「また来てくれたわよ」

 自室のベッドの中で本を読んでいた雪絵は、部屋に入ってきた母親を気だるげに一瞥した。

「私は居ないって、言っておいて」
「今日でもう四日目ね。流石にお茶の話題も尽きて来た見たいで可哀想だわ」

 雪子は昨日のことを思い出す。
 火曜日はまだあかねと雪絵の中学時代のことを肴にお茶を飲んでいたが、水曜日―――昨日は話すことも殆どなく、ぽつりぽつりと話してはすぐに話題も途切れ、あとは静かに茶を飲みつづけるだけだった。
 元々、小松あかねは会話が苦手なのだろう―――彼女自身、漏らしていたが他人が苦手だと言う。だというのに、毎日のように雪絵を訪ねてきては、雪子のお茶につきあっているのは、それほど雪絵のことを大切に想ってくれているのだろう。

「会って、ちゃんと話をしてあげたら?」

 ふと雪子が言うと、娘は驚いたように母親を振り向く。が、すぐに驚きを嘲笑に変えて、

「・・・珍しいわね。ママが他人のことを心配するような口を聞くなんて」
「そうね」

 珍しいと自分でも思わなくもない。

「それで?」
「?」
「あかねに会うの? 会わないの?」
「会うわけないでしょ!」

 雪絵は雪子を睨みつける―――娘ににらまれても、雪子は特に表情を動かさずに吐息。

「なぜかしら?」
「嫌いだからに決まってるでしょ!」
「なぜ嫌いなの?」
「それは・・・あかねの―――」

 言いかけて。
 雪絵は口をつぐむと、全く別の言葉を吐き棄てる。 

「ママには関係ないでしょ」
「そうなの?」
「そうよ!」

 言われて雪子は黙考。
 腕を軽く組み、右手を顎まで持ち上げて、雪絵の部屋の入り口に寄りかかって暫し。

「そういえば、この前ヘンなことを言ってたわね――― “あかねのせいでパパが事故にあったとか” あれはどういう意味?」
「知らないわよ! あかねに聞いたら!?」
「そうね。そうするわ」

 娘の言葉にあっさりと頷いて、雪子は雪絵の部屋を出た。
 バタン、と軽い音を立てて閉められるドア。思わず雪絵はドアの方を注視する―――聞こえて来るのは遠ざかる足音、階段を降りていく足音が辛うじて耳に届く。

 ―――相変わらず、雪子は毎日のように外出していた。仕事に出ているためでもない、どこに行っているのか雪絵は知らなかったが、なんとなく想像する。自分の知らない男の人と、買い物したり美味しいものを食べに行ったりと、街を遊び歩いている母親。しかも雪絵や、おそらくは父でさえも見た事のない笑顔を表情に出して、雪絵の見知らぬ男性と楽しそうに腕を組んで歩いているのだ。
 考えれば考えるほど、胸がムカムカする想像だが、そんな母親にあまり憎しみを感じてはいない。感じているのは諦め。思い出せばずっと昔からそうだった。雪子は暇さえあれば家を出て遊び歩いている。家事もせず、働きもせずに、ただ遊んでいるのだ。そんな母のことを、雪絵は幼い頃から嫌いだった。
 父親のことを盲愛しているのはその反動かも知れない。

「パパ・・・」

 父親が事故にあって、この家からいなくなってから、雪絵は初めて孤独というものを感じた。
 昔から母親のことが嫌いで、苦手で、父が仕事に出ている間、母親と二人きりで家に居るのは苦痛だった。それでも寂しさはまったく感じなかった。待っていれば、いずれは父は帰ってくるのだから。
 だけど、もしかしたらもう父は帰ってこない―――そういう嫌な想像が、溢れ出して止まらない。そして気付く。今、自分は孤独だと言うことに。
 孤独。この家には自分一人しかいない―――母親がいるが、しかし雪絵にとって雪子は家族ではなかった。

「・・・・・・・・・」

 読んでいた本を放り出して、枕を胸に抱いてベッドの中に潜り込むと目を閉じる。
 そうやって、身体を丸めて目を閉じていると、本当にこの世の中でたった独りになってしまったような錯覚に陥る―――

(そんなこと、あるわけないじゃない)

 目を開ける。
 ベッドから顔をだし、ふと部屋の入り口の上にかけてあるウサギの時計―――ただ単に、親子のウサギの絵が描かれた白い時計―――に目が止まる。5時過ぎ。
 月曜日にあかねが来てから、雪子の帰りが少しだけ早くなった。学校が終わる頃に帰って来て、あかねが来るのを待ちうける。

(あかね・・・まだいるのかしら?)

 階下に耳を傾ける―――がなにも聞こえない。
 あかねも雪子もあまり叫んだり怒鳴ったり、とにかく騒ぐような人間ではない。だから、下にいるかどうかすらわからない。

「・・・・・・・」

 雪絵はベッドを降りた。
 そして階下へ降りる。
 あかねがまだいるかどうかを確認して―――居る事を確認したら、ヒステリックに怒鳴り散らしてあかねを家から追い出す―――というのが、最近のパターンだった。
 階段を降りて、ダイニングへ向かう。一応、客間というものがあるのだが、どういうわけか二人はいつも台所でお茶を飲んでいた。

「え、ええっと、学生だったんですか!?」

 あかねの驚いたような声。
 居る。
 その声を聞いた途端、なにか胸がむかつく。
 雪絵はダイニングのドアに手をかけて、踏み込もうとして―――

「あの人は卒業していたけれど」

 雪子の言葉に、ドアを開こうとしていたあかねの手が止まる。雪子が “あの人” というのは雪子が知るかぎりではたった一人だけだ。

(パパのこと・・・?)

