次の日。
 土曜日で学校は休みだった。
 クラブにも委員会にも属していないあかねは、平日よりもかなり遅い目の朝食を、珍しく休みだった母親―――いつもは大概休日出勤―――と、一緒に済ませてから、少し食休みしてから外に出た。
 ―――他人と言うものが苦手なあかねだが、実は―――というか、むしろだからこそと言うべきか、一人で出歩くのは嫌いではない。流石に夜中に出歩く気にはなれないが、休みの昼間に散歩をするのはほとんど習慣と言ってもいい。
 最も、家にいてもなにもすることがない―――小説書こうにも、いつも使っているノートは学校だ―――というだけでもあるが。
 今日は、あかねのアパートからは学校を挟んで反対側にある商店街にまで足を伸ばした。

 この草原町は比較的長閑で、都会に比べると時が停滞しているような街―――まあ、言ってしまえば田舎だが、それでも大手のスーパーやらレストランなどのチェーン店が進出してきて、昔からこの町で細々とやっている商店の多くは暖簾を下ろしてしまった。
 しかし、学校の北を、そのまま北に向かって真っ直ぐ貫く様にしてあるこの商店街だけは未だに活気がある。
  “勇者商店街” と言う、冗談みたいな名前の商店街で、そこに並ぶ店等も “武器屋” とか “防具屋” や “道具屋” など、どこぞのファンタジーRPGのような店が建ち並ぶ。もっとも、実際に武器や防具が売られているわけではない。武器屋はスポーツ用品、防具屋は衣料品、そして道具屋は日用雑貨をそれぞれ売っている。他にも八百屋が “戦士ダルシスの店” だとか、魚屋が “騎士ドレインの店” などと、妙な名前が付いている。なんというか、ここだけ世界が違うという雰囲気があるが、近辺の住人は昔から―――今はもう、誰も覚えていないほど昔からのことなので、誰も気にしていない。
 妙な名前の商店街だが、売っている品物は悪くない。安価で品物は上等、なにやら店それぞれが秘密の仕入れ先ルートを確立しているらしく、数年前に駅前にできたデパートなんかよりも良いものが安く手に入る。だからこそまだまだ活気があるのだが。

 勇者商店街は今日も異常な賑わいを見せていた。
 ダルシスの店では店主がダイコンを素振りして見せて「ほうら、思いっきり振っても折れないくらいの良い大根だぁ!」と実演販売(なんの意味がある実演かイマイチわからないが)していた。そこへドレインの店主がマグロをまるまる一匹、その尾の辺りを両手で掴んで振りまわして「ハ! そんな軟弱なダイコンでこのマグロの一撃を受けとめられると思うのか!」などとわからないことを言って、振り下ろす―――瞬間、がしぃっとダルシスは両手に持った二本のダイコンを交差させて受け止める! 「ふん、この程度―――なっ!?」一度は受けとめて見せて笑みさえ浮かべたダルシスだが、ぴしっ、とダイコンの繊維が断ちきられる音が響いてあっさりとダイコンは折れる。にやり、と笑うドレイン。ダルシスは悔しそうにドレインの笑みを睨み付け、ゆっくりと自然薯へと手を伸ばして―――

 ぽこん。

 と、いきなりダルシスの頭を、丸めた新聞紙で八百屋の奥から出てきた女性が叩いた。優しげな表情をした女性で、困ったような笑みを浮かべている。「駄目でしょ、お店のもので遊んじゃ」優しく女性―――ダルシスの奥さんが言うと、ダルシスはダイコン二本でマグロに立ち向かったときの勇敢さを引っ込めて、たちまちしょぼんと項垂れる。その様子を見て笑っていたドレインは、不意に背中を蹴り飛ばされてマグロと一緒に地面に転がった。おそるおそる振り返ると、そこには鬼がいた。もとい、鬼のような形相をした女性が仁王様のように腕を組んで見下ろしていた。「この宿六ッ、毎度毎度言ってもわからないのかいッ」などと怒鳴りつけると、片腕でドレインの腕を掴んで、もう片方の腕でマグロを掴むと「邪魔したね」と颯爽と去っていく。というか、大の男とマグロ一匹を持ち上げて―――地面に引きずってすらない―――歩く姿はまさに威風堂々。なさけない表情を浮べ、妻に肩に担がれて連れ去られていくドレインを、ダルシスはべーっと子供よろしくあかんべぇ。その様子にドレインは悔しそうに歯を剥くが、ダルシスの奥さんが夫を「駄目でしょ、そんなことし・ ソゃ」めっ、と嗜める姿を見て、がくりとうなだれる。判定、7−3でダルシスの勝利。

 ・・・と、まあ売ってるものは確かでマトモでしかも安いが、商店の名前と人間は妙というか変というか住む世界間違えている商店街らしい(?)騒ぎの中を、あかねは歩く。特になにかを買いたいわけでもなく、それどころかどこかの店に行きたいとかそんな目的すらない。人ごみの中を流れに沿って一人で歩く―――それが、あかねは好きだった。

(他人が苦手なのにね。どうしてだろうね)

 なんとなく考える。他人の体温が苦手で、だから満員電車なんか考えただけで寒気がする。だけど、こうして他人と触れ合わずに大勢の中に一人だけいるのは好きだった。
 それはきっと、大勢の中で孤独に浸れるからなのかもしれない。周りにいる人間は、あかねのことをただの景色としか思えてないのだろう。だから、あかねに干渉してくることもない―――故に、あかねは孤独だった。誰もいない場所にたった一人でいるのは怖い。世界にたった一人自分だけが取り残されたような錯覚にそっと怯える。一人でなければ、もう一人だけ傍にいれば―――二人きりならば、あかねは景色ではなくなる。互いに互いを意識して、干渉されなくてはならない―――――だからこそ、大勢の中の孤独は、あかねにとって一番安心できる孤独だった―――・・・・・・・

 

 


あるひあるときあるばしょで

シャレにならない彼女の事情

第五話「土曜日に明かされた真実―――或いは小松あかねの過去との対面」


 

 

 ―――しばらくして、商店街の終わりまで辿りつく。別に、明確に “商店街の終わり” と看板が立てられているわけではないが、人の流れが途切れ、まばらに散っていく辺りであかねは振り返る。歩きながら、周囲の店の看板をなんとなく眺めていたが、特に寄りたい店はなかった。果たして自分はここになにしに来たのだろうか、などとちょっと苦笑しながら、今度は人の流れに逆らって商店街に戻る。人が多く、その流れに逆らうのは思ったよりも神経を使う。何度か向かって来る人とぶつかりそうになりながら、それでもだいだい半分あたりまで辿りつく。と。

「あ・・・」

 見知った顔が見えて、あかねは思わず声を上げた。その瞬間、こちらを振り向く。

「・・・あかね」

 こちらを向いたのは雪絵だった。雪絵は顔をしかめ、あかねは俯く。しまった、と思う。声を上げなければ気付かれることはなかったんじゃないだろうか?

