外は雨。
 ざーざーと、なかなかに激しい雨音を聴きながら、あかねは目を回していた。
 朝、目を覚ましてベッドから降りようとした瞬間、平行感覚がワケわからなくなってベッドから落ちた。起き上がろうとしても身体に力が入らない。どころか、全身が熱いような寒いような気だるいような感じで、それ以外の感覚が殆どない。頭がぼおーっとして、まるで悪夢の中の自分のようだった。

「あかね、どうしたのー?」

 と、母が部屋に入って来る。
 ベッドから布団ごと床に転げ落ちた状態のあかねを見て、怪訝に眉を寄せる。

「なにしてるの?」
「――――」

 なにか答えようとして、しかし声が出ない。

「あ゛」

 無理に声を出してみると、とても酷い声。というかノドが錆び付いてしまったように痛い。

「なんて声出しているの。―――あら、なんか顔が赤いわね。風邪?」

 明子はそう言いながらあかねの傍にしゃがみこむと―――できれば先に起こして欲しいと思ったが―――あかねの額に手を添える。

「・・・熱があるわね」
「う゛・・・」
「今日金曜日だから、今日行けば明日休みだけど―――無理ね、休みなさい」

 あかねは少し考えて、ふるふると首を横に振る。

「なに? どうかしたの?」
「か゛」
「が?」
「い゛き゛」
「いぎ?」
「ん゛」
「ん?」
「し゛ょ゛」
「じょ?」

 明子は首を傾げて娘の言葉を反芻する。

「がいぎんじょ・・・がいぎんじょ・・・がいきんじょ・・・換金所?」
「・・・・・・」

 あかねはまた首を横に振る。

「んー・・・じゃあ、監禁場所?」
「・・・・・(ふるふる)」
「えーとガイ・金城」
「・・・・・(ふるふる)」
「ああ、わかった皆勤賞ね!」

 明子の言葉に、あかねはやっと頷いた。
 そんな娘に、明子はにっこりと頷いて。

「それじゃあ学校には私から連絡しておくから、ゆっくり寝てなさいね」
「・・・・・・・・ッ!」
「仕方ないじゃない。そりゃあ、あかねが頑張ったのは私だって知ってるわ。雨の日も風の日も台風の時だって学校に行ってたものね。だけど、皆勤賞って言うのは頑張る価値はあっても無理をする価値はないのよ」
「・・・・・・・・・・」
「わかった? それじゃあ寝てなさいね。かーさん、今日は遅いけどなるべく早く帰るようにするから」

 明子の言葉に、あかねはこくんとしぶしぶ頷いた。

 

 


あるひあるときあるばしょで

シャレにならない彼女の事情

第八話「失われた皆勤賞―――或いは小松あかねが風邪をひいた日」


 

 

 風邪薬を飲んで、寝る。
 ちょっと寝て起きた―――つもりだったが、目を覚ませばもう夕方だった。
 外はまだ雨が振っている。朝ほど強くはないが、それでもかすかに雨音が聞こえてきていた。

「あ。あ。あーあ。わたしはこまつあかねー」

 ベッドから上半身を起こして発声練習。
 相変わらず喉は痛いが、それでも朝ほど酷くはない。
 これなら明日には学校に行けそうだ―――と、考えて、明日が休みだと思い出す。風邪もあと一日待ってくれれば、皆勤賞を逃すこともなかったのに。

(まあ・・・馬鹿なことした代償、だよね)

 雨の中をずぶぬれになったり、裸のまま幸治に迫ったり。
 まあ、風邪をひいても仕方がない。
 昨日のことを考えて、自然と指が口元に触れる―――

「幸治君、大丈夫かな・・・」

 昔、読んだマンガで、キスしたら風邪を移された―――なんて話があったのを思い出して、あかねは苦笑。
 ふと時計を見る。見れば、もう5時を回っている。そろそろ学校が終わるころだ。

(綾さんとかお見舞いにきてくれるかもね)

 ちょっと前には誰かが自分の見舞いに来るなんて考えられないことだったけど、九条綾の性格ならば授業が終わった途端にミサイルのように飛んでくるに違いない。
 おもてなしの用意でもしいておくべきかな、とあかねは寝ていたベッドから起き上がろうとした。ゴホ、と軽く咳をしてベッドから降りて立ちあがる。瞬間。

 くらっ・・・

「はれ・・・?」

 眩暈がして、身体のバランスを崩す。
 あぶない。と思った瞬間には、あかねは倒れて、床に頭をしたたかにぶつけてそのまま昏倒した。

 

 

 

 

 

「・・・かねっ。あかねっ!」

 誰かに呼ばれている。
 声が聞こえて、あかねは目を覚ました。

「あかね―――あかね、気がついた!?」
「あれ・・・綾さん・・・?」

 気が付けば、綾がこちらを覗きこんできている。

「綾・・・さん・・・?」
「良かった・・・」

 ほふう、と綾は一息。
 あかねは身を起こそうとして―――

 ズキンッ。

「あうう・・・?」

 頭を金槌で軽く殴られたような衝撃と、脳の芯から響くような鋭い痛み。。
 たまらずに、起こしかけていた身体を、再び寝かす。

「ダメよあかね! 無理をしちゃ!」
「えーと・・・私・・・?」

 現状を把握できていないでいると、綾が少しだけ怒ったような顔で、

「もう。驚いたわよ。お見舞いに来て、返事がないから勝手に入ってみたら、あかねが部屋で倒れてるじゃない。慌ててベッドに寝かせて―――でも、良かった。気がついてくれて」

 怒っていた顔は、いつのまにか安堵の笑顔。
 幸治や雪子に比べると、面白いくらいに表情が変化する。

(そうか・・・私、立ちあがった瞬間に眩暈がして倒れてそのまま意識を―――)

 言われて、あかねは自分がベッドに寝かされていることに今更気付く。
 ついでにもう一つ。

「・・・あれ。玄関の鍵って開いてました?」

 あかね自身は開けた記憶がない。
 しっかり者の明子が鍵を掛け忘れるというのも考えにくいし。

「いや掛かってたけど」
「え・・・? じゃあ、どうやって―――」
「ええと・・・その―――私じゃないから」

 と、綾は後ろを振りかえる。綾が振り返った先には、リョーコと見覚えのある用なないような男が一人。スラリとした長身の男。顔から腕から身体から、全身のパーツが細いすっきりとした男だが、ガリガリ君という印象がないのはそれなりに筋肉もついているせいか。あかねの視線に気がつくと、やや赤みがかった茶色いやや長めの髪を後ろでやややや無理矢理にまとめたチョンマゲを揺らして、そっぽをむく。両手を学生ズボンのポケットに突っ込んで、なにやら誤魔化すつもりなのか下手な口笛なども吹いて見せた。

「こいつだ」
「いで」

 ぐい、とリョーコはそのチョンマゲを掴んで引く。
 かくん、と顎を上げて男は呻き声をあげると、リョーコの手を振り払って怒鳴る。

「いってーなっ。なにしやがる!」

 男の抗議を無視して、リョーコは淡々とあかねに告げる。

「コイツが針金一本でピッキングしたから、私たちはここに居るのだ」
「ピッキングって・・・」
「平たく言えば鍵を不法にあけて家に侵入する―――まあ、犯罪だな」
「犯罪・・・」
「待てコラ。やれっつったのはお前等だろうがッ。俺を犯罪者呼ばわりするなら、お前等だって共犯だろ!」

 再び怒鳴る男。
 ふむ。と、リョーコは頷いて。

「そうだな。犯罪、というのは少し違うか」

 認めて言いなおす。

「芸術的な犯罪だ」
「くをら」
「なにか不満か? 誇っていいぞ、なにせあのピッキングの手際は美しさすら感じさせ、しかも早い。お前、それで一生食っていくことができるぞ」
「だからっ、人聞きの悪いことを抜かすなぁぁぁっ」

