―――高校を卒業した途端、結婚するハメになった。

 相手は一つ年下の許婚。
 許婚。
 良くドラマの中では聞く言葉だが、まさか自分が当事者になるとは―――しかも実際にそれで結婚することになろうとは思わなかった。
 許婚の存在を初めて知ったのは、高二の夏休み。部活から帰ってきた俺に、珍しく家に居た親父が笑いながら

「孝雄。許婚が来てるぞ」

 なんの冗談かと思ったが、実は冗談じゃなかった―――その許婚とやらは、もっと冗談じゃない、といった風に憮然とした表情でウチの客間に見知らぬオッサン―――彼女の父親らしい―――と並んで座っていた。
 親父はその “許婚” の父親と親友だと言った。保育園から高校までずっと一緒だったらしい。で、親父は高卒で就職し、親友とやらの方は大学に進学し―――別れるときに、もしも年齢の近い子供が互いに出来たら、結婚させようなどと約束したらしい。
 阿呆か。と、思ったが当人たちは本気らしかった。本気で冗談になってない。
 親父同士、やたらと陽気に笑い合う中、俺と許婚は照れて頬を染め合ったり、視線が偶然合って反らしたり―――などと勿論しなかった。
 俺は唐突の話に呆然としていたし、向こうは向こうで予め―――少なくともウチに来るまでに事情を聞いていたのだろう。ムスッとした顔―――実は向こうの方は特に不機嫌と言うわけでもなく、それが彼女の素の表情だと知ったのは大分後のことだ―――で、三人の男どもを眺めているだけだった。

「ふざけんなよ!」

 許婚とやらが帰って、やっと事体を飲み込めた俺が怒鳴っても親父は平然と。

「誰がふざけてるか」

 確かに親父はふざけてはいないようだった。
 クソ真面目に俺を勝手に結婚させようとしているらしい。

「まあ、いくらなんでもすぐに結婚―――なんて言わん。流石に学生の身分で所帯を持たせるのは不安だしな」

 だから、高校を卒業するまでにやりたいことは全部済ませておけ―――そんなことを言って、馬鹿みたいに親父は笑った。
 母親は流石に常識人で、なんとか父親を諌めてくれると言ってくれた。昔から母親にだけは頭のあがらない親父を見ていた俺は、なら大丈夫だろうと憤りながらも楽観視していたのだが。
 しかし何処から漏れたのか―――おそらく親父が吹聴したに違いない―――その許婚話が学校中に広まって、その頃付合っていた彼女とは気まずくなって別れるハメになるわ、友人からは冷かされるわ、担任からは「結婚式には呼んでくれよ」と肩を叩かれる始末。はっきり言って、俺の高校生活の後半は散々だった。それでも高校を卒業するまでの辛抱だと、俺は我慢して耐えた。

 それから季節は巡って翌々年の3月。やはり母親に親父は勝てず、許婚の話は有耶無耶となった。初めて会ったあの日以来、俺は許婚には一度も会っていない。その父親は何度か家に来たが。
 俺は就職ではなく大学を受験して―――ものの見事に落ちた。まあ、当然だとは思う。許婚云々は有耶無耶になったとはいえ、受験の直前まで親父はぐだぐだ言っていた。お陰で、全く受験勉強に身が入らなかったのだ。
 落ちたとはいえ、事情が事情だったので、母親は「来年、頑張んなさいな」と言ってくれたので、とりあえずは気侭な浪人生活だ―――と、考えていたところに。

 親父の親友が倒れたという連絡が来た。

 その連絡が来た瞬間、親父の態度が急変した。
 「今にも死にそうなアイツに、娘の晴れ姿をみせてやりたい」と言って、母親の言葉を押しのけて、強引に相手の母親と結納の準備を進めた。向こうの母親も乗り気ではなかっただったらしいので、殆ど親父一人で段取ったようなものだった。それほど親父にとって大切な親友だったのだろう―――と、後になって思ったが、当事は父親の強引さに呆れて物も言えない状態だった。
 俺も母親も食い下がったが、絶対無敵だった母親の言葉も通じず、俺には「嫌だと言うなら家を出ていけ」などと言われる始末。・・・それで従ってしまう俺も、根性がなかったのかも知れない。

 あれよあれよと言う間に、結納の日の前日。
 俺はたまらずに、夜中に家を飛び出した。
 家を出る、という気持ちはなかった。なにも考えていなかった。ただ逃げ出したかっただけ。
 行く当てもなく、なんとなく駅の方向へと足を向ける。―――その女を見たのはその時だった・・・

 

 

 

 

 

 目が覚めると雨が降っていた。
 ざぁぁぁぁぁ・・・という音に身を起こす、

「おはよ、パパ」

 声に驚いて、ベッドに寝たまま首を持ち上げるとエプロン姿の娘が居た。

「なんだ、雪絵か」

 孝雄は何故かホッとして言うと、雪絵は気分を害したようだった。

「なによその言い方」

 まるで私が居ちゃ行けない見たいじゃない。
 そんなことをいう娘に、そんなことないぞ、と笑おうとして―――

 ―――初めまして。

「・・・!」

 ―――初めまして、お父さん。

「? どうしたの、パパ」
「・・・いや、なんでもない」

 なんでもないわけではなかった。
 昨晩のあの娘―――小松あかね。雪絵の友人だと言う少女のことを思い出す。

(まさか―――なんで、今になって・・・)

「パパ、まだ具合悪いの?」

 雪絵が心配そうに聞いてくる―――正直、そんな娘を煩わしくも感じたが。

「なんでもない。―――それより、朝食は?」
「出来てるわよ。だから呼びにきたんじゃない」
「そうか」

 と、孝雄はベッドから降りると、さっさと部屋を出る。
 慌てて雪絵も後に続こうとして―――部屋の入り口で逡巡。廊下の向こうの階段を降りていく、父の背中を見ながら思い出されるのは昨晩のこと。玄関の向こうから聞き覚えのある声が聞こえたと思ってて、出てみるとそこには父親とあかねが居た。あかねはすぐに帰ってしまったが、父親はその場に崩れ落ちて震えつづけていた―――

「一体・・・なんだってのよ・・・」

 ざぁぁぁぁぁぁ・・・と、雨の音が外から響く中で、雪絵は苛立たしげに呟いた。

 

 

 

 


あるひあるときあるばしょで

シャレにならない彼女の事情

第六話「悔恨の日曜日、そして月曜日の贖罪―――或いは小松あかねが雨に気落ちした日」


 

 

 

 

 朝、目が覚めても雨は止まなかった。
 そのことを残念と思っている自分が居ることに、あかねはかすかな驚きを覚える。他人が苦手で、どちらかといえば一人でいることの方が好きだったはずなのに。

(幸治くんのせい・・・じゃなくて、おかげ、かな)

 感謝するべきなのだろうか―――と、そんなことを思ったが、感謝されてもきっと彼は喜ばないだろう。自分も感謝したいのかどうか解らない。他人があまり苦手じゃなくなってきたのは良いことかもしれないが、今までの自分もそれなりに嫌いではなかった。

「・・・なんか負け惜しみ見たい」

 苦手苦手と言っておきながら、あっさりと替って行く自分に対する良い訳というか、負け惜しみというか。流石は自称天邪鬼の娘だ、と思いながら、あかねはベッドを降りた。

 

 

 

 朝ご飯を食べ終わって、あかねはなんとなく母と二人でテレビのバラエティ番組を見ていると、いきなり訪問者。
 幸治が綾と連れ添って、遊びに来た、と上がり込む。雨で遊びに行くのがお流れになった代わりだろうか。

「―――なにもない部屋だけど」

 と、自分の部屋に案内―――しなければならないほど、広いアパートではないが―――して、少し恥ずかしそうにあかねが言う。
 あるものといえば勉強机とベッドと本棚が一つ。クローゼットなんてシャレたものどころか、衣類タンスの一つもない。タンスは母親と共用で居間に置いてある。

「え。そんなことないよ?」
「ホントですか?」

 慌てて手を振る綾。
 なんとなく顎を下げて上目使いに見て尋ねると、綾は視線を反らす。

「・・・ごめん。なんにもない部屋だなー、ってちょっと思った」
「あはは」

 笑う。
 綾の良い所は嘘をつけないところだと思う―――思えば、あかねの家の事情を知った時もそうだった。

「はい。テーブル」

 と、母親が脚を折りたためる四角いテーブルを何処からか引っ張り出して、部屋に入ってきた。慌てて綾がそれを手伝う。部屋の真ん中にテーブルを置いて―――少し大きめだが、部屋自体になにもないのですっきり収まる――‐一息。

