「―――どうして、あんなことを?」
「なんの話かしら?」生徒棟の屋上。
幸治の言葉を、雪絵はフン、と鼻をならして受け流す。「朝のことだ」
「朝のこと? ああ―――そういえば、あんたたちのクラスでなにか騒いでたようだけど?」
「昨日はあかねの小説が晒し物にされていた。そして今日は―――」と、幸治は転落防止のフェンスに背を預けていたリョーコに目を向ける。リョーコは一つ頷くと、フェンスから背を放して、雪絵に向き直る。
「今朝は黒板に西山幸治と小松あかねの名前が、相合傘に書かれていた。しかもピンクのチョークでだ」
「・・・相合傘?」ちょっと驚いたように、幸治はリョーコを見る。
リョーコは真面目な顔でコクリと頷いた。「ああ、相合傘だ」
プッ・・・
笑い声が漏れる。何事かと雪絵が幸治を見れば、幸治はリョーコの方を見たまま肩を震わせていた。雪絵にはその表情を見る事はできなかったが―――笑っている、のだろうか?「・・・なによ?」
「―――いや」雪絵の声に、幸治はさっと振り返る。いつもの平然とした顔で。
「さて―――」
「ちょっと。なにかいいたいの?」
「いや?」
「・・・言いたいことがあるなら」
「ただ、今どき相合傘なんて――――――――――――――――微笑ましいなと思っただけだ」
「今、言葉選んだでしょ」
「別に」と、幸治はそっぽを向く。
そんな幸治を、雪絵はじっと睨み付けた。「とにかく、だ。昨日と今日の朝、なんであんなことをしたんだ?」
「あら? もしかして私の仕業だと思ってるの?」
「思っちゃいない」余裕を見せて悠然と微笑む雪絵に、幸治はいいや、と手を振る。
「確信しているだけだ」
「証拠は?」
「白状すれば楽になれるぞ」
「ハッ―――馬鹿馬鹿しい!」雪絵は吐き捨てると、腕を組んで。
「どうして私が親友のあかねを傷つけるような真似をしなきゃいけないのよ!」
「それがわからないから聞いているんだ」
「お話にならないわね。あなたの言っているのは、ただの言い掛かりよ」
「もう一つ! 綾のせいにしようとしたのはなんでだ?」幸治の言葉に、雪絵はピクリと眉根を寄せる。
厳しい表情で、幸治は雪絵を睨むでもなく、ただ見やる。「それさえなければ俺は介入する気はなかった。これはあかねとお前の問題だからな」
「・・・あの子が言ったの?」
「言ったわけじゃないが―――あかねは嘘をつくのが得意じゃないからな」
「まあ、ね」雪絵はフーッと息を吐くと。
「別に九条さんのせいにしようとか、そんなんじゃないわ」
「ほう?」
「本当に九条さんがあかねのノートを持ち出した所を見たのよ」
「今朝、黒板に相合傘を書いたのも綾だっていうのか?」幸治の言葉に、雪絵はふと幸治の顔を見て―――ふと、視線を反らす。
「それは―――知らないわね」
「・・・それは困った」
「なにがよ」
「別に―――ところで、雪絵」
「名前を呼び捨てにしないで」
「雪絵ちゃん」
「そうやって呼んでいいのはあかねだけよ」
「じゃあ、なんて呼べばいい?」
「佐野さん」
「・・・佐野って誰だ?」かくん、と雪絵は頭を項垂れる。
頭を落としたまま、雪絵は溜息とともに「佐野 雪絵。それが私のフルネームよ」
「おお」ぽんっ、と幸治は思い出したかのように手をうって。
「そういえばそうだった気も」
「気もなにもッ―――まあいいわ、それでなによ?」
「佐野。お前は昨日、朝早くに綾を見たと言ったが―――それは何時頃だ?」
「え・・・? 確か私が日直で早く来たから―――――7時前くらいかしら?」ふうん、と幸治は呟いて、ごそごそと自分の学生服の内ポケットに手をつっこむ。なにかを探すように身体をくねらせながら漁りつつ、幸治はなんとなしに呟いた。
「アリバイって知ってるか?」
「・・・よくサスペンスなんかで聞くわね」
「現場不在証明―――まあ、事件が起こった瞬間に別の場所にいたかどうかの証明なんだけど」と言いながら、幸治はポケットからなにかを取り出して見せた。
携帯用のテープレコーダー。録音・再生ができるタイプだ。
それを見た瞬間、雪絵は幸治がなにをやりたいのか―――なにを言いたいのか理解する。
幸治は再生ボタンをカチッと押した。『―――昨日の朝? 綾なら7時半までぐーすか寝てたわよー。あの子遅刻しなかった? そう』
流れたのは綾の母親の声。
カチッ、と幸治が停止ボタンを押すと、テープが止まった。「今のは綾の母親の証言だ」
「家族の証言は参考にならないんじゃないかしら?」
「母親が偽証していると?」
「そうでなくても、家族に気付かれずにこっそり家を抜け出してまた戻ってくるくらい―――」
「無理だな」即座に否定したのは幸治ではなく、リョーコだった。
「九条 霧子に悟られずにあの家を出入りするのは私でも難しい―――――いや、天空八命星なら出入できるかもしれないが、それでも家にいなければすぐ気付かれる」
「なによ、それ」
「九条 霧子は世界でも有数の結界術師だ。彼女の領域の中で―――」
「それはともかく」コホン、と幸治は霧子の話題を打ちきるように咳払い。
「ともかく。佐野の言うように、家族にアリバイ作りを頼んだり、家をこっそり抜け出してまであかねを陥れ様とする理由も意味もない」
「そんなのわからないでしょ? あなたが知らないだけで、なにか理由があるのかも―――」
「その言葉、そのまま返してもいいか?」
「フン」さて、と。
幸治はどうしたものかと悩む。
昨日、あかねのノートを晒しものにして、今朝も相合傘なんて書いたのは雪絵だと、幸治は確信していた。さっきはそんなことした理由がわからない、などと嘯いたが、なんとなく “理由” にも見当がついている。