 怒鳴り合う―――一方的に怒鳴っているのは男のほうだったが―――を見て、綾は嘆息。

「いいじゃない冬哉。犯罪でも結果として人の命を救えたんだから・・・」
「だから犯罪者扱いするなよゥ」
「それに人の命って・・・そんな大げさな」

 いい加減に泣きそうな声で男―――冬哉は呟き、あかねは苦笑。して、ふと思い出す。

「冬哉さんって・・・たしかお弁当爆弾の―――」
「いやそういう覚え方はどうか?」
「あ。ごめんなさい。印象が強くて・・・」

 確かにインパクトはあった。
 というかありすぎだ。考えて見れば、弁当―――というか爆弾が一つ爆発すれば、それなりに事件になりそうだが、何故かあれきり騒ぎにはなっていない。
 冬哉のことも、名前は幸治や綾たちがたまに出してはいたが、縁がないのかあの爆弾弁当の時以来顔を合わせていなかったし、その時も爆弾の印象が強すぎて、冬哉のことは全く覚えていなかった。

「んー。それにしても・・・あかね、具合はどう? なんか結構ヤバそうだけど」

 綾に問われて黙考。
 起きようとすると頭が痛むし、ぼーっとするが、横になっていればそれほどしんどくはない。熱も朝よりは下がったと思う。
 うん、とあかねは軽く頷いて。

「大丈夫です。明日は・・・きっと、学校にいけます・・・」
「いや明日休みだけど」
「は、はうう・・・」
「まあでも身体はともかく、元気そうではあるわね。ちょっと安心―――いきなり床に倒れているのを見たときには驚いたけど」
「あはは。お騒がせして、すみません」

 あかねが苦笑しながら言うと、綾も笑い返す。

「ま。長居してもなんだから、そろそろ帰るわね。―――ほら、冬哉、リョーコ。帰るわよ」
「なにぃっ! 折角、女の子の部屋に入れたんだからもうちょっと堪能させろ!」
「堪能って・・・ヤらしいわよ! 冬哉!」
「くそっ、あの人のために続けた禁欲生活―――久し振りにちょっと息抜きをしようと思ってついて来たら、犯罪者呼ばわりされてソレで終わりかよ!? せめて女の子のヒミツの一つや二つを拝ませげふぅっ!」
「やかましいわよ」

 綾は冬哉を容赦なく部屋の外へ蹴り出すと、にこやかにあかねを振り返った。

「それじゃ、帰るわね―――また、明日も来ていい?」
「え? あ、はい―――嬉しいです。待ってますから」
「ふふ。じゃ、また明日ね」
「はい―――あ、リョーコさん」

 冬哉を追いかけて出ようとしたリョーコを、あかねは呼びとめた。

「なんだ?」
「あの雪絵ちゃんは? 今日学校にはきて・・・」
「佐野なら今日も休みだ」
「そうですか・・・」

 あまり期待したわけではなかったが。
 それでも落胆して、吐息。

「あの、それで・・・幸治君は」

 熱のせいで赤い頬を、さらに赤く染めて尋ねるあかねに、綾とリョーコは首を傾げる。

「アイツも誘った―――っていうか、どうせ同じアパートだし、一緒に帰ろうって行ったんだけどね。なんか寄る所があるって、さっさとどこか行っちゃったのよね」
「そうなんですか・・・」

 ちょっとだけ落ち込んだ様子のあかねに、綾はニタリ笑う。

「残念?」
「え、ええ、はい・・・その、少しだけ・・・」
「ったく、ホントにあの馬鹿は馬鹿よねー。こんなところでお姫さまが病に苦しんでるというのに、一体どこでフラフラしているのかしらね? 月曜日にでも顔合わせたら、殴って言い聞かせておくから」
「え・・・いや―――そんなことはしないでください」
「あかねは優しいわねー。ったく、こんなにもあかねに愛されてるってあの馬鹿は気づいているのかしら」
「・・・・・・・えと」

 困ったようにあかねは綾を見る。と、その視線に気付いた綾はあはは、と誤魔化すように笑って、

「それじゃ帰るね」
「明日明後日も休みだ。養生しろ」
「あ、はい。それじゃ・・・」

 綾とリョーコが部屋を出ていく。その瞬間に吐息。

(―――綾さんこそ、幸治君の気持ちに気付いているんですか?)

 心の中で尋ねる。
 もちろん答える人間は誰もいない。

「・・・ある意味、残酷・・・」

 綾はきっとなにも知らないし、気付いていない。
 幸治が綾のことを好きだってこと、それこそ心の底から愛していると言うこと。綾はなにも知らない。

(無知は罪。だけど無知無能であることは幸せでもある―――)

 いつだったか、幸治が言った言葉を思い返す。
 確かに無知は罪なのだろう。綾は自分の言葉が、どれだけあかねを傷つけているかなんて想像すらできないに違いない―――が、しかし気付かない、ということは余計な苦悩を持たないでいると言うこと。
 だからなのだろうか。
 西山幸治が九条綾になにも伝えないのは。

(幸治君・・・)

 ふと自然に手が唇に触れる。
 昨晩の出来事を思い返して赤面。

(今日来てくれなかったのって、やっぱり気にしているのかな)

 幸治自身のことイコール綾のことを本気になれといったあかねに、幸治は逃げるように部屋を出た。
 だから、顔を合わせづらいのかもしれない。綾たちと一緒に帰らなかったと言うのも、一緒に帰ってしまえば必然的に見舞いに付き合ってしまうことになるから、さっさとどこかに消えてしまった―――と、考えれば説明がつく。が。

(そうかな。幸治くんは、そんな人かな?)

 疑問。
 これが例えば、あかねが風邪を引かずに学校に出たならば、それなりに気まずいと思うだろうし、もしかしたら逃げ出すのかもしれない。だが、あかねは風邪を引いて休んでいる。それを見舞いに来ない程、薄情な人間ではないはずだ。少し前の自分なら、そんなのは自惚れだと考えて打ち消しただろうが、彼のことをよく知った今なら信じられる。

(なら・・・本当に用事があった?)

 用事があると言って、幸治はさっさと帰ったと言う。
 西山幸治の用事、というのはまるで想像がつかない―――つまり、どんな用事でも不思議ではないから、もしかすると世界の存亡をかけた用事とかあったりするかもしれない―――流石に冗談だが、それでも実際にそうでもあまり不思議とは思えないような気がした。

(まさか、ね・・・)

 なんとなくあかねが思いついたのは、世界の存亡を云々という用事ではなく、もっと身近な―――あかねにとって、至極身近なこと。

「ああ、もうっ」

 まさかとは思いながら―――それでも、あかねはベッドから起き上がる。勢いよく起きあがったせいか、酷い頭痛―――だが無視。痛くないと念じて、思い込んで、あかねはベッドから降りた。

「・・・・・っ」

 フラつく。
 頭痛のせいか、それとも熱のせいか―――平行感覚が失われたように、身体のバランスが取れなくて、足元がおぼつかない。それでも家具やら壁やらに寄りかかりながら部屋を出て、玄関を出る、頃にはフラフラな歩き方のコツのようなものを解りかけていた。靴を脱いで玄関を出る。
 外は雨だった。

「最悪・・・」

 そういえば朝から降っていたことを思い出しつつ、あかねは玄関から傘を持ち出すと、パジャマのまま雨の中に歩き出した―――

 

 

 

 

 

「―――今日は来ないわね」

 部屋の中に入って来るなり、雪子はそんなことを言った。
 ベッドの中に潜り込んでいた雪絵は、顔だけ外にだして、時計を確認する。7時10分前。
 部活動に入っていないあかねは、学校が終われば制服のまま学校から直接来ていた―――時間でいえば、遅くても6時には来ていたはずなのに。こんな時間まで来ないということは今日はこないのだろう。

「なんで来ないのかしら?」

 母親の疑問にふと想像するのは父親のこと―――
 まさか、交通事故でも―――と、考えて否定。そんなはずない。根拠はないけど―――きっと、ただ、いい加減に雪絵に対して嫌気が差しただけ―――