「って、幸治。アンタは男なんだから手伝いなさいよ」
「忘れてた」
「殴るわよ。ぐーで」

 ぶん、と拳を振り上げる綾に、あかねはくすくすと笑う。
 そんなあかねを、綾は怪訝そうに見て

「なによぅ、あかね。なにか可笑しい?」
「え? えーとなんとなく。いいなって思っただけです」

 あかねが答えると、幸治はほう、と頷く。

「殴りたいのか?」
「え、ええっ? ち、違うよ」
「殴られたいのか」
「それは幸治くんでしょ」
「人を変態見たいに言うな」

 幸治の言葉に、あかねはまた笑う。
 そんな様子を、綾は複雑な表情で眺めて。

「ね、ねえあかね?」
「はい、なんですか?」
「・・・・・・」
「?」

 押し黙ったままなにも言わない綾に、あかねは疑問符。
 綾は幸治を肘でつっつくと、

「幸治、ちょっとあかねになにか話かけて」
「む?」
「いーから」
「むう。・・・あかね、いい天気だな」
「雨、降ってるけど」
「いや明日の話だ。多分、明日はきっといい天気だな、という言葉を略してみた」
「略されて解ったら超能力者だよ」
「なに!? あかねはエスパーだったのか!? エスパーあかね!」
「なんでそうなるの?」

 くすくすとあかねは笑って―――と、綾がじっとこちらを見つめているのに気付く。

「ど、どうしたんですか?」
「違う・・・」
「え?」
「なんか、アタシの時と幸治の時で、喋りかたが全然違う」
「え、えーとそう言えば」

 はっ、として口元を抑える。
 言われてみれば昨日―――いや、一昨日からこんな調子だったような気がする。
 思わず顔が真っ赤になる。

「あ、あのっ。これは別に―――違うんですっ」

 なにが違うのか自分でもわからずに叫ぶ。
 綾は無視。
 して、幸治の首を両腕で抱えると、そのまま締める。

「この馬鹿幸治ぃっ。いつのまにそんな風に仲良くなってるのよッ。羨ましいじゃないッ」

 本気で羨ましいのか、目には涙など滲ませている。

「あ、ああああ、あのっ、やめてください綾さんッ、幸治くんはなにも悪くないんですからッ」

 あかねが叫ぶと、綾はあっさり幸治を解放した。流石に自分でも言い掛かりだと気付いたらしい。が、表情は全然納得していなさそうだった。

「うーうー、不公平だー。私だって私だって・・・」
「は、はうう・・・じゃ、じゃあ頑張りますから」

 言ってから、すーはーすーはーと深呼吸。

「あ、綾!」
「な、なに?」

 勢い込んで言うあかねに、綾は思わず身を引く。

「い、いい天気だな!」
「いやだから雨降ってるって―――しかもなんで男言葉?」
「は、はうー。え、えと綾!」
「なに?」
「あ、雨降ってるいい天気ッ!」
「・・・わけわからないし、不自然なほど言葉に力こもってる・・・」
「はうううう・・・」

 はた、とあかねはテーブルの上に突っ伏した。
 幸治はそんなあかねを見て、綾を嗜めるように。

「あまり無理言うなよ」
「な、なによぅ。元はといえばアンタが悪いんでしょー」

 言い掛かり再び。

「こういうの、無理に強制してやるもんじゃないと思う」
「う、うー」

 正論で返されて、なにも言い返せない。そんな綾に幸治は続けた。

「それに、言葉使いはどーでも、あかねは綾のこと好きだぞ」
「「え゛!?」」

 幸治の言葉に、あかねは顔を上げて綾と目を合わす。

「あ、あや、綾さんのこと好きですよっ」
「わ、私だってあかねのこと好きっ」

 なんか焦って言い合ってから、二人して顔を真っ赤にして俯く。
 まるでお見合いでもしているような状態。

 コンコン。

 と、ノックが響いて、返事を待たずにドアが空いた。

「失礼するわね」

 と、お盆にティーセットを乗せて入ってきたのは、明子だった。

「大したものじゃないけれど」
「いや、結構。こっちは勝手に押し掛けた身分だし」
「幸治くんって面白い喋り方するのねー」

 ふふ、と明子は笑いながらテーブルの上に盆を置く。あら、と真っ赤になったまま俯いている二人に目をやった。

「どうしたの?」
「ふむ」

 答えない二人に代わって、幸治は肩を竦めて。

「なに。女同士の青春と言うヤツだ」
「本当に面白い子ねぇ」

 くすくすと笑って―――親子だからか、あかねに笑い方が似ている―――明子は部屋を出ていった。瞬間、綾は幸治の脇を肘で打つ。

「ぐほ!?」
「・・・なにが青春よ、適当なこと言わないでよ」
「む。互いで好きだと確認しあって照れている、と言ったほうが良かったか?」
「・・・良くない」

 不機嫌そうに綾は答えると、盆の上から湯気の立つ紅茶を手にとった。と、あかねが少し申し訳なさそうに、

「や、安物のティーパックですけど」
「いや、アタシって安物しか飲んだことないし」

 苦笑しながらあかねは紅茶を口に含む。

「はあ、美味しい。―――丁度、喉が渇いていたのよね」
「私もです」

 互いにそんな言葉を口にして―――再び真っ赤になる。

「あ、あー。なんだろね。なんかヘンだね」
「は、はい・・・」

 それで会話が途絶える。
 幸治は幸治で、静かに紅茶をすすっているだけだ。

「あのさ。なんか、わたし、あかねに迷惑がられてるんじゃないかなーって思ってたんだ」
「・・・え?」
「ほら、この前。っていうか一昨日の金曜日だけど、あかねは最後まで佐野さんの味方だったでしょ? 全部、解ってたのにそれでも」
「それは、ごめんなさい―――」
「え、いや、別に怒ってるわけじゃなくて・・・ただ、なんていうのかな。あかねにとって、佐野さんって一番大切な友達なんだなーって。そう考えたら、結局私ってなんだろうかなって。あかねにとって別に要らないヤツなんじゃ―――」

 パンッ。

 いきなり綾の顔を幸治が殴った。
 一瞬、呆然と幸治の顔を見返して―――

 ずごんっ。

 ぐー、で幸治の頭を殴りつける。

「いきなりあにすんのよーっ」
「痛いぞ」
「あたしの方が痛かったわよッ」

 いやどう考えても幸治君の方が痛そうな音が聞こえました。
 と、あかねは思ったが、賢明にも口には出さなかった。

「あ、あのですね」

 あかねは代わりに別の意味を言葉に出す。

「私にとって、雪絵ちゃんは一番の友達なんです」

 例え、嫌われて裏切られたとしても。憎まれて蔑まれても。それは一生変わることのない事実。

「だけど、私、綾さんと友達になれて嬉しいです」
「でも佐野さんよりは下なんだ」
「え。いえ。えと・・・・・ごめんなさい・・・」

 謝るあかねに、綾は苦笑。

「いいよ。―――本当は、私があかねの一番の友達になりたかったけど・・・二番目ってことで許す」
「あは・・・はい!」
「・・・また、佐野さんと仲良くできるといいね」

 綾の言葉に、あかねが息を呑み、幸治は一瞬だけ気まずそうに視線をさ迷わせる。
 ただ一人、綾だけが意味を飲み込めずに首を傾げた。

「ん? どしたの?」
「いえ―――」

 にこ、とあかねは笑って。

「そうですね」

 とだけ言った。

 

 

 

 

 

 お昼をご馳走になったり、おやつを振舞われたり。
 なんだかんだで、綾が気がつくと、何時の間にか夕方の5時を回っていた。

「・・・もう、こんな時間?」

 話しているだけなのに、こんな時間になってしまったことに少し驚く。

「じゃあ、そろそろ」
「あ。はい」

 綾は立ちあがると、ぼーっと座ったままの幸治を蹴飛ばして促し、部屋を出て玄関に出る。
 雨は、暫く前から止んでいた。

「じゃあね、あかね。また明日」
「明日の朝も、綾さんの家に寄りますね」
「ん。一緒に行こ」

 そんな会話をしていると、

「あら・・・? もう帰るの?」

 買い物袋をぶら下げて、外から明子が帰ってきた。
 綾はおやつを頂いた後、買い物に行って来ると言っていたのを思い出す。

「折角、色々買ってきたのに・・・晩のご飯も一緒に食べて行かない?」
「え、えーと流石にそんなご好意に甘えるわけには」

 慣れない丁寧語で、別に悪いことをしたわけでもないのにペコペコと謝る綾。そんな綾に、明子はぐいっと自分の持っていた買い物袋を突き出して。

「ほら、おばさん奮発しちゃったのよ」

 言い掛かりだ、とは思うが、しかしそう言われれば帰るわけにも行かない。だが、ここで晩飯まで頂くというのは流石にずううずうしいのでは―――などと、綾の頭の中で葛藤が繰り広げられる。