雪絵が今朝も綾を見たと言ってくれれば話は簡単だった―――が。どうやらあからさまに話を振り過ぎたようだった。いきなり屋上なんかに呼び出せば、それなりに警戒する―――佐野 雪絵は馬鹿ではなく、かなり頭がキレる。
息を吐く。
彼女を言葉で追い詰めるのは多分、無理だろう。となれば決定的な証拠をつきつけるしかないのだが。
チラ、とリョーコの方を見る。と、リョーコはいつでもいいぞ、と頷き返した。しかし―――(できれば、雪絵に自白して欲しい)
佐野 雪絵は馬鹿ではない。頭がいい。
だからこそ、話して解からない人間ではないと信じたかった。(頭がいいからこそ、譲れないものがあるかもしれないけど、な)
「ねえ、もう帰っても良いかしら?」
「・・・・・・・・・」
「帰るわよ?」返答のない幸治に、雪絵は背をむけて屋上の出入口に向かう。
いいのか? と、リョーコが視線で問いかけてきた。幸治は嘆息、して諦めて頷く。
リョーコは怪訝そうな顔をしたが、しかしなにも言わずに、校舎内へ続く入り口のドアに手をかけようとする雪絵の背中を見送った。
と。ガチャ。
雪絵がドアノブに手を触れる寸前、向こうから扉が開いた。開いた扉の先には―――
あるひあるときあるばしょで
シャレにならない彼女の事情
第四話「金曜日の決別(後編)―――或いは小松あかねと西山幸治のささやかな夜食会」
「佐野さん?」
「・・・九条さん?」屋上に現れた綾とあかねに、雪絵は思わず大きく一歩後退。
その代わりに、綾とあかねが屋上へと出てきた。「あ、幸治にリョーコ。なにやってるのよこんなところで! ・・・佐野さんにヘンなことしなかったでしょうね!」
「なにもなかったわよ」答えたのは雪絵だった。
雪絵は綾を無視してあかねの方を向くと、「さ。帰りましょ。早く帰らないと陽が暮れるわ」
「う、うん・・・」頷きながらも、あかねは幸治の様子を伺っている。
はあ、と幸治はもう一度吐息。(・・・まあ、いいか)
これ以上粘っても、雪絵を崩すことは難しいだろう。
こっちにはキリフダがあるが、あかねが居るこの状況で使うのは非常にまずい―――というか、自白させることが無意味になると判断。(仕方ない。今回は引いておこう―――元々これは、あかねと佐野の問題だし)
そう考えて、幸治は「なんでもない」とあかねに向かって手を振る。
その仕草に、あかねはほっとしたように頷いた。「? どうかした? あかね」
「う、ううん。なんでもない―――」
「ヘンなの。じゃ、帰りましょ」
「そうね。帰ろ」と、にこやかに綾も頷いた。
瞬間、雪絵が怪訝そうな視線を綾に向ける。「なんで九条さんが返事するの?」
「え? でもほら、帰るんでしょ?」
「帰るけど・・・私はあなたと一緒に帰りたくないわ」不機嫌。とゆーか、むしろ嫌悪のこもった言葉で、雪絵は吐き捨てる。
それでも綾は笑みを―――どこか引きつった愛想笑いだったが―――浮べて、「ど、どうして?」
「私、あなたのこと嫌いだもの」
「雪絵ちゃん! そんな言い方―――」
「あかね!」たしなめようとしたあかねの言葉を遮って、雪絵はあかねに耳うちする。
「言ったでしょ? 昨日の朝のこと」
「で、でも・・・」
「それに、今朝だって・・・」
「え!?」驚いたように、あかねが雪絵を見る。
「今朝って・・・? なんの話?」
「え?」今度は雪絵が戸惑う番だった。
「だ、だから、今朝の話。黒板にあかねと西山くんの相合傘が書かれていたって」
「「えええうぇええーーーーーっ!?」」あかねと綾が驚愕に声をハモらせる。
「は、は、はうううう・・・?! う、嘘!? なんでっ。そんなっ!?」
あかねは羞恥のあまり真っ赤に染まった頬を両手で押さえて、その場をくるくる回り出す。
綾はあんぐりと口を開けて、幸治とあかねを交互に見比べた。
その様子に、雪絵は唖然としていたが。「・・・あかね、本当に知らなかったの?」
「はうーっはうーっ!??!」会話にならない。
「・・・本当に知らなかったみたいね。どうりで昼休みに屋上にこないと思ったら・・・」
「昨日の昼のように、屋上に逃げて来ると思った―――か?」
「羽柴君、なにかいいたそうね?」雪絵はリョーコに視線を向ける、が、リョーコは肩を竦めた。
と、代わりに綾がリョーコに疑問を投げかける。「あれ? なんでリョーコ、昨日の昼にあかねがここに来たって知ってるの?」
「私はエージェントだからな。それくらいは知ってて当然だ」
「そ、そうなんだ」よくわからない表情で、それでも綾は納得する。言いくるめられたとも言う。
「はうぅぅ・・・で、でも・・・なんでそんな・・・あ、あ、あい、あいあいあが、相合傘なんて、一体誰が」
ようやく少し落ち着いてきたらしいあかねが、困惑げに首を傾げる。
「そんなの決まってるでしょ。そこの―――」
雪絵が綾を指差して、あ、と声を上げる。
綾は自分を指差され、え、と自分でも指差した。「わ、私・・・?」
「そ、そうよ! 私、見たんだから! 朝早く、あなたが教室であかねのノートを持ち出したり、黒板にヘンなもの書いたりするのを!」
「え、えーっ!? ちょっとまってよ!? 見間違いでしょ!? だって私、そんなことしてない!」
「見間違いじゃないわよ!」
「でもっ。朝早くって・・・昨日も今日も、私ギリギリで学校に来たし」
「そんなの、朝早く来て、また家に帰って出なおしたんでしょう?」
「それにっ、今日の朝は朝早くから幸治とあかねが押しかけてきて、そのあとずっと一緒で登校したし!」
「え!?」綾の言葉に、雪絵は驚いてあかねを見る。あかねは気まずそうに視線を反らすと、こくりと一つ頷いた。
・・・そういえば、先程のやり取りを思い出す。―――本当に九条さんがあかねのノートを持ち出した所を見たのよ。
―――今朝、黒板に相合傘を書いたのも綾だっていうのか?