「お、どうした? 雪絵」

 聞き覚えのある男の声。
 あかねが顔を上げると、この間見た雪絵の父親が怪訝そうな顔で雪絵を見て、こちらを見る。どうやら親子で買い物か或いは散歩にでも来ていたらしい。あかねを見た瞬間、「ああ」と彼は理解の声を上げる。

「君は確か雪絵の友達だったね」

 友達、と言われた瞬間、あかねは自分の胸が痛むのを感じた。
 ちら、と視線を向ければ雪絵は不機嫌そうにこちらを見ている。逃げ出したいような衝動に駆られる。
 黙ったままのあかね、それに雪絵を見て、雪絵の父は不思議そうに首を傾げた。

「どうしたんだ? ケンカでもしてるのか?」

 ケンカ、なのだろうか? とあかねは疑問。そんな簡単なものなら、もうちょっと楽になれるような気がする。でも―――

「まあ。こんな所で会ったのもなにかの縁だ。良ければ一緒に昼飯でもどうかな? ―――もっとも、俺は午後は仕事にでなければならないんで、それほどゆっくりしているわけにもいかないが」

 どうだ?
 と、尋ねてくる雪絵父。あかねはなにも言葉を返すことができず、ただ押し黙ったまま。雪絵の方を見ると、彼女は先程と同じ表情のままこちらを見ている―――あかねの視線に気付くと、面倒そうに口を開いた。

「なんとか言ったらどうなの?」

 限界だった。

「失礼しますっ」

 あかねは頭を下げると、そのまま逃げる様に今来た道を、人の流れに沿って走り出した。

 

 

 

 

 

「はあ・・・」

 嘆息が夕暮れどきの公園に響く。
 いつか、初めて綾と一緒に下校したときに立ち寄った公園のベンチに座って、あかねは憂鬱にブランコの方を眺めていた。別にブランコになにがあるというわけでもない。ついさっきまで保育園に通っているくらいの子供が遊んでいたが、それも母親に手を引かれて帰って行った。今、この公園に居るのはあかね一人だけ。
 ふと、昨日の約束を思い出す。今日の夕方、空けて置いてくれと幸治は言っていた。なにか用事があるとかで。

「ふう・・・」

 気が乗らない。幸治には悪いと思うがすっぽかしてしまおう。それに彼のことだから、自分でその約束を忘れているのかもしれない。
 あれから―――雪絵親子から逃げ出して、そのまま大回りしてアパートの近くまで戻ってきた。が、なんとなくアパートには戻らずに、この公園にずっと居る。そういえばお昼も食べていない―――と、思い出したとたんに腹がなった。
 思わず赤面する。誰もいないとわかっては居るけれど。

「はい」
「・・・・・・ありがと」

 横から突出されたのはサンドイッチだった。コンビニで売っている、ツナマヨとタマゴとハムの三つのサンドイッチが包装されている。
 一度嘆息してから受け取り、幸治に向かって礼を言ってから、なんとなく思ったことをそのまま口に出した。

「幸治君って、魔法使い見たいだね」
「俺は魔法使いじゃないぞ」
「でも。いっつも、唐突に私の前に現われる」

 唐突に幸治が現れたことに関して驚いていない自分に苦笑。なんとなく西山幸治はどこに現れても不思議ではないように思えて来る。例えばそれがエベレストの頂上でも、海の底でも月面でも、なんか「よう」と言って現れても不自然じゃない―――というのは大げさか。
 包装を解きながらそんなことを考えていると、幸治は先程のあかねの言葉に少し間を置いてから。

「迷惑か?」

 問われて。あかねは包装を剥がしていた手を止めた。
 横目で幸治の顔を見る、といつもの無感動な表情を、わずかに眉をひそめてこちらを注視していた。
 迷惑かどうか。
 歓迎しているわけではないが、それでも迷惑とも思えない。ただ素直に感心する―――どうして彼は、いつも自分が落ち込んでいる時にひょっこり現れてくれるのだろうかと。

(本当に魔法使いだったりして)

 もしもさっき幸治が「魔法使いだぞ」とでも答えていれば、そのまま納得してしまったのかもしれない。
 そんなことを思い考えて、質問に答えてない自分に気付く。見れば幸治は、ベンチの脇に立ったまま、あかねの方をじっといつもの無表情で見下ろしていた―――その表情が、どこか不安そうに見えるのは気のせいに違いない。

「あの、ね」

 悩む。
 迷惑ではないと言い切るのは簡単だった。
 だが、だからと言って歓迎しているわけでもない。果たして自分は、幸治の存在をどう受けとめているのだろうかと思い悩む。

「・・・ありがとう」

 不意に、漏れたのはそんな言葉だった。
 呟いたのはあかね自身。無意識のうちに出た言葉に驚きながら、その言葉は勝手に続きを紡がれていく。

「幸治くんって、この数日間、いつも私が落ち込んだ時に一緒に居てくれたよね。この前、綾さんから逃げ出した時にすぐ追い掛けてきてくれたのも幸治くんだし、雪絵ちゃんの家から帰った時も、昨日も、そして今も」

 勝手に言葉が口走っている内に、自分が何を言いたいのか―――言わなければならないのか、解ってくる。

「一人じゃないって、とても嬉しいことだったんだよね」

 すっかり忘れていた記憶。
 中学の頃―――二年までは、あかねと雪絵は “友達” だった。
 その時のことを思い出して、微笑む。

「だから、ありがとう。迷惑なんかじゃない。私にとって幸治くんは、恩人だよ」
「・・・・・・・」
「でも」

 疑問。
 とくん、と胸が震える。微笑を消して、じっと真っ直ぐ幸治を見つめる―――1週間前までは、他人の目を真っ直ぐに見るなんてできなかったことだ。今でも、ちょっと抵抗があるが、それでもあかねは幸治の瞳を見つめて疑問を口に出す。

「どうして、私なんかにそこまでしてくれるの?」

 むう、と問いを投げかけられて幸治は黙考。
 ふむ、と首をかしげてから、やおら口を開く。

「忘れた」

 予想はしていた答えに、あかねは思わず吹き出した。そのまま声を立てて笑い出す。なにかツボに入ってしまったらしい。怪訝そうな顔をする幸治の目の前に、あかねは暫く腹を抑えて笑い続けていた。

 

 

 

「・・・・・・はぁ・・・」

 笑いをやっと止めることができて一息。
 幸治はあかねの隣に腰かけている。そんな幸治の顔を横目で見て、

「ごめんね、いきなり笑い出したりして」
「・・・・・・」

 怒っているのか、スネているのか、それともまた “忘れた” のか、幸治は無表情のまま答えない。
 ふと、包装を剥がしかけのサンドイッチを手に持っている事を思い出す。

 ぐぅ。

 サンドイッチの包装を剥がし終えると、不意に小さく腹の音が聞こえた。
 自分のではない、とあかねは幸治の顔を見る。

「そういえば」

 特に照れた様子もなく、淡々と幸治は呟いた。

「俺も腹が減っていたことを忘れていたよーな」
「食べる?」
「何を? あかねをか?」
「なんでっ!」
「アンパンマン」
「誰がッ!?」
「アンパンが食いたい」
「サンドイッチで我慢してね」

 はい、とサンドイッチを差し出すと、幸治は迷いなくタマゴを取った。

「タマゴ、好きなの?」
「いや。この中で一番アンパンに近かったから」
「それはどうかなあ」

 疑問を感じたが、他人の感性をとやかく言うつもりはない。
 あかねは少し逡巡。して、ツナマヨを手に取って齧りつく。

「・・・・・・」

 視線を感じて横目に見ると、幸治が物欲しそうな顔であかね―――というか、あかねの膝の上に置かれたサンドイッチの最後の一つ(ハム)を見つめている。
 苦笑。

「良かったら、これも食べる?」
「もちろん俺は良いけど、あかねは良いのか?」
「悪かったら言わないよ」
「意地が悪くても言うぞ」
「あはは」

 笑うあかねに、幸治は至極マジメな顔で。

「例えばリョーコの姉」
「そういえば・・・どんな人なの?」

 ふと、この前の爆弾弁当。いや弁当爆弾? まあどっちでもいいが―――を思い出しながら聞いてみる。
 幸治はふぅむ、となにか言葉を選ぶように悩んで見せてから、

「無知は罪だと誰かが言った」
「?」
「だが、知らない方が良いことって結構多いもんだ―――いやむしろ人は無知無能であった方が幸せに生きられる」
「なんか凄く難しいこと言われて気がするけど。もしかして哲学?」
「人生経験」
「20年にも達してない人生経験も、幸治君が言うとなんか重みを感じるから不思議だよね」
「人徳ってやつか?」
「違うと思う」
「そか」

