雪絵ちゃんだって傷つかなくて済んだ。私はいなければ良かったんだよ」
「そうかもな」

 幸治が頷いて、しばらく会話が止まる。
 それから、次に口を開いたのは幸治だった。

「街を出てどうするつもりだ? 金は?」
「かーさんが私の将来のために積み立ててくれた貯金があるんだ。それを、こっそり貰っていくつもり」
「うわ、犯罪だ。窃盗だ」
「家族でも窃盗罪になるんだっけ?」
「知らん」
「でも、私のための貯金だから私が貰ってもいいとして」
「いいのか。―――しかし、明子はお前のことを探すと思うぞ」
「だからね、都会に行こうと思ってる。人が多い場所なら、見つかりにくいと思うし」
「・・・対人恐怖症のくせにか?」
「そう、それが不安なんだよね。だから―――」

 と、あかねは頬を赤らめて。

「だから、私に勇気をください」
「生憎と勇気の持ち合わせはないな」
「・・・だ、だから、その、キス・・・」

 顔が真っ赤。
 そんなあかねを見て、幸治は吐息。

「俺がしなかったら、お前は街を出ていかないのか?」
「ううん。そんなことないけど」
「じゃあ、別にしなくてもいいだろ」
「は、はう。で、でも、私―――もしかしたら、幸治君に会えることはもうないかもしれないし、最後の思い出に」
「却下だ。―――俺は、お前に行って欲しくない」
「じゃあ、私を引き止める?」
「・・・・・・」

 あかねの質問に、幸治は沈黙。
 くす、と笑ってあかねはそんな幸治を見つめる。

「きっと、幸治くんは世界中の誰よりも私の気持ちを解ってくれてるんだよね」
「解りたくもないけどな」
「大好きだよ、幸治君」
「俺は大っ嫌いだ。お前なんて」

 忌々しげに吐き捨てる。

「・・・どうしても行くんだな」
「幸治くんが引きとめてくれるなら、思いとどまるかも」
「引きとめて欲しいなら、引きとめる。―――でも、お前はそれを望んでいない」
「そうやって、解ってくれるから、私は幸治君にだけは伝えてから行こうって思ったんだよ。―――もしかしたら、素敵な勇気をくれるかもって、期待して」
「・・・そんなにして欲しいのか」
「うん」

 屈託ない笑顔で笑い、頷く。
 幸治は少しだけ考えて。

「来いよ」
「う、うんっ」

 あかねはそっと、幸治に歩みよる。一歩、二歩、三歩であかねは幸治のすぐ目の前に立つ。言葉を出せば、吐息が相手にかかるくらいの距離。
 幸治はそっと、指先であかねの顎を持ち上げた。

「目、閉じて・・・」
「う、うん・・・」

 あかねは緊張して、期待しながら目を閉じる。
 幸治はそんなあかねに顔を近づけて―――

 ゴン。

 幸治の額があかねの額に激突した。

「は、はうっ!?」

 痛みより、いきなりの衝撃に驚いて、あかねは額を抑えて仰け反る。

「な、なに!? なんで・・・」
「勇気注入完了」
「なにそれっ! ただの頭突きだったよっ、今のっ」

 抗議の悲鳴を上げるあかねを、幸治は不思議そうに見やって。

「勇気が沸きあがってこないか?」
「来るわけないよっ」
「ならもう一撃―――」
「いらないっ」
「・・・どうでもいいが、あまり騒ぐな。近所迷惑だぞ」
「は、はううう・・・」

 瞳の端に涙すら滲ませて、あかねは幸治を睨みつける。

「酷いよっ、幸治君!」
「酷いか?」
「酷すぎるよ! 具体的に言うと、詐欺罪で死刑になるくらい罪が重いよっ!」
「友人知人、ついでに家族に黙って街を出るって言うのは酷くないのか・・・?」
「そ、それは・・・でも―――」
「そんな酷い人間には、酷い仕打ちで十分だろ」

 幸治は笑って、あかねの髪の毛をくしゃっと撫でる。

「ま。お前が必死になって考えたんだろ? だったら自分一人で頑張ってこい」
「ん・・・」
「まあ。街を出て―――1人で挫けたなら、戻ってくればいいさ。その時は残念賞でしてやろう」