―――それは―――知らないわね。
―――・・・それは困った。幸治を見れば、彼は無表情で頷いた。
やられた。
西山幸治は、この記憶喪失男は、予め今朝のことを予見して罠をはったのだ。
そうだとすると、彼は昨日の時点―――少なくとも放課後、自分も雪絵の家に行くと言い出した時には、ノートを黒板の前に置いた犯人が雪絵だと気づいていたことになる。確信はなかったかもしれないが、推測くらいはしていたのだろう。にわかには信じられないが。「ね、ね、私じゃないでしょ? 佐野さんが見たのは単なる見間違い―――」
「いいえ、違うわ。あれは間違いなく九条さんだったわ」
「なっ―――なんで」雪絵はフ、と口元に微笑を浮べると、綾を無視してあかねの方を見る。
「あかね」
「な、なに? 雪絵ちゃん・・・」
「あなたはどちらを信じる? 私と九条さん、どっちの言ってることを信じるの?」
「え―――?」問われてあかねは一同を見まわす。
心配げにこちらを伺って来る綾、無表情でなにを考えているか解らない幸治、厳しく鋭い瞳で雪絵を見ているリョーコ。
雪絵は余裕のある表情で微笑んでいた。
吐息。「私は―――」
(ごめんね)
と、心の中で謝りながら、あかねは口を開いた。
「私は、雪絵ちゃんを信じる」
あかねの言葉に、雪絵はふふ、と笑い、綾は愕然と目を見開いてあかねを見る。
「あかね・・・どうしてッ」
「ごめん。ごめんね、綾さん・・・」
「九条さん、なにか言うことは?」
「そんなっ。私は本当にやってないッ!」
「口ではなんとでも言えるわね」雪絵は冷たく綾を見つめる。
綾は泣きそうな顔で、助けを求めるようにあかねを見るが、あかねは目を反らせてなにも答えない。「―――犯人は綾じゃない」
不意に。
リョーコが前に出る。「リョーコ!」
何故か慌てて幸治がリョーコを制止しようとするが、それよりも早く。
「犯人は佐野。お前だ」
「なに言ってるのよ。私は」
「証拠だ」と、リョーコは一枚の写真を学生服のポケットから取り出した。
それは早朝の教室を、後ろの席から写した写真。
朝の眩しい光が、教室の窓から鋭く教室の中を照らし出している。まるで夜だった時の闇を根こそぎ貫き掻き消そうとするかのように。
そんな光の中、ピンク色のチョークを片手に黒板にまだ名前の書かれていない相合傘を描きかけて、こちらの方を伺うように振り向いている女生徒が一人。
佐野 雪絵。「・・・・・どうやって撮ったの?」
決定的な証拠を突き付けられて、それでも雪絵は平然としていた。
悠然と。
リョーコを見つめ、尋ねる。「堂々と―――とはいえ、気配を消してはいたけどな」
「そういえば―――描いてる途中、なにか物音がしたような気がしたのよね。でも、振り向いても誰もいなかったと思ったんだけど・・・まさかその時に? 何処に隠れていたの?」
「堂々と、と言っただろう? 私はずっと小松の席に気配を消して座っていただけだ。―――己を殺し、自然と気配を同化させる。空気と気配を同化させれば、例え目の前に見えたとしても、空気だとしか感じない」
「言ってることはよくわからないけど―――この写真が合成でないことくらいは解かるわ」雪絵はそう言うと、「まいった」と、両手を天に向けて上げる。
「ちょっと」
声を掛けられて、雪絵は振り返る。振り返った瞬間、雪絵は綾に胸倉を掴まれた。
「どういうこと?」
「どういうこともこういうこともないわ」
「どうしてよ・・・? どうして・・・アンタ、あかねの友達でしょッ! なんでこんなことするの・・・? 昨日、ノートを黒板の前に置いたのもアンタなのっ!?」」
「一昨日―――あなたたちのクラスの前を通ったら、ちょっと見えたの。あかねがあなたに自分のノートを見せて、楽しそうにお喋りしてるのを。授業のノートにしては妙だったから、昨日、日直で朝早く来たついでに覗いてみたら、面白いものが書いてあるじゃない? あまりにも面白かったから、他の人たちにも見せてあげたかったのよ」あかねは青ざめた顔で雪絵の独白を聞いている。
「今朝はね―――昨日、あの二人がわざわざウチの前まで戻って来ていちゃいちゃしてたから、友人として祝福してあげたのよ」
「ふざけんなッ」だんっ、と綾はその場で片足を持ち上げて、床に叩きつける。
メキ、とコンクリートの床にヒビが入った。「や、やめてくださいッ!」
「あかね!?」雪絵を助けようと、自分にすがりついて来るあかねを、綾は驚いて見る。
「お願い、雪絵ちゃんを殺さないでッ」
「殺すかーッ!」ぱ、と思わず手を放し、綾はジト目であかねを見る。
「ふーんふーん。そーなんだ、あかねってばそんな風に私のこと見てたんだー」
「あっ。ええとっ。でもなんだかとってもものすごい迫力がッ」
「いーわよいーわよ。どーせ私なんて毎日毎日幸治の馬鹿を殴ったり幸治の阿呆を蹴飛ばしたり幸治の鳥頭を絞めたりしている暴力女よッ。でもね―――」キッ、と綾は何時の間にか暮れていた夕日を見つめて叫ぶ。
「私はッ、人殺しはまだしてないのよッ!」
「・・・まだ?」夕日に向かって叫ぶ綾に、思わずあかねは疑念の呟きを漏らす。