「心配?」
「そんなわけないでしょ」
「でも、あかねが心配って書いてあるわ。顔に」

 布団の中に潜り込む。母親に顔が見えないように。

 ピンポーン。

 不意にチャイムなった。
 雪絵は弾かれたように布団を跳ね飛ばす―――と、雪子がこちらをじっと見て。

「出る?」
「なんで私が」
「気になるって顔をしているわ」
「してない!」

 ピンポーン。

 催促するように、もう一度チャイムが鳴った。
 雪子は嘆息すると、部屋を出る。―――雪子が部屋から出ると、雪絵はそっとベッドから降りて部屋を出た。そして階段の上から階下の玄関の様子を伺う。

「―――誰?」

 母の誰何の声―――誰かと聞くと言うことは、訪問者はあかねではないようだった。そのことに落胆―――する自分を振り払って、雪絵は部屋に戻ろうとして。

「あかねのクラスメイトだ」

 聞き覚えのある声に動きを止める。
 隣のクラスで、九条綾と並ぶ超有名人―――西山幸治。

「クラスメイト・・・? あかねは?」
「俺が代理だ」
「代理?」

 雪子の戸惑った声が聞こえて、雪絵は思わず吹き出した。

(ママが困惑しているなんて・・・初めてだわ)

「代理って―――」
「雪絵に会いにきた」

(―――!)

 突然、自分の名前が出て、雪絵はぎょっとする。

「上がらせてもらう」
「え? ちょっと待って―――」

 と、雪子の制止の声を無視して、足音が階段を昇って来る。雪絵は慌てて自分の部屋に逃げ込むと、鍵を閉めた。

(なんなのよ―――)

 なんとなく声を殺して、心の中で毒づく。足音は雪絵の部屋の前を通りすぎて、隣の雪子の部屋で止まった。

「・・・む。いないな」

 壁一枚隔てた隣の部屋から声。
 それを聞いて、雪絵はもう一度心の中で毒づく。

(本当に、なんなのよ・・・・)

「そこは私の部屋。雪絵ならこっちよ」

 廊下から母の声。
 余計な事を―――と雪絵が思う間に、足音は再び雪絵の部屋の前まで来ると、今度は立ち止まる。

「おい」

 ドンドン、と乱暴にノックをされる。が、雪絵は答えない。

「開けるぞ」

 ガチッ。
 と、鍵がかかっているのでドアノブは回らない。そのことに、雪絵はホッと一息。

「このドア、壊れてるぞ」
「鍵がかかっているのよ」
「合鍵は?」
「雪絵がもってる」

 雪子の言葉に、幸治は「むう」と唸り。

「鍵の一つで断絶される親子の絆、冷たい家庭・・・」
「悪かったわね」
「悪いと思うなら、合鍵の一本でも作っておくべきだ」
「そうね、今度雪絵がいない間に鍵屋さんを呼んでおくわ」

(呼ばなくていい!)

 廊下の幸治と母の頭の痛くなるような会話に、心の中で悲鳴を上げる。
 たった今気付いたことだが、この二人はなんか似ているような気がする―――周囲のことをまったく気にしない所なんかが特に。

「仕方ない。古典的だがブチやぶろう」
「弁償はしてくれるのよね?」
「さて困ったどうしよう」
「弁償してくれるならなにをしたって構わないわ」
「金で全てが解決できる社会なんてクソクラエだと誰かがいった」
「お金じゃなくても言いわよ」
「金じゃないのならナニで払えと? 身体?」
「いえ金塊」
「なんでやねん」

 ―――いつの間にか漫才になっている。
 が、二人とも感情に乏しいというか、言葉に抑揚と言うものが殆どないので、至極味気なくというかむしろ不気味なやり取りだ。

「さてマジメな話だが、どうすればいい?」
「私に聞かないで」
「というか、本当にこの中に雪絵は居るのか?」
「さあ」
「そういうのを無責任と言うと思うぞ。ウチのクラスの担任なんて、責任感が溢れんばかりに溢れてる」
「どんなふうに溢れているのかしら?」
「生徒一人一人に発信機をつけるくらいの責任感だ」
「とても溢れているわね」

 納得する母親に、雪絵は偏頭痛を感じる。

(ウチのママって、あんなキャラクターだったかしら・・・?)

「とりあえず呼びかけてみようと思う。実際に中にいるかの確認」

 何故か説明するように言ってから、幸治は再び部屋の戸をノックしてくる。

「雪絵、いるか?」
「ところでさっきからずっと娘を呼び捨てで呼んでいるけど、あなたは娘のなに?」
「運命の人だ」

(なんでそうなるのよッ)

 しゃあしゃあと言い放つ幸治に、雪絵は思わず怒鳴りそうになって口元を抑える。

「まあ素敵」
「いや冗談だ」
「わかってたけど」
「実は冗談じゃないんだ」
「あら素敵」
「嘘だ。冗談だ」
「わかってたけど」

(お願い・・・誰でもいいからこの二人を止めて、どっかやって!)

 なにか挫けそうになりながら、雪絵はじっと耐えた。
 耳を塞ごうとも思ったが、この二人がなにを言うかわからない。

「おーい、雪絵。雪絵ー」
「返事が無いわね」
「ただのしかばねか」
「しかばねってナニ?」
「うわ、今どきの若いモンはしかばねも知らないのか」
「あなたの方が若いと思うわ―――それで? しかばねってなに?」
「いや実は俺も知らない」

 しかばね=屍。
 平たくいえば、死体のこと。

「仕方ない。最後の手段だ」
「もう最後なの?」
「ふっふっふ。そう思うのが素人というものだ。実は最後の手段は、あと四つほどストックがある」
「詐欺じゃない、それって」
「まあ、それはともかく」

 と、幸治は何度目かのノックを軽く、コンコンと戸を叩くと。

「雪絵ちゃん」
「その呼び方は止めて!」

 叫んでから―――
 はっ、と気付く。が、もう遅い。

「すごい効き目だな雪絵ちゃん」
「本当ね雪絵ちゃん」
「・・・やめてって言ってるでしょ」

 廊下で囁きあう幸治と母に、気まずいものを感じながら―――それでも声を出してしまったものは仕方ないと開き直って―――雪絵は部屋の戸の向こうにいる二人を睨む。

「なにを止めるんだ雪絵ちゃん」
「わからないわね雪絵ちゃん」
「雪絵ちゃんったら雪絵ちゃん」
「ゆ〜き〜え〜ちゃ〜ん」

 ばんっ!

 たまらなくなって、雪絵は部屋の鍵を開けて外に飛び出すと、そこにいた幸治の顔に目掛けて殴りかかる。

「この・・・・っ」

 がっ。

 雪絵の拳が、まともに幸治の顔面を打つ―――人を殴ったのはこれが初めてだった。手が痛い。骨にヒビが入ったかも、と思った瞬間、鼻血を垂らしながら、幸治が雪絵の殴ったほうの手と首元を掴むと、そのままぐいぐいと押して部屋の中に押し込み入る。壁際に設置されたベッドまで雪絵の身体を押すと、幸治はやや乱暴にベッドの上に雪絵を突き飛ばす。

「なにをするのよ―――」

 雪絵の上げた抗議の声は、しかし幸治の顔を見た瞬間、尻すぼみになって消えていく。
 幸治の顔は怒っていた。
 普通、人間は怒ることができる―――が、西山幸治は怒らないとなんとなく思い込んでいた。
 この前、屋上に呼び出されたときも、西山幸治は怒ってはいなかった。あの羽柴良光―――リョーコですら、怒りを表していたと言うのに。
 だが。

(怖い―――)

 怖い、と雪絵は思った。
 普段全く怒らない人間だからこそ、本気で怒った時はより恐ろしく感じる。

「ちょっと待ってくれるかしら?」

 と、突然に雪子が呼びかける。
 振り向いた幸治に―――幸治の表情が視界から消えた瞬間、雪絵は脱力―――雪子は黙って白いものを渡す。ポケットティッシュ。

「鼻血、出てるわ」
「助かる」

 幸治は素直にティッシュを受け取る。
 鼻血をティッシュで拭う幸治に、雪子は続けて、

「で? こんな時間に突然上がり込んで。あかねの知り合いだって言うから気にしなかったけど」

 気にしてよッ。と、雪絵はベッドの上にへたり込んだまま、母親に向かって心の中で抗議の声を上げる。

「けれど、娘になにか危害を加えようって言うなら警察を呼ぶわ」
「ママ―――」

 思わず雪絵は母親の言葉に感動した。
 もしかして、母親らしいことを言われたのはこれが初めてではないだろうか?

