―――小松あかねの朝は早い。
6時に起床して、母親を起こす。母親が朝食と弁当を作っている間に学校へ行く支度をしたりするのだが。「あかね、起きなさい」
その日は母親に起こされた。
時計を見る、と6時半。「あ―――ふわぁ・・・ぁ・・・おはよ・・・かーさん」
寝惚けた視界の中、あかねの母、明子はくすりと笑う。
「こーしてあかねを起こすのって久し振りねー。いつも起こされるのは私だし」
「かーさん夜遅いから・・・仕方ないよ」明子は仕事から家に帰ってからも、家で次の日の仕事の準備や職場の改善提案(仕事のやり方を変えて効率を上げるとか、職場の整理整頓の仕方とか、とにかく職場に関することで改善案をだすと、会社から幾らかお金が貰える)などを書いていたり、後は趣味である料理、というか弁当の研究などで夜、日付が変わってから寝ることが多い。そのくせ、弁当をつくったりして朝も早いために、早起きのあかねが起こすことになる。
昔は睡眠時間が少なくて、過労死しないかと不安になって「もう少し寝なよ」と母を説得しようとしたこともあるが、特に今まで倒れることも健康を害することもなくやってきた。強い、のだとあかねは思う。身体が強い、というだけではなく心も。心身ともに強い、からこそ母は望むことなくできた自分を産んで、今まで育ててきてくれたのだと思う。「あかねは昨日は遅かったものね」
くすくすと明子は笑った。
昨日―――道に迷って見知らぬ公園で立ち往生していたあかねと幸治は、とにかく歩いて歩いて歩きまくった、電話しようにもあかねは財布を家に置いてきていたし(帰りに買い物をする時以外は、無駄遣いをしないようになるべく家に置くようにしている)、幸治は財布を忘れていた。
見知らぬ街の、見知らぬ道を、あてもなく金もなく歩きまわって、見慣れたアパートを見つけることができた時には奇跡の存在を信じたほどだった。「・・・昨日は、ごめんなさい。心配かけて」
あかねは申し訳なさそうにうなだれる。
昨晩、帰って来れたのは11時を回っていた。もう少し遅ければ、明子は警察に連絡するところだったという。
そんな娘の様子に明子は苦笑。「本当に心配だったのよ。まったく」
「ごめんね。かーさん・・・」
「でも、ちょっと嬉しいかな。あなたがあんな遅い時間まで友達と一緒に居るなんて、今までなかったんじゃないかしら?」
「昨日はたまたま成り行きで・・・」
「そんな成り行きになった相手が男の子っていうのが、かーさんとしては心配だけれど」明子はそこでふふっ、と含み笑い。
母親の言葉で昨晩の “勘違い” を思い出して、あかねは顔を真っ赤にする。
そんな娘の様子には気づかずに、明子はおっとりと笑みを浮かべて続けた。「でも虎雄さんのところの幸治くんなら安心ね」
なにが安心なんだか。
あかねは少々困惑したが、なにか聞き返すと藪蛇をつつきそうだったので何も言わずに。
そんなあかねに、明子は「あ」となにか思い出したように声を上げる。「そうそう。あかね、その幸治くんがさっきから待ってるわよ」
「・・・・・え?」
あるひあるときあるばしょで
シャレにならない彼女の事情
第三話「金曜日の決別(前編)―――或いは小松あかねの揺れる感情」
「あかね、なんか用か?」
パジャマのまま(ちなみに水色の柄のないパジャマ)玄関に出た瞬間、玄関にぼーっと突っ立っていた幸治の一言に、あかねは脱力して肩を落とす。
「用事があるのは幸治くんの方じゃないの・・・?」
朝っぱらから幸治の相手はちょっと疲れる、と思う反面、自分の名前を覚えてくれていたことが少し嬉しかったりもする。
あかねはそんな自分に苦笑すると、落としていた肩を持ち上げて幸治に向き直った。
幸治はすっかり学校に行く身支度を整えていた。
さっき、起きたばかりに時計をみたら6時半だった。母親によれば、あかねが起きる前から待っていたというから、遅くとも六時、いや五時半には起きていたことになる。
昨晩、家を探して三千里・・・と、までは行かないが、それでも足が棒になるくらい歩いて、家についたのが11時。なんだかんだで、あかねが寝たのは12時過ぎだった。幸治も同じくらいに寝たはずだが、眠そうなそぶりをカケラも見せていない。「おはよう。朝、早いね」
と言いながらあかねは欠伸を一つ。他人の前ではしたないと思いつつ、それでも出てしまう。正直、昨日の疲れがまだ残っていて、眠い上に足が軽い筋肉痛、足以外の箇所も疲れのせいか怠い。
だというのに、目の前で幸治は平然としている――――少なくとも、そのようにあかねは見えた。
毎日毎日、綾の鉄拳をその身に受けているお陰か、それとも疲れすらも忘却の彼方に消えてしまうのか、ともあれ西山幸治はタフだった。「おはよう。それで、なんの用だ?」
「・・・・・」だから用事があるのは幸治くんの方じゃないの?