でもそのウチ本当に人殺しそうでちょっと殺伐。「とにかくッ!」
綾はびしぃっ! と雪絵を睨み付けた。
「死にたくなかったら、あかねに謝りなさいッ」
「やっぱり殺す気なのか・・・?」幸治のツッコミは黙殺。
雪絵は、しかしフン、と鼻で笑って。「どうして私が謝らなければならないの?」
「なッ・・・どうしてかも解らないほどの馬鹿!?」
「誰が馬鹿よ!?」
「アンタよアンタぁ! 悪いことをしたら土下座して謝りましょうッて、保育園で教えてもらわなかった!?」
「私、幼稚園に通ってたし」
「くっ、ブルジョワがッ」
「・・・それは偏見だ」と、同じく幼稚園に通っていたリョーコが呟くが無視。
「いーから謝れぇッ」
「―――止めてッ」あかねの声が響き渡る。
その悲痛な声に、綾は思わず振り帰る。「あかね・・・」
「綾さん・・・もういいですから。私は、もう大丈夫ですから」にこっ、と微笑むあかねに、綾は胸が締め付けられる思いだった。
友達―――中学の時からの親友に酷いことされて、すごく辛いはずなのに健気に笑ってみせるあかねのことが切なくて、そしてそうまでして庇われる雪絵に対してちょっと―――いや、かなり嫉妬を感じる。
それなのに雪絵は、そんなあかねに謝りもせず―――自分が悪いとも思ってないんだろう。そう考えると、本気で殺したくなってくる。「ごめんね、雪絵ちゃん」
あかねは綾と雪絵の間に割り込むように前に出て、雪絵に向かって頭を下げた。
そんな様子に、綾は溜まらず叫んでいた。「「どうしてあかねが謝るのよッ」」
――――――え?
と、綾はぎょっとして雪絵を見る。雪絵も似たような表情でこちらを見ていた。
雪絵はチ、と軽く舌打ちすると、忌々しげに顔を歪めて吐き棄てるように言い放つ。「ムカつくわねぇ・・・ッ」
「ゆ、雪絵ちゃん・・・?」
「あなたのその態度ッ。いつもいつも謝ってばかりで―――そうやってあなた、私のことを馬鹿にしてるんでしょ!」
「そんな・・・私は・・・・・」泣きそうなあかねに、雪絵は一瞬、傷ついたように顔を歪めたが、すぐに憎々しげな表情に戻ってあかねを睨みつける。
「中学の時から、初めて会った時も謝ってたわね―――そんなあかねが、私は最初から嫌いだったわ! いつもいつも下手にでながら、本音はなに考えてるか解らないッ。あんたなんか大っ嫌いよ」
「雪絵ちゃん・・・」
「だから、あなたのことずっと苛めてあげたのよ。覚えてる? 中学の頃、よく靴とか鞄とか色々なものが隠されたりしたでしょ? あれ、全部私がやったのよ! あなたのことが気に食わなかったからッ」
「・・・・・・・・・・・」
「それなのにあなたはいっつも平然としていたわね―――なに? 余裕? それともこんなことじゃくじけません、って悲劇のヒロインに酔ってたの? そうね、あなたは確かに悲劇のヒロインだわ。馬鹿な母親が馬鹿な男に強姦されて、誰にも望まれずに生まれてきた――――」パンッ。
頬の鳴る音。
雪絵はぶたれた頬を撫で、ぶった相手―――あかねを半ば呆然と見る。
あかねは涙の滲んだ瞳で雪絵を睨んでいた。「お願い、かーさんの悪口は・・・止めて」
雪絵はしばらくぼうっとあかねを見つめていたが、やがて、フ・・・と笑う。
「殴ったわね?」
雪絵の言葉に、ビクッとあかねは身を震わす。
睨むのを止めて、どこか気弱な瞳で雪絵を見る。「すっとしたでしょ?」
「そ、そんな・・・私は・・・」
「あなたもずっと私のこと嫌いだったんでしょ? こうして殴りたかったんでしょ?」
「ち、違う・・・私は・・・」
「そうやって良い子ぶって、だから私はあなたが嫌いだったわ。ずっと、ずっとあなたなんて―――」夕焼け。
雪絵の背後には真っ赤な夕焼けがあり、それが逆光になってあかねには雪絵の表情が良く見えなかった。「―――あなたなんて、産まれてこなければ良かったのよッ」
「・・・・・・ッ」雪絵の言葉に、あかねは雷に打たれたかのように身を振るわせる。
「・・・このッ・・・言わせておけばぁっ!」
ギリ、と奥歯を噛み締めて綾はあかねの前に出る。拳を振るわせて、殴りかかろうと飛び出して―――
バタン。
いきなり背後でドアの閉まる音。
何事と、綾が振り返ると、あかねの姿が見当たらない。「あかね・・・?」
「あかねなら、なんか泣きながら校舎の中に入っていったぞ」ぽつりと幸治が呟く。
「こ、この馬鹿幸治ッ。なに平然としてんのよッ」
怒鳴りつけて、綾は慌ててあかねの後を追う。
バタン。
と再び閉まるドアを見た後、幸治は雪絵に顔を向けた。
―――あかねから見て、雪絵は夕日を背にしていた。だから夕日が逆光になって、その表情がよく見えなかった。綾も同じ。「あなたは、あかねを追わないの? 西山くん」
「アンタこそ追わなくていいのか? 佐野」雪絵の問いに、幸治が返すと、彼女はフンと鼻で笑って。
「冗談でしょ? なんで私が・・・」
「ああ。冗談だ」
「・・・・・」―――幸治から見て、夕日は雪絵の右手にあった。だから、雪絵の横顔がはっきりと見えた。
「多分・・・」
「なに?」
「佐野の言うことは半分合ってる」