 思わず雪絵はドアの向こうの会話に耳を澄ませた。

「でも高校生で結婚なんて凄いですよ」
「親同士が勝手に決めた結婚よ」
「それって・・・許婚ってことですか?」
「そうともいうわね」

 話は弾んでいるように聞こえる―――が、長年あかねとつきあってきた雪絵にして見れば、あかねは無理して喋っているようにしか聞こえなかった。
 まあ、無理もない。相手があの母親なら誰だってそうなる。娘の雪絵ですら似たようなものなのだから。

「許婚ですか・・・なんか、憧れますね、そういうの」
「そうかしら」
「はい。産まれる前から運命の人が居るってカッコいいですよ」
「ふうん」
「? どうかしたんですか?」
「別に」

 ず・・・と、これはお茶を飲む音か。

「そういう考え方もあるのかって思っただけよ」
「嫌だったんですか? 勝手に相手を決められて―――それで結婚して」
「さぁ? どっちだと思う?」

 雪子の問いに、しばし沈黙。あかねが悩んでいるのだろう。

「・・・あまり、嫌じゃなかったんじゃないですか?」

 あかねの出した結論に、雪絵はフン、と小さく笑う。
 雪絵は幼い頃から母親の姿を見てきた。いつもいつもなにやら不機嫌そうに、にこりとも笑わない母親。幼い頃は自分が悪い子だから、母親は笑ってくれないのだと思っていた。だから良い子になれば笑ってくれるのだと思っていた。だから、雪絵は良い子であり続けた。親の言いつけ―――ほとんどは父の言いつけだ。今思い返せば、母は雪絵に対して笑わないどころか無関心であったようにさえ思う。そんな自分の幼い思い込みが、勘違いだと思い始めたのはいつ頃かは忘れてしまったが、今、母があかねに話しているように昔話をしてくれた時だった。
 あの時も母親は同じ話をし、自分はあかねと同じように尋ねた―――「ママはパパと結婚したくなかったの?」と。母は今と同じように、どうでも言いように「どっちだと思う?」と聞き返してきた。その表情があまりにも冷たく見えて、だから雪絵は雪子は雪絵の父である孝雄との結婚を望まなかったのだと思った。
 そしてそれは、自分自身への否定にも繋がる。母親は結婚したくなかった―――イコール、雪絵は望まれて産まれてきたわけではない―――雪子は雪絵を疎ましく感じている―――だからずっと笑ってくれなかった。
 愕然と、そう考えたとき、雪絵は否定された「自分」を守るために、逆に母親を嫌い、憎み、否定した。自分を否定する人間を、逆に「こっちこそアンタみたいな母親は要らないわ!」と否定し返すことによって、「自分はママに望まれて生まれてきたわけじゃないけど、そんなの構わない。だって私はママなんて大嫌いだから、ママが望もうと望まないと関係ないわ」と考えることによって、精神の均衡を保ったのだ。

(全く馬鹿なあかね。おべっかのつもりなのかしら?)

「―――どうしてそう思うのかしら?」

 と、雪子がさらに聞き返したのは大分経ってからだった。

「え、だって、雪子さんって、なんか、その・・・」
「オトコだったらなんでもいいと思うようなオンナに見えた?」
「いやっ、そうじゃなくてっ。雪子さんって嫌なら嫌ってハッキリ言いそうじゃないですか。なのに、結婚したっていうことは―――それあ少しは嫌だったのかも知れませんけど、それなりに―――」

 ぷっ。
 と、誰かが吹き出した音。
 おや、と雪絵は思う。あかねにしては、話の途中でいきなり吹き出すというのもおかしい。今この家には、雪絵と雪子とあかねの三人しか居ないはずだ―――自分が吹き出したわけではないとすると・・・まさか。

「な、なにか可笑しいですか?」
「ええ」

 あかねの戸惑いに、雪子が頷く。その声には、雪絵の聞き覚えのない響きがあった。

「とても、可笑しいわ」

 バンッ。

 勢いよく雪絵はダイニングのドアを開けた。
 いつものように、二人はテーブルに腰かけていた。雪絵から見てあかねは対面に座っていた。雪子はさらにその対面―――つまり、雪絵に対しては背を向けている。顔は見えない。
 驚いたようにあかねがこちら見上げる―――が、無視して雪子を見る。

「あら、雪絵」

 雪子が娘を振り返る。
 その表情はいつもの無愛想。その変わらない “いつも” に対して、雪絵はせつないものを感じる。

「ママ!」
「なに・・・?」
「・・・なんでもない」

 感情を押し殺した声で唸ると、雪絵はあかねを睨みつける。あかねはおどおどと雪絵を見上げて、

「ゆ、雪絵ちゃん。あのね・・・」
「帰って」
「あの・・・」
「帰りなさいよ!」
「・・・うん」

 あかねは沈痛な面持ちで頷くと、雪子に少しだけ微笑んで会釈。
 そのまま雪絵の横をすり抜けて玄関に出る。雪子も立ち上がると、黙ってその後を追った。後には独り、雪絵だけが取り残されたが、暫く奥歯を噛み締めて立ち尽すと、やがて彼女もダイニングを出る。

 

 


あるひあるときあるばしょで

シャレにならない彼女の事情

第七話「雨に濡れた心と身体―――或いは小松あかねのFirstKiss」


 

 

 

 ―――玄関に出ると、何時の間にか雨が降っていた。

「あ・・・来た時は晴れていたのに」

 と、あかねは眉根を寄せて灰色の空を見上げる。空の見えない空からは、まるで針や線のように雨が降り注いで来る。地面を見ればそれ程濡れてはいない。まだ降り始めらしい。だとすれば、これからアパートに辿りつく前に本降りになる可能性が高い。
 天気予報は確か晴れだった。だから当然のように傘などは持ってきていない。