「こんな時間になったのはちょっとした手違いだ―――本当はもう少し早く来るはずだった」
「手違い?」
「道に迷った。それから、手をあげる気はない。ただ話があるだけだ」
「そう」
「できれば、コイツと二人で話をしたいんだが」
「わかったわ」

 思わず雪絵は母親を呪った。
 やっぱり、雪子は雪子に過ぎなかったと。

「じゃ、私は下に居るから」
「ちょっ、ママッ」
「雪絵。なにかあったら呼べばいいわ」
「待ってよママ!」

 だが雪絵の叫びもむなしく、雪子は部屋を出て行ってしまった。ついで遠ざかる足音。

「雪絵」
「ひっ―――」

 鼻血を拭ったティッシュを手にしたまま、幸治が再びこちらを向く。思わず雪絵は悲鳴を上げかけた。

「俺としてはいい加減にして欲しいんだが」
「な、なにがよ・・・?」
「意地を張るのもいい加減にしろと言っているんだ」

 幸治の静かな口調だが、はっきりと怒りの滲んだ言葉に雪絵はビクッと身を振るわせた。
 怒りと言う激情を表す西山幸治は、まるで普段とは違って別人のようにも見えた。
 だが、もしもここに綾かあかねが居れば、二人は納得したのかも知れない。これこそが西山幸治なのだと。

「あかねのヤツはかなりまいってる」
「そんなの・・・私の知ったことじゃないわよ」
「お前が原因だろうが」
「・・・・っ」

 幸治の鋭い視線に、雪絵は上げ掛けた悲鳴を必死で飲み込んだ。
 怖い。
 幸治がここまで感情を出しているところを、雪絵は始めて知った。それほど親しいわけではないが、なにかと幸治と綾の話は耳に入って来る。けれど、幸治はいつもぼーっとして綾に蹴られて殴られてもぼーっとしているだけで、実は白痴だと言う噂まであった―――もっとも、何故かテストの成績は良いので、それはただの噂に過ぎないと雪絵は思っていたが。

「あかねはお前のことで傷ついてるんだ。そんなこと、言うまでもないだろうが」
「知らない。そんなこと知らないわよ!」
「昨日、なにがあったかは知らないが、雨でずぶぬれになって帰って来て、それから―――ええ―――その、色々とあったんだぞ。色々すぎる色々!」

 幸治の言葉に、雪絵は怪訝そうに見返す―――が、その怒りの形相にすぐに目を反らす。

「な、なによそれ・・・」
「ともかくっ。あかねをあんなにまで追い込んだのはお前だ」
「しっ、知らないわよ・・・知らないって言ってるでしょ!」

 頑なに「知らない」と繰り返す雪絵に、幸治は吐息。 

「―――どうしてあかねと友達になろうと思ったんだ?」

 不意に、幸治の声のトーンが変わった。荒々しいものから静かなものへと。表情を見る、と、その顔はまだ怒っている用だったが、先程よりは怒りが静まっているように思えた。

「え・・・」
「中学一年の時。どうしてお前はあかねと友達になろうって思ったんだ?」

 問われてなにげなく思い出す。
 校庭の桜の木から風に運ばれた花びらが窓の外に舞う教室で、初めて雪絵はあかねを “見つけた” 。

「別に。理由なんてないわよ」
「一人だったからだろ」
「・・・・・・」

 中学生とは言っても、殆どが同じ小学校から上がってきた、早い話が小学校7年生みたいなもので、雪絵も小学校からの友達が何人もいた。他のクラスメイトたちも、だいたいが同じようなもので、新中学1年生だというのに全く気負いのようなものはなく、休み時間になれば普通に友人知人と遊んだりおしゃべりしたりしていた。
 だが、彼女だけは違った。

「―――あかねは、私の前の席だったのよ。だから、ただ近くにいたから自然に仲良くなっただけよ」
「・・・別にそれでもいいけどな。だけど、あかねにとっては見知らぬ学校どころか、見知らぬ土地に来たばかりで、しかも一人―――さらに前の学校で、イジメられて人間不審になっていた所に、お前が現れた。最初は困っただろうな。話しかけられて、でも他人っていうのが苦手になっていたあかねにとって、雪絵はエイリアンみたいなモンだ」
「失礼ね」

 言いながらも、雪絵は無意識にくすりと笑った。そのことに気付いて、自分の口を抑える。
 実際、幸治の言う通りだった。話しかけても、あかねは迷惑そうに無視するだけで、どこかに行く度についていこうとすると、全力で逃げられた。雪絵はそれでもめげずに事あるごとに話しかけて、逃げられる度に追いかけた。
 絶対に友達になってやる、と思った。
 どうしてそこまであかねと友達になりたかったのかは正直わからない。それこそただの意地だったのかも知れない。だけど。

 ―――――ありがとう、雪絵ちゃん。

 或る時、あかねは初めてそう言って雪絵に笑いかけてくれた。
 どうして礼を言われたのか、何時だったのか、何処だったのか。雪絵はあまり覚えていないが、その笑顔と言葉だけは心にはっきりと残っている。その時、自分はすごく嬉しかったことを覚えている。あかねと友達になれて良かったと思ったことを覚えている。

「あかねは、お前と友達になれて―――そしてお前に自分のことを色々話した。家の事情、転校してきた理由、今までの境遇―――それを聞いたお前は、あかねのことを同情した。守ってやりたいと思った」
「・・・・・・」
「―――でもそれは勘違いだった。その勘違いに気付いたのはお前があかねのアパートに行った時」

 中学二年の夏。
 雪絵は初めてあかねのアパートの部屋に遊びにいった。
 学校からは、雪絵の家の方が近かったことと、あかねが「ウチにはなんにもないよ」と言って、渋っていたのでそれまで一度も雪絵はアパートに行っていなかった。
 ―――実際、なにもない部屋だった。あるのはせいぜいがテレビくらい。本もゲームもなんにもなくて―――トランプの一つもなかった―――しきりに「ごめんね、なにもなくて」とあかねが恥ずかしそうに謝っていたのを、雪絵は思い出す。

「その時、お前はあかねの母親を知った。そして、気付いてしまった。あかねの境遇は確かに同情できるかも知れないが―――――けれど、小松あかねは可哀想な人間ではないということに」

 この前の綾と同じ。
 明子と雪絵の二人を見て、楽しそうに笑っている母娘に、今まで “不幸な少女” と思っていたあかねが、実はそれほど惨めな人間ではないと気付いた。
 綾の場合はその勘違いを恥じて、悔い改めただけだったが、雪絵の場合は―――

「雪絵。お前、母親のこと嫌いだろう?」
「別に。そんなことないわよ」
「前に綾とあかねとリョーコの四人でここに押し掛けたとき、帰り際にお前の両親が家に帰ってきただろ。その時、お前はなんだかイヤそーな顔してたし」

 幸治の言葉に、雪絵は怪訝そうに。

「・・・私の聞いた話では、西山君って記憶力に乏しいって聞いたけど―――意外とモノを覚えているのね」
「それはおいとけ」
「ふん」

 無表情で受け答えながら、幸治は内心動揺。
 調子に乗りすぎているか、と自分でも思う。
 最近、こんな風に調子付いている気がする。だから、あかねにも “嘘” を見破られたのかもしれない。
 しかし、今更ここで引き下がるわけにもいかない。