「・・・・・・」
「あかねは気付いてたと思う。お前が、あかねのことを嫌いだってことに」―――雪絵の表情には憎しみはなかった。
「だけど、それでもあかねはお前のことが好きだったんだと思う」
「嘘」
「さあ、どうかな。俺は人の心を読めないから実際はどうか解らない。お前の言う通り、あかねは佐野のことが嫌いなのかも知れない。でも、俺はあかねは佐野のことが大好きなんだと思ってる」
「憎んでるはずよ。あの子、気付いてた―――私が、あの子を苛めてたことに気付いていたはずだから。だから―――ッ」
「そう思うのなら」そっ、と幸治は雪絵の顔に手を向ける。
「止めて」
幸治の手が雪絵の目元に触れる寸前、雪絵が身体を引いた。
宙に、雫が散って、キラキラと夕日に反射して煌く。「―――そう思うのなら、どうして泣いているんだ?」
綾があかねに追いついたのは、校門を出た辺りだった。
「あかねっ」
「―――――綾、さん」走っていたあかねは、綾に追いつかれると立ち止まる。振り返ったあかねは涙を拭って綾を見た。
綾はちら、と屋上をみやるが、校門からでは職員棟が邪魔になって、生徒棟の屋上は見えなかった。(まだ幸治たちは、あそこにいるのかしら)
不意に雪絵のことを思いだして、綾は胸の中にドス黒いモノが沸きあがるのを感じていた。
―――あのまま、もしかしたら自分は雪絵を殺していたかもしれない。などと思って、ゾッとして頭が冷える。
そんな激情を振り払って、綾は努めて明るくあかねに笑いかけた。「あ、あのさ。一緒に帰ろうよ」
「・・・はい」綾が歩き出すと、その後にあかねが続く。
暫く無言で、黙々と歩き続けたが、「綾さん・・・」
「え? なに、あかね」名前を呼ばれて、綾は歩調を調整してあかねと並んで歩く。
「あの・・・さっきは、ごめんなさい」
「・・・さっき?」いきなり謝られて、綾は面食らう。
「・・・・・・・」
「・・・もしかして、さっきどっちを信じるかで私じゃなくて、佐野さんを信じたこと、かな」
「はい・・・」
「いーよう。全然気にしてないから。あはははははー」と、綾は豪快に笑ってから―――
綾は不意に肩を落とした。「―――ごめん嘘。実はかなり気にしてる」
「ご・・・ごめんなさい」
「いいよ。―――あかねは、佐野さんのことを信じたかったんだよね?」
「・・・・・・・・・」なにも答えないあかねに、綾は怪訝そうな顔をする。
「違うの?」
「・・・なんとなく気づいてたんです。雪絵ちゃんのこと」
「気付いてた? 昨日と今朝の犯人が佐野さんだってことを?」
「それと、ずっと、ずっと雪絵ちゃんは私のことを嫌いだってことを」吐息。
「ずっと、苛められてたって気付いてたんです」
「なんでよ! 気付いてたならそう言えば良かったじゃない!」綾の言葉にあかねは苦笑。
そんなあかねい困惑しながら、あかねは叫ぶ。「嫌われて、苛められてるのを解ってて、それでも我慢して黙ってて―――それの何処が友達なのよッ。友達なら、はっきり言って、喧嘩して仲直りしてッ―――そういうのが友達ってもんでしょ!」
「・・・・・・」
「あかね、さっき言ったわよね。『悪くもないのに謝って、その場を誤魔化して逃げようとするのは友達じゃない』って―――だったらッ!」
「私が悪いんです」ポツリとあかねは言葉を漏らす。
小さい、本当に小さい呟きだったけど、その一言で綾は言葉を止める。「雪絵ちゃんはああ言いましたけど、最初はこうじゃなかったんです。雪絵ちゃんは私に優しくしてくれて―――私、他人が苦手だからずっと独りで、友達がいなくて・・・だから、雪絵ちゃんは本当に始めての友達だったんです」
友達になった時のことを思い出したのだろう。
あかねは少し嬉しそうに微笑んだ。「でも―――あるときから・・・なんか、雪絵ちゃんの様子が―――なんか、よそよそしくなって。その頃から、靴を無くなっていたり、そんなことがあって・・・」
「あるときって・・・?」
「・・・中学2年の頃、でした」
「ふうん・・・」中学2年の頃。
なにが原因か、あかねには見当がつかないのだと言う。
ふと、綾は思いついて―――ちょっと言い辛そうに、尋ねてみる。「その・・・綾の家庭の事情を、どこからか聞いて、それでよそよそしくなったとか・・・?」
「・・・それは違うと思います。そのことは、もうずっと最初に雪絵ちゃんだけには話しましたから」
「ふうん・・・?」と、綾はふと首を傾げる。
「佐野さん以外には秘密だったの? それにしては、なんか結構―――みんな知っていた見たいだけど」
ふと、あかねの家の事情を知った時のことを思い返す。
あの時は近くの席のクラスメイトが話しているのを聞いたのだ。幸治も別のクラスメイトから聞いたと言っていたし、大西と小島の二人、それに隣のクラスのリョーコも知っている様子だった。「あ、あの・・・それは―――なんか何時の間にか知れ渡っちゃって・・・」
「・・・・・・」なんとなく予想がついた。
おそらく、雪絵が周囲にバラしたのだろう。「あのさ・・・あかね」
「はい」綾はなにかを言おうとして―――なにもいう言葉が浮かばない。