と、繰り返しても無駄だろう。多分。それくらいはここ最近の付き合いでわかってきた。ついでに綾の気持ちも、ものすごく解ってきた気がする。(私もそのうち綾さん見たいに、幸治くんを蹴ったり殴ったりするのかな)
否定できない自分が怖い。
ちょっと想像してみる。なんか幸治が「忘れた」とか言って、そんな幸治にあかねが「馬鹿幸治くんっ」とか言いながらパンチで幸治の頬を軽く撫でる。
・・・撫でてどーする。しかも想像の中のあかねのパンチはやったらとへなへなしたパンチだった。ハエどころか手乗り文鳥だって止まりそうなパンチ。さらに「馬鹿幸治」はいいとして、君付けはないだろう。
(・・・まあ、しばらくは大丈夫ってことだよね)
つくづく自分は暴力的な人間じゃないなーとか思いつつ、あかねは安堵。
「あかね?」
「え? あ、幸治くん」想像。というか妄想に夢中で目の前の幸治を忘れていた。幸治くんの記憶喪失ってうつるのかな・・・とか馬鹿なことを思ってから、
「えっと。・・・あ、そう。一緒に学校に行こうって・・・」
「おお! そういえばそんな約束をした気がしたな」ぽんっ、と納得したように幸治は手を打った。
本当は約束したのは綾とあかねで、しかも綾が一方的にあかねに押しつけたのだが。
ともあれ。「それじゃちょっと待ってて。今、支度してくるから」
あかねは自分の部屋に戻ると、手早く着替える。
自分で切ったそれほど不格好ではない髪の毛を軽く手で撫でて―――自分で適当に切り揃えた髪だ、櫛ですくほどの髪でもないと自分で思う―――あかねは髪を適当に整えると、玄関に向かいかけて「あ」
と、気づく。
そういえば弁当を用意していなかった。朝食もまだだ。まだ7時にもなっていない。流石に母も用意してないだろう。考えてみれば幸治の分まで作ってやらなければならない。いつもは綾が作っているらしいが―――(・・・あれ?)
ふと疑問を覚えた。なんで綾がいつも幸治の弁当を作っているのだろうか。聞くところによると中学の時からだというが。
(そういえば、あの二人の関係ってなんなんだろう・・・?)
いつも二人でワンセットというか、いつも一緒で一人一人でいるところをほとんど見たことがないので、逆に気にならなかったが。考えてみれば登下校もいつも一緒で、綾は幸治の分の弁当までつくってやっている。幼馴染み、という話だったが、そこまでするものだろうか。
(やっぱり恋人同士・・・なのかな)
そう思った途端、不意に胸が苦しくなった。
「あかねー。早くしろー」
「え、あ、はいっ」物思いに耽っていたあかねは、幸治の声で我に返ると慌てて玄関に出た。
「あのっ、まだお弁当が」
「大丈夫だ」なにが、と問うヒマをあかねに与えず、幸治はさっさと玄関を飛び出す。そのままアパートの二階の廊下の、あかねの住む部屋の反対側の端。階段のある場所まで走ると振り返って叫ぶ。
「早く!」
「えっ、えっ、ええっ!?」なにをそんなに急いでいるのだろう。と頭の片隅で思いながら、あかねも靴を履くと慌てて玄関を飛び出す。
「かーさん、行ってきます!」
「え? お弁当は―――」と、明子の声は届かずに、明子が玄関に出たときにはすでに幸治とあかねはアパートの階段を降りて見えなくなっていた。
若者よ、狭いこの日本をそんなに急いで何処に行くのかね? などと明子は思いながら微笑ましい表情を浮べて二人を見送ると、弁当を作って学校へ届けてやるべきかどうか考えて―――しかし、今日は仕事を休むわけにはいかないことを考えると、どうも難しいと悩む。
結局。「・・・昼一食くらい抜いたって大丈夫よね。うん」
頷いて、せめて晩御飯は少し奮発しようかしら、と明子は思った。