 どこか残念そうに幸治。
 と、思い出したように、あかねの膝の上のサンドイッチを見つめて、

「話が反れたが」
「あ。確認しておくけど、さっきのやり取りってリョーコさんのお姉さんのことは聞くな、ってことでいいんだよね?」
「さっきの話?」
「忘れてるならいいよ。そのまま忘れて」
「うむ忘れた」
「で。なんの話だったっけ?」
「あかねが意地が悪いという話」
「ハムサンドをあげるって話でしょ」
「む。なんか、あかねが意地が悪いから良いのに駄目って話だったよーな」
「色々ごっちゃになってるなあ」

 苦笑。してから、あかねは幸治にハムサンドを差し出した。

「はい。元々、幸治君が買ってきたものなんだから」
「そうだっけ? 忘れた」

 ―――暫く。二人して黙々とサンドイッチを食べる。
 しかし夕暮れどき、。公園のベンチで、若い男女が二人してサンドイッチを黙々と食べる姿はまさに奇妙。そういう自覚があったのかどうか、あかねはさっさとサンドイッチ(ツナマヨ)を咀嚼して飲み込んだ。横を見れば幸治も食べ終わったところらしかった。

「あのさ」

 前置きを入れてから、少し間を置いてあかねは尋ねた。

「幸治君の人生経験について、一つだけ聞いていいかな?」
「?」

 幸治がこちらを向くと、あかねは一呼吸おいて尋ねる。

「その・・・忘れたフリしているのって、昨日話してくれた弟さんのことが関係しているの?」
「まあな」

 幸治は頷いてから。

「・・・・・・!」

 驚きに目を見開いてあかねを見る。それも一瞬のことで、すぐにいつもの鉄面皮に戻ると、気まずそうにコホンと咳払いをする。
 それから息を吸って、吐いて―――――――ややあって、一言。

「・・・驚いた」

 という割にはそれほど感情が込められてはいなかったが。
 それでも本当に驚いているのだろうとあかねは思った。だからこそ、素直に驚きを表してしまった。平常の幸治なら、 “忘れた” とかなんとか言って、誤魔化していただろう。
 西山幸治を驚かせたことが、なんか嬉しい。

「―――なんで」

 気付けたか? という幸治に、あかねはうん、と頷いて。

「昨日、弟さんの話をしてくれたでしょ? だからかな」

 あの時、幸治はあかねと雪絵のことを、かつての自分と弟に重ね合わせていた。だからこそ、気付くことができた。

「中学の時。―――雪絵ちゃんが、私のことを嫌ってるって気付いて、その時に思ったんだ」

 なにもかも全て忘れてしまえば言い。
 嫌なこと、ツライこと、苦しいこと、全部忘れて―――雪絵のことも、父親がいないことも、全部全部。

「結局、忘れることなんてできなかったんだけどね。・・・ヘンだよね、すごく嬉しいことよりも、すごく辛いことの方が忘れられないんだよ」

 忘れられないほど嬉しいことは、パッと思い浮かべ様としてもなかなか思い浮かばないのに、忘れられないほど辛いことは勝手に記憶の底から溢れ出して来る。

「だから、なんとなく、幸治君は辛いことを忘れたいと思って―――忘れたフリをしてるんじゃないかなって」
「・・・すごいな、あかねは」

 あかねが幸治の方を見ると、幸治は困ったような顔でこちらを見ていた。

「すごくなんかないよ。ただ―――似ているだけなんじゃないかな」

 辛いことがあって。すごく辛いことがあって。
 忘れたくて、忘れようとして。
 あかねは結局、忘れる事ができずに諦めて。
 幸治は未だに忘れることを続けている。

「だからなの?」

 最初の質問の答え。

「似ているから、自分と似ているから、幸治くんは―――」
「興味があった」
「え?」

 幸治はム、と唸る。
 なんと言おうか思い悩んで、やがてあかねの方を指差して、

「あかねって、ヘンな奴だったから」
「は、はうっ?」

 いきなりヘンな奴扱いされて、あかねは妙な悲鳴を上げる。

「ヘ、ヘンな奴って・・・」
「だっていつも後ろの席から俺や綾のことをじっと見つめて居ただろ?」
「え」
「綾が暴れてる時なんか、他の連中は面白そうに眺めているのに、あかねだけ真剣な表情で見つめてくるから」
「あ、あああああっ、き、き、気付いてッ!?」

 思わずあかねはベンチを立ち上がって、頭を抱える。
 そんなあかねに構わず、幸治は続けた。

「それで、一週間前。偶然、アパートの前で見かけて―――その時まで、あかねが同じアパートの住人だって忘れていたんだけど」

 ・・・どうやら “忘れたフリ” をしているのは半分で、もう半分は天然らしい。

「だから、最初はただの好奇心だった」
「・・・最初は?」
「次は同情」

 同情、と言われて少しだけ心が痛い。

「私の・・・父親がいないことに同情したの?」

 自分の生まれについて、大概のことは我慢できる。父親がいないことについて、他人になにか言われたり思われるのは嫌だった。それは、ここまで育ててくれた母親への中傷にも繋がるから―――あかねにとって、母親のことを侮辱されるのだけは我慢できなかった。

「あかねが他人が苦手だって知って―――そういうの、なんか、寂しいから。・・・あの時は悪かった」

 謝られて思い出すのは、幸治とアパートの廊下で会った時。思えばあの時が始まりだったような気もする。
 あの時、あかねが他人の体温が苦手だと気付きながら触れてきた幸治に対して、思いっきり最低、と言ってしまった。

「わ、私こそ、最低だなんて言って・・・」
「でも最低だったしな」

 と、他人ごとのように言う幸治に、あかねはなにか釈然としないような顔で、

「なんか、あまり反省が見えない・・・」

 あかねの抗議めいた言葉を無視して、幸治は続けた。

「―――で、あかねの父親がいないってことを聞いて、綾が暴走して」
「そういう言い方は酷いんじゃ」

 苦笑するあかねに、幸治はマジメな顔で。

「・・・ちょっと、綾って突っ走り過ぎている所があるけど、悪気はないんだ。ただ、常に本気なだけなんだ」
「うん」
「だから、ちょっとイヤなところもあるかもしれないけど―――」
「おかしいな」

 幸治の言葉を遮って、あかねはくすり、と笑った。

「いつもなら、家庭の事情のことで可哀想って言われたり、同情されたりするの、すごくイヤなんだけど」

 そう思うのは、もしかしたらただの我侭かもしれない。
 それでも自分は可哀想なんかじゃないって思う。父親はいなくても、それを補って余りあるほど素敵な母親がいるのだから。

「でも、綾さんに真正面から “可哀想” って言われて―――その言葉自体よりも、綾さんの本気の気持ちが伝わってきて、本気で私のこと心配して、思ってくれてるんだなって―――そのことが、なんか、嬉しくて」
「そっか。良かった」
「あ・・・」
「ん?」
「・・・な、なんでもない」

 ああそうか、と思う。

「幸治くん、綾さんのことが好きなんだよね」
「ああ」

 軽く頷く幸治に、はあ、とあかねは吐息。

(最初から、解っていたけど。でも―――)

 胸を抑える。

(やっぱり、なんか、泣きたい・・・)