「なんでお前が母親のことを嫌うのかは知らない。だけどお前は―――」
「許婚だったのよ」
「え?」

 突然の雪絵の告白に、幸治はきょとんと聞き返す。

「許婚って・・・お前の母親が?」
「そうよ」
「お前と?」
「違うわ」

 幸治のボケをにべもなく否定して。雪絵は続ける。
 その表情は、どこか気の抜けたような―――どこか疲れきったような微笑を浮かべて。

「ウチの両親は父親同士―――私から見ればお爺ちゃん同士が決めた許婚だったのよ」

 溜め息をついて、雪絵は肩を竦める。

「笑っちゃうでしょ? 今どき許婚なんて」
「そか? カッコいいと思うが」
「あかねと同じことを言うのね」

 昨日の母とあかねの会話を思い返して苦笑。

「私も、同じだったのよ。同じだと思ったのよ」
「?」
「お爺ちゃん同士が勝手に決めた結婚―――しかも高校の時に初めて知らされて・・・いきなり引き合わされて許婚だって言われりゃ、誰だって嫌よね。パパもママも、そうだった」
「望まれない結婚―――そして、望まれずにお前が産まれた・・・?」
「そう。私が産まれてしまったせいで、パパもママも嫌々ながら一緒に暮らしているのよ」

 雪絵の告白に、幸治は首を傾げる。そうだろうか、と。
 いくら雪絵が産まれたからと言って、嫌なら別居でもなんでもすればいいんじゃないだろうか?
 だが、幸治はその疑問は口には出さずに別の言葉を吐く。

「それで―――同じ、望まれずに産まれてきたあかねに、連帯感を持った―――けれど」
「そうよ。あなたの言った通り。あかねは決して不幸せじゃなかった。だから」

 父親がいないとはいえ、それでも幸せで温かな家庭。
 それを目の当たりにして、雪絵は自分の家と比べて愕然とした。もしかしたら、本当に可哀想なのは私なんじゃないか―――

「だから、あかねに影でイジメを繰り返したのか?」
「泣いてくれればそれで気が済んだのよ! 泣き言の一つでも漏らしてくれれば、謝ることだってできた。でも―――あかねは、どんなことがあっても挫けずに、泣かなくて、笑ってた」

 泣きそうな顔で雪絵が叫ぶ。
 幸治はふ、と息を吐いて。

「お前が居たからな」
「そうね」

 雪絵は少しだけ笑う。
 結局、どんなに雪絵がイジメても、あかねにとって雪絵と言う支えがあったから、決して折れることはなかった。そんな皮肉に気付いていながらも、雪絵はイジメを繰り返す一方で、しかしあかねを拒むことができなかった。あかねが雪絵のことを忘れることができなかったように。

「高校にあがって。同じ学校だったけど、クラスが違って―――あかねが、私を避け初めて・・・だから私もあかねを無視することに決めた。だけど、あの時校門で―――」

 偶然、あかねとぶつかった時。
 あかねの周りには綾や幸治がいた。自分の知らないところで、自分の知らない人間と、あかねが楽しく笑い合っている―――その事実に、雪絵は嫉妬した。

「自分だって馬鹿なことをしたって思ってるわよ。でも、なんか、イヤだった・・・」
「だからノートとか相合傘とか―――しかも綾のせいにしたのか」
「・・・そうよ」

 ふーっと、長く息を吐いて、雪絵は脱力。
 ベッドに腰掛けたまま、雪絵は幸治を見上げて。

「馬鹿見たいじゃない・・・」
「え?」
「勝手にあかねに同情して、勝手にあかね羨んで、勝手にあかねのことで嫉妬してる―――――こうして口に出すと、私ってただの馬鹿じゃないの!」
「そうだな」
「・・・こういう時は慰めるモンよ」
「同情されるのはイヤだろ?」
「そうね」
「同情する代わりに一つ」

 幸治は呟いて、回れ右をすると部屋の戸を開けて廊下を覗く。
 雪子が立ち聞きしていないことを確認すると、戸を閉めて雪絵に向き直った。

「あかねの父親はお前の父親だ」
「・・・冗談でしょ?」
「本当だ」
「そう・・・」

 頷いて肩を落とす雪絵を、幸治は「おや?」と見る。

「あんまり驚かないみたいだな」
「まさか。驚いているわよ、ちゃんとね。―――ただ」

 雪絵の脳裏には2週間前の土曜日のことが思い浮かんでいた。
 夜、玄関から物音がしたような気がして出てみると、父親とあかねが居た―――ついでに、女装したリョーコもいたのだが、そのことはすでに忘れている―――あかねは雪絵の姿を見るなり、逃げるように立ち去っていき、後に残されたのは恐怖か、それとも後悔にか震える父親。その後、父親になにがあったのか尋ねたが、答えるどころか口を聞いてもくれなかった。それが、父親が事故にあう二日前の事。

(あかねとパパの接点が解らなかった―――――だから、まさかと思った。馬鹿な想像だと思った)

「本当なのね」
「ああ―――だから、お前の親父は事故にあった。そうだろ」
「そうね」

 父親が信号が青か赤か解らないほど何を考えていたのか、ようやくわかった。

「・・・最ッ低」

 雪絵はそう呟くと、自嘲気味に笑った。

「パパのせいであかねは私生児として産まれて、私はそんなあかねを苛めてる・・・・・親子二代であかねを傷つけてる―――本当に、最低」
「本当に、そう思ってるか?」

 幸治の疑問に、雪絵は笑みを消して怒りながら泣くような―――そんな表情と声で叫んだ。

「思わなきゃ口になんか出さないわよ!」
「なら―――さ」

 幸治はじっと雪絵を見つめて、

「あかねと、仲直りしてくれないか?」
「・・・・・・できないわよ、いまさら」

 ふてくされたように雪絵は呟く。

「今更―――できないじゃない。どんな顔をして仲直りしろっていうのよ」
「どんな顔でもいいさ。許しを乞うなら、どんな言葉だってあいつは許してくれる。それが嫌ならただ会うだけでもいい。きっと、あいつは受け入れてくれる」
「無理よ」

 雪絵はかぶりを振る。

「確かにあかねは許してくれる、受け入れてくれるに違いないわ―――でも、私が耐えられない。だってそうでしょ? あかねが私に微笑んでくれるたび、優しい言葉をかけてくれるたびに、私はミジメになるわ」

 幸治の言うとおり、謝ればあかねは許すだろう。謝らなくてもただ一緒にいるだけで、あかねは喜んでくれるだろう。だが、なにもかもを許してしまうあかねは、雪絵にとって眩しすぎる。

「私は余計な事を知り過ぎた。余計な感情を知り過ぎた――――もう二度と、あの頃には戻れない」

 悲痛な雪絵の声に、幸治は吐息。

「ならせめて、学校に来いよ。でないと、あかねはいつまでも来るぞ」
「・・・わかったわよ」

 頷いて。ふと、疑問。

「そういえば―――あかねはどうしたの?」
「だから俺が代理」
「じゃなくて、どーしてあなたが代理として来たのよ。・・・・・あかねに、なにかあったの?」

 雪絵の質問に、幸治は首を傾げた。

「あれ? 言ってなかったか?」
「聞いてないわよ」
「あかねは風邪で今日は休んで―――」

 と、幸治が呟いた瞬間。

 ピンポーン。

 家の呼び鈴が鳴り響く。
 あら、と雪絵は部屋の入り口の方を見て。

「珍しいわね。こんな遅くに―――しかも雨が降ってるのに、立て続けに人が来るなんて」
「・・・まさか!」

 なにかハッとして、幸治は部屋の外に飛び出る。

「・・・・・なんなのよ?」

 困惑しながらも、雪絵もその後を追った。
 部屋を出ると、すでに幸治の姿は廊下にはなく、ドタドタと乱暴な足音が階下へと降りていく。なんなのよ―――と、もう一度呟いて、雪絵も階段を駆け下りる。
 玄関に降りると、幸治と雪子が呆然とあかねを見下ろしていた。

(―――え?)