「雨ね」

 ぽつり―――と、本当にこの “ぽつり” という様子がピタリと来る―――雪子が呟いた。あかねが振り返ると、彼女は特に表情を動かすこともなく、無言で身を翻すと家の中に入った。

「・・・・・・」

 傘でも貸してくれるんじゃないかなと期待したが、そこまで甘くはないようだった。
 いや、 “素直” な彼女のことだ。貸してくれと頼めば、「なら早くいいなさいよ」などと言いながらもすぐに貸してくれるだろう。が、しかし・・・
 悩んでいると再び玄関のドアが開いた。

「雨ね」

 外に出るなり母親と同じ言葉を吐いて、雪絵は怪訝そうにあかねを見る。

「あなたまだ帰ってなかったの?」
「う、うん・・・雨が降っているからどうしようかなって」
「傘は?」
「まさか降るなんて思っていなかったから」
「馬鹿ね」

 ストレートに言われて、あかねは苦笑。
 それをみて雪絵はあかねを軽く睨んだ。

「なによ」
「べ、別に大したことじゃないよ」
「大したことないなら言いなさいよ」
「え、ええと」

 あかねは暫し逡巡。

「似てるなって」
「はあ?」
「雪絵ちゃんと雪子さん―――親子だからかな。なんか口調がそっくり」
「やめてよ」
「ご、ごめん・・・」

 雪絵はフン、とそっぽを向く。
 あかねはしゅんと項垂れた。そんなあかねを、雪絵は横目でちらりと見て。

「仕方ないわね」

 雪絵の呟くような言葉に、あかねは「え?」と顔を上げる。

「傘、貸してあげるわよ」
「え?」
「ヘンな勘違いしないでよね。私はあなたに早く帰って欲しいだけ」
「うん。ありがと」
「勘違いしないでよ」

 繰り返す雪絵に、あかねは微笑。
 雪絵は照れを隠すように、素早く回れ右をして家の中に入ろうと玄関のドアに手を伸ばし。

 がちゃ。

 と、雪絵が手を触れるよりも早く、向こうからドアが開いた。

「・・・ママ?」

 再び現れた雪子に雪絵は戸惑いを浮かべ、雪子は雪絵を一瞥しただけですぐにあかねへと視線を移す。

「はい」

 と、雪子は雪絵の横手から、自分の腕をあかねに向ける―――その手には、ピンク色に白玉柄の袋の折り畳み傘。

「え・・・と」

 あかねは差し出された傘と雪絵と雪子を交互に見る。
 雪子はいつもながらに、なにを考えてるのかわからないような無感動な表情。対して雪絵は明らかに不機嫌そうに、雪子の差し出した折り畳み傘を睨みつけている。

「家の中を探したけれど、何故かこれしか見つからなかったわ」
「あ、あの・・・」
「なに?」
「え、ええと・・・」

 あかねは雪絵の方を伺う。
 傘を睨んでいた雪絵は、あかねの視線に気づいて吐息。
 それから、冷たくあかねを見やり、言う。

「要らないわよね」
「え・・・?」
「あかねは雨に打たれて帰るのが好きなのよね」
「・・・・あ・・・・・・そんな・・・・」

 あかねは違う、と言いかけて。
 しかし。

「うん」

 頷いて、あかねは笑った。

「あのっ、私、傘がなくても大丈夫ですから」

 と、雪子に向かってお辞儀をすると、あかねは「それじゃ」と雨の中に飛び出した。
 バシャバシャと、家を飛び出していったあかねを見送って、雪子は傘を差し出した状態のまま、雪絵を見る。いつもと変わらない表情―――だが、どこか非難がこもっているような気がするのは、雪絵の気のせいだろうか。

「なに?」
「なんでもないわ」
「フン・・・」

 雪絵がそっぽを向くと、雪子は無視して家の中に入った。何故か慌てて雪絵も続いて家の中に入る―――と。
 靴箱の横に立て掛けられた傘を見ながら、雪絵は雪子の手にしている傘を見る。確か、いつも雪子が出かける時に携帯している傘だ。つまり、自分の部屋までそれを取りに行ったということだ。

「ママ」
「なに?」
「傘ならそこにあるんだけど」

 さっさとダイニングに引っ込もうとしていた雪子は、娘に言われて靴箱の横を見る。

「気付かなかったわ」
「少しは家の中のこともちゃんとやってよ。でないと、自分の家のことがなんにもわからないじゃない」
「そうね。悪いことしたわね」
「なにがよ?」

 話が微妙に食い違っている気がする。
 雪絵は雪子を睨みあげる―――今となっては身長差は殆どないが、雪絵はまだ靴を脱いで玄関から上がってないので自然と見上げる形になる―――と、雪子は静かに吐息。

「泣いてたわ」
「・・・・・誰が?」
「雨に打たれて帰りたい―――そういうことでしょ。つまり」

 それだけ言うと、雪絵はそのままダイニングへ向かう。

「珍しいわね!」

 母親の背中に、雪絵は半ば投げやりに半ばヤケクソ気味に叫んだ。

「ママが自分から傘を貸そうとしたり、誰かの心配したり・・・・なんて」
「そうね、珍しいわ」

 あっさりと肯定すると、雪子はダイニングに入って戸を閉める。
 玄関にただ独り取り残されて、雪絵は悔しそうに呟いた。

「珍しい? どころじゃないわよ」

 先程の母親の様子を繰り返し繰り返し思い返して唇を噛む。

(ママが怒ったところなんて、絶対に見たことないわよっ)

 

 

 

 

 

 結局、泣くことはできなかったし、涙が出たかどうかすら解らない。
 ただ、なにかやるせない気持ちが心に広がって、なにがなんだか意味不明。
 ふと気を抜けば自分が誰かすら忘れてしまうような―――忘れたくなる気分。
 気がつくと自分は道の真ん中で倒れていた。足元にはアスファルトではなく、少し盛りあがった鉄の―――マンホールの蓋の感触。それに滑って転んだのだと、なんとなく思い返して。