そのまま押し黙ったまま、やがて綾の家に辿りついた。「じゃあ、綾さんまた明日」
「う、うん―――あのさ!」別れを告げるあかねに、綾は必死で言葉を考え、紡ぐ。
「あ、あまり気にしない方がいいよ」
言ってから、言いなおす。
「あ・・・気にしないってのは無理かも知れないけど―――でも。あのさっ、私でよければ力になるから! 私なんか、殴る蹴るくらいしかできないけど。あー・・・でも話相手くらいにはなれる、と思うから。だからっ、なにかあったら、ちょっとでもいいから、頼ってくれると嬉しい・・・かな」
「はい」あかねは嬉しそうに頷いて、家路についた。
アパートについた頃には、陽が暮れて完全に真っ暗になってからだった。
部屋の中に鍵を開けて入って、真っ暗な部屋の明かりをつけて一息つく。母親は今日は遅番で帰ってくるのが遅い―――だから、帰り際にコンビニでおにぎりを買って来ていた。好物の鮭のおにぎり。ダイニングのテーブルの上にコンビニの袋を置いて、座る。
鮭のおにぎりが好きだなんて、シブい趣味ねー、と雪絵に言われたことを思い出して、少しせつなくなった。テーブルの上に腕を重ねて、その上に顔を埋める。
雪絵が自分のことを疎ましく思っていたのは薄々気がついていた。だからこそ、高校に上がって別々のクラスになってからは、付合わずに離れたのに。(どうして、こうなっちゃったんだろ)
別に、嫌われていてもよかった。疎まれていても。
どんなに傷つけられても、苛められても、それでもあかねにとって雪絵はただ一人の親友だった。
例えそれが偽りの親友でも。あかねに向けられる笑顔が嘘であっても。ホントでなくてもあかねは嬉しかった。
なのに、今日、完全に決別してしまった。
はっきりと、雪絵はあかねのことを嫌いと言った。もう、二度と偽りでも友達として付合ってくれることはないのだろう。―――あなたなんて、産まれてこなければ良かったのよッ。
(そうよね。自分でもそう思う)
自分なんか産まれてこなければ良かった。
そうすれば、かーさんも苦労しなくて良かっただろうし、雪絵も自分のことで苛立つこともなかっただろう。なにより自分自身、こんなに傷ついて哀しむこともなかったはずなのに。「死んじゃいたいなー・・・・・・」
呟いて。涙がでてきた。
コンコン。
不意に玄関の戸を叩かれて、あかねは顔を上げた。
椅子を立って、涙を拭いながら玄関に出る。「どちら様――――」
戸の向こう側の来客を伺おうとして、でてきた声はかすれた涙声だった。
鼻をすすって、言いなおす。涙声を押し込めるようにして、やや強めに力強く。「どちら様でしょうか?」
「・・・忘れた」返ってきた聞き慣れた声に、あかねは思わず苦笑。
なんか、ホッとした。「鍵、開いてますから」
「無用心だな」などと言いながら、幸治が戸を開けて玄関に入って来る。
「よ、明日ヒマか?」
「え・・・? まあ、特に用事はないですけど」
「夕方頃、時間を空けといてくれ」
「・・・はあ?」
「用事がある―――本当は今日にしようと思ったんだが・・・まあ、色々あったし」その色々を思い返して、あかねは顔を暗く俯かせる。
「―――ところで。親は?」
「親・・・かーさんなら、まだ仕事ですけど」あかねが言うと、「そうか」と言い残して、幸治はさっさと帰っていった。
なんだったんだろう。と、困惑しながら、あかねはテーブルに戻ると気を取り直して鮭のお握りを袋から取り出した。と―――コンコン。
再び玄関の戸を叩く音に、あかねは再び玄関に出る。
「どちら様ですかー?」
「忘れた」
「・・・・・・鍵、開いてますよ」
「無用心だな」言いながら、幸治は部屋の中に入って来る。
さっきと違って、今度は手にカップラーメンの容器をもっていた。「上がっていいか?」
「はあ・・・どうぞ」
「お湯あるかな?」
「沸かさないと」あかねが答えると、幸治は「頼む」と言ってテーブルの椅子に座った。
戸惑いながら、それでもあかねはやかんに水を入れてコンロに火をつけてかけると、幸治の向かい側に腰を下ろした。
なんとなく、無言。
暫くして、やかんの湯が沸いた。「はい」
「悪いな」幸治がカップメンの蓋を開けると、その中にあかねがお湯を注ぎ込む。
お湯を入れ終わると、あかねはやかんをコンロ上に戻して、箸を幸治に渡す。幸治はその箸を重しにして蓋を閉じた。「食べないのか?」
テーブルに戻ったあかねに、幸治が尋ねた。
目線はテーブルの上に置かれた鮭のおにぎり。―――そういえば食べるのを忘れていたと思い出す。「そうですね」
と、あかねはおにぎりの包みを手にとって―――テーブルの上に置く。
そのまま席を立つと、冷蔵庫を開けてなかから麦茶を取り出して、二つのコップに注いだ。「はい」
「ありがと」短く言って渡し、短く答えて受け取る。
席について、あかねはおにぎりの包みを持てあそびながら、幸治のカップメンを見て。「やっぱり・・・待ちます」
「やらんぞ」
「いりません」
「でももの凄く欲しそうな顔をしたらあげてしまうかも」
「いりませんよ」