 信じられない思いで、雪絵はあかねを見る。
 あかねが玄関に、突っ伏すように倒れていた。パジャマ姿で、傘もささずに雨の中を歩いてきたのか、全身を重く濡らして倒れている。靴すらはいていない。気を失っているのか、濡れて額に張りついた髪と髪の隙間から見える両の瞳は固く閉じられていた。

「あ・・・あかね!?」

 雪絵の叫びに、弾かれたように雪子が動く。あかねの傍らにしゃがみ込むと、その口元に手を当てて呼吸を確認―――しながら、雪絵に向かって、

「そこの客間に布団をしいて! 毛布はあるだけだしなさい―――早く!」

 頷く間も惜しく、玄関脇の客間に雪絵は飛び込んだ。続いて、雪子は幸治を見上げて。

「あなたはこの子を担いで客間に―――それから服を脱がせておいて」
「わかった」

 頷いて、幸治はあかねの身体を担ぎ上げる―――濡れているせいか、失神しているせいなのか、酷く重く感じる―――が、幸治はその重さを無視。
 幸治があかねを客間に運ぶのを確認せずに、雪子はバスルームに掻け込むと、大きなバスタオルを一枚と、他に小さなタオルを数枚掴んで玄関に引き返す。

「なをするのッ!」

 雪絵の怒号とともに、幸治の身体が客間から転がり出た。腹を抑えてうめいている。
 とくに理由も、呻き声も聞かずに、雪子は幸治を見下ろして淡々と、

「次は雪絵の部屋から着替えになるようなものを持ってきて」
「わ・・・わかった」

 幸治は頷くと、よろめきながら立ち上がって階段を昇っていく。

「ママ! なにを考えているのよ!」

 客間に入ると、あかねの濡れた服を脱がせながら、雪絵が怒鳴ってきた。

「なにが?」
「なにが・・・って、お、男に女の子の服を脱がせようなんて・・・」
「それよりも、あとは私がやるから、お湯を持ってきて。沸さなくていいから」
「・・・・・・」

 自分の言葉を無視されて、雪絵は渋い顔をしたが、それでも今はそんなことを言い合っている時ではないと思ったらしい。頷くと、客間を出ていく。
 雪子は、娘の脱がせかけたあかねの服を手早く脱がすと、持ってきた小さい方のタオルで濡れているあかねの身体を吹き始める―――と。気配を感じて、手を止めて後ろを振り返ると幸治がじーっとこちらを見ていた。手には雪絵のものらしい、パジャマと下着。

「なに?」
「いや、手馴れていると思って」
「昔は看護婦を目指していたのよ」

 言って、雪子は作業を再開。
 あかねの身体を吹きながら、表情を見る―――酷く青ざめた表情。か細く息で呼吸を繰り返している。

「ママ、お湯」

 雪絵が一番大きな鍋にお湯を一杯にして持ってきて、雪子の傍らに置く。よほど急いできたらしく、その額には幾つか汗が滲んでいた。そんな娘を、一瞬だけ目を細めて見つめ、雪子は鍋に別のタオルを突っ込みながら。

「ありがとう」

 と、小さく一言。
 え、と雪絵が母を見返したが、すでに雪子はいつもの無感情に戻って、ぎゅっタオルを絞ると、それであかねの身体を拭き始める。
 そんな母親とあかねを、雪絵は心配そうに見守っていたが、ふと後ろを振り返る―――と、幸治が立っているのに気付いて―――客間に入って来るときは全く眼中になかった―――ぎょっとする。

「ちょ、ちょっとあなた。なに熱心にあかねの裸を見ているの! 出ていきな――――――っきゃあああああああああああっ!?」

 雪絵の言葉は途中からいきなり悲鳴に代わった。
 悲鳴を上げた表情のまま、幸治の持っているものを指差して、

「そ、それっ、もしかして私の―――」
「あ」

 と、幸治は雪絵の表情と、自分の手にしているもの―――雪絵の下着とパジャマ―――を交互に見てから、いつもの無表情のまま困ったようなしぐさで首を傾げて、

「趣味がいい―――っていうのは、褒め言葉として適切だろうか?」

 無言。
 で、雪絵は幸治の顔面を張り飛ばした。
 幸治は下着とパジャマを撒き散らしながら、廊下に転がり出る。二度目。

「この・・・変ッ態」
「人間関係の誤解というすれ違いというのは、とても悲しくて虚しいものだと思うんだがなあ・・・」

 廊下に倒れ伏しながらそんなことを呟く幸治を、雪絵はさらに踏みつけた。
 もしもあかねが目を覚まして、その様子を見たら不思議そうに首を傾げただろう。―――どうして、幸治と関わった女の子は、みんな暴力的になるんだろうか、と。

 

 

 

 

 

 ―――目を覚ます時というのは大抵二種類だ。
 何時の間にか目覚めていて、自然に自分が目を覚ましていることに気付いていく時と、いきなり目を覚ましていることに気付いたとき。だいたい、後者の場合というのは悪夢を見たときとか、身体の調子がおかしい時で、いわゆる “目覚めの悪い” という時で、そういう時は心臓がばくばくして目が覚める。
 そして、佐野家であかねが目を覚ましたとき、それはやっぱり後者だった。

「・・・は! ・・・・・・・・・あ?」

 大きく目を見開いて―――電灯の眩しさに、目を細める。

「あ・・・れ・・・?」

 見覚えのない天井。アパートよりも親しみのない匂い。

「ここって・・・」
「気がついた!」

 声。懐かしい声。
 何故か無性にその声の主を見たくて、頭を動かそうとする――――

「・・・ッ?」

 軽く頭を動かそうとした瞬間、頭に鋭い痛みが走る。まるで脳味噌に鋭く尖った針を突刺されて、ねじられたような痛み。

「あかね、大丈夫!?」
「・・・雪絵・・・ちゃん・・・?」

 動かせない視界に、心配そうな雪絵の表情が飛び込んで来る。
 その顔を見て、あかねは何故かホッとした。

「雪絵ちゃんだあ・・・」
「そうよ、雪絵よ。・・・・・まったく、馬鹿なんだから」

 怒ったような台詞。だけど、その表情はとても心配そうにこちらを見てくれている。―――そのことが、あかねにはなんだか嬉しかった。
 頭が痛くて、身体中寒い。さらに息が苦しい―――のに、あかねはちっと気にならなかった。

「―――目が覚めたのか」

 聞き覚えのある声パート2。

「幸治くん・・・?」
「幸治くんだ―――まったく馬鹿だな、あかねは」

 と、幸治が呟いた瞬間、ぽかっとなにか叩かれる音。

「いきなりなにをする」
「人の真似を勝手にしないで」

 どうやら雪絵が幸治を叩いたらしい―――と、気付きながら思い出す。

「そうだ、幸治く―――んっ!?」

 起き上がろうとしたあかねは、頭に再び激痛が走り、そのまま枕に頭を落とす―――そのときになって、初めて自分が布団に寝かされている事に気付いた。が、そんなことには構っていられない。起き上がる事さえできない身体を忌々しく思いながら、あかねは痛みを堪え、必死で言葉を紡ぐ。

「こー・・・じ、くん・・・雪絵ちゃんに、よけいな・・・こと、いわな・・・いで・・・」
「安心しろ。まだなんも言ってない」
「ほんと・・・?」
「ほんとよ、あかね。だからゆっくりおやすみなさいよ」

 雪絵の言葉に、あかねはうん、と小さく微笑むと、そのまま瞳を閉じた。
 あかねが瞳を閉じると同時に、その口からは小さな寝息が聞こえて来る。それを確認してから、雪絵は一息。