「か、かーさん。綾さん、困ってるよ」
「・・・じゃあ、あかねがこれ全部食べてくれる?」
「え、えーっ? そんな食べきれないよ・・・」
「じゃあ、責任もってお客さんに食べてもらわなきゃね?」

 と、にっこり笑って綾を見る。

「で、でも・・・」
「もしかして、遠慮してるんじゃなくて、本気で嫌?」
「そ、そんなことはないです・・・けど」
「ならいーでしょ―――あ、そういえば聞いたわよ。九条さんって、お料理得意なんですってねー。それも、和食でも洋食でもなんでもござれ。御菓子だって得意なんですって?」
「い、いやそれほどでも―――」

 綾が照れたように頭を掻く。

「へえ・・・凄いんですねー、綾さん」

 この前一緒にお弁当を作ったとき、確かに手際がよく味付けも上手いとは思ったけれど。その時作ったお弁当は、至ってフツーの、オーソドックスなものだった。だから和洋中なんでも、とまでとは。
 あかねにまで感心され、ついでに幸治も感心しているのを見て、綾はさらに照れた―――と。

「あれ?」
「あら、どうしたの?」
「いえ・・・あれ? なにか、違和感が・・・?」

 綾は明子とあかねの顔を見比べたが、しかしその違和感の正体に気付くことはできなかった。

 

 

 

 

 

 それで結局、女三人で晩御飯の用意をする。
 ―――とは言っても、殆ど綾と明子がメインで動いて、あかねはそのサポート。あかね自身、それなりに家事はできる方だと思っていたが、母親と綾は “できる方” なんて問題にならないほどの腕と知識があった。二人になにを切れ、これ入れてという指示に従っていただけに過ぎない。

(・・・もうちょっと、お料理の勉強しようかな)

 野菜を刻みながら、あかねはそんなことを思う。
 やがて料理が出来上がると、明子がそう言えばと幸治に訪ねる。

「虎雄さん、居るのよね? 呼んでらっしゃいな」

 言われて幸治は綾の方を見る。
 なにかを確認するかのように、「いいか?」と聞くと、綾は「別に・・・」とそっぽを向いた。そのやり取りに、小松母娘は不思議そうな顔をしたが、「なんでもない」と言う綾に、それ以上なにも聞かなかった。

 幸治の父親、西山虎雄が呼ばれてきて、5人でにぎやかな晩餐―――何故か綾は虎雄とあまり話をしなかったが、それを除けば大体、楽しい食卓だった。
 そして、あらかた料理も食らいつくし、綾もそろそろいい加減に帰らなければならないという時間。「後片付けは大人にまかせて」と言う明子に申し訳なさそうに礼を言って、綾とあかね、幸治は外に出た。

 

 

 

 

 

「うっわー、真っ暗ー」

 月のない夜空。星だけが瞬く闇を見上げ、綾はんー、と背伸びをする。

「随分、遅くまでお邪魔しちゃったわねー」

 アパートの階段を降りきって、綾はあかねを振り返った。
 あかねはアパート脇の街灯の灯りに笑顔を写して。

「いえ、楽しかったです。とっても」
「そう言ってくれると私も嬉しいな。―――じゃ、また明日」
「え? お、送っていきますよ」
「・・・・・・じゃあ、お願いしようかな」

 一瞬、なにかを考えて綾は頷いた。
 その綾の様子に、なにか妙なものを感じたが。

「じゃ、行きましょうか幸治くん」
「・・・俺もか?」
「あたりまえでしょー。あかねを一人で帰らせる気?」

 ぐい、と幸治の耳を引っ張る綾を見て、あかねは苦笑。
 綾はすぐに幸治の耳を開放すると、ヤケに陽気に大手を振って、自分の家の方向へと歩き出した。

「じゃ、行こっか」
「はい」

 頷き、綾のあとに続くあかね。その後ろを、幸治がまだ痛そうに耳を抑えて続く。

「でもさ、すごいよねー」

 ぽつぽつと路ぞいに続く街灯の白い光の下を歩きながら、綾は一人で頷きながら呟く。

「なにがですか?」
「あかねのお母さん―――明子さん。あのさ、てっきり私は―――その―――なんというか―――もうちょっと―――」

 上手く言葉が出てこない。
 あかねは笑って。

「暗い母親じゃないかって?」
「ええと・・・まあ、そんな感じ―――でも、全然予想通りじゃなくて、聞いた話ってデマなんじゃないかって思ったくらいで」
「はい。自慢の母親ですから」
「でしょー。いいよねー、私なんてそんな風に胸張って言えないわよ・・・自慢だなんて」
「そうですか?」
「んー・・・あかねのお母さんほど誇れるような母親じゃないのよね。喋り方ヘンだし」
「あ、あはは・・・」

 確かにあの喋り方は妙だった―――と、あかねは金曜日の朝のことを思い出す。

「あかねってさ、明子さんのことすっごく好きなんだよね」
「はい」

 迷いなく頷く。
 そんなあかねに、綾は立ち止まる―――吊られて、あかねと幸治も立ち止まった。不思議そうに綾の方を見る。

「綾さん」
「ごめん」

 街灯の下。
 綾はいきなりあかねに向かって頭を下げた。

「え、え? どうかしたんですか!?」

 いきなり頭を下げられて困惑するあかね。しばらく頭を下げて―――顔を上げた綾は、少し泣きそうで、すごく申し訳なさそうにあかねを見つめていた。

「この前のこと・・・私、あかねのこと可哀想だって言ったよね」
「は、はあ・・・」

 綾の言葉に、あかねはわけがわからず困惑し続け、曖昧に返事を返す。

「あの時・・・あかねを追って学校を出る前にね、担任に言われたのよ――― “可哀想でない人間のことを、可哀想だと思うのはとても不幸なことだ” って・・・その意味がやっとわかった」
「はい?」
「あかねってさ、全然、可哀想なんかじゃないもん」
「・・・はい」

 綾の言葉に頷く。そんなあかねを見て、綾は少しだけ笑った。

「普通にお父さんが居て、普通にお母さんが居て、普通に自分が居る―――そんな普通の幸せじゃないかもしれないけど、あかねは不幸なんかじゃないよね?」

 確認するように綾。
 強く。あかねは頷く。

「はい!」
「だよね―――だけど、私はそれが解らなかった」

 少しだけ浮かんでいた笑みが消えて、また泣きそうな顔で俯いた。

「あかねのこと、ずっと可哀想だと思ってた。だから力になって上げたいって思ってた。助けてあげたいって思ってた―――でも、それって・・・」
「ただ単に、 “可哀想なあかね” を見下していただけだった」

 不意に呟いた幸治を、綾は睨みつける―――が、すぐに項垂れて小さく頷いた。
 それを見て、今度はあかねが非難めいた視線を幸治に向けた。

「幸治くん! そんな言い方―――」
「いいよ。あかね」
「綾さん・・・」
「だって、その通りだもん。私、あかねを見下してた。あかねが不幸だって、あかねって可哀想だって、勝手に思い込んで勝手に同情してた。そんなあかねを助けてやろうって考えて、馬鹿みたいな自己満足に浸ってた」

 きら、と。
 なにかが街灯の光に反射して、地面に落ちる。
 涙。

「綾さん・・・泣いて―――」
「最低だぁ・・・私」

 ぽろぽろと、俯いた綾の顔から涙が零れ落ちていく。

「でもまあ、世間一般から見ればあかねって不幸かつ可哀想だし」
「幸治くんは黙って!」

 珍しく、あかねは怒りの声をあげて、幸治にぶつけると綾に向き直る―――が、顔を地面に向けたまま嗚咽を漏らす綾に、果たしてどう声をかければいいのか惑う。

「―――それで?」

 やれやれ、と幸治は肩を竦める。
 あかねがキッと睨み付けたが、無視。

「可哀想じゃないことに気付いて、自己満足に浸れなくなったから、もうあかねと友達を止めるのか」
「う・・・そ、そんなわけないでしょ!」

 涙を拭い顔を上げて、綾は幸治に向かって涙声で叫ぶ。
 ふむ、と幸治は一呼吸置いてから。

「ならいいだろ、それで」
「へ?」
「だから、別に、綾にとってあかねが可哀想じゃなくなっただけだろ?」
「え?」
「綾は可哀想だと思ったあかねを助けたかった。そして、綾にとってあかねは可哀想じゃなくなった―――英語で言うと “結果オーライ” と言う奴だ」
「いやその英語は間違ってると思うけど―――え?」