「そうか・・・」なんとなく幸治は残念そうだった。
やがて、暫くして3分が経ったころ、幸治は箸を取って蓋を開ける。あかねもおにぎりの包みを開けた。
ずるずると、美味そうに麺をすする幸治を見ながらおにぎりに齧りつく。・・・なんとなく、カップメンが食べたくなってきた。「欲しいか」
「いりません」ちょっと嘘。
嘘を誤魔化すように―――もしかしたら浮べているかもしれない “もの凄く欲しそうな顔” を見せないように、あかねはおにぎりに齧りついた。
おにぎりとカップメンを食べ終わっても幸治は帰らなかった。
なんの用事があったのだろう、とあかねは気になったが、特になにも聞かなかった。「―――うちも今夜は親がいなくて、一人でカップラーメンをすするのも寂しかったから」
ふと幸治がそんなことを呟く、あかねは笑って。
「幸治くんでも寂しいって思うんだ」
冗談半分に呟く。
しかし幸治は真面目に頷いた。「ああ。時々、独りっていうのがとても哀しく思える時があるんだ・・・」
そう、呟いた幸治にあかねはあ、と呻く。
なにか、ひどく幸治を傷つけてしまったような気がして―――「ご、ごめんなさい!」
「なにが?」いきなり謝られて幸治はきょとんとする。
「わ、私。ヘンなこと言って・・・ごめんなさい・・・」
「謝られることじゃない」
「でも・・・」
「―――ずっと昔は寂しくなかったんだ。独りでも。本当は、独りじゃなかったから」よくわからない意味の言葉。
戸惑うあかねに、幸治はんーっとなにか考えるようにして―――不意に。「秘密だぞ」
いきなり顔をつきだしてくる。
急接近してきた幸治の顔に、あかねは真っ赤になって椅子を後ろに引いた。「な、なにがですか?」
「秘密の話。誰にも―――親父にも、綾にも言ってない」どきっとした。
綾にも言ってない幸治の秘密。―――そう言われて、胸の鼓動が途端に早くなる。「―――弟がいたんだ」
「弟?」初耳だった。
確か、この前、家族の話をしたときにも幸治に弟がいるとは言わなかった。「でも、中学になるまで弟がいるなんて気付けなかった―――いや、忘れてた」
どこか、寂しそうに、幸治は語る。
「中学のとき、初めて弟に気付くことができた―――弟が、俺を殺そうとした時に初めて気付けたんだ」
「殺っ・・・!?」
「そして弟は俺を殺そうとして―――俺を殺せなかったあいつは、消えてしまった」よく意味が解らない。
殺そうとして、殺せなくて消えてしまった。
意味が解らないけど、幸治にとっては大切な真実、思い出なんだろうと思う。「殺されてもよかったんだ。俺は」
「幸治くん・・・?」
「殺されるべきだったんだ。俺は!」
「駄目ッ」だんっ、とテーブルを叩いてあかねは立ちあがる。
「駄目だよ幸治くんッ! そんな風に考えたら絶対に駄目!」
「だけど、俺が居なければ、昭は―――」あきら。
幸治の弟の名前だろう、と考えながら、あかねは首を横に振る。「でも、幸治くんは今ここに居るでしょ! そのお陰で私は幸治くんに会えたし、幸治くんに会え無かったら私は綾さんと友達になることもできなかった! ―――その、弟さんは気の毒だったかもしれないけれど、自分が居なかったら、なんて考えは今まで幸治くんに出会えた全ての人に対して失礼だよ!」
あかねの言葉に幸治は驚いたように、あかねを見上げていたが。
頷く。「そうだな。俺もそう思う」
「・・・え?」
「俺が居て、あかねが居てくれたから、俺はあかねに出会えた。だから、さ」(あう・・・)
あかねは心の中で頭を抱えていた。
幸治の言いたいことはなんとなく解っていた。「ご、ごめんなさいっ。私は、こんなこと言える資格なんて・・・ッ」
「言葉を吐くのに資格なんて要らないだろ―――さて、と」幸治は立ちあがる。
「そろそろ帰る」
「あ、うん」玄関で靴を履いて、幸治はあかねを振り返った。
「さっきの話、さ」
「・・・うん?」
「最後の、本当に最後の瞬間、昭は解ってくれたんだ―――そして消えた」
「それは」良かったね、と言おうとして言い留まる。
弟とが消えて良かった、というのはやっぱり違うような気がする。「―――良かった、と俺は思うよ」
「・・・幸治くんって・・・人の心を読めるみたいだね」
「ん?」
「なんでもない」あかねは誤魔化すように笑った。
「だから、さ。佐野もきっと解ってくれると思う」
「あ・・・」どうやら幸治は、かつての自分と弟を、あかねと雪絵にダブらせているようだった。
それに気付いて、あかねは小さく頷く。「うん・・・」
「それと」
「なに?」
「ずっと―――俺は弟が居たのに気付けなくて、それでも弟がいてくれたから独りでも寂しくなかったんだと思う。だから」幸治は少し照れくさいのか、あかねから視線を反らして。
「今は、独りはちょっと寂しいから、また」
「うん・・・私も独りだから。いつでも歓迎するよ」
「それから―――綾じゃないけど、ちょっと嬉しいかもな」
「え?」
「言葉」
「言葉?」言われて、意味を考えて、それから気付く。
(――――――そういえば、なんかさっきから私、かーさんや雪絵ちゃんの時と同じ口調でッ!?)