「私のこと、色々してくれるのも綾さんのため?」

 泣き顔を引っ込めるように、無理矢理笑いながら尋ねる。

「綾さんが私のことを本気で心配してくれるから、だから・・・?」
「さあ?」

 と、幸治は首を捻る。

「そうかもしれないけど、そうじゃないかもしれない」
「どっち?」
「言われてもな・・・解らん」

 そう言って、幸治は立ちあがる。
 何時の間にか辺りは薄暗くなっていた―――紅い夕焼けが、西の空に見える。西日を眩しそうに、見てからあかねに向き直る。

「困っている友達の力になってやりたいと思うのは、そんなに悪いことじゃないと思うけどな」
「それは、そうだけど―――でも」
「強いて言うなら自分のため」
「自分の、ため?」
「あかねが笑っていると俺も嬉しいし、逆にあかねが泣いているのは、あまり見たいモンじゃない。―――別にあかねに限ったことじゃない。綾やリョーコや冬哉、それに親父や担任や他の知り合い。俺が好きなヤツらが、悲しんでいるトコなんて見たくない。ただそれだけ―――あかねだってそうだろ?」

 言われて、あかねは思う。
 確かに、誰かが泣いている所なんて、あまり見たいとは思わない。けれど、実際に泣いている人間の涙を黙って拭ってやることができるだろうか? 傷ついている人間に手を差し伸べることができるだろうか?
 西山 幸治にはそれができるのだろう。現に、あかね自身がそれを体感している。
 だが自分にはできるだろうかと自問―――無理だと思う。きっと、見ないフリをしてしまうのではないだろうか。

「そろそろ時間だ」

 幸治はそう呟くと、あかねの顔を見つめた。
 その真剣な表情に、思わずドキッとする。何度か見た、幸治の笑顔にもドキドキしたけれど、今の表情はそれよりもドキドキした。
 優しくもなく、しかし鋭くもなく。ただ強く見つめてくる視線。今までの幸治とは、何かが違う気がした。

(ああ、そうか―――)

 気付く。
 おそらく、と見当つけたのは綾の言葉。
 本気。
 おそらく、これが西山 幸治の “本気” の表情なのだろう。

「あかね」
「は、はいっ!」

 名前を呼ばれて、思わず返事が上ずった。
 構わずに、幸治は言葉を連ねる。

「さっき、言ったよな。知らない方が良いことは多いって。無知であった方が幸せになれるって」
「うん。言ったね」
「これから言うことは、まさしくそれなんだ。おそらく、それを伝えれば、あかねを傷つけてしまうと思う。―――それでも、俺はお前に伝えなければならないと思うし、お前にはそれを知る権利がある―――逆に言えば、知るのを拒否する権利もある」

 遠まわしな言い方だが、それほど伝えるかどうかを悩んでいるのだろう。
 あかねのことを傷つけてしまうのを躊躇っている。
 西山幸治が本気にならなければ伝えられない―――その意味を察知して、あかねは覚悟を決めて頷いた。

「だから、まずは問う」

 一息。

「あかね、自分の父親に会いたいか―――?」

 

 

 

 

 

 陽が落ちて、暗くなった道を幸治の後ろについて歩く。
 道々を街灯の光に照らされた中、二人は無言で歩みを進めていた。

 ―――迷わなかった。

 父親に会いたいか? と問われて、あかねは即座に頷いた。
 幸治が何故、あかねの父親の事を知っているのか疑問に思うことすらなく反射的に。ただ、頷いた後に、幸治がどうしてそんなことを知っているのかどうか―――そんな不思議はどうでも良いと結論。
 西山幸治が、父親のことを知っているというのなら知っているのだろう。少なくとも、彼は無意味に他人の心を惑わすような嘘を吐くような人間ではないと、あかねは知っていた。忘れた、と誤魔化すことはあっても。
 だからだろう。西山幸治が父親のことを知っていると信じられたのは―――不思議なのは、むしろ自分の方だった。どうして即答できたのか。どうして迷いなく頷けたのか。あかねには自分自身が不思議だった。何故なら、今、街灯の下を黙々と歩き続ける自分は、強い後悔と迷いが渦巻いていたからだ。今すぐにでも立ち止まり、今来た道を戻りたいと思う―――が、そんな意思とは裏腹に、足は勝手に幸治のあとをついていく。
 ―――もしも、幸治が “父親” のいる場所だけ教えて、後は勝手にいけとでも言ったのなら、果たして自分は逃げ出さなかっただろうか。恐らく、道の半ばで引き返していたのだと思う。一人で父親に会えるほど、自分は強くない。

「着いたぞ」

 幸治の言葉に、何時の間にか下げていた顔を上げる。
 視線の先、街灯から外れた場所に人影が一つ。住宅街の一軒の家の門の前に居た人影は、こちらを認めると軽く手を挙げた。

「待ったぞ」
「待たせた」

 向こうの文句に、幸治が返す。
 街灯の下に出てきたのは、一人の少女だった。市内にある私立中学のセーラー服を着ている所を見ると、中学生だろう。小学生にも見えるのは、やや丸めの童顔のせいだ。さらっとした亜麻色のショートボブを揺らして、どこかで見た事のあるような冷めた瞳でこちらを見つめてくる。

「覚悟はできているのか?」
「え? は、はあ・・・」

 初対面の人間に声を掛けられ、他人が苦手なあかねは思わず上ずった声を返す。
 そんなあかねの様子に、少女は顔をしかめて、

「できていないのなら引き返した方が良い。今ならまだ忘れることもできる」
「は、はあ・・・」
「幸治」

 困ったように少女は硬い表情を幸治に向けて。

「ちゃんと説明はしたのか? なにやら困惑しているようだが」
「した」
「む。ならどうしたんだ? 決心がぐらついているのなら、やはり引き返した方がいいと私は思う」

 言い切って。
 それからふと自分の制服を眺めおろした。

「ところでこの格好はヘンではないか? 私は結構可愛いと思っているが」
「・・・ああ、なるほど」

 幸治はポン、と手を打つと、あかねに言った。
 少女の方を指差して、

「こいつ、リョーコ」
「あ。リョーコさんって言うんですか。初めまし―――え」

 えええええええええぇぇぇぇっ!?
 と、叫び声をあげかけたあかねの口を、幸治が素早く塞ぐ。

「・・・あまり大きな声は出さないほうが良い」
「は、はひ・・・で、で、でもっ。えええっ!?」

 あかねはじっと、セーラー服姿の少女―――リョーコを見つめて。

「あの。リョーコさんって、あのリョーコさんですか?」
「どのリョーコさんだ?」
「えっと、隣のクラスの」
「おそらく、あかねの思っているリョーコさんだと私は思うが」

 リョーコ自身に肯定されて、あかねはぽかんとリョーコの姿を見る。
 初めて見たときから女の子みたいだとは思ってはいたが、しかしまさかここまで女装が似合うとは思わなかった。もともと背が低く、女顔のせいでセーラー服を着ただけで少女に見えてしまう。落ち着いて見て、声となにやら人生を達観したような冷めた瞳を見ればリョーコだと解かる気がするが、なにかもう一つ決定的な違和感がある。

「あ、でも髪の色が―――」

 確かリョーコの髪は黒髪のはずだった。
 だが、今のリョーコは薄い茶色い―――亜麻色の髪。
 あかねの言葉に、リョーコは「ああ」と頷くと、自分の髪の毛をむしりとった。

「カツラだ」
「・・・というか、なんで女装なんて・・・?」
「エージェントは正体を知られてはならないからだ」

 まだエージェントをやっているらしい。

「あかねの父親の居場所―――それを調べ上げたのがエージェント・リョーコだったんだ」

 笑いもせずに幸治が言う。幸治以外が口にすれば、冗談めかして聞こえただろうが、その口調はあくまでも真面目。
 そうなんですか、とリョーコを見ると、彼はバツが悪そうな顔をしてカツラを弄ぶ。