 言いながらも、幸治は確信する。
 きっと、あかねは挫けないだろう。自分のために街を出たのならともかく、あかねは自分の大切な人たちを、これ以上傷つけないために街を出る。だからこそ、折れることはない。小松あかねはそういう女だ。

「幸治君ってさ」

 あかねはじっと、幸治の表情を見つめて呟く。

「笑顔、すごく素敵なのに、どうして隠しているの?」
「・・・・・・」

 あかねの言葉に、幸治は即座に微笑みを消す。
 そのことを残念に思いながら、あかねは続けた。

「今まで幸治君の微笑み、何度か見たけど、その度にドキドキした―――きっと、綾さんだって一撃だよ」
「・・・さて、話はそれだけだな。じゃあ、俺はさっさと寝るが―――そのバッグって旅行用のものだよな・・・もしかしてお前、今から出るのか?」

 話を反らそうと、幸治は早口でまくしたてる。
 そんな彼に可笑しく笑いながら、あかねは自分の手にしたバッグを見下ろして。

「これは、隠して置くんだよ。明日、学校にいくフリをして家を出て、8時20分頃の電車に乗って東京の方へ行くの。で、頼みがあるんだけど・・・明日、届けものを頼んでいいかな」
「それくらいなら構わんが」
「あとね」

 と、あかねは意地悪そうな目付きで幸治を見る。

「さっきの笑顔、十分勇気になったから」
「・・・じゃあな、おやすみ」
「うん、おやすみー」

 アパートの方へと戻る幸治を見送って、あかねはバッグを抱えて駅の方へと向かった。

 

 

 

 きーんこーんかーんこーん・・・
 チャイムの音。
 いつの間にか、一時間目の授業が終わっていた。
 いない綾の代わりの、誰かの号令とともに椅子から立ちあがり礼をする。
 教師が教室から出ていくのを見送りつつ、幸治は再び椅子に座った。

(よくよく考えて見れば―――)

 そう、考え直して見れば、だ。いくらなんでも幸治にだけ街を出ることを伝えるのはおかしい。幸治が同じ立場なら、誰にも言わずに黙って一人で街を出るだろう。
 あかねは幸治にだけ伝えて街を出ようとした。それはつまり、幸治に後始末を任せたということではないだろうか。
 幸治にその気はなくても、事情を知る人間が自分だけなら、嫌でも明子や雪絵のことをフォローしなければならない。そういうことを西山幸治は無責任に無視することのできない人間だと、あかねは知っているはずだった。

(死ぬのは意外と難しい)

 幸治は雪絵にあかねの居場所を伝えた―――確実にあかねを捕まえてもらうために、多少のウソを混ぜて。
 死ぬことは、時には生きるよりも難しい。

(あかねは死ぬことの難しさを知るべきだ―――少なくとも、こっそりと逃げ出して消え失せてしまうような “死に方” は認められるべきじゃない)

 親しい者達から離れてどこか遠くの地に消えていくのは、残された者たちにとっては死んだと同じことだ。
 それが母親への義理で生き続ける、あかねの唯一できる自殺の方法だった。

「さて、と」

 二時間目のチャイムが鳴る。
 その音を耳にしながら、幸治は学校の外へと思いを馳せる。

「あかね、今頃はどうしてるだろうか・・・?」

 

 

 

 

 

 頭を抱えていた。
 駅前の広場。
 花壇の縁に雪絵と並んで腰掛けて、あかねは頭を抱えていた。

「はううう・・・こーじくんの裏切り者・・・」

 俯いて、頭を抱えたままぶつぶつと呟くあかねを、雪絵は心配そうに眺めながら。

「あかね、どうしたの? 気分でも悪い?」
「え・・・ううん、なんでもないよ」

 顔を上げてあかねが言うと、雪絵は安堵の息を漏らす。

「良かった・・・」

 と、笑って。だけどすぐに悲しそうに表情を蔭らす。

「私・・・あかねが死ぬって聞いて・・・もう、頭が真っ白になって―――」
「・・・こーじくんの大嘘つき」
「え? なに?」
「なんでもない」

 言いながら、あかねは幸治のことを心の中で力一杯愚痴っていた。
 が、ふと思い返す。

(でも、仕方ないか。私だって、全部幸治君に押し付けて逃げようとしたんだし)