 何時の間にか綾は泣き止んでいた。
 幸治の言葉を理解しようと、ぶつぶつと呟いて反芻して―――それから、首を傾げる。

「なんか・・・騙されてない? 私」
「そんなことないですっ」

 勢い込んで、今度はあかねが叫ぶ。
 がし、と綾の両手を取って、その目を見据え、

「綾さんは私のことを可哀想って思ってくれたから、助けたいと思ってくれたから友達になってくれたんですよね! 私は、綾さんと友達になれて凄く嬉しかった! 綾さんだけじゃなくて、他の人とも―――人が苦手な私が、色んな人と知り合えたのも綾さんのお陰ですから・・・」

 一息。

「正直な所、可哀想、とか同情されるのって嫌なんです。可哀想って言われると、なんか、私がここに居ちゃいけないような気がして」

 可哀想、という言葉。
 そんな産まれ方をして可哀想―――産まれてきて可哀想―――産まれなければ良かったのに。そう、言われているのと同じだと、あかねはいつも思ってた。
 そしてそれは、家を飛び出してまで自分を産んで、ここまで育ててくれた母親を否定されているのと同じことだと思う。

「だけど、綾さんに可哀想だって言われたとき、違ったんです」

 不思議だった。
 真正面から可哀想だって言われて―――それなのに、その “可哀想” って言葉は心に響かなかった。
 代わりに綾の “本気” を痛いほどに感じた。だから。

「嬉しかったんです―――綾さん、私のことを本気で想ってくれたから。勘違いでも、それでも嬉しかった・・・」
「あかね・・・」
「綾さんは私のことを不幸だと思って、可哀想だと思ってくれた。それで私は綾さんって言う友達ができた―――綾さんが私のことを可哀想って心配してくれたから、嬉しい幸せを手に入れられたんですよ。私は」

 にこっと、微笑むと、あかねは綾の手を離して、そのまま綾の腰から背中に手を回すと、優しく、抱く。

「ごめんね、ごめんね、あかね・・・」

 抱きしめられて、綾は再びぼろぼろと泣き続けた―――

 

 

 

 

 

 泣き続けて―――それからようやく収まって。
 自分の身体から離れたあかねに、綾は照れくさそうに笑いかける。

「あー。なんか、みっともないね、私」
「そうですね」
「う・・・なんかキツいなあ、あかね」
「だって鼻水」
「あー」

 言われて綾は、ポケットティッシュを取り出すと、チン、と鼻をかむ。

「ほんとーに情けないなー」
「そんなことないですよ」
「うう・・・なんか優しいなあ、あかね」

 ぐす、とまだちょっと涙声。
 あかねと綾は並んで歩き出す。その後ろを幸治がついて来た。
 ―――なにも喋らないまま、三人は綾の家に辿り付いた。

「じゃあ、また明日―――」
「あ、上がってかない? ここまで送ってくれて、そのまま帰すのも悪いしさ」
「でも、もう遅いですし」
「そ、そうだね」

 あは、と笑って綾は手を振った。

「それじゃ―――」
「はい。また明日」

 別れの言葉を交わし、あかねは綾に背を向けた。
 綾もあかねに背を向けて家の中に入ろうとして―――止まる。

「あかねっ」

 あかねを振り向いて、綾は叫んだ。
 驚いて、あかねも綾を振りかえる。
 真剣に―――いつもと同じく、本気で綾はあかねに向かって言葉を放つ。

「私、馬鹿だから。またヘンな勘違いして、あかねのことを誤解したりするかもしれない!」
「はい」
「でも、これからもよろしくね!」
「はい!」

 綾はそれだけを言うと、照れくさそうにさっさと家の中に入って行った。

「近所迷惑だな」

 あかねと並んで歩いて、幸治が突然そんなことを言う。あかねはそんな幸治を冷たく横目で見て、

「なんだ、幸治くん、居たの?」
「む。なにか怒られているような気がするのは気のせいだろーか」
「怒ってるよ」

 ふん、とあかねは鼻を鳴らす。
 そんな様子を幸治はじっと見る。視線に気付いたあかねは、怪訝そうに幸治を見返す。

「・・・なに?」
「いや―――怒ってるあかねって可愛いなって思って」
「は、はうっ?」

 いきなりいきなりなことを言われて、あかねは顔を真っ赤にする。

「な、なななななっ、なにをいきなりそんなことをっ!?」
「いや可愛かったし」
「は、は、はうーっ!」

 顔が火照る顔が火照る顔が火照る。
 火でも吹くんじゃないかと思うほど、顔の温度が急上昇。
 混乱して、あかねはぶんぶんと首を振る。

「そ、そんなこと言われても誤魔化されないからっ。幸治くん、ひどいよっ」
「可愛いってひどいのか?」
「そ、それは嬉しいけど―――じゃなくてっ、綾さんのこと。どうしてあんなこと・・・」
「・・・俺、なにか間違ったこと言ったか?」
「間違ってはないかもしれないけど、でももう少し言い方ってものが・・・」
「ない」

 言葉を先回りして幸治は否定する。
 え、とあかねは言葉を失う―――幸治は言葉を続けた。

「綾はいつでも本気だって、わかってるだろ?」
「うん・・・でも・・・」
「だから、中途半端な慰めや、誤魔化しは返ってアイツをキズつける」
「あ・・・」

 確かに、そうかもしれない。
 だけど―――

「でも・・・でも―――幸治くんは、綾さんのこと好きなんでしょ! だったら、もうちょっと優しく」
「やだ」
「え」
「やだ」

 ぷい、と幸治はそっぽを向く。
 なにか、駄々っ子のようで、少し可笑しい―――が、あかねはぐっと笑いを堪えた。そうだ自分は怒っているのだ。

「なにが嫌なんですか」
「綾は強いんだ」
「はい?」
「だから、俺に優しくされる綾なんて見たくない」

 ・・・・・・・・
 ぷっ。
 と、あかねは思わず吹き出した。
 なにが可笑しいのか解らない。―――が、なにかが可笑しくて―――きっと、幸治の我侭な言い分が可笑しかったのだろう―――綾は笑った。
 ひとしきり笑ってから―――

「でも」
「わかってる」

 あかねの言葉を遮って、幸治が言う。
 ―――わかってる。あかねも、解ってはいた―――西山幸治がわかっていることに―――それでも、あかねは幸治の言葉を無視。

「でも、綾さんが強いなんて、幸治君の勝手な思い込みじゃないかな」

 綾があかねのことを勝手に可哀想だと思ったのと同じ。

「もしかしたら、本当は弱いのかもしれない―――綾さんだって、女の子なんだよ」

 思い出されるのは涙。
 先程の綾の嗚咽。
 きっと、綾はあかねが思っているよりもずっと弱いのかもしれない。

「それでも、綾は強い」

 幸治は断言。
 してから、続ける。

「本当は弱かったとしても、綾は強くあろうとしてる。だったら、俺は綾が強いって信じるだけ」
「・・・・・そういうの、なんていうか知ってる?」
「?」
「天邪鬼っていうんだよ」

 そう言って、あかねは一歩を大きく前に出す。と、そのまま早歩き。後ろを幸治がついて来るのを足音で感じながら、幸治が前を向く自分の顔を見れないと思った瞬間、少し寂しげな苦笑を浮べる。

(・・・全く、本当に・・・)

 西山幸治は天邪鬼だと思う。
 今までの言動を思い出す―――綾のことを気遣った言動。それは全て、綾が居ない場所でのことだった。
 幸治は誰よりも綾の強さを信じているのだろう―――と、同時に、誰よりも綾の弱さを解っている。

(私も、天邪鬼かな・・・)

 悔しい、と思う。
 少しだけ綾に嫉妬する。
 綾はあかねの “一番” の友達になりたいと言ってくれた。
 だが、彼女は気づいているのだろうか?
 綾のことを “一番” に想っていて、綾の “一番” になりたいと思っている彼のことを。

 吐息。

 ふと見ればアパートの影が見える。
 そんな場所で、

「あかね」
「なに」

 幸治に呼びとめられて、あかねは立ち止まる。街灯の真下。真上からは、蛍光の白い光が降り注いで来る。
 振り返ると、幸治は街灯と街灯の間の丁度真っ暗な場所に立っていた。

「一つだけ、質問」
「?」
「今更、なんだが・・・」

 言いにくそうに、幸治は言い淀む。
 暗がりで、その表情を見る事はできなかった―――そのことを計算して、幸治はその場に足を止めたのかも知れない。だとしたら、今、彼はどんな顔をしているのか、あかねは興味を持った。が。