「馬鹿ね。本当に大馬鹿よ、この子」

 その言葉の意味は、あかねがここにいる理由に対しての言葉。

「酷い風邪の状態で、雨の中を傘もささずになにしに来たかと思ったら」
「あかねはお前のことを心配してたんだ。俺がなにか言って、お前を傷つけないように」
「だから馬鹿だって言ってるのよ」

 幸治の言葉に、雪絵は溜息混じりに言う。
 そんな雪絵を見て、幸治は小さく笑った。

「そうだな」
「あ」
「どうした?」
「今、あなた笑った・・・?」

 雪絵はまじまじと幸治の顔を見る―――が、すでに幸治はいつもの無表情。

「いや、笑ってなんかないぞ」
「確かに見たわ―――なんだ。愛想のいい顔もできるんじゃない。どうしていつも笑わないのよ」
「秘密だ」
「フン・・・まあ、笑いたくなったら私にいいなさい」
「?」
「あかねに笑顔を取り戻してあげたのは、私なんだから」

 誇らしげに胸を張る雪絵に、幸治は頷いて。

「気が向いたら、頼む」

 

 

 

 

 

「あかねっ。あかねはっ!?」

 と、あかねの母、明子が佐野家に飛び込んできたのは、幸治が電話してすぐのことだった。ものの5分と経っていない。よほど急いで来たのだろう。いくらか小振りになってきたとは言え、雨の中を傘もささずに走って来て、荒く息をついている。
 雪絵に案内されて、客間に入った明子は、そこであかねが安らかな寝息を立てているのを見て、その場にへなへなと座りこんだ。

「あかね・・・よかった・・・」

 泣き笑いのような表情を浮べて、呆、と呟く。

「あ。あの・・・おばさん、あかねは―――」
「あ―――」

 言い辛そうになにかを言いかけた雪絵を、明子は泣き笑いの顔のまま見上げる。実際、目の端には涙が溜まっていた―――それを拭って。

「雪絵ちゃん―――だったわね」
「・・・え?」
「ごめんなさいね、あかねが迷惑かけて―――いつもはこの子、人様に迷惑かけるような子じゃないのに・・・」
「あ、あの・・・・名前―――」

 雪絵の言葉に、明子は「あら」と呟き。

「雪絵ちゃん、じゃなかったかしら?」
「い、いいえ。合ってます―――でも、私のこと、覚えているんですか?」

 確か、雪絵が明子に会ったのは中学の時、一度だけあかねのアパートに遊びに行ったときだけだ。
 それも、帰り際に少し顔を合わせた程度―――もっとも、その時に、雪絵は忘れられない程の印象を受けた。雪絵が帰ろうとした時、丁度帰宅した明子に、あかねは顔をほころばせた。嬉しそうにはしゃいで、雪絵を “中学の友達” と明子に紹介した。明子は「そう」と微笑んで、雪絵に向かって深く頭を下げた―――娘をお願いします、と。
 おそらく、どこの家庭の母娘にならあるような普通のやりとり―――けれど、雪絵の家にはそういう暖かさはなかった。それに、明子に対するあかねは、雪絵の知らないあかねだった。そのことで、雪絵があかね―――いや明子に対して嫉妬を抱いてしまった。

「もちろん、覚えてるわよ。だって、あかねが初めてウチに連れてきた友達だもの・・・」

 涙の滲んだ表情を、無理矢理に微笑む明子に、雪絵は愕然と認めた。

(ああ、だから。こんな母親に憧れて、わたしはあかねのことを憎んだのよ・・・)

「私は忘れていたわ」

 突然、雪子が入ってきて、雪絵は別の意味で愕然とした。
 雪子は手にお盆を持ち、お盆の上には急須と湯呑みが三つ。それから煎餅。娘の心境にも気付くことなく、雪子は音を立てずに明子の隣にお盆を降ろしながら。

「雪絵が初めてウチに連れてきた友達なのよね」

 一瞬、雪子の言っている意味が雪絵にはわからなかった。

「は?」
「ついこの間まで忘れてたわよ。あかねが初めて家にきた雪絵の友達なのよね」
「・・・そ、そうだったかしら?」

 思い返す―――言われて見れば―――そんな気もする。

「それまで何故か、絶対に誰も友達を連れてこなかったのよね―――なんでかしら?」

(ママを友達に会わせたくなかったのよ!)

 雪絵は心の中で叫ぶ。
 幼い頃―――物心ついた時から、雪絵は友達の家に遊びに行く度に打ちのめされた。どこの家にも優しい母親がいた。遊びに行けば優しく微笑んでくれて、美味しいお菓子やジュースを振舞ってくれる。・・・雪子は死んでも愛想よく笑ったりしないし、お菓子やジュースを用意してくれることはないだろう。
 実際、あかねが来たときも、にこりとも笑わなかったし、お菓子もジュースも出さなかった。

「なに落ち込んでいるのよ」
「誰のせいだと思ってるのよ」
「私のせいだと言っているように聞こえるわ」
「・・・・・もう、いいわよ」

 ふん、と雪絵は雪子の用意したお茶を見て。

「どういう風の吹き回し?」
「なにが」
「今まで客が来ても、お茶なんて出さなかったくせに」
「客なんて来なかったもの」
「私が友達を連れてきたときだって―――――」
「あれはあなたの客でしょう」
「・・・じゃあ、今はどうなのよ!?」
「あかねは私の友達だもの―――その母親だって私の客だわ」
「あかねは私の親友よ!」

 言ってから。
 口を抑える。
 顔が火照る。
 じっと見られている視線を感じる。見れば、雪子も明子も―――何時の間にか現れたのか、客間の入り口で幸治も雪絵を注視していた。

「えへ・・・雪絵ちゃん、大好きー・・・・・」

 雪絵の言葉に反応したのか、それとも楽しい夢でも見ているのか、思いっきり頬の緩みきった微笑みを浮べながら寝言を呟く。
 その寝言に、雪絵はさらに赤面。そんな娘を、変わらない無感情に見つめて、雪子は頭を振った。

「負けたわ」
「なにがよっ」

 雪子は答えない。代わりに幸治がふむ、と頷いて。

「あかねが目を覚ましたら伝えてやろう。ばっちりと」
「しないで」
「雪絵ちゃん―――」

 と、明子が雪絵に向かって深く頭を下げた―――あの時と同じように。
 深く下げた頭を、ゆっくりと戻して雪絵に微笑みかける。

「ありがとう」
「・・・あ、はい」

 素直に頷く雪絵。
 雪子はその様子に、ふう、と吐息。

「不公平だわ」
「そうだな」

 幸治も頷く。

「雪絵ちゃんって言って良いのはあかねだけだとか言っておいて、明子さんにさっきから雪絵ちゃんって言われてるのに怒らないしな、雪絵ちゃん」
「それに、私は長い間、雪絵ちゃんの母親をやっているけれど、今見たいに素直な雪絵ちゃんは見たことないわよ雪絵ちゃん」
「・・・うっさい」

 憮然として雪絵が二人を睨む。それに対してクスクスと笑って応えたのは―――明子。

「仲が良いのね」
「どっ、どこがですか!?」
「雪絵。その言い方だと、私と仲が良く見えるのが不満のように聞こえるのだけど?」
「解っているじゃない」
「そうね、あなたの母親ですもの」

 雪子にしれっと言われ、雪絵はうっ、と詰る。
 そんな二人を見て、明子はほら、と頷いた。

「ねぇ?」
「・・・仲が良いって言うのなら、あかねとおばさんの方が仲が良いですよ」

 ―――羨ましいくらいに。
 と、雪絵は終わりの言葉を飲み込んだ。
 だが、明子は困ったように笑って。

「さあ・・・どうかしらね」

 明子は安らかに眠る娘を見下ろして。

「あかねは良い子よ。ずっと幼い頃から、私のことを考えて、我侭一つ言わずに、自分の産まれに文句も言わない―――そんな良い子」
「あかねの産まれがどうなのか私はしらないけど、もしかして娘自慢をされているのかしら」
「とか言いながら、私を見るのはどういう意味よ?」
「特に深い意味はないわ。ただ私の娘に自慢できるところがあったかしらと悩んだだけ」
「うむ。ならば深くではなく、浅く軽く考えて自慢して見ればどうだろう」