 もしかしたら幸治はそのことに気付いたのかもしれない。
 そんな風に思いながら、ちらりと雪絵の方を見れば、雪絵は深刻そうな表情でこちらをじっと見つめていた。

「あかね、お願いだから死んだりしないで。私、なんでもするから・・・お願い」
「・・・この前、死ねって言われたような気がするんだけどなあ」
「あれは―――ごめんなさい」

 笑いながらあかねの言った言葉に、雪絵はとても落ち込んで見せる。
 その落ち込みように、あかねは戸惑った。

(あ、あれ・・・ほんの冗談のつもりだったのに)

 だが、雪絵にとっては冗談ではなかった。
 困惑するあかねの前で、雪絵はぼろぼろと涙を溢す。

「ごめんね、ごめんなさい・・・わた、わたし・・・酷いこと・・・ごめんなさい、ごめんなさい」
「ゆ、雪絵ちゃん!? あのっ、な、泣かないでよ。私、雪絵ちゃんに酷いこと言われたなんて思ってないからっ」
「あかね・・・」

 雪絵は涙を浮べた瞳でじっとあかねを見る。

「じゃあ・・・もう死ぬなんて考えない?」

(西山幸治の超嘘つきー。英語風に言うと・・・チョベリラ?)

 心の中で叫びつつ、にこりと雪絵に笑い掛ける。

「うん。もう、死ぬなんて考えないから」
「本当・・・?」
「うん。心配かけてごめんね」

 雪絵は自分の涙を拭う。

「本当・・・よ」

 声に、さきほどまでのか弱い声は残っていない。

「本当に心配したのよ―――この、馬鹿あかね」
「はうう、馬鹿って言われた」
「だって、馬鹿だもの。今度、勝手に死のうなんて考えたら承知しないからね!」
「うん・・・本当に、ごめんね」

 謝るあかねを見て、雪絵は不意に吹き出した。

「え、なに? どうしたの、雪絵ちゃん」
「さっきまで謝ってたのは私なのに」
「あ・・・でも、謝ってる雪絵ちゃんってなんか―――ちょっと」
「ちょっと、なに?」
「可愛い」

 あかねの言葉に、雪絵は顔を真っ赤にする。
 それを誤魔化すように、雪絵は怒ったようにあかねを睨んで。

「へ、ヘンなこと言わないでくれる?」
「んー。でも私は可愛い雪絵ちゃんよりも、カッコいい雪絵ちゃんの方が好きだよ?」
「当たり前でしょ」

 ふん、と雪絵は鼻を鳴らす。
 いつもの調子に戻った雪絵を見て、あかねは柔らかい微笑を浮べた。

 

 

 

 

 

 ―――気がつくと、お昼を過ぎていた。
 9時前から3時間、特になにもせずにぼーっと花壇に座っていたことになる。
 あかねは隣に座る雪絵を見る。草原高校の学生服姿の雪絵。平日の昼間にこんな所で私服姿の自分と並んで座って、補導されなかったのは奇跡だろうかと思い悩む。

「雪絵ちゃん、とりあえず私は帰るけど・・・雪絵ちゃんは?」
「もちろん、あかねに付いて行くわ」

 なにがもちろんなのか、あかねには良くわからずに苦笑。
 あかねは立ちあがり、雪絵も同じ。駅の敷地内を出て、それからあかねのアパートの方向へ向かう。と。

 ピーポーピーポー・・・・・・

 渡ろうとした交差点を速いスピードで、白い救急車が通りすぎて去っていく。
 その救急車を、雪絵はぼーっと眺めて見送って。

「雪絵ちゃん?」
「・・え!? なに、あかね」
「救急車が―――――」

 どうかしたの? と問おうとして、理解する。

「雪絵ちゃんのお父さん・・・まだ」
「・・・うん」
「で、でも、よくなってるんだよね?」

 雪絵はゆっくりと、頭を横に振る。

「わからない・・・私、1度しか―――パパが病院に運ばれたって聞いたときしか病院に行ってないから・・・」
「えっ・・・どうして?」
「怖いの。・・・もしも、パパがこのまま目覚めなかったら―――このまま死んじゃったら・・・・もう駄目ですって、医者に言われたら・・・・・・・! 怖くて、私、私―――」