「幸治くん」

 近寄らずにその場で声をかける。
 ん? 幸治は顔を上げた。

「幸治くんから見て、私って弱いかな」
「・・・いや」
「綾さんと、どっちが強い?」
「綾の鉄拳は痛いぞ」

 幸治は誤魔化した。

(けど、誤魔化されない)

「でも、多分、私は綾さんに殴られても泣かないよ。きっと」
「そうだな」

 認めて。
 幸治は吐息―――小松あかねは弱くはない。ならば、遠慮する必要などは何処にもない。

「雪絵のことだ」
「うん」
「雪絵って、アパートに遊びに来た事があったのか?」
「2年の時に。一度だけ」
「そか」

 幸治は灯りの下に立つあかねの様子を伺う。
 彼女はただ立っていた。笑いもせず、怒りもせず、嘆きもせず―――ただ、感情を押し殺して。

「・・・それだけ」
「うん」

 幸治は再び歩き出す。暗がりの中から出てきた幸治と並んで、あかねも歩き出した。アパートに向かって。

「私も質問して良い?」
「ああ」
「私って、可哀想かな」
「可哀想じゃないヤツなんていないと思う」
「そうだね」

 頷いて、

「私が不幸だったら―――本当に不幸な子供だったら、幸治くんはずっと私の傍に居てくれる?」
「わからない」
「そうだね」

 頷きながら、思う。
 実際は、関係ないのかもしれない。自分が不幸であろうとあるまいと。
 きっと、幸治は自分が望めば、ずっと傍に居てくれるのだろう。―――いや、綾以外の誰が望んでも、西山幸治は誰かの傍に居てくれる。

(じゃあ、幸治くんが望む時、幸治くんの傍に居てあげられるのは?)

 解りきってる答えに、あかねは苦笑しながら幸治に続いてアパートの階段を昇った―――

 

 

 

 

 

 ―――女は一人だった。
 若い。一瞬、学生かと思ったが、良く見れば着ているのは学生服ではなく、白いスーツだった。夜の闇に、白いスーツがくっきりと浮かびあがる。その肩にバックを掛けて歩いている。学生だからって学生服を着ているとは限らないが、スーツは着ないだろう。おそらく、仕事から家に帰るところ。
 ・・・そんなことを思いながら、なんとはなしに女の後をつける。特に意味も理由もなく、ただなんとなく後を付けただけだった―――が、だんだんとある考えが固まっていく。

 もしも、俺が犯罪の一つでも犯せばどうなるだろう・・・?

 例えば―――もしも、目の前を歩く女が肩に担いでいるバックでも奪ってしまえば。
 そして警察にでも捕まれば。
 俺はまだ未成年だし、まさかいきなり刑務所行きってことはないだろう。―――だが、流石に許婚云々はブチ壊しになるはずだ。
 ・・・思えば、その時はストレスが頭に着ていたのかもしれない。そんなことをしてしまえばウチの親父のことだ。有無を言わさずに家を追い出しただろうし、どっちにしろ家を追い出されるのなら、このまま友達の家にでも転がり込めば良かった。が、その時はそれが素晴らしいアイディアのように思えた。自分が天才とすら思った。

 女の後をつけながら、なんとなく俺は女の行き先に気付いていた。
 駅だ。
 どうやら、女の家はここらへんじゃないらしい―――まずいな、と思った。今歩いている場所は人通りは殆どなく―――少なくとも、俺の見た範囲では俺と女くらいしかいない。だが時間が時間なので(家を出たときは、確か8時前だった)、駅の近くまで行けばそれなりに人がいる。やるなら今のうちにしなければ・・・!
 ・・・やはりその時はどうかしていたらしい。 “捕まること” が目的だったはずなのに、何時の間にか女のバッグを奪うことが目的にすりかわっている。しかも、何故か前を歩く女から奪わなければならないという、妙な使命感すらあった。

 不意に、女が右に折れた。
 あそこは、と頭の中で町の地図を思い浮かべながら後を追う。あそこは道じゃない、たしか公園。
 女が入ったのは小さな公園だった―――別に、こんな時間に公園で砂遊びをするつもりじゃあないだろう。この公園を抜ければ、駅への近道になるというだけだ。

(やるならここだな・・・)

 ごくり、と唾を飲み込むと、俺は女の背中に向かって駆け出した。

「え?」

 女がこちらに気づいて振りかえろうとする。それよりも早く、俺はバッグを掴んで―――

 がっ。

 足に衝撃―――なにかに躓いたらしい―――と、思ったときには身体のバランスが崩れ、俺は転がるように女の身体に体当たりする。悲鳴すら上げずに、俺と女は一緒になって地面に転がった。ごん、となにか鈍い音。
 痛みを堪えて起き上がる―――が、俺の方は女の身体がクッションになって、大したことはなかった。

「・・・おい?」

 女の方に恐る恐る呼び掛けて見る。
 動かない。
 揺すってみる―――が、同じだった。

「おい・・・おいっ?」

 死んだ!?
 まさか、と思いながら、脈をとろうと腕を―――

「ぉぉっとこざけぇ〜、てじゃくざけぇ〜、えんかをきぃぃながらぁ〜っとくらぁ」

 声。
 俺は慌てて女をバッグごと抱えあげると、そのまま公園の茂みの中に飛び込んだ。

「・・・なんだぁ?」

 馬鹿みたいに大きな声。酔っ払いか―――
 どうやら、茂みに駆けこんだ音を聞かれたらしい。なんだぁ、なんだぁ、と馬鹿みたいに繰り返してこちらに近づいて来る。俺は慌てて、女を仰向けに地面に寝かせて、その上に覆い被さると、女の胸元に顔を押し付けた。

 がさっ。

 後ろの茂みで音。振りかえりたい衝動を抑えつけ、俺は荒く息をつきながら、女の胸元に顔をすりつける。
 暫くすると、再びがさっと音が聞こえ、気配が消えたような気がして、俺はおそるおそる振り返る―――そこには誰もいなかった。耳を澄ませば、公園の出入口の方から酔っ払いの調子はずれな歌が聞こえて来る。どうやら、アベックかなにかと思ってくれたと考えて安堵。
 と―――

「ん・・・」

 ぎくりとして俺は女を見る。
 見れば口元が僅かに動いていた。手をかざせば、確かに息をしている。

「お―――驚かせやがって」

 力が抜けて、俺はさっきと同じように女の身体の上に身体を押し付ける。柔らかい。暖かい。それに良い匂い。
 思わずがばっと身を起こして、ごくり、と唾を呑み込む。アベックの振りをするために、必死で女の身体に顔を押しつけていた時は気付かなかったフェロモンが、俺の理性を激しく揺さぶる。
 バッグはすぐそばに転がっている―――が、その時の俺はそんなバッグなどどうでも良かった。俺はもはや他のことはなにも考えられずに、女のスーツに手をかけた―――

 

 

 

 

 

 目が覚めると同時に飛び起きる。
 息が荒い。身体中、ぐっしょりと汗をかいている。

「・・・くそ」

 あの時の夢。
 所詮は夢なので、かなりあやふやで、十数年前の夢のなかに、まだ産まれてないはずの雪絵や一昨日の―――小松あかね、だったか―――やらが、出て来たりと、とても妙な夢だったが。
 それでも、あの時の夢をみたのだということは解る。―――そしてそれは、記憶を呼び起こすスイッチだった。

「くそっ」

 もう一度毒づいて、拳でベッドを叩く。
 あれはもう過ぎたことだ。終わったことだと、自分に激しく言い聞かせる。

「パパ? 起きてる?」

 部屋の外から娘の声。

「ああ」
「そう―――じゃあ、朝ご飯の用意、できてるから早く来てね」
「わかった」

 答えると、娘は部屋の中に入ってこなかった。いつもなら、ノックもせずに飛び込んで来るのだが。やはり、様子がおかしいと気づいているのだろう―――気付かない方がヘンか、と嘆息。
 時計を見る。
 枕元の目覚し時計は、7:04、と表示されていた。
 本当ならもう一度寝なおしたい所だが、生憎と今日は月曜日。仕事に行かなければならない。

「・・・済んだことなんだ・・・!」

 呟いて、彼はベッドから降りた。

 

 

 

 

 

 家を出る。
 なにも考えように歩くことに集中して駅を目指す―――駅前の交差点で、信号が赤になって嫌応なく止まった。止まってしまえば、自然とあのことが思い浮かぶ―――新聞か文庫本でも持って来るべきだったと後悔しながら、勝手に頭はあの時を思い出す。