(なにやってるのかなあ・・・)

 自分の行動がよくわからない。
 傘を貸してくれるというのに断って、そのまま雨の中に飛び出して、雨の中を全力疾走して―――――・・・・・・

(痛い、なあ・・・)

 痛いというよりも痺れている。
 全力疾走して、雨で濡れたマンホールに足を滑らせて、そのままうつぶせに水溜りの中に突っ込んで―――アスファルトの地面に倒れたまま、あかねは起き上がろうとも、動こうとすらしない。

(車がきたら曳かれて死んじゃうよね)

 そんなことを思って―――そうなっても良いかななんて考えて―――でも結局起きあがった。

「わ」

 ずるべしゃ。

 立ち上がろうとした瞬間、バランスを崩してふたたび無様に転ぶ。
 重い。
 全力疾走した疲労のせいか、それとも倒れた時の運動筋肉へのダメージのせいか、あるいは雨で服が濡れて重くなったせいか。
 多分、その全部だ。とにかくあまりにも身体に異常な重さを感じ、あかねはもう一度同じようにコケてから、やっと立ちあがる。
 自分の身体を確認するが、見て感じた所、怪我らしい怪我はないようだった。転んだ、というより水溜りの中に飛び込んだようなものだ。スリ傷一つない。

「・・・・・・・・」

 適当な電柱まで歩いて身を寄せると、はあ、と嘆息。

(なにやっているのかなあ・・・)

 再び自問。しかし自答は思い浮かばない。

「私は、雪絵ちゃんに、また学校に来て欲しいだけなんだよね」

 声に出したのは自答ではなく、ただの確認。
 自分の父親―――と考えたくはないが―――が交通事故にあった時、彼はなにか考え事をしていたのように上の空で、だから信号を無視した結果、事故にあった。
 考え事、というのは十中八九、あかねに関することだろう。―――だが、そのことに関してあかねは全く気に病んでいない。元はと言えば彼自身の過ちが原因。自業自得と言う奴だとあかねは考える。ざまあみろ、とまでは思わないが。

(だけど・・・)

 だけど、雪絵に罪はない。
 その雪絵が学校にも行かず、ただ自宅に閉じ篭っている―――――それは、あかねにも原因があると考えた。だから、なんとか雪絵に今までのように―――とは行かなくとも、せめて学校に来て欲しいと思った。聞く所によると、仲の良かったクラスメイトたちが来ても追い返してしまったらしい。だから余計に、雪絵には元気を少しでも取り戻して、また皆と―――あかね以外の皆と―――学校に来て欲しいと思った。だから、ここのところ毎日、あかねは雪絵を訪ねた。と思っていたのだが。

(結局―――そう、結局は)

 雪絵が傘を貸してくれると言ったとき、すごく嬉しかった。
 ずっと雪絵はあかねのことを仇のような目で―――ある意味間違ってはいないが―――見ていたが、あの時、あの瞬間だけは、昔、中学の時に仲の良かった二人に戻れた気がした。強引で、ぶっきらぼうで、こっちのことなんか殆どお構いなしで、だけど優しかった雪絵を久し振りに見れた気がした。

(あの時、雪子さんが出てこなければもしかしたら―――)

 思いかけてその考えを振り払う。
 と、同時に嫌になるくらいに確信していた。
 自分が雪絵の家に通っていたのは、別に雪絵のことを考えていたわけじゃない。ただ、雪絵との縁を切りたくなかったから。
 雪絵が傘を貸してくれると言って嬉しくて―――そこに雪子が出てきて、雪絵が不機嫌になったとき。とても落胆している自分に、やっと自分自身の本心に気付けた。だからこそ、雪絵に「濡れるのが好きなのよね」と言われて頷いた。濡れたかった―――情けなくて、自分を誤魔化し続けていた自分が悔しくて―――泣きたくて。

『いいんだ、もう』

 もう一週間、もうすぐ二週間も前になる土曜日。雪絵の家から戻る途中の公園で、謝罪してきた幸治に対してあかねはそう言って笑った。
 それが単なる強がりだったと、あかねは今日初めて気付いた。

「あーあ。泣きたいのになあ・・・」

 雨に打たれて、それでも浮かぶのは苦笑。
 自分の情けなさに涙もでない。そんな自分に苦笑する。

「あかねっ!?」

 ・・・・・

「あかねっ!」

 あ。
 と、あかねは振り返る。一瞬、自分の名前が解らなかった―――という風に、きょとんと。
 振り返れば、見知った顔があった。どうしようもなく―――やるせない怒りが湧き上がってくる。

「どうしたんだ?」

 雨の中、自分と同じように傘もささずに駆け寄って来る。
 記憶喪失のフリをし続ける卑怯者。

「幸治くん・・・」

 諸悪の根源。
 きっと、彼が―――西山幸治が居なければ、こんな風に雨の中を濡れて歩くこともなかったに違いない。そう考えると、おさえようもなく腹が立つ。

「大丈夫か?」
「・・・・・・」
「あかね?」

 心配そうにこちらを覗きこんで来る。
 ふと、自分が小松あかねではなく、九条綾だったならこんな風に心配はしないんだろう。少なくとも、心配する素振りをみせやしないに決まってる。そう考えるとさらに苛立ちが募った。