 顔を俯かせ、肩を振るわせる。
 そんな雪絵の肩を、バッグの持っていないほうの空いている手で、あかねは抱いた。

「大丈夫、きっと」
「うん・・・」
「これから、行ってみようか」
「え・・・?」
「病院、そんなに遠くないよね?」

 こくん、と頷く雪絵。

「じゃ、決まり。―――それとも、私が行ったら迷惑かな」
「そんなことない!」

 思わず叫んで、それから雪絵は小さく繰り返した。

「そんなことない・・・だから」
「うん、じゃあ、行こうよ」

 あかねは雪絵に手を差し出す。雪絵は嬉しそうにその手を取った。
 手をつなぎ、病院に向かって歩き出す。
 雪絵の父―――それから、あかねの父でもある人の居る病院へと。

(・・・・・妹、か)

 ふと、駅のホームでのことを思い出す。

 ―――死なないでよ、お姉ちゃん!

 思わずなのだろう、電車に飛び込むと思った雪絵が、咄嗟に叫んだ言葉。

(お姉ちゃん―――私が雪絵ちゃんのお姉ちゃん)

 似合わないなあ、と自分でも思う。
 どちらかといえば、雪絵が姉の方がしっくりくる。
 そんなことを思いながら、あかねは雪絵の手を握り締めた。

 

 

 

 

 

 佐野孝雄はまだ目覚める気配はなかった。
 雪子は病室に備え付けてある椅子に腰を落ち着けて、孝雄の横顔を眺める。昨日来た時と―――事故にあって入院した時から、ずっと変化のない横顔。
 それでも少しづつ、良くはなっているのだと言う。雪子にはよく意味が解らなかったが、医者の説明によれば一昨日にはなにかの反応が出たとか言っていた。もしかしたら、今日明日にでも目覚めるかも知れない―――という一方で、もしかしたら一生目覚めない可能性もあるのだと言う。・・・もし、ちゃんと学校を卒業して、看護婦の資格を取ったならそこらへんのことをもう少し詳しくわかったのかも知れないが―――すでにもう10数年も昔のことで、しかも雪子は学校を中退した。もう、看護婦としての知識は、せいぜいが熱があるのに雨の中を傘も差さずに歩きまわったお馬鹿な娘の処置をする程度の知識しかない。

(せめて、もう少しはっきりわかれば雪絵に教えてあげることもできるのだけど)

 あやふやな話では、ぬか喜びにで終わってしまうかもしれない。
 雪子は個室のベッドに昏々と眠り続ける自分の夫を眺めて吐息。
 こうしてみると、夫はただ眠っているように見える。少し前までは、この個室ではなく、別の色んな機械がひしめいているような部屋で、包帯塗れで身体の色々な所にチューブだか点滴だかがささっていた。
 この部屋に移されたのはつい先日。相変わらず点滴を打ってはいるが、包帯の数は確実に減ったし、よくわからない機械の世話にもなっていない。だから、実際に良くはなっているのだろうが。

(一度、雪絵を連れて来るべきかしら)

 思うが、果たして自分が言って素直について来るだろうか?
 駄目だと想う。理由は解からないが、娘に嫌われていると言う自覚だけはある。

(でも、あかねに援護してもらえば大丈夫かも知れないわね)

 小松あかね。
 娘が始めて家に連れてきた、娘の親友。
 これも理由は解らないが、あの二人はケンカしていたらしい。
 が、金曜日の騒動で、仲直りできたようだった。あかねの話なら聞くだろう。そして雪子とあかねは親友には劣るが、友達ではあるはず。少なくとも雪子自身はそう認識している。
 明子が自慢―――本人にはそのつもりはないのかもしれないが―――している通り、あかねは良い子だ。少なくとも友達の頼みを聞いてくれないような娘ではない。