 ―――我に返ったのは事が済んだ後だった。
 自分の服を正して、乱暴に衣服を向かれた女の身体を呆然と見下ろす。―――不思議と、その顔は記憶にない。忘れてしまったのか、暗闇で見えなかったのか、それとも見れなかったのか。
 女はまだ目覚めていなかった。なにもできずにただ呆然としていると、ん、と苦しげな女の呻き声。それから頭が動く。―――はっとして、そのままその場を逃げ出す。どこをどうして走ったかわからないが、気がつくと自分の家の前に居た。
 それから後のことは、実体験としてあまり覚えていない。ただ、新聞を読み漁ったが、女が暴行された―――という記事は見つからなかった。おそらく、世間に公表されることが嫌だったのだろうと勝手に推測した記憶がある。それでも自分がやったことのショックを引きずっていた孝雄は、抵抗することなくそのまま結納、婚姻を済ませた。両親は息子の様子がおかしいとは思ったが、急な結婚のせいだと勘違いしたようだった。ほとんど成り行きの結婚だったが、それでも妻をそれなりに愛することはできた―――いや、愛さなければならないという義務感が働いたのかもしれない。だからこそ、式を挙げてその一週間と経たないうちに義父が息を引き取った後、差し出された離婚届を孝雄は無言で破り捨てた。それからすぐに一人娘ができて、やっと幸せというものを噛み締めて―――過去のことが忘れられると思ったのに。

 ・・・気がつくと、周囲で自分と同じように信号を待っていた人達がいなくなっていた。
 青か、と思って横断歩道へと踏み出す。

 ―――初めまして、お父さん。

 不意に思い出されるのは一昨日の少女のこと。
 どうして、今頃になって現れるのだろうか―――そもそも、もう十数年以上も前の出来事をどうやって調べたのか。それにあの時、いきなり背後から襲いかかって、そのまま女は気絶したはずだった。自分の顔を知っているはずはないが―――それとも気付かなかっただけで、あの時の女はこちらの顔を見ていたのだろうか? そういえば、あの時、酔っ払いが一人現れたことを思い出す。誤魔化したと思ったが、実はあの酔っ払いが後になって自分のことを思い出して・・・?
 ―――しかし、何故今なのだろう。もうずっと昔の―――あと少し完全に忘れられると思ったのに―――

「おいっ、危な―――」

 プブーッ!

 なにか人の声と、クランクションの鳴り響く音。
 振り向けばそこに、赤い車体が突っ込んでくるところだった―――

 

 

 

 

 

「・・・嫉妬しちゃいますね」
「え?」

 登校時。
 あかねと綾、幸治、それに偶然一緒になった透の四人はゆっくりと歩いていた。時間にはまだ余裕がある。

「なにが?」

 笑顔―――だが、言葉通り、少し口を尖らせるあかねに、綾は困ったように笑って尋ねる。

「かーさん、今朝、お弁当を作りながら綾さんの話ばっかり。昨晩、綾さんと一緒に料理を作って、すごく気にいったみたいです」
「あは。それは光栄ねー」
「・・・取らないでくださいよ。私のかーさんなんだから」

 冗談めかしては居るものの、その目はどこか真面目だ。
 綾は苦笑して。

「取らないって―――どっちかっていうと、明子さんからあかねのことを奪いたいしー」
「え、は、はうっ?」

 いきなり妙なことを言われてあかねは赤面。

「へ、ヘンなこと言わないでください」
「ヘンかなあ」
「ヘンですよ」
「んー。悲しいなあ。私はあかねのことを、こんなに愛しているのに」
「はうううう・・・」

 ますます赤くなるあかね―――それを誤魔化すように、いきなり話題を変える。

「あ―――あ、そういえば、昨日のことなんですけど」
「ん?」
「幸治くんのお父さんと、なにかあったんですか? 様子がおかしかったですけど」
「え? えーと、ね。まあ、ちょっとね。大したことじゃないんだけど・・・」
「言い難いことですか?」
「・・・・ちょっとね」

 肩を落して一息。
 それから、綾は小さな声で。

「私の家に居候しているルナのことなんだけど」
「はい」
「あの子の父親が、その、交通事故で―――って話はしたわよね?」
「はい、聞きました」
「その事故を起こしたのが、虎雄おじさんなのよ」
「え!?」

 と、あかねは思わず幸治を振り返る。
 幸治は透と何事か話ながら歩いていた―――と、不意に幸治がこちらを向いて、あかねは慌てて前を向く。

「でも、そんな・・・」
「だけど、当事者―――ルナはもう気にしてないのよね。気にしてない、っていうか許してる。おじさんも凄く反省してるってわかってる。・・・部外者な私だけがまだこだわってるのよ―――頭ではわかっているつもりなんだけどね」
「綾さんらしいですね」
「え?」
「他人のことで本気になれる―――綾さんらしくて、好きです、私」

 にこっ、とあかねに笑いかけられて―――
 じわっときた。
 あかねに気付かれないように何気無くを装って、目元に手をやって拭う。

(なんかなー、涙腺弱くなってるなー)

「ありがと」

 涙のかけらを拭って、綾はあかねに笑い返す。

 ―――そんな二人の後ろ。
 綾とあかねの様子を眺めながら、透が幸治に話しかける。

「小松さんって・・・あんな子だったかな」
「ん?」
「え。んと、今まではあんまり喋らなかったし、だから、もうちょっと暗い・・・というか、物静かというか」
「惚れたか?」
「なっ―――な、なんでいきなりそうなるんだよっ」
「冗談だ」

 さらっ、という幸治に、透はううっと唸る。
 透明人間である透の表情は、もちろん見る事はできないが、もしも見ることができるのなら真っ赤になっていることだろう。それが怒りか照れかは当人にもわからないだろうが。

「・・・いやしかし惚れたのならとっとと告白でもなんでもした方がいいぞ。どういうわけだが、あかね人気がうなぎ上り急上昇中だ」
「そ、そうなの?」
「問題は男女区別ないというところだなあ」

 と、幸治は綾を見る。つられて透も見たようだった。

「・・・強敵だ」
「とりあえず遺書は用意しておこう。しかし女子高生に拳で撲殺されて死ぬって、もの凄く恥ずかしいことかもしれないが。男として」
「確かに」
「なにが恥ずかしいって?」

 言葉の断片が聞こえたのだろう。綾は怪訝そうに幸治たちを振りかえる。

「いや、別に―――――あ」

 と、幸治は綾の肩越しにその先―――学校の校門を見る。校門の前には雪絵が立っていた。

「おはよう、あかね」
「雪絵ちゃん・・・」

 雪絵は両腕を組んで、威圧するようにあかねを睨みつけている。その表情は厳しく、憎しみすら伺えた。雪絵の視線に怯えるあかねを庇うように、綾が一歩前に出る。

「おはよ、佐野さん」

 ぎこちない微笑を浮べて挨拶をする綾を、しかし雪絵は一瞥しただけで無視。再度あかねを睨むように見ると、

「ちょっと、話があるの。いいかしら?」

 一応疑問形ではあるが、ほとんど命令口調。
 あかねは雪絵から視線を反らして小さく頷く。

「そう。じゃあ、こっちに来てくれる?」

 雪絵は踵を返すと、校内につま先を向ける。と、
 校舎内から女性が一人飛び出してきた。生徒ではなく、教師。幸治たちの隣のクラス―――つまり、雪絵のクラス担任である春日早苗だった。

「佐野さんッ」

 早苗は雪絵の姿を見つけると、駆け寄って来る。その表情は焦燥が滲み、なにか必死と思わせる。
 歩きかけていた雪絵は足を止め、自分の担任を怪訝そうに見る。

「なに? 今ちょっと忙しいんだけど?」

 明らかに迷惑そうに言う雪絵に、早苗は少し息を整えると、雪絵の肩を掴んでその瞳をまっすぐに見る。

「な、なによ・・・」
「落ち着いて―――いい? 落ち着いて聞いてください」

(先生こそ落ち着きなさいよ)

 思ったが、なにやら必死の形相でこちらを睨んで来る早苗に気圧されて、言葉が引っ込む。

「佐野さんの―――お父さんが・・・」
「え?」

 いきなり父親の話を出されて困惑。
 そんな雪絵に、早苗は一気に言い放つ。

「今朝、さっき交通事故で―――」

 

 

 

 

 

 雪絵が病院に辿りつくと、母親がロビーで待っていた。

「ママ! ・・・パパは?」
「生きているわよ」

 雪子は、娘に気付くと投げやりに言った。

「外傷は殆どないって。ただ、頭を強く打ってまだ目が覚めないって。命に別状はないらしいけど―――」
「パパは何処!?」
「301号室―――三階の、階段の一番近くの部屋」