「おい―――」
「うるさいなあ。ほっといてよ!」
「あかね・・・?」

 一瞬、幸治の動きが止まる。その仕草に、あかねは後悔のような罪悪感を感じたが、幸治から目線を無理矢理反らして振り払う。

「ほっといてっていったの!」
「そう言われてほっとけるかっ!」

 怒鳴りかえされて、あかねはビクリと肩を震わせる。
 ぐい、と引っ張られる腕。

「痛い! 離して!」
「いやだ」
「離してよ! 私、アパートに帰るんだから!」
「どこに行く気だ」
「だからアパートに・・・・え?」

 あかねは気付いた。
 自分が何時の間にかアパートの前にいたことに。

「あ・・・いつのまに」
「風邪を引くぞ」

 ぐい、と引っ張られる腕。自分の腕をつかんでくる幸治の手を、あかねはやや乱暴に振り払った。
 足早にアパートの階段を上がろうとして―――ついてくる幸治の足音に気づいて立ち止まる。そのまま振りかえらずにいると、幸治が声をかけてきた。

「あかね・・・?」
「―――ごめんね。でも、今だけは独りにして」

 謝り、告げて、カンカンカン、と素早く階段を上っていくと、最後まで振り返らずにアパートの部屋に入った。

 

 

 

 

 

 暗い部屋の中に入る―――
 明子はまだ帰っていないようだった。そのことに安堵する。母親にはこんな姿見せたくないし、幸治のようにどうかしたのかと詮索されたくもなかった。

「はあ・・・」

 暫く玄関に立ちつくして、それからのろのろと靴を脱いで上がる。
 ぐっしょりと濡れてしまっ制服を見下ろす。風邪ひくぞ―――と、幸治の言葉を思い出しながら苦笑。

(風邪でも引いたら雪絵ちゃんは心配してくれるかなあ・・・)

 重い身体を引きずって脱衣所の戸を開ける。
 緩慢な動作で一枚一枚学校の制服と下着をぬいで、それからシャワーを浴びる。冷たく冷え切った身体に、お湯が痛いほど熱く感じた。

「あかねー」

 いきなり幸治の声が聞こえてぎょっとした。
 そういえば、玄関の鍵は閉めてなかった気がする。

「あかねー。いないのか?」

 声が近くなった―――どうやら勝手に上がり込んできたらしい。。

「・・・シャワーか?」

 音を聞きつけてきたらしい。
 幸治の足音が聞こえて―――

「あかね」
「・・・なに?」

 風呂場の戸を一枚挟んで幸治が居る。
 そのことに胸の鼓動を早くしながら、平静を装って受け答える。

「雪絵になにか言われたのか?」
「違う」
「そうか」

 それきり会話が途絶える。
 あとに響くのはシャワーの音。それからさっきよりも少しだけ強くなった雨音が聞こえて来る。

(だから、嫌・・・)

 西山幸治はあまり余計な事を聞かない。
 どうしようもなく哀しいとき、苦しいとき、突然に現れて、ただ傍に居てくれる。
 なにか喋りたいときは、こっちが喋れば受け答えしてくれるし、なにも喋らないときは幸治からなにか言うことは殆どない。
 それが今は嫌だった。
 すごく自己嫌悪に陥って、思いっきり自分を傷つけたいのに、幸治が傍に居てくれるだけでほっとして、安心して、癒されて、嫌だった自分がどこかへ消えてしまう。

(全部、全部、幸治くんのせいなんだ・・・!)

 シャワーを止めて、あかねは風呂場を出た。

「―――!?」

 目の前に幸治が居た。驚いた顔でこちらを見る。
 自分が全裸という自覚はもちろんあったし、顔から火が出るほど恥ずかしかったが、構わずにあかねは自分の身体を隠しもせずに堂々と幸治を睨みつける。

「全部、幸治君のせいなんだよ」
「・・・は?」

 間の抜けた声を出して幸治は一歩後ろに下がった。
 それに合わせてあかねも一歩前に出る。

「幸治君がいなければ、私はずっと変らずに居られたんだよ」

 あの日、あの時。
 もう2週間も前になる月曜日。コンビニに行こうとしたあかねが、幸治とハチ合わせしなければ。

「幸治くんのせいで、私は綾さんや透くん、リョーコさんって友達ができた」

 言いながら、あかねは一歩前に出る。
 幸治は顔を背けながら、一歩後退。

「一人じゃないって悪くないって―――すごく楽しい事だって思い出しちゃったから」

 ぎゅ、とあかねは拳を握り締めて、胸元に押し付ける。まるで、なにかを堪えるように。。

「だから、雪絵ちゃんのことで、私はこんなに傷ついてるんだよ! わかる?」
「いやわからん」
「とにかく、幸治君のせいなんだよ。全部。全て! だから―――」

 不意に声の調子が変ったのを聞いて、幸治は背けてい顔をあかねに戻す。
 あかねは笑っていた。幸治の見たことのない微笑。どこか艶のある女の色気を漂わせる微笑み。
 なにやら不穏な様子に幸治は一歩後退―――しようとして、すぐに壁にぶつかる。これ以上下がれない。

「責任、とってよね」
「とりあえず服を着たほうがいいと俺は思う」

 無視。

「幸治くんは私のこと好き?」
「ああ、好きだぞ」
「綾さんとどっちが好き?」
「綾」
「はっきり言うんだね」

 クスクスとあかねは笑った。
 いつもと違う様子に、幸治は戸惑ったままなにも言えない。

「でも私は幸治くんのこと一番好きだよ。大好き」
「嘘つけ」
「嘘じゃないよ。本当に好き」
「お前の一番は明子さんだろ。2番目は雪絵。俺は良くて3番目だ」
「男の人の中では一番だよ」

 切り返されて幸治は言葉につまる。
 困ったように天井を見上げて、そのまま固まって動かない。

(幸治くん、うろたえてる・・・)

 それがわかって、あかねはまた笑った。
 すでに羞恥心はどこかに消えていた。

「ねえ、幸治くん」
「な、なんだ・・・?」

 幸治の声に余裕がなくなってきている。
 そのことも笑いながら、あかねはもう一度繰り返す。

「責任、とってよね」
「せ、責任!? って!?」
「私、幸治君のせいでとっても傷ついてるんだよ。だから、慰めて」
「いくらでも慰めてやるからとりあえず服を着ろ」
「嫌。そういうんじゃなくて・・・ねえ」