「良い考えだと思わない?」

 と、ベッドに横たわる夫に語りかける。が、当然のように応えない。
 吐息。
 それから言い訳するように。

「独り言じゃないわよ。医者が、こういう患者に必要なのは家族の呼びかけですとか言ってたから、こうして話し掛けてるだけなのよ」

 それからしばらく黙考。

「今日はなんだったかしら―――そうね、私の学生時代のことだったわね。・・・ちなみに、この話をするのはもう3回目よ。いい加減に起きてくれないと、そのうち恥ずかしくて悶死するわよ。私」

 恥ずかしさの欠片も見当たらない調子で、雪子は淡々と告げ、付け加える。

「それほど恥ずかしい話なのだから」

 

 

 

 

 私の父親はずっと昔から心臓を患っていた。
 幼い頃から私は、胸を抑えて苦しそうに呻く父の姿をずっと見てきた―――だから、看護婦になろうとずっと思っていた。・・・今にして思えば医者を目指すべきだったのだろうけど、幼い頃は女は看護婦にしかなれないと思っていたのよ。笑うでしょ?

 中学を出て、実家の近くにある高校の衛生看護科に入って、これでも頑張ったのよ。
 例えば、神様が産まれた子供に一つずつ “才能” をくれるのだとしたら、私には神様から “看護婦” という才能を与えられなかった。私は看護婦には向いてないって、自分でも何度も思った。どういうわけか、周りの人間はその逆で、私ほど “婦長” の似合う看護婦はいないってよく言われたのだけど。なんで “婦長” なのか、聞いても教えてくれなかったわ。
 とにかく、私には才能がなかった。だから頑張って勉強したわ。毎日毎日、休みの日だって休まずに勉強勉強。私は本気で看護婦になりたかったから、本気で頑張った。その時の私の頑張りは、きっと誰にだって自慢することができるわよ。あなたにも、娘にも、どこぞの大統領や王様にだって、神様にだって自慢できるわよ。

 ―――それが高校に入学したその年の夏休み。家に呼び戻されて、なにかと思えば許婚・・・さすがにあの時は、私も驚いたわ。
 あなたも嫌だだったでしょうけどね。私も嫌だったのよ―――まあ、普通は嫌よね。けれど父は半分冗談のつもりのようだった。当人たちが気に食わないのなら、結婚などするべきじゃないって―――私はあなたのことを気に食わなかったわけじゃないわ―――嫌うことができるほどよく知らなかったから―――けれど学校を止めるのは嫌だった。看護婦になるとずっと昔から決めていたから・・・今更、それを止めて主婦になったり、スーパーのレジのパートのおばさんになるなんて考えたくもないことだった。

 そしてそれっきり、許婚の話はでなかった。
 あなたの父はずっとゴネていたようだけど―――そしてその理由は、あとで思い知ることになるのだけど―――とりあえず、私は一年後にはそんなことを忘れていた。
 それから半年とちょっと経って、高校に入って三年目に入ったとき。

 父が倒れた。
 それも私の目の前で。
 学校が休みの日。昼頃に目が覚めて、家の外に出ると父が庭の草むしりをしていた。私が手伝う? と聞くと父は顔を上げて―――微笑して頷こうとしたのだと思う。口元を緩ませて、だけど目は大きく見開いて私を・・・いいえ、なにも見ずに泥のついた軍手で胸を抑えた。

 ―――その時のことを母に聞けば、笑いながらいつも言う―――あなたは憎らしいほど冷静だったわね―――と。
 実際、私の行動は冷静そのものだったのだろう。父を草の上に仰向けに、楽な態勢に寝かせて母を呼んで父を任せ、自分は病院に電話をすると父の倒れた時の状況と、状態を伝えた。らしいわ。
 らしいわ、というのはその時のことをあまり思い出せないから―――誰もが信じてくれないことだけれど、あの時の私は誰よりもパニックになっていたのよ。正直、自分が冷静に対処したなんて、未だに信じられない。
 それでもそれは事実で、駆けつけてきた救急隊員も的確な処置だったと褒めてすらくれた。その時の私の速やかな対応のお陰で、父の寿命が幾らか延びたとも、後になって―――父が死んだ時に言われたわ。喜ぶことはできなかったけど。
 だってそうでしょう? 私が看護婦を目指したのは、父の心臓の病を治してあげたいからだったのよ? なのに結局、私は父を救うこともできず、看護婦になることすらできなかったのだから。