 幸治の言葉に雪子はぽむと掌を打ち。

「雪絵はひねくれた良い子だわ」

 何故か胸などを張りつつ誇らしげに。
 ただ、顔はいつも無感動。だが、それでもどこか―――或いはそれ故にか、至極エラそうに見える。
 対する明子は圧倒されたようにぎこちなく苦笑。えーと、と悩みの音を口から漏らしつつ、無理矢理に気を取り直して「あのですね」と言葉を始める。

「その、確かにあかねは私の自慢の娘ですが―――」
「あら認めたわ。どうするべきかしら。こちらも対抗して、雪絵は私の自慢じゃない娘だと言うべきかしらね」
「いやむしろ自慢のひねくれものと誇るべきだろう。後ろ向きは負けだぞ」
「あんたたち、どーしてそこまで仲が良いのかしらッ」

 そろそろ雪絵の怒りは臨界点に達しようとしていた。
 が、それを無視して幸治は明子を見て。

「自慢の娘だが。なにか?」
「・・・えーと」

 突然、話を振られて明子は戸惑う、が、吐息して落ち着かせると言葉を吐く。

「あかねは良い子―――私にはよくできた良い子―――我侭も不満もなにも言わない・・・だからこそ、たまにあの子のことが解らなくなる。同じような年頃の子なら、不平不満の一つも漏らすものでしょ?」
「その点に関しては引き分けね。にやり」

 呟く雪子に、雪絵は怪訝そうに眉をひそめて。

「なに、その・・にやりって」
「にやりって笑った擬音」
「笑ってないじゃない」
「表情を動かすのって苦手なのよ。だからせめて擬音だけでも」
「じゃあ、引き分けって?」
「私だって、雪絵に不平不満をこの頃は言われてないわ」
「・・・諦めてるだけよ」

 疲れたように―――酷く疲れたように呟く雪絵を、雪子は一瞥して、それからまた明子を見る。

「引き分けね」
「どこが!?」
「あら雪絵。それはもしかして不満の声かしら。だったら私の負けかも」
「負けとか勝ちとかじゃないでしょっ、こういうのっ」

 とか、なにごとか言い合っている佐野母娘を明子はどこか羨ましそうに眺める。
 そんな明子に、幸治はぼそりと呟いた。

「自慢ならばそれで良しとするべきだ。自分の子供を誇りに思えるのは、親としてこれ以上のない喜びだろう―――しかし、忘れてはならないのは血縁と言えど所詮は自分ではない他人だ。自分でないものの全てを知ることなどできないし、知ろうとする必要もない。―――娘のことが解らなくなると言っても、嘆くことなどなに一つないはずだ」

 言われ、明子は驚きの表情を浮べる。
 幸治はふ・・・と笑みを浮かべて、優しく諭す。

「あかねは良い子なんだろ? それが解っていれば十分だと思う」
「でも・・・私は良い母親ではないわ。あかねのことをなにも解ってやれない―――今だって、どうしてあかねがこんな状態で外に飛び出したのか解らない―――雪絵ちゃんが、あかねを見つけてくれなかったら、もしかしたらあかねは・・・」

 明子の言葉に、ふと雪絵は幸治にこっそりと尋ねる。

(私が見つけた―――って、あなたおばさんに、なんて説明したのよ)
(あかねが雨の中をフラフラ歩いているのを、雪絵が見つけて家に運んだ―――とだけ。正直に言うわけにもいかないだろ)
(・・・ヘンなところで気を利かせるのね)
(正直に伝えて、明子に叱られたかったのか?)
(そういうわけじゃ・・・ないけど)

 ぼそぼそと呟く雪絵に、幸治は嘆息。
 罰を望んでいるのだろう、雪絵は。自分の罪を認めてしまえば、贖罪を求める―――それは正しいことなのかもしれないが。

(その罰は、あかねの望んだものじゃない)

 誰に対して罪を犯したか。
 雪絵はあかねに対して罪を犯した―――ならば、雪絵はあかねに罰を求めるべきだ。しかしあかねは雪絵に罰を望まない。そのことに雪絵自身が納得できないと言うのなら。

(赦されることこそが、罰と知るべきだ)

 苛立ちの混じった息を吐いて、しかし幸治は雪絵にはなにも告げず、明子に向かって言葉を吐く。
 静かに、それでいて強く、叩きつけるように。

「不満を言ってほしいわけか。殴り合うように、傷つけあうように、激しく痛みを伴った言葉を交わしたいのか―――雪絵たちのように」

 幸治の言葉に、雪絵と雪子は明子の方を見る。
 幸治はなにかやりきれないと言うように、肩を竦めて吐息。

「それでこそ本当の家族だと、絆と言う繋がりを実感したいと? けれどその一方で、アンタはあかねの良い母親であろうとしている―――そういう矛盾した意思をなんというか解かるか? 我侭、というんだ」
「ちょっと! それは言いすぎ―――」
「お前も同じだ雪絵。あかねのことを弱さを見たくて傷つけて、それでもあかねの力になるために傍に居た」

 押し黙る雪絵。
 幸治は眠るあかねを一瞥して吐息。
 と、同時に渋い顔で額を抑える。

(・・・こいつが諸悪の根源なんだよな)

 小松あかねは強い、のだろう。
 だからこそ、雪絵や明子は知りたいのだろう―――あかねのことを大好きであるからこそ。あかねの全て、強さだけではなく弱さや脆さもひっくるめた全てを知りたいのだ。

(けれど、それはジレンマとゆーヤツだ)

 雪絵や明子が居るからこそ、あかねは強くなれる。
 雪絵や明子が居るからこそ、あかねは強いのだ。だからこそ、雪絵と明子はあかねの弱さを知ることはできない。全てを知ることはできない。

「どうして俺はこんなところにいるんだ・・・?」

 沸きあがって来るのは疑問だった。
 考えて見れば、これらは全部、あかねたちの問題だ。幸治は無関係というわけではないかもしれないが、それでも付合ってやる義理も理由もない。―――もとい、理由はある。小松あかねが、西山幸治にだけ “弱さ” と “脆さ“ を見せたからだ。そして、西山幸治の嘘―――全てを忘れるという嘘を見破ったからこそ、嘘をついて逃げずに、あかねの弱さに対して幸治は本気で向き合った。

「一つ、いいかしら?」

 今まで黙っていた雪子が呟く。
 彼女は自分が用意したお茶を手で示して、

「もう、冷めたわ」
「・・・は?」
「お茶」
「・・・・・・あのねえ、ママ。たまには場の雰囲気を読むとかそういうことをしたらどうなの?」
「読んだわよ」

 娘の言葉に、雪子は平然と答えてから、自分の分のお茶を手にして。

「私が喉が乾いたから、他の人もどうかと思っただけなんだけど」
「ママ。そういうのは雰囲気を読んだと言わないの」
「覚えておくわ」

 云って、ずず、と茶をひとすすり。
 湯呑みから顔を上げて、そのまま入り口の上の壁にかかっている時計を見やる。

「もう夜も遅いわね。泊っていけばいいわ」

 雪子の言葉を、明子は自分に向けられたものとは気がつくのに遅れた。

「い、いえ・・・それは流石に―――」
「あかねは動かすことはできないし、だからといってあかねのことを置いて帰れないでしょう」
「それは・・・」
「ここにもう一つ布団を敷いても良いけど、風邪が移るといけないから私の部屋で寝るといいわ」
「ママはどこで寝るのよ」
「あの人の部屋が空いてるじゃない」
「そ、それなら私だってパパの部屋で寝る・・・!」
「なら俺は雪絵の部屋だな」

「「「お前は帰れ」」」

 女三人に同時に言われ、幸治は少し残念そうな顔をしてから、無言で頷いた。

 

 


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