 ふっ、とあかねは幸治の首元に息を吹きかける。
 その生暖かい息の感触にぞくりとして、幸治は思わずあかねを見た。あかねは幸治に向かって妖艶に微笑むと、ゆっくりと―――

「このまま私を抱いて―――――ってひゃああっ!?」

 ゆっくりと、あかねは幸治にしなだれかかるように身体を寄せた途端、あまりの冷たさに驚く。
 よくよく見てみると、幸治の身体は、さっきのあかねと同じようにぐっしょりと濡れていた。

「ど、どうしたのっ!? 幸治君!?」
「どうしたと言われても」
「とにかく、服を脱いでッ。シャワー貸してあげるから―――風邪を引いちゃうよっ」
「・・・えーと」

 困ったように――――――なにか、酷く奇妙な表情で幸治はとりあえず呟いた。

「できれば、外に出てくれるとうれしい。恥ずかしいし」
「え。あ―――は、はいっ」

 慌ててあかねは脱衣所から飛び出す。
 あかねがいなくなって、幸治はほっと一息―――して、服を脱ぎ始めると風呂場に入った。

 ―――脱衣所から出たあかねは、顔真っ赤にしたままコケる。

「きゅうう・・・」

 床の上に倒れて、あかねは「はうーっ」と泣きたい衝動に駆られた。さっき、雨の中でとは違う意味で泣きたい。

(バカバカバカバカバカバカバカ! なに考えてるの私ーッ!?)

 さっきの脱衣所でのやりとりを思い返す。裸のまま、幸治に迫る自分。このまま私を抱いて―――

「はうーっ。はうーっ」

 恥ずかしさのあまりとりあえず叫ぶ―――と、未だに自分が服を着ていないことに気付いた。
 頭を振りながら、あかねは立ち上がると、タンスに向かってゴン、と軽く頭突きを一つ。頭が痛い。

(本当になに考えるんだろー・・・・・)

 泣きたい。非常に。
 バカだアホだ大馬鹿だと、心の中で叫んで自嘲しながらあかねは下着を穿いて、パジャマを着る。

「あかねー」
「はいーっ」

 幸治に呼ばれてあかねはすっとんで行く―――ほど、広いアパートではないが。

「ふと気付いたことがある」
「はい」

 風呂場の向こうから聞こえて来る幸治の声は、エコーがかかっている他はいつもの調子に聞こえるが―――なんとなく困っている様だとあかねは思った。

「着替えがない」
「あ・・・」

 と、あかねは幸治の脱いだズボンやらシャツやらパンツ―――を見た瞬間、顔を真っ赤にしてそむける―――を見下ろす。どれもぐっしょりと濡れている。シャワーを浴びたばかりなのに、またこれを着るわけにもいかないだろう。

「え、ええと・・・」

 あかねの家は母娘の女所帯だ。当然、男の下着やら服やらない。

「か、買ってきますっ」
「いやウチに親父がいるから・・・」
「は、はいっ」

 あかねはアパートの部屋を飛び出すと、幸治の住む部屋の前まで行き、戸を叩く。ほどなくして、向こうから戸が開いた。

「あの、すいません―――」
「あらあかね? どうしたの?」
「って、かーさんっ!?」

 幸治の部屋から出てきたのは幸治の父、虎雄ではなく、あかねの母である明子だった。

「な、なんでかーさんが!?」
「さっき帰ってきた時に、虎雄さんのところに寄ったら、ちょっとお茶でも飲んでいかないかって。あかねこそどうしたの? 幸治君ならいないけれど」
「幸治君ならウチでシャワー浴びてて・・・それで」

 と、あかねの言葉に明子は目を丸くしてあかねを見る。そんな母に、あかねはおや、と見て。

「どうかした?」
「・・・あかねからシャンプーの香りがする・・・」
「うん。私もさっきシャワー浴びたから―――って、違うよっ。別になんかっ、そのっ」
「ああ―――言わないで、いいのよ、解ってるから」

 明子はあかねの言葉を押し留めて、あらぬ方向を見つめて―――何故か嬉しそうに―――呟く。

「いつか来るとは思っていたけど―――そうね、こうして娘は大人になっていくのね」
「だから、違う―――」
「いいの! いいのよ誤魔化さなくて。かーさん理解はあるつもりだから。私はあかねが幸せになってくれればそれでいいの・・・」
「かーさんっ、話を聞いてってばあああっ」

 嘆く。
 が、完璧に陶酔入っている母には聞こえない様だった。

 

 

 

 結局、母親の誤解が解けたのはそれから30分もしてからだった。
 その間、幸治はずっとシャワーを浴びて居たらしい。

「うーむ」

 あかねの部屋で、床に座って幸治は自分のパジャマの裾をまくって腕をさすっていた。

「なにしてるの?」

 湯呑みを二つ持って部屋に入ってきたあかねは、そんな幸治の様子を不思議がって尋ねる。

「いや、ふやけてないなあと思って」
「ふやけるのは指くらいだと思うけど」

 と、あかねは「はい」と幸治に湯呑みを渡す。
 ついで、ポケットに入れていた、袋入りの固焼きのせんべいを何枚か床に置く。

「雪子さんに付合ってるうちに、なんか家でもお煎餅を片手にお茶を飲むのが習慣になっちゃって」
「雪子さん?」
「雪絵ちゃんのお母さん」
「なるほど」

 頷く。

「名前が似ている」
「雰囲気も似ているよ―――幸治君にも少し似てる。なんか、雪絵ちゃんと幸治君を足して2で割れば雪子さんになる、みたいな感じかな」
「すごく解りにくい感じだな」
「そうだね」