 父が倒れて、すぐにあなたの父―――お義父様は駆けつけてくれたわ。許婚云々の話を忘れていた私は、それが誰なのか解らなくて最初は面食らったけれど。
 父の命は、もう半年と持たないらしい―――そう言われたとき、一番泣いて嘆いてくれたのはお義父様だったわ。ひとしきり泣いた後、お義父様は私に向かって土下座した―――どうかウチの愚息と結婚して欲しい、って。アイツに娘の晴れ姿を見せてやりたいんだ、って。嫌ならすぐに離婚してもいい―――或いは形だけでもいい、だから。
 私は迷わず頷いた。結局、私は父を救えなかった―――笑われるかもしれないけど、父が倒れる時まで、私は看護婦になって父の命を救えると本気で信じ込んでいたのよ。でも結局、私は父を救えなかった。ならせめて、父を安心して逝かせてあげることが、私にとっての精一杯の親孝行でしょう?

 感謝しているわ。お義父様にも、あなたにも。私は本当に感謝しているのよ?
 お義父様は私の父のために、必死になってくれた。
 あなたは父のために結婚する私を受け入れてくれた。
 本当は籍を入れるつもりはなかった。式を挙げて、父に花嫁としての私を見せたら、茶番は終わりにするはずだった。けれど。

 

 

 

 

「けれど―――あなたは、私を支えてくれたわね。父を失い、看護婦になる目的も見失った私を、あなたは支えてくれた―――式を終えた後で、改めて籍を入れて、私は清水雪子から佐野雪子に名前が変った。自分の名前・・・苗字が変るというのは妙な気分だったわ。でも―――」

 吐息。

「嬉しかったわ。本当よ? 誰も信じてくれないでしょうけれど、今までの生涯で一番―――雪絵が産まれた時と同じくらい嬉しかったのよ」

 呟いて、雪子は誰もいないことを確認するかのように、部屋の中を見回して―――個室なのだから、雪子とベッドに眠る孝雄以外誰もいないはずなのだが。
 それでも、雪子は何度か部屋の中を確認すると、椅子から腰を浮かせて孝雄の耳元へ口を近づけて囁いた。

「愛してるわ、あなた・・・だから」

 早く目を覚まして―――と、繋げようとした時。

「ママ!?」

 聞き慣れた娘の声。
 振り返ると、雪絵が部屋の入り口に立っていた。

 

 

 

 

「どーしてママが居るのよ!?」
「居たら悪いかしら?」

 そそくさと、椅子に腰を戻す。

「わ、悪くはないけど―――でも・・・ママがお見舞いに来てるなんて意外過ぎて―――大体、ママはその・・・別の、男の人のところに行ってるんじゃなかったの!?」

 娘の言葉に、雪子は首をかしげ、孝雄を振り返った。

「男の人よね? 女の人と結婚した記憶は私にはないわ」
「・・・・・・・・」
「どうかしたの?」

 雪子の言葉に答えることもできずに唖然、と雪絵は口をあけて、その場に膝をついて脱力。

「ゆ、雪絵ちゃん!?」
「あら、あかねも来ていたの」

 崩れ落ちた雪絵の後ろに、あかねの姿が見えて、雪子は呟く。
 病室を見回して。

「ちょっと狭いけれど、入りなさいな」
「は、はい・・・ほら雪絵ちゃん・・・」

 あかねが雪絵を促す、が雪絵は床に膝をつけたままブツブツと呟くだけだ。

「・・・私って・・・私って・・・」
「ゆ、雪絵ちゃん」
「なによぅ・・・私、一番馬鹿じゃないの」

 ゆっくりと立ち上がる。瞳に涙を滲ませて。

「あかねのこともそうだったけど、ママのこと勘違いして・・・」
「なんのこと?」
「ママって、パパのことを好きじゃないんだって、ずっと思ってた」
「どうしてそう思ったの?」
「だって、私、ママが笑ったところなんて、一度も見たことないもの。許婚って、無理矢理パパと結婚させられて、私が産まれて、ママは嫌々家族として暮らしているんだって、ずっと思ってた」
「そうね」