 病室の番号を聞いて、雪絵は階段に向かって駆け出そうとする

「今行っても無駄よ。面会謝絶だから」
「―――ッ」

 雪絵は自分の母を睨みつける。

「どうしてよ」
「なにが?」
「パパが事故にあったのに、どうしてそんなに平然としていられるのッ!」
「・・・」
「ママの馬鹿っ」

 雪絵は雪子を罵倒すると、そのまま階段へと走って行った。
 ふと、周囲がざわついているのに気付く。雪子が周囲を一瞥すると、ロビーに居た患者や外来者がそそくさと視線を反らすのが見えた。
 吐息。
 雪絵は適当にロビーの長椅子に腰掛けると、娘が戻ってくるのを待つことにした。
 さきほどの娘の言葉を思い返して、再び吐息。

「・・・平然と・・・見えるのかしら」

 特に感情らしい感情を浮かべずに、雪子は小さく呟いた。

 

 

 

 

 

 一週間が経った。
 佐野孝雄が交通事故で入院してから、この一週間雪絵はずっと学校を休んでいた。
 孝雄の意識はまだ目覚めず、このままでは植物人間になるかもしれないらしい。

 交通事故についてだが、警察が調べた所によると、原因は孝雄の信号無視だと言う。現場にいた人間の証言によると、何故か青信号が点滅しはじめてから横断歩道を渡り始めたという。その時、点滅している信号に慌てる様子もなく、何度も呼びかけたが、なにか考えごとでもしていたのか、心ここにあらずといった様子だったようだ。
 車にひかれた―――とはいえ、車の方もぼーっとして横断歩道を渡る孝雄に気付き、急ブレーキをかけたので車による外傷はほとんどなし。ただ、車にぶつかって倒れた際に、アスファルトに頭を強くぶつけてしまったらしく、それから意識が戻らない状態―――

 ニュースや新聞を見て、あかねが得た知識はこんな所だった。
 その知識を思い返して、雪絵の家を見上げる。
 青い屋根に白い壁。
 放課後に一人で来てみたのだが、主人が事故にあったとはいえ、家は変らぬ佇まいを見せていた。
 すーはーと深呼吸をして、あかねは呼び鈴をならす。

「・・・・・・」

 5分ほど経過、するが返事がない。
 念のためもう一度鳴らす。

「・・・・・・・・・・・・・」

 今度は10分ほど待ってみるが、やはり返事はない。

(居ないのかな・・・)

 もしかしたら病院に行っているのかもしれない。と、思った時。

「なにか・・・?」
「うひゃあっ!?」

 いきなり背後から声を掛けられて、驚く。
 後ろを振り返ると、見覚えのある女性が立っていた。

「あ・・・雪絵ちゃんのおばさん」
「・・・誰?」

 雪子はうさんくさそうにあかねを見る。
 あかねは慌てて、

「あ、あのっ、私っ、小松あかねと言いますっ。雪絵ちゃんと同じ学年で――――」
「ああ、雪絵の友達。そういえばこの前来てたわね」
「は、はい」

 頷くあかね。の横をすり抜け、雪子は玄関の戸を開ける。
 そのままなにも言わず家の中に入ってしまった。

「・・・・・・」

 思わずあかねが呆然としていると、再び玄関の戸が開く。
 中から雪子が顔だけだして、無表情にあかねを見て、

「なにしてるの?」
「え、は、はい?」
「あがれば?」

 ばたん。
 と、戸が閉まる。
 あかねはさらに呆然としかけたが―――意を決して玄関の中に入る。

「お、おじゃまします・・・・」

 しかし玄関の中には雪子の姿はもうなかった。

「・・・・・・・」

 玄関に立ち尽していると、やがて奥から雪子がやってきた。
 あかねを一瞥すると、面白くもなさそうな表情で、

「楽しい?」
「え、え?」
「玄関が好きなの?」
「い、いえ、別に好きってわけじゃ・・・」
「なら上がればいいでしょ?」
「は、はあ・・・お邪魔します・・・」

 靴を脱いで、上がる。
 そして今脱いだばかりの靴をそろえて、振り返ると雪子が奥の部屋に引っ込むところだった。なんとなくその後についていくと、ダイニングに出る。
 と、雪子はあかねを振りかえって、

「なんか用?」
「え、え?」
「私になにか用なの?」
「え、ええと・・・」
「てっきり雪絵に用事だと思ったんだけど」
「あ、は、はい、そうなんですけど・・・」
「なら雪絵のところに行けばいいでしょ。ヘンな子ね」
「は、はううう・・・」

 困った。
 なんというか至極マイペースというか意味不明というか、よくわからない雪絵母に、あかねは非常に困った。
 確かに雪子の言う通りなのだが、勝手に人様の家で好き勝手にするというのは抵抗がある。

(幸治君なら気にしないんだろうけど)

 なんとなく、幸治と気があいそうなお母さんだ―――と思っていると、何時の間にか雪子の姿がない。
 どこ行ったのか―――とキョロキョロすると、たった今あかねが歩いてきた廊下から姿を現す。

「うわあっ」
「なに驚いてるのよ。幽霊でもでた?」
「い、いえ別に・・・」

 どっちかというと、雪子が幽霊に見える―――とはさすがに言えない。

「雪絵なんだけど、いないって」
「え?」
「だから、友達が来てるって雪絵に言ったら、雪絵は居ないって言ってた」
「・・・それ、日本語ヘンじゃないですか?」
「そうかしら」

 無表情に首を傾げる雪子。

(な、なんか・・・幸治くんを相手にしてるみたい・・・)

 苦笑。
 そんな風に考えると、なんとなく気が楽になった。不思議と。

「そうですか。それじゃあ、私はこれで―――」
「お茶、要らない?」

 唐突に雪子が問う。

「え。いえ、お構いなく・・・」
「私は飲みたいわ」
「は、はあ・・・」
「そこの茶箪笥の中に一式入ってるから」
「え、えと・・・」
「お湯ならポットに沸いてるはずだけど」
「・・・・・・・・」

 困った。
 本当に困った。
 困ったまま立ち尽すあかねを、雪子は首を傾げて眺めていた。

 

 

 

 

 

「―――ふう」

 お茶を一口すすって一息。

(・・・私、なにしてるんだろう・・・)

 疑問が浮かぶ。が、その答えは解り切っている。
 雪絵の家に来て何故かお茶を淹れさせられて、かつ、雪絵の母とお茶をすすり合っているのだ。

「お煎餅は嫌い?」

 テーブルの上に置かれた煎餅の入ったお椀に手を伸ばしながら雪子が尋ねてくる。

「い、いえ、好きです」
「なら食べれば」
「は、はい・・・」

 そういって煎餅に齧りつく雪子を見て、あかねも煎餅を手に取る。どこにでも売っているような、固焼きの醤油煎餅だ。ちなみにあかねはクッキーなんかより、こういう煎餅の方が好きだった。もちろん、お茶も紅茶ではなく緑茶が好み。
 煎餅に齧りつく。ぱきん、と小気味良い音が口の中に響いて、醤油の味が広がる。

「美味しいです」
「そうね」

 素直に頷く雪子。
 思わずあかねはクスりと笑った。

「? なにか可笑しい?」
「いえ―――」
「気になるわ。言って」

 雪絵そっくりな言い方に、あかねはもう一度笑う。

「あのですね」

 一息。

「ウチの母と違うなあって」
「当たり前でしょ」
「あ、そうなんですけど。全然違うなあって―――まるで正反対で」
「正反対」
「ウチの母親って、少しひねくれてる所があるんですよ」
「なるほど、正反対ね」

 あっさりと頷く雪子に、あかねはまた笑う。
 そんなあかねを、やっぱり不思議そうに雪子が見る。

「今度はなにが可笑しい?」
「え、ええと・・・だって、正反対って―――自分がひねくれてないって言ってるってことじゃないですか」
「・・・私、ひねくれてるように見える?」
「いえ全然。だから正反対だなって思ったんです」
「じゃあ、いいじゃない。ヘンな子ね」