「・・・調べ上げたのは私じゃない。姉の悪友だ」
「で、でもどうやって・・・」

 問われ、リョーコは一言。
  All are only known
「 “全てを知る者” 」
「え?」
「お前の母親が強姦されたのがこの町だから解った――――この小さな町の有史以来、町の全てを知っている変人がいる。そいつが全て知っていただけだ」

 事もなげに言い捨てる。
 が、あかねにはよく意味が解らなかった。

「全てを知っているって・・・どういう人なんですか、その人・・・?」
「だから言っただろう。ただの変人だ―――全てを知り、知ることだけしかできない無力者。それはともかく―――」
「来たな」

 と、リョーコと幸治が振り返る。
 見れば、道の向こう―――あかねたちが歩いてきた方向とは逆の方向から、スーツ姿のサラリーマンが一人。仕事の帰りなのだろう、やや疲れた足取りで歩いて来る。
 街灯の下を通った―――その時に顔がみえた。あかねの見知った顔。

「・・・まさか」

 口では呟きながら、心の中では驚くほど冷静だった。
 まさか、と何度も道々で思っていたからかもしれない。通ったことの―――しかもつい最近に通ったことのあった道。もっとも、あの時は途中から道に迷ってしまったのだけれど。
 サラリーマンは、一軒の家の前で立ち止まる。先ほどリョーコが立っていた家。夜なので屋根の青は見えなかったが、街灯に照らされて壁の白さははっきりと解かる。あまりにも壁が綺麗なので、新築だと思った、と綾が笑っていたのを思い出す。
 門の表札には “佐野” と書かれていた。

「本当に・・・?」

 あかねは雪絵の父親を見ながら、誰に尋ねるわけでもなく呆然と呟く。
 向こうはこちらに気がついていないようだった。

「全てを知る者は知ることしかできない無力者だ。だから、嘘をつくこともできない―――偽りを表してしまえば、全てを知る者としての意味が消えてしまうから」

 相変わらずリョーコの言っている意味はわからない。

「これはただの情報だ」

 次に呟いたのは幸治だった。
 いつものように、抑揚のない声で淡々と呟く。

「俺とリョーコは情報を伝えただけ。その情報を元にどうするかを決めるのは、あかね、お前だ。信じようと信じまいと、確かめようと逃げ出そうと―――後はお前の問題だ」

 幸治は後ろを振り返る。
 と、そのまま歩き出した。ゆっくりと。今来た道を辿って。
 遠ざかっていく幸治の足音―――それに押されるようにして、あかねの足が動く。
 一歩。
 前に出た。

「あのっ」

 一歩出てしまえば後は簡単だった。
 勢いがついて二歩目が容易くでる。三歩目はさらに簡単。

「え?」

 家の中に入ろうとしていた雪絵の父親が、あかねの呼びかけに振り返った。
 その目の前で、あかねは立ち止まる。

「君は―――」

 雪絵父はあかねの姿を認めて、にこやかに笑いかけた。

「昼間はどうしたんだい。雪絵も様子がおかしかったけど」
「初めまして」

 あかねは雪絵父を睨みつける。
 その気迫に押されて、雪絵父は一歩だけ後ろにさがった。

「は、初めまして? おかしいな、昼も―――この前だって会った筈だろう?」

 あかねの迫力に、なにか異常なものを感じたのだろう。
 雪絵父はそのまま逃げるように後退して家の敷地内に入っていく。

「こんな時間に女の子が出歩くもんじゃない。早く帰りなさい―――」
「初めまして、お父さん」

 あかねの一言に、雪絵父は動きを止める。

「な―――なにを・・・」

 困惑した表情で―――しかしどこか怯えの含んだ表情で、彼はあかねを見返した。
 その表情に、あかねはどこか諦めにも似たような気もちで悟っていた――― “全てを知る者” とやらがもたらした情報は正しかったのだと。
 雪絵の父親は怯えていた―――それだけで、あかねにとっては十分だった。

「パパ、帰ってるの? どうかした―――?」

 玄関で騒いでいるのが聞こえたのだろう。家の中から雪絵がでてくる。雪絵はあかねの姿を認めた瞬間、驚きに口を広げ、それから怪訝そうにあかねを見た。

「あかね? なんで―――」
「 ・・・・・・っ」

 あかねは踵を返すと、まだ立っていたリョーコの脇をすり抜けて元来た道を駆け出す。
 リョーコはそれを見送ると、振り返る。
 雪絵が今度はリョーコを怪訝そうな顔で見る。
 父親の方はというと、微動だにせずあかねの走り去ったほうを遠く見つめていた。

「なに、あなた」

 雪絵に問われて、リョーコはにっこりと微笑んだ。
 冬哉や綾が見れば、まず間違いなく殴られるだろうが、正体を知らない人間から見れば可愛い女の子が微笑んでるようにしか見えない。しかし、こんな夜にセーラー服姿の少女が人の家の前で突っ立ってにこやかに微笑んでいると言うのは、少々不自然ではあったが。

「いーえっ、私はただの通りすがりの女子中学生ですぅ。きゃはっ☆」

 女子中学生というものに対してなにやら根本的な誤解のある演技で―――リョーコ自身、昨年まで中学生だったはずなのだが―――ぴょん、と意味もなくその場で飛びあがると、そのままスキップして去っていく。

「雪絵」

 謎の中学生を、なんだったのかしら? と見送っていた雪絵に、父親が震える声で尋ねた。

「なに、パパ?」
「あの・・・あかねって言う子。どんな子だ?」
「どんな子って・・・なんでそんなこと聞くの?」
「いいから!」

 怒鳴られて、雪絵はぴくっと身を竦めると、わかったわよ・・・と前置きして、

「大人しい子よ。ちょっと他人が苦手なせいで、いつも一人でいる子」
「両親は?」
「母親が一人だけ」
「・・・父親はどうしたんだ?」
「いないわ」
「なんでいないんだ? 死んだのか? 死んだんだよな!?」

 まるであかねの父親が死んでいて欲しいような言い方だ。
 雪絵は父親の異常に、怪訝な反応を示したが、また怒鳴られるのはいやだったので素直に答える。

「・・・あかねのママは、昔―――その、男の人に乱暴されて・・・無理矢理・・・・・・それで、あかねはその時にできた子供らしいわ」

 雪絵の言葉を聞いた瞬間、父親の身体が崩れ落ちいる様にして地面へたりこむ。

「パパ?」
「そうか・・・そうなのか・・・そうか・・・」
「パパ? どうしたの!? ・・・震えてる・・? どうしたの、ねえっ! 寒いの!?」
「そうか・・・・・・そうか・・・・・・・そうか・・・・・・・・・」

 雪絵の叫びも聞こえないらしく、父親は「そうか・・・そうか・・・」と繰り返し呟きながら、ただただ震えつづけていた―――

 

 

 

 

 

「よう」

 走っていると、すぐに幸治には追いつけた。
 というより、待っていてくれたらしい。
 街灯の下に立っている幸治の所まであかねが辿りつくと、走るのをやめて歩き出す。幸治も歩調を合わせて並んで歩いた。

「まだ・・・信じられない」

 並んで歩きながら、あかねはぽつりと呟いた。

「なにが?」
「色々なことが」

 幸治は横目であかねを見る。あかねは物憂げな微笑を浮かべ、足元を見つめて歩いていた。

「冗談見たいだよね。なんか、こんな近くに父親がいたなんて」
「お前の母親が――――――襲われたのってこの町だろ? だったら、近くにいても不思議じゃない」
「そうかもね」