 雪子は頷いた。
 そしてきっぱりと言う。

「雪絵って本当に一番の馬鹿ね」
「ゆ、雪子さん、そんな言い方―――」

 思わず抗議の声をあげるあかねを無視して、雪子は立ち上がると雪絵の頭を包み込むように胸に抱く。

「あなたは信じないかもしれないけれど、私はこの人と一緒になって、あなたが産まれて、ずっと幸せだったのよ?」
「信じられるわけないじゃない」
「・・・何故かしら。皆、私の気持ちを信じてくれないのよね」
「信じて欲しいなら・・・笑ってよ」

 とん、と雪絵は母の胸を軽く突き放す。
 涙を拭い、雪子の無感情な表情を真っ向から睨みつけて。

「笑って見せてよ。そんな顔じゃ、信じたくても信じられない・・・!」
「嫌よ」
「どうして!」
「だって、恥ずかしいもの」

 そう言って、雪子は雪絵の横をすり抜けて、病室の外に出ようとする。

「だから嫌いよ!」

 病室を出ようとする雪子に、雪絵は怒鳴り散らした。

「だからママは嫌い! 大っ嫌い!」
「そう」

 雪絵の激白に、しかし雪子は簡素に頷いて。

「でも覚えておいてね。信じなくてもいいけど―――――あなたにどんなに嫌われても、憎まれても、私はあなたとその人のことを誰よりも愛しているし、この世で一番大好きだから」

 そう、言い残して。
 雪子は病室を後にする。

「―――好き勝手なことばかり言って!」
「雪絵ちゃん・・・」
「だったらもっと態度で示してよ! でなきゃわかりっこないじゃない―――それで、ずっとママのこと勘違いしてたなんて・・・酷いじゃない」
「・・・雪絵ちゃん」
「あかね・・・」

 雪絵はあかねを見る―――が、その視界がすぐにぼやけた。

「うくっ・・・」

 涙が溢れる―――止まらない。止まらない涙を、必死で拭いながら、雪絵はあかねに向かって呟く。

「私、私ね、ずっとママは私のこと嫌いなんだって思ってた。だから、私もママのこと嫌いだったのよ―――ずっとよ。産まれてからずっと、私はママのこと嫌いだった。酷いじゃない。それが私の勘違いだったなんて。ママは私のことをずっと愛してくれてたのに―――そんなことを知らずに、私はずっとママを憎んでた・・・」

 泣きながら言葉を続ける雪絵を、あかねは先程雪子がやったように、頭を抱いてやろうとして―――身長差のために断念。代わりに、ちょっとだけ背伸びをして、雪絵の肩に自分の顎を載せるようにして、背中を包み込むように抱く。

「―――酷い話でしょ。私が勘違いなんかしなくて、ママのこと好きでいたら、友達のママを羨むこともなかったし、明子おばさんに嫉妬してあかねを傷つけることもなかった。それにママともっと一緒に楽しく居られたかもしれないし――――自分が、自分が、要らない子供だって・・・私・・・ずっと、思ってて――――」

 そろそろ言葉よりも嗚咽の方が強くなってきた。
 ほとんど言葉を聞き取れない。あかねは雪絵の背中を、幼い子供をあやすように優しく叩きながら、耳元に囁く。

「雪子さんは本当は雪絵ちゃんのことが大好きだったんだね。―――だったら、雪絵ちゃんも、本当は雪子さんのことが大好きだったんだよ。今までは勘違いして、すれ違っていたのかもしれないけど、もう大丈夫だよ。自分の気持ちと雪子さんの気持ち。その二つに気がつくことができたなら、もう大丈夫だよね―――」

 あかねに抱かれ、その言葉を聞きながら。
 父の病室で、雪絵はただ嗚咽を繰り返していた――――――

 

 


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