「は、はう〜っ!?」
「じゃ、また明日なー」
「は、は、はいっ」あかねが顔を真っ赤にして頷くのを見て、幸治は玄関の戸を開け――――――ようとしたら、むこうから開いた。
「ただいまーっ、ってあら・・・?」
外から玄関の戸を開けて現れたのは、あかねの母親の明子だった。
明子は、玄関に立った幸治とその後ろのあかねを見比べて―――「さて・・・かーさん、ちょっと急用・・・」
「か、か、かーさんっ!?」何故か玄関の戸を閉めてでようとする明子を、あかねは必死で呼びとめる。なんでこんなに必死なのか自分でもよく解らなかったが。
「いや、気遣いは無用だ。もう帰るところだし」
「き、気遣いって!? なにを気遣うんですかーっ!?」
「あらら残念。でももうちょっとゆっくりして―――いや、ついでに泊って行ったらどうかしら?」
「か、かかかか、かーさんっ!?」
「「とゆーか、少し落ち着けあかね」」顔中を真っ赤に染め上げて、ぷしゅーっと頭の上から蒸気を噴出しそうな娘に、明子は苦笑。
「ま。今日は帰る―――じゃ」
簡潔に言い残して、幸治は自分の部屋に戻っていった。
明子は幸治が自分の部屋に入るのを見送ってから玄関の戸を閉めると、改めてあかねに向き直った。「ただいま」
「お、おかえり・・・」
「あらやだあかね。なんか、顔真っ赤よ? 風邪でも引いたのかしら」
「うう〜・・・」あかねは唸って自分の母親を “わかって言ってるんでしょう” と睨みつける。
そんな娘に明子はクスクスと笑いながら部屋の中に上がった。いつも外出の時には持っている、愛用の手提げ鞄をテーブルの上に置いて一息。「かーさんはご飯済ませてきたけど・・・あかねは?」
「あ、私も今食べたところ」あかねが言うと、明子はにたりと笑って、
「幸治くんと二人っきりで?」
「・・・なんか、いやらしい言い方・・・」
「ううん。別にそんなことないわよー?」嘘だ。
と、あかねは心の中で断言。それから言い訳がましく口を開く、「こ、幸治くんが勝手に来たんだからね―――別に、私は・・・」
「悪いとは言ってないわよー、私は。・・・ううん、むしろ良いことだと思う。独りで食べてると、美味しい食事もわびしくなるわ―――逆に誰かが居てくれればそれだけで、1個100円カッコ税別カッコ閉じるの鮭のおにぎりだって最高のごちそうに光り輝くのっ」
「かーさん、なんか会社で良いことあったの?」いつもよりもテンションの高い母に、あかねは苦笑。
いーえ、別に。と答えてから、ふ、と明子は優しい目であかねを見て。「あかねには悪いと思ってる。特に最近は夜遅くて、ずっと独りにさせてたし」
「え。あ。そんな、私は気にしてないよ?」
「あかねが気にしなくても私が気にするの」少し怒ったように言いきってから、明子はふーっと溜め息をつく。
「仕方ないと言えばそれまでだけど。やっぱり家族って、親子って、一緒にご飯食べるものだと思うのよ―――せめて兄弟居ればねぇ。少しは寂しくないんでしょうけど――――そうだわ」
ぽん、と明子は手を打った。凄まじく良い考えが思い浮かんだと、嬉しそうな顔をしてあかねをみる。
それを見て、あかねはなんとなく母親の言いたいことを察知した。「まだしばらく私も夜遅くなリそうだし、幸治くんに頼んで―――」
「却下」
「どうして・・・?」もうすでに似たような約束をしてしまったのは、なんとなく秘密にしたかった。
「・・・なんとなく」
「ふーむ・・・」素っ気無く―――目線を合わせることなく言う娘を、明子はなんとはなしに観察。
気まずそうに顔を強張らせるあかねに、母親はぽつりと質問。「あかね。もしかして、幸治くんのこと好きなの?」
「はうっ!?」瞬時に顔を真っ赤にして、あかねは母親を見て―――自分の顔が真っ赤に火照っているのを自覚して、テーブルに座り込むとその表情をかくすように突っ伏す。突っ伏した状態のまま、あかねは低い声で「違う」と呟く。
その否定を辛うじて聞き取った明子は苦笑。全く、ウチの自慢の娘はなんと嘘がつけない娘なのだろうかと―――まあ、そこが良い所なのよね、とか親バカ発揮。・・・してから、不意に難しい顔をして、顎先に人差し指をつけて天井の蛍光灯を見上げて、小さな声で呟いた。「でも・・・・・そうすると、ちょっと困るわね」