 しばらく無言。
 やがて、再びあかねが口を開く。

「かーさんね、両親がいないんだ」
「・・・・・」
「孤児だったんだって。私も、詳しくは知らないけど」

 あかねの話では、あかねの母―――明子は、幼い頃からずっと両親がいない。その理由はあかねも聞いてはいない。聞けば教えてくれるかもしれないが、聞けなかった。ただ、あかねはずっと祖父母のお墓参りと言うものにったことがない――――つまり、そういうことなのだと勝手に納得していた。
 明子はずっととある家に引き取られていた。どういう関係の家かあかねは知らない。ただ、この草原町の隣の海原町にある家だということだけは知っていた。
 よくあるドラマのように、迫害されたりはしなかったが、それでも ”ワケありの子供” というレッテルを貼られ、普通の子供とは違う目で見られていたらしい。小学校、中学校と通わせてもらい、しかし高校進学の時期になると明子は進学ではなく就職を選んだ。家の人間は、高校くらい入らせてやると言ってくれたが、明子はその行為を断った。これ以上、世話になるのも悪いと思ったし、今まで育ててくれた恩に報いたいとも思ったからだった。
 そして。
 働き出してから二年後、事件が起きた。

「―――それで、結局、犯人は捕まらなかった。かーさんは、いきなり襲われて―――押し倒された時に頭を打って、そのまま気を失って―――そしてそのまま―――だから・・・」
「犯人の手掛かりが全くなかった、と」
「そう」

 それから、すぐにあかねを身篭っているとわかった。
 家の人間や職場の同僚は皆口を揃えて子供を降ろせ、と言ったが、何故か明子はそれを拒んだ。結局、職場にも家にも居られなくなり、明子は身重のまま家を飛びだし、町を出た。
 そのまま数年、各地を転々として―――

「この町に戻ってきたのは私が中学に入学するのと同時」
「なんで戻ってきたんだ?」
「偶然だよ。・・・小学校の六年の頃にね。その、家の事情がクラスの皆にバレて、それでちょっと・・・色々あって・・・それで――――この町に戻ってきたのはただの偶然で、向こうでかーさんがお世話になった人に、ここの働き口を紹介して貰ったの。その人は、ウチの事情は知ってたけど、かーさんがこの隣町の出身だって知らなくて・・・」
「偶然か」

 ふと気がつけば、もうアパートの近くの公園前。
 不意にあかねは立ち止まると、公園を指差して。

「もうちょっと、いいかな」

 

 

 

 

「一ついいか?」

 いつもの公園のベンチに二人並んで座ると同時、幸治は質問の言葉を投げかける。

「さっき、家の事情がバレて転校することになったと言ったが―――中学の時にもバレてしまったんだろう?」
「そうだよ」

 あっさりと頷いて続ける。

「でも、だからって転校ばかりするわけにもいかないでしょ? そうそう都合よく、かーさんの働き口が見つかるってわけでもないし―――そりゃあ、かーさんは私のことを心配してくれたけど、説得したんだよ」
「説得?」
「私には、頼りになる親友がいるって」
「あかね・・・」
「解ってたよ。私のこと、皆に漏らしたのが雪絵ちゃんだってこと。でも、それでも私にとって、雪絵ちゃんはただ一人の親友だったから・・・」
「・・・・・・・・」
「馬鹿だと思ってる?」
「かなり」
「酷いなあ」

 困ったように笑うあかね。
 でも、と言葉を転じて。

「・・・私は、良かったと思っているよ。この町に来て―――この町にずっと居て」
「幸治くんに会えたから―――とかいうのは止めてくれ。恥ずかしい」
「幸治くんに会えたから、この町で良かったと思う」
「・・・・・・照れるぞ」
「照れていいよ」

 吐息。
 してから幸治はそっぽを向いた。

「幸治くんにも会えたし―――綾さんやリョーコさんにも会えた」
「綾にいってやってくれ。きっと、月まで飛びあがるくらいに喜ぶ」
「えへへ・・・」

 きっと彼女なら、本当に月まで飛んでいくくらい喜ぶのだろう。誰でもない西山 幸治が言うのだから間違いない。

「それから」

 付け加えたのはもう、過去になってしまった名前。
 きっと、もう二度と気軽に呼ぶこともできない名前。

「雪絵ちゃんに、会えたから」
「悪い」
「? なんでいきなり謝るの?」
「・・・俺がなにも言わなければ、もしかしたら仲直りできていたのかもしれないのにな」
「いいよ、もう」

 うん、と一つ頷き。

「いいんだ、もう」
「こうなることは解かってたんだ」
「うん」
「最低だな」
「そうかもね」
「悪い」
「でも――――すごく、迷っていてくれたんだよね?」

 驚いたような顔で、幸治はあかねを見る。
 本日二度目。と、カウントしてあかねは笑った。

「なんで、そう思うんだ?」
「なんとなく」
「それじゃわからん」
「幸治くんが後悔しているから」

 幸治は不理解を首を傾げて表現。

「やっぱりわからん」
「幸治くん、さっきから謝ったり自分を最低だって言ったり―――それは後悔しているんだよね」
「・・・・・ああ」
「でも、その後悔は解っていたことなんだよね」
「・・・・・ああ」
「解かっていて―――それでも、その後悔を選ぶしかなかった―――」
「どう転んでも後悔がある。だから―――どの後悔を選ぶか迷っていたと?」

 ううん、とあかねは首を横に振った。

「決まってはいたんでしょ。私に伝えるって。―――だけど、それが本当に良いことだったのかどうか、ずっと悩んで、考えて、迷っていてくれた。だから、幸治くんには感謝してる」

 「ありがとう」と付けたしてあかねは微笑。
 幸治は自分が伝えるのはただの情報だと言った。自分はそれを伝えるだけで、その情報をどうするかはあかねの自由だと。けれど、それならば何故、幸治は雪絵の家まで―――父親が帰ってくるまで付合ったのか。ただの情報だというのなら、数時間前のこの公園で、言葉で伝えれば良かった。
 しかし幸治は結局、言葉では伝えなかった。あかねの父親が雪絵の父親だとは言わず、ただあかねを雪絵の家の前まで連れていっただけ――――きっと、それは、最後まで迷っていたから。もしくは、あかねが逃げ出してくれるのを期待していたからなのだろう。

「あかねの方が魔法使い見たいだ」
「じゃあ、幸治くんの弟子ってことで」
「俺は魔法使いじゃない」
「魔法使いだよ。私にとっては」

 そう。
 西山幸治は、小松あかねにとって魔法使いなのだろう。
 この一週間で、あかねの周囲も、あかね自身も大きく変わった。変化の魔法をかけたのは幸治。

「―――色々、あったなあ。この一週間」

 まだ一週間しか経ってないなんて信じられないくらいに。

「・・・あかね」
「うん?」
「明日って日曜日だな」
「うん」
「明日、ヒマか?」
「うん」
「俺もヒマだ」
「うん」
「綾もヒマだと思う」
「うん」
「リョーコもきっと暇だ」
「うん」
「透はちょっとわからないけどヒマだったらいいな」
「うん」
「冬哉はまず確実にヒマだ」
「うん」

 一息。

「明日、みんなで一緒にどっかに遊びに行こうか」
「私、そういうの苦手だよ」
「大丈夫」
「きっと、私なんか一緒にいても退屈だよ」
「綾は喜ぶ」
「幸治くんも喜んでくれる?」
「勿論」
「そっか。なら、いいよ」