 実際に会って見れば納得すると思うけどねとあかねはお茶をひとすすり。

「ところであかね」
「そういえばこの固焼きのお煎餅も、雪子さんが薦めてくれたものなんだよ。美味しいよね」
「うむ。美味いな」
「でしょう?」

 ず、と幸治はお茶をすすって。

「それで」
「かーさんは虎雄さんの―――だから、幸治君の部屋だって。なんかね、まだちょっと誤解があるみたいで、邪魔者は消えるから頑張りなさいよってなにを頑張るんだか」
「誤解されても仕方ないと思うが。実際―――」
「は、はううっ。あの時はどうかしてたんだよっ! その色々あって―――それで、ちょっとなんかヘンでっ」
「その色々って・・・・」
「でもでもでもっ、あの時に言ったことは本当だよ私、幸治君のこと大好きだって言うのは絶対に本当だから―――だから、幸治君なら、その、良いと思ったんだよっ。幸治君なら大切にしてくれるって信じてたから・・・」

 言いながら顔を真っ赤に―――熟れたトマトと同じくらいに真っ赤になるあかねに対して、幸治は困ったように―――だけど、少し安堵した様に息を吐き。

「・・・昭がいなくて良かった」
「え?」

 ぽつりと呟いた幸治の一言に、この前の話を思い出す。

「昭って・・・確か幸治君の弟だよね」
「ああ。アイツは・・・なんかすごく乱暴な奴だったからな。綾にも襲いかかったくらいだし」
「・・・あ、綾さんに?」
「返り討ちにあったらしいけどな」
「ふうん・・・。でも、幸治くんなら大丈夫だよね」
「なにが?」
「なにがって―――は、はううう・・・」

 自滅。
 うなだれるあかねに、幸治は少し強い調子で。

「あかね。それで結局―――」
「あ、あああああ、あのねっ。私えーとあの―――」
「なにがあったんだ?」
「・・・・・・」

 幸治の疑問にしかしあかねは答えない。

「何があったんだ?」

 繰り返し尋ねるが、

「幸治君には関係ないことだよ」
「思いっきり俺のせいだと言っていたような気がするけどな」
「気のせいだよ。忘れて」
「駄目だ」
「いいたくない」
「なら雪子さんとやらに聞くぞ」
「やめて」
「なら話せ」

 はあ、とあかねは吐息。

「これは、私と雪絵ちゃんの問題だから―――」
「そう思って、今まで口を出さなかった。でも俺もなにか関係してるんだろ?」
「・・・あれは。単なる言い掛かりだよ。幸治君になにも責任なんてないから」
「言い掛かりだろうとなんだろうと関係ない。というかそこまで言い掛かられたら、気になって気になって夜眠れなくなる」

 言われて、あかねは幸治の顔を見てもう一度吐息。
 幸治の言葉は本当かも知れないが、本心ではないのだとあかねは解っていた。
 西山幸治は天邪鬼だ。

「ひねくれもの」
「なにがだ」
「幸治君に話すと多分、私はすごくラクになれるとおもう」
「ラクになればいいだろ」
「それが嫌なの。これは、私の苦しみだから」
「それでお前が苦しむの解ってて、俺にほっておけと言うんだな」

 言ってから。
 幸治は気まずげに口をつぐんだ。
 西山幸治は天邪鬼だ。無愛想でマイペースでちょっと強引なフリをしながら、その実、他人のことを心の底から考えてる。

(そこらへん、雪絵ちゃんと似てるんだよね)

 違うのは、雪絵は我侭で強引でそれでいて優しいが、西山幸治はただ優しい―――我侭で強引なのはただのフリで、つまり雪絵と幸治の違いは、地か演技かの違いだった。だから、その演技を見破れば、とても素直な幸治を見ることができる―――綾や虎雄ですら見たことのない本当の彼を。
 ともかく、余計な事を言ったと口を閉じた幸治に、あかねは笑いながら嘆息。

「・・・だから、ひねくれてるって言うんだよ」
「自分でも今思った」

 素直なのかひねくれてるのか。
 あかねは苦笑。

「幸治くんは優しいねえ」
「あかねのことが好きだからな」
「どれくらい? 一番は綾さんだとして、何番目くらいかな?」
「解らん。でも、トップテンにはランクインしてると思うぞ」

 あかねは立ち上がると、幸治のすぐ傍に座る。
 幸治の胸に、自分の身体を押し付けるようにしてしなだれかかった。パジャマを通して、幸治の鼓動が伝わって来る―――見上げれば、少し戸惑ったように見下ろして来る幸治の顔。それをみて恥ずかしさに顔を真っ赤にしながらも、笑う。

「えへへー」
「なんか、恥ずかしいぞ。すごく」
「うん。私も」

 暖かい、と感じる。
 他人の体温が苦手だったはずなのに、他人に触れられるのが嫌悪すら感じていたのに、今はこのぬくもりと感触が愛しい。

「幸治くんは綾さんが一番好きなんだよね」
「うん」
「でも、綾さんは幸治くんのことを嫌いっていったよ?」
「ああ」
「諦めちゃいなよ。私じゃ駄目?」

 幸治はあかねで、あかねは幸治だった。
 綾に嫌われていると解っていながらも、それでも幸治は綾から離れない。
 雪絵に嫌いと言われながらも、それでもあかねは雪絵を忘れ去ることができない。
 もし、幸治が綾から離れてあかねとくっつくようならば、あかねも雪絵のことを忘れてラクになることもできたのかも知れない。けれど。

「わかったよ。もうなにも聞かない」

 結局、幸治は綾から離れることができない。と自覚している。そしてそれは、他人にどうこう言われたくないこと。
 だから、あかねも雪絵を忘れることはできないということ―――あかねが言いたくない以上、幸治が聞き出すことはできないと理解した。