 雪子はお茶をすする。
 あかねもお茶をすすった。
 一息。

「あなたは素直そうね」

 不意に雪子が言った。

「そうですか?」
「ヘンな子だけど」
「あはは」

 また言われた。ヘンな子。
 だけど、悪くないと思った―――なんかくすぐったいような、温かい感じ。

「私の娘はひねくれてるわ」
「そ、そんなことないですよ」
「娘って、親の性格とは正反対に育つのかしら」
「そうかもしれませんね」

 頷いてから、

「でも、雪絵ちゃんとおばさんに似てますよ」
「雪子」
「え?」
「私の名前」
「あ、はい、雪子さん」
「言いなおして」

 言われて苦笑。
 やっぱり、おばさん、と言われるのは嫌なのだろうか―――そう言えば、結構若い。雪絵の母親、というか姉でも通用しそうだ。

「えと、雪絵ちゃんと雪子さんって似てますよ」
「名前が?」
「いえ」
「顔は、あの人に似てると思うんだけど」

 あの人、というのは雪絵の父親のことだろう。そう思って、あかねは顔をしかめた。

「どうかした?」
「いえ」

 無理矢理に笑みを作る。
 不自然な笑みだと自分でも思ったが、雪子はそれいじょうつっこんでは来なかった。

「なんというか・・・性格が」
「私はあんなにひねくれてはないつもりだけど」
「そこじゃなくて」
「どこ?」
「強引なところが」

 言われて雪子はしばし黙考。

「強引?」
「というか、なんか自分勝手というか我侭とか」
「・・・・・・」
「ほ、褒め言葉ですよ?」
「そうかしら」
「え、えと、悪い言葉に聞こえるかもしれないですけど―――その、嬉しい我侭というか」

 思い出されるのは中学に入ったばかりの時のこと。
 小学校の6年にこっちに転入してきたあかねには、まだ友達と呼べるものがなかった―――いや、元々、他人が苦手な性格が災いして、友達はいなかった。
 そんな時、あかねは雪絵と出会った。
 小松と佐野。名前順で、雪絵の前の席があかねだった。

「雪絵ちゃんと初めて会った時、私、友達いなくて―――1人でいる私を見て、友達になろうって言ってくれたんです」
「迷惑だったでしょ」
「・・・はい。最初は」

 最初は迷惑に感じた。
 転校するまえの小学校でイジメられたあかねは、他人というものが怖くて恐ろしいものだと感じるようになっていた。なにか言えば笑われたり、怒られたりすると思い込んで会話も苦手だったし、触れられるのも嫌だった。他人と言う、存在自体が嫌だった。もしも無人島で一生一人で暮らすか? と聞かれれば、迷わず頷いていただろう。
 そんなあかねに、雪絵は構わず話かけた。あかねがなにも応えないで黙っていても、勝手に喋り続けた。登下校の時も、途中までだが、よく一緒に帰った。

「気がついたら、いつも一緒に居て―――雪絵ちゃんがいないと寂しく感じるようになって―――いつのまにか仲良くなってたんです」
「そう」

 ぱり、と煎餅をくわえて、雪子は感心なさそうに相槌を打つ。
 そんな雪子に、あかねは少し照れた。なんで、こんなこと喋っているんだろうかと疑問。

(あ、呆れてるのかな・・・やっぱりヘンな子って・・・?)

「それで」
「え?」
「それで話はお終い? 続きはないの?」

 言われて、一瞬、戸惑う。
 が、すぐに続きを催促されているのだと気付く。

「ええと。・・・・・・・・・・・・・・・・おしまいです」
「ふうん」

 つまらなさそうに雪子。

(まあ、仕方ないよね。仲良くなって―――今は仲悪くなってますだなんて言えないし)

「どうして雪絵はあなたと友達になりたかったのかしら」

 なにげない調子で雪子が呟いた。
 興味ないのかどうかよくわからない―――元々、感情が表情に現れない人なのかな、とあかねは思いながら。

「あ。一度、聞いたんです」
「それで」
「私が前に座ってたからだそうです」
「なにそれ」
「だから、とりあえず一番近い席の子と友達になろうって決めてたらしいんです」
「ふうん」

 雪子はお茶をひとすすり。
 してから、湯呑みをあかねに向かって突き出す。

「おかわり」
「あ、はい」

 あかねは自分の湯呑みを置くと、急須を手にして雪子の湯呑みに茶を注ぎ込む。

「ひねくれてるわね」
「え?」
「どうして、素直に “あなたと友達になりたかった” と言えないのかしら」
「え、ええと。あ、さっきの・・・」

 話の続きだとやっと気付く。

「でも雪絵ちゃんらしいと思います」
「そうね」

 あかねが注いだお茶を、雪子はすすった。
 ふと、あかねの方を見て。

「あかね?」
「はい?」
「名前、合ってたかしら」
「あ、はい。合ってます。小松あかねです」
「そう」

 頷いて。

「覚えておくわ」
「は、はあ・・・」

 なんか脅されてるみたいだなあ、と思っていると。

「・・・あかね?」
「え?」

 雪子ではない声に呼ばれて、振り返ると雪絵がいた。
 どこかやつれた様子で、あかねを睨みつけている。

「なんでアンタがウチの中に居るのよ!?」
「友達が来ていると言ったわ」

 答えたのはあかねではなく雪子。
 雪絵は、不機嫌に母親を見て、

「私はいないって、そう言ってって!―――それなのに、なんで帰ってないのよ!?」
「私がお茶を飲みたかったのよ」
「なによそれ」

 わからないだろうな、とあかねは思いながら、

「あ、あのね、雪絵ちゃん。私、雪絵ちゃんがずっと休んでるから心配で―――」

 あかねが言うと、しかし雪絵はふん、と鼻で笑う。

「あんたなんかに心配される筋合いはないわよ―――帰ってよ!」
「う、うん・・・あの」
「なによ!」
「お、お父さん、良くなるといいね―――」

 ばんっ。

 いきなり雪絵があかねの頬を殴りつける。
 そのままあかねはその場に倒れる。殴られた頬を押さえて、泣きそうな顔で雪絵を見上げる。

「アンタがパパのこと言わないでよ!」
「ゆ、雪絵ちゃ・・・」
「アンタでしょ! アンタのせいでパパは事故にあったのよ! そうに決まってる!」

 佐野孝雄は事故直前、考え事でもしていたのか、心ここに在らずといった状態だった―――
 先々週の土曜日のことを考えていたというのなら、確かに原因はあかねにあるのかもしれない。そう思って、あかねは項垂れる。なにも言い返してこないあかねに、雪絵はさらに苛立ちを募らせると怒鳴る。

「返してよ。パパを返してよ! 私のパパを返してッ」
「ご、ごめんなさい・・・」
「謝ってもパパは帰ってこないわ! ・・・死んでよ。あかね、死になさいよ。自分が悪いと思うなら今すぐ死んでみせよ! 死ね!」
「・・・・・」

 憎しみをぶつけてくる雪絵に、あかねはもうなにも言うことができなかった。
 言葉が凶器となって心に突き刺さる。本当に、言葉で死ぬことができたらどんなに楽だろう―――

「なら雪絵が死ねばいいわ」

 そう言ったのは雪子だった。
 え、と雪絵は母親を見る。

「・・・なんで私が死ななければならないのよ」
「あかねに死んでほしいのよね? なら、自分が死ねば同じことだわ」
「なんでそうなるの!」
「違う? 死んで欲しいってことは、もう二度と話もしたくない―――顔もみたくない―――この世界から消えて欲しいってことよ。だったら、自分が死んでも同じことだわ」
「私は・・・死にたくないもの」

 雪子は吐息を漏らす。

「人が死ぬということは、その人にとって他人が全て死ぬのと同じことよ。だったら、人に死んで欲しいと思うのなら、自分も死ぬという覚悟を持つべきだわ」
「わかんないわよ!」

 雪絵はあかねに向けていた憎しみを、今度は雪子に向ける。

「ママもママよ! パパはもう一週間も目を覚ましてないのよ!? それなのに、泣きもしないでいつもとかわらなくて・・・これじゃパパが可哀想よ!」
「そうかしら」
「それに、毎日毎日遊びに行って―――男の人の所にでも行ってるんじゃないの!?」
「行ってるわ」
「・・・・・・!」

 雪子の告白に、雪絵の怒りの頂点に達した。

「最低ッ。もうママなんて知らない―――あかねもママもだいっきらい! 死んじゃえ!」

 叫んで、ダイニングを飛び出す。廊下を乱暴に走り、階段を駆け登り―――バタン、とどうやら自分の部屋に戻ったらしい。
 雪子はよくわからない、と言うように首を傾げて、

「なんで怒られたのかしら」
「・・・怒ると思いますよ」

 ゆっくりと、あかねは立ちあがる。
 泣きそうな顔を、無理に苦笑に変えて。

「雪絵ちゃん、自分のお父さんのこと好きだから」
「私は嫌われてるわ。何故かしら」

 表情を変えずに首を傾げる雪子に答える気力もなく

「・・・・・・帰ります」
「そう」

 雪子は玄関まであかねを見送る。

「また来てくれると嬉しいわ」
「・・・・・・」

 あかねはなにも応えずに佐野家を後にした。

 

 


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