 そう言って、あかねはベンチを立った。
 幸治もベンチを立った。

「父親のこと」

 ふと、あかねは呟いた。

「私は多分、一生許せないと思う」
「・・・・・」
「けど、少し、許してあげてもいいと思う」
「どうして?」

 問われてあかねは思い出す。
 「お父さん」と呼んだ時の、雪絵の父親の反応。
 酷く怯えていた。怖れていた事実をつきつけられたというように。

「きっと、雪絵ちゃんのお父さんもずっと後悔してたんじゃないかな―――ずっと、その時のことを思い出して、怯えてたんじゃないかなって」
「これからどうする?」
「どうもしないよ。いつもどおり、だよ」
「母親にはこのことは―――」
「絶対に言わないで」

 あかねの否定の言葉に幸治は軽く頷く。

「リョーコにも口止めしてある。でも、もしかしたらあの男が謝りにくるかもしれない」
「その時はその時だよ。そして、その時はもう私は関係ない―――後は、かーさんの問題だから」
「冷めてるな」
「幸治くんの真似をしただけだよ」

 少し、笑って。

「私の問題は、もう終わったから」
「・・・認知、とかは」
「とーさんなんて要らない。私には素敵なかーさんがいるから」
「愚問だったな」

 幸治は苦笑。
 それからぽつりと付け足す。

「・・・雪絵の気持ちが少し解かる」
「え?」
「なんでもない」
「ヘンなの」

 そう言って、あかねはアパートへと足を向ける。
 その背中をなんとなく見送って―――ふと、思う。
 あかねは気付いているのだろうかと。雪絵があかねのこと嫌う―――憎んでいる理由に。きっと、気付いていないのだろう。雪絵は本当はあかねのことを好きだと言うことを、あかねも雪絵自身も知らない。

「―――まあ。今となっては、か」

 なんとなく呟いて、幸治はあかねの後を追う形でアパートに戻った。

 

 

 

 

 

「ただいま」

 部屋に戻ると、明子が洗いものをしているところだった。
 あかねの姿を見つけると、やや厳しい目であかねを見る。

「何処に行っていたの? こんな時間まで」

 こんな時間。と、時計をみれば8時を回っていた。

「うん、ちょっと、友達と・・・」
「遅くなるようだったら、電話くらいかけなさい。心配するでしょ?」
「ごめんなさい」

 素直にあかねが謝ると、明子はほっと一息。
 ふ、と顔を和らげる。

「だけど、本当に珍しいわね。あかねが夜遅くまで遊んでいるなんて―――もしかして、また幸治くんと?」
「・・・なんでわかるの?」
「さっき虎雄さんの所に煮物を届けに行ったのよ。その時に幸治くんがいないようだったから」
「煮物?」
「ちょっと作り過ぎちゃってね」

 てへ、と舌を出して、明子はその煮物をテーブルに出す。
 ジャガイモとニンジン。それから豚肉の入った、まあ小松家の定番メニューだ。

「ご飯、まだなんでしょ?」

 先程、サンドイッチを一切れ食べたが―――
 腹の具合を見る。走ったり緊張したせいだろうか。ちょっと、お腹へっている。

「うん」
「じゃあ、早く食べなさい」

 あかねはテーブルにつくと、明子がご飯を茶碗によそってあかねの前に出して、お茶を入れてくれる。

「いただきます」

 両手を合わせてから、茶碗を取る。
 煮物をつつきながら、白米を口に運ぶ。なんだか妙に美味かった。

「ご馳走さま」

 ゆっくりと時間をかけて食べ終わる。
 と、明子が冷めたお茶を煎れ直して、自分の分もついでに煎れてテーブルにつく。
 苦笑。

「そーいえば、夜にあかねとこうして差し向かいで座るのって久し振りね」
「そうだっけ?」

 言われてみればそうかもしれない。
 この一週間は母親は殆ど遅番だった。

「なにかあったの?」

 不意に問われて、あかねはお茶に咽た。
 あらあら、と明子は心配そうな声をあげる。大丈夫、と言ってから息を整えて。

「なんで?」
「ん?」
「別に、なにもなかったけど?」
「そう。なんとなく、なにかあったかなーって思っただけなんだけど」

 ないならいいんだけれど、と言って茶をすする明子。
 やっぱり母親というものなのだろうか、などと思いながら、あかねはふと思った疑問を口に出す。

「・・・なんで私を産んだの?」

 今まで聞こうと思って聞けなかった疑問。
 言葉にしてからしまった、と思う。明子は虚を疲れたように口を半分ほど開けてこちらを見つめている。

「ご、ごめんっ。ヘンなこと聞いて」

 でも。
 今のナシ、と取り消しはしない。昔の―――1週間前の自分ならば、きっと慌てて誤魔化したことだろう。けれど、この疑問には意味がある。多分、知らなければならない意義があるのだと、思う。
 暫く待っても返事は返ってこない。
 母の顔を見てみれば、なにか酷く悩むように顔をしかめていた。

「別に、言いたくないなら、いいよ」
「え? あ、ああ―――別にそんなことはいいんだけど」

 明子は吐息を漏らす。

「なんかいきなりそんなことを聞いてくるから―――また、父親がいないことでなにかあったのかと」
「んー・・・ちょっとね」

 嘘は付かずに誤魔化すことにした。嘘をついても感付くだろうし、そうなれば母親は余計に心配してしまうだろう。誤魔化しても大差無いように思えるが。

「あかねを産んだ理由ね―――」

 明子はしばし逡巡。
 やがて、ふふっ、と不気味な笑みを浮かべて。

「欲しかったから」
「なにが?」
「仲間」
「仲間?」
「そう―――同じ境遇の―――不幸な子供。本当に私の気持ちを解ってくれる子供が欲しかったの」
「ふうん」

 呟いてあかねは茶をひとすすり。

「それで結局、どうして私を産んだの」
「・・・なんか、最近のあかねって可愛げがなくなってきたわねぇ」

 どこか淋しそうに母親。
 マジメな顔に戻して。

「さっき言ったのはちょっとは本当なんだけど」
「ちょっと以外の理由は?」
「人殺しになりたくなかったから」

 なんてね、と母親は舌を出す。
 あかねは嘆息。

「まあ・・・言いたくないのなら無理には聞かないけど」
「言いたくないわけじゃないんだけどね―――」

 明子は苦笑。

「私が・・・孤児だって言うのは話したわね」
「うん」
「捨て子だって話たっけ?」
「ううん」

 初耳だった。
 ただ、そうじゃないかなとは思っていたけれど。

「三歳くらいの頃かしらね。泣いていたところを、隣街のお父さん―――小松さんに拾ってもらって。その時の私は、自分の名前もわからなくて、両親のことも全然解らなかったそうなの。・・・もっとも、私が覚えてるのはその時、凄く寂しくて心細くて泣いていたことだけなんだけど」
「記憶喪失?」

 ふと、幸治の顔を思い浮かべながらあかね。
 明子は「さあ」と手をぱたぱた振る。

「どうかしらね。ただ、幼すぎて忘れてただけなのかもしれない―――ともかくその時に引き取られて。だから、私は本当の両親の顔を知らない」
「・・・・・・」
「両親の顔も知らない―――産まれてくる子供の顔も見れない―――そういうの、悔しいでしょう?」
「かーさん・・・」

 じん、と来た。
 ついでに再確認。
 きっと自分は、世間一般から見れば不幸な人間なのかもしれない。それでも、自身を不幸だと思えないのは、こんなにも素晴らしい母親が居てくれるから。こんなにも強い母親を、あかねは誇りに思う。

「かーさんってさ、凄いね」
「凄くないわよ」
「でも・・・だって・・・かーさんじゃなきゃ、私なんてここまで生きてこれなかった」
「そんなことないと思うけどね」

 ふう、と明子は吐息。

「実際、そんなにカッコ良いものじゃないのよ。私は」
「カッコ良いよ」
「・・・最初は死ぬ気だった」

 ぽつり、と呟かれ、あかねはマジマジと明子を見た。

「知らない男の人に犯されて、汚れてしまった身体を引きずって、高いビルの屋上にたったの。その上から見下ろすはるか下の地面は、まるで天国の扉にも見えたわ・・・」
「それでいざ飛び降りようとした瞬間、お腹の中の私が蹴ったんだね “死んじゃダメ” って・・・」