「でも、遠慮はしないでくれ。なにかあったら力になりたいから」
「なってるよ、十分」

 あかねはぎゅーっと自分の顔を幸治の胸に押しつける。

「こーして幸治くんが傍に居てくれるだけで、力が沸いてくるんだよ」
「・・・恥ずかしいんだが」
「私も恥ずかしいよ。でも、暖かい」

 自分でもなにを口走っているのか解らなくなってくる。

「さっきまで、実はちょっと挫けてた―――だけど、もう大丈夫。幸治君のおかげ」
「あのさ。あかね」
「うん?」

 と、あかねは幸治の顔を見上げる。
 幸治はどこか躊躇ったように首を巡らせて、それから小さな声で、

「キス、しようか?」
「は、はうっ?」

 突然心の準備もなく言われて、あかねは飛びのいた。
 そんなあかねに、幸治はぽりぽりと頬を掻いて。

「いや―――嫌ならいいんだが」
「え、あ、あのっ、嫌じゃないけど・・・でも・・・はううっ」
「冗談だ。忘れろ」
「ヤダっ!」

 思わず叫んで、口を抑える。
 ゆっくりと幸治を見ながら、抑えていた手を放して。

「あ、あの」
「うん」
「キ、キス、してください」
「・・・うん」

 そろそろと、幸治はあかねに寄る。
 ごくり、と喉をならして、あかねは口を閉じて目を閉じて息を止めて、顔を―――唇を幸治に向かって突き出す。

「初めてだからな。多分ヘタだ」

 目を閉じた暗闇の向こうで、幸治がそう呟いて―――唇に暖かいものが押しつけられる。幸治の唇の感触。

「んっ」

 強く押しつけられるだけのキス。負けまいと、あかねも自分から唇を押しつけた。

「ふっ・・・・うん」

 しばらくして離れる。
 ―――終わった、と感じたのはそれから十数秒経ってからだった。

「は・・・」

 あかねはぽーっと放心。
 心臓がばくばくと高鳴っている―――今にも張り裂けて死んでしまいそうだった。
 手は無意識に口元に。そ、と指の先が唇に触れて、その刺激にびくっと身を震わせると、やっと我にかえる。

「は、はう・・・」
「下手だったろ」

 幸治の声はすぐそば。意外とまだ近くに顔があって、だけど驚かずにあかねは首を横に振る。

「私も初めてだったから」

 考えて見ればファーストキスだった。
 だというのに―――いや、だからこそか、唇と唇が重なった瞬間に頭の中が真っ白になって、自分の唇を押しつけることしか頭になかった。キスの味も感触も、なにも覚えていない。

「よく、わからなくて、頭真っ白で・・・でも・・・その、良かった、です」

 ぼっ、と顔を真っ赤に染めて言う。
 言われた幸治は、どこか気まずそうにぼりぼりと頭を掻いて。

「あ〜、そか。それは良かった」

 そんな幸治に、あかねはふと思いついて、悪戯っぽく笑う。

「綾さんに、キスしたって言っていい?」
「・・・それは・・・ちょっと・・・困る・・・かも」

 歯切れが悪い幸治に、あかねはクスクスと笑い、

「言わないから大丈夫だよ」
「そか」
「でもこれで、綾さんとなにもないまま終わったら怒るからね」
「善処しよう」
「本当に? 本気になれる?」
「・・・・・いや悪い。多分ムリだ」
「馬鹿」

 こつん、とあかねは幸治の額を拳でつつく。

「幸治くんが本気になれば、絶対に大丈夫だと思うんだけどなあ」
「・・・悪い」
「私も頑張るから―――さっき挫けそうだったけど。もう、大丈夫だから―――だから」
「えーと、帰る」

 あかねの言葉を遮って、幸治は逃げるように部屋を出ていった。
 それを追いかけようともせず、あかねは嘆息。
 本当に、馬鹿だと思う。

(どうして他人のことにあんなに本気になれるのに、自分のことになるとすぐに誤魔化すのかなあ。その半分でもいいから、自分のことに本気になればいいのに・・・)

 そうすれば、きっと綾だって幸治のことを振りかえるだろう―――いや、誰よりも幸治のことを知っているからこそ、自分自身に対して本気になれない幸治に苛立っている。

(・・・って、私が言えることじゃないよね)

 結局、似ているのだろうと思う。自分と幸治は。
 自分も雪絵に対して誤魔化してた。中学のときから、嫌われていると解っていながら、それでも気付かないフリをした。高校にあがってからも、隣のクラスになった雪絵にあまり干渉しなかった。そして、学校に来なくなった雪絵を立ち直って欲しいと適当に理由付けて、毎日雪絵の家に通っている。
 それは全部誤魔化し。ただ、雪絵を失いたくないために、自分で自分を誤魔化しているに過ぎない。でも。

(もう、大丈夫だよね、あかね)

 なんとなく、自分の唇を指でなぞる。

(・・・・・・失恋かなあ、やっぱり)

 思いながら、だけど何故か哀しくはならなかった。
 いや、ちょっとだけ哀しくて切ないと感じている―――が、それでも嘆いてはいない。
 きっと、西山幸治に対しては自分が “本気” になれたからだと思う。本気の想いをぶつけることができたから。
 あのキスは、あかねの本気に応えることのできない幸治の精一杯のお詫び。それがわかっているから。

(やっぱり少し悔しいかも)

 もしも綾がいなければ、自分は幸治の一番になれたのだろうか?

「ま、いいか」

 声に出して呟く。玄関の方から「ただいまー」と声。どうやら明子が帰ってきたらしい。
 そういえば、お腹へったなあ、と思いながら、あかねは部屋を出た。

 


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