 明子は驚いてあかねを見る。

「よくわかったわね」
「かーさんがこの前見てたドラマでやってたじゃない」
「・・・もしかして、信じてない?」
「うん」

(かーさんが自殺しようとするところなんて想像できないしね)

 思うあかねの前で、明子は苦笑。

「本当にそんなカッコ良いもんじゃなかったのよ。ただ悔しかっただけ」

 一息。

「親が居なくて。陰口とか叩かれて。イジメられて―――そういうの悔しかったから、思いっきり天邪鬼になったのね。私は」
「天邪鬼?」
「思ったことと反対の態度をとってしまう人のことよ―――どんなに哀しくったって笑い飛ばして、どんなにくじけそうでも絶対に負けなかった。ただそれだけ」
「そういうの、天邪鬼って言わないとおもう」

 そうかしらと首を傾げる母親に、あかねは苦笑。
 それにしても、母親が捨て子だとは初めて聞いた―――今まで聞かなかっただけで、聞けば簡単に教えてくれただろうが。
 ふと、思いつく。

「かーさんが拾われたのって、どこ?」

 リョーコの言葉を思い出す。All are only known―――全てを知る者。この町の全てを知っている無力者。その意味はよく理解できなかったが、少なくとも自分の “父親” が誰か知っていた。ならば、もし明子がこの町で拾われたのなら―――

(もしかしたら、かーさんの本当の両親が誰かも知っているかも・・・)

 自分の “父親” のことを母に告げる気はないが、それでも祖父母―――明子の両親が解かるなら、それを知る権利が子供にはある。自分のように。
 イギリス
「英国」
「え」                   ロンドン
「だから、私が拾われたのは英国の倫敦だって」

 予想外の地名を挙げられて、あかねはぽかんと口を開ける。
 そんなあかねを「ヘンな子ねぇ」と笑いながら明子は続けた。

「あんまり覚えてないけど、倫敦のヒースロー空港のロビーで泣いていたんだって。母親のことを聞いたらしいんだけど泣くばかりでわからなかったらしいわ。それで、私が着ていた服のポケットに “この子を頼みます” って」

 言いながら、明子は自分の服の胸元に手を突っ込んで、首にさげていたお守りを取り出した。あかねも何度か見たことのある、開運厄除のお守り。その中から、折りたたまれた古ぼけた紙を取り出す。
 「見る?」と言われて差し出された紙を、あかねは受けとって広げて見る。手帳を破りとったものらしい。その紙に、ボールペンで母親の言った通りのことが書かれている。

「―――って、これって日本語じゃない」
「そうよ。だって私日本人だもの。親だって日本人に決まってるじゃない―――もしかしたら片方は違うかも知れないけど」

 なにを馬鹿なことを言っているの? とでも言いたげな口調で言う明子に、

「かーさんが居たのってイギリスって言ったよね?」
「そうね」
「じゃあ、なんで日本語なの?」
「だから、日本人だからでしょ?」
「・・・イギリスで誰かに拾って貰いたいなら、英語で書くんじゃないかな」
「あ」

 やっと母親は理解したようだった。
 あかねは続けて。

「思ったんだけど、かーさんの両親は両方とも日本人だと思う。ハーフとかじゃなくて」
「どうして?」
「だって、日本語で書かれてるってことは、きっと日本人に拾って欲しかったんじゃないかな。日本人として育って欲しい―――そういう親心とか」
「親心ねぇ・・・」

 明子はあかねから紙を受け取りながら、自分のお守りに紙を戻す。

「自分の子供を捨てる親心なんて、理解したくないけどね」
「そ、そうだね」

 冷めた瞳で呟く母に、あかねは悪いことを言ってしまったかと思った。
 そんなことを思うと同時に思いつく。だから―――自分を棄てた母親のようになりたくないから、あかねを産み落としたのだろうか。
 思ったが、聞いて見る気にはならなかった。これ以上、母親の昔のことをほじくり返したくない。

「にしても」

 先程の冷めた目など微塵も見せずに、微笑んで明子は言う。

「すごいわね、あかね。今まで日本語で書かれた意味なんて気付きもしなかったけど」
「す、すごくなんてないよ。もしかしたら間違っているかもしれないし―――ふわ・・・」

 いきなり眠気が襲ってきて、あかねは小さく欠伸。
 滲んだ涙。目をこすってから立ちあがる。

「・・・そろそろ寝るね」
「ん。おやすみ」

 居間に明子を残し、あかねは自分の部屋に戻る。

「ふう」

 戸を閉めて、息を付く。

(―――親心、か)

 子供を捨てる親心なんて、確かに理解できるもんじゃない―――けれど、母親は理解してるんじゃないだろうか。少なくとも、自分を捨てても責めることのできない程の苦労はしているはずだと、あかねは思う。

(子供を捨てる理由―――捨てる意味)

 疑問があった。
 本当に母は捨てられたのかという疑問。
 確かに、話を聞けば捨てられたように見える。しかし―――

(日本語で “この子を頼みます” ―――そんな紙を持ったかーさんを、偶然に日本人の小松さんが拾った・・・)

 果たしてそれは本当に偶然なのだろうか?
 母親には日本人として育って欲しい親心、などと言ったが、イギリスに滞在していた(と思われる)祖父母が、そんなことを思うだろうか?
 あかねは外国に行ったことがないから良く解らないが、イギリスの空港というのは日本人がごった返しているわけでもないだろう。本当に日本人に育てて欲しいのなら、むしろ日本大使館の近くにでも捨てるのではないだろうか。というか、もしもその小松さんに拾われなければ、自動的に大使館に連れていかれるのではないか?
 小松さん、という人をあかねは知らない。会ったこともないし、明子は小松家を飛び出す時に着の身着のままだったらしく、写真もない。
 しかし外国で捨てらてた明子を、そのまま拾って育てた―――言い方は悪いが、余程のお人よしではないか?

(・・・偶然じゃなかったら?)

 偶然じゃなかったら?
 小松さんが、明子を拾ったのが偶然ではなかったら?
 明子の両親が、小松さんに拾ってもらうように仕向けたとしたら?

(どうでもいいことだよね)

 思考を打ち切る。
 どうでもいいことだ、と小さく口に出して呟く。
 今となってはもはや確かめようもないことだ。例え自分の推理通りだったとしても、そんなことを祖父母がした理由がわからない。
 あかねは、軽く首を横に振ると、パジャマに着替えて横になった。
 寝ようと目を閉じた時に、雨音が耳に飛び込んで来る。

「・・・雨?」

 思わず身を起こし、ベッドの脇の窓のカーテンを開ける。

 ざぁぁぁぁ・・・・

 窓を開けると、夜の闇に目では見えないが、はっきりと雨音が聞こえた。
 思い出されるのは幸治との約束。明日、皆で遊びに行こう―――

「・・・止むかな・・・?」

 暫く見えない雨を眺め、雨音を耳にしてから、あかねは窓とカーテンを閉めた。

「でも、雨なら仕方ないよね」

 大勢っていうのも苦手だし―――
 そんなことを呟きながら、ベッドに横たわる。
 枕の頭の位置を調整しながらぽつりと、

「雨、止まないかな・・・」

 意識せずに呟いた自分の言葉に、なんか恥ずかしくなって、誰もいないのに誤魔化すように「寝よ」と言って目を閉じた。

 


INDEX

NEXT STORY