九条。
と、書かれた表札のある家の前に、あかねは幸治に連れられてきていた。赤い屋根の二階建ての一軒家。フツーの大きさでフツーの庭があってフツーの門の前に二人は立っている。
何度か見た事のある家―――というより、あかねの通学路の途中に通る道だ。「ここって、もしかして綾さんの家ですか?」
「綾?」あかねが訪ねると、幸治は綾の名前を不思議そうに呟き返す。またいつもの記憶喪失だろうか。いい加減にうんざりもしてくるが、だからといって殴ったり蹴ったり叫んだり怒鳴ったりするほどでもない。あかねは愛想笑いなどを浮べながら、
「幸治君は綾さん―――この家に用事があるんですよね?」
「・・・えーと」などと悩むように唸りながら、幸治はおもむろに「九条」と書かれた表札の下にあるインターホンを押す。
「わ。こんな早くにお邪魔したら迷惑じゃないですか?」
「綾の母親は驚くほど朝が早いから大丈夫だ」淡々と答える幸治。
ふと、あかねは幸治の驚いた顔というのを見て見たいと思った。考えて見れば笑顔以外、幸治の表情らしい表情をあまり見たことがないような気がする。その「笑顔」を思い出して、あかねはぽっと顔を赤らめた。がちゃ。
と、音に顔を上げれば、玄関のドアを開けて女性が一人出て来る所だった。
年の頃は二十歳くらいだろうか。童顔に、短く切り揃えた黒髪の御河童頭が似合っている。身長は平均身長くらいで、あかねとそう大して変らない。水玉のパジャマを来ている。白地に水玉だが、柄のせいで薄い青色に錯覚する。少しパジャマが大きいらしく、パジャマの裾からは指の先しか見えていなかった。
多分、綾の姉だろうと見当をつける。―――が、しかし綾に姐が居ると言う話は聞いたことがない。だとすれば、母親ということになるが―――(まさか、ねぇ・・・)
あまりにも若すぎる。若作りしていたとしても限界があるだろう。
あかねの母親も随分と若いが、これほど若くはない。
などと、あかねが悩み込んでいると、その女性がこちらに気づいて歩み寄って来る。「あららん、幸治君じゃないん」
「おう」と、幸治はそのまま手を挙げて固まる。
おそらく相手を忘れてしまったらしい。
いつもの如く、幸治が「忘れた」と言うよりも早く、その女性は門を乗り出して幸治の顔に自分の顔を寄せてにっこりと笑う。「おっはよん。私は綾の母親の霧子ちゃんですよぉん」
「おお!」ぽん、と幸治は思い出したように手を打った。そんな幸治に、女性―――霧子はデコピンしてクスクスと含み笑い。
そのやりとりをあかねは呆然と眺めていた。「・・・綾さんの、お母さん・・・?」
「あらん。幸治君、こちらわん?」
「クラスメイトのあかねだ」
「は、初めましてっ、こ、小松あかねですっ。綾さんともクラスメイトですっ」思わず焦ってそう叫ぶ。
幸治や綾とは大分なれてきたとはいえ、やはり他人は苦手だと痛感。頭が真っ白になっている。「はいはいん。あかねちゃん。私は綾の母親の霧子と申しますよん♪」
「あ、あのっ。お、お若いんですねっ」―――反射的に言葉を吐いて、あかねは頭に血が上るのを感じた。
(なにいきなり口走ってるんだろ私ッ)
「あらん、ありがとん♪ お世辞でも嬉しいわん」
「い、いえお世辞じゃなくて、本気です!」そろそろ、あかねは自分でも何を口走っているのか解らなくなってきた。
そんなあかねの様子に、ふ、と霧子は表情を蔭らせて、「1児の母としては若すぎると思ってるん? ・・・実はね、あの子は私の実の子供じゃないのよん・・・」
「・・・え?」衝撃の事実だった。
思わずあかねは目を見開いて霧子を見る。「2年前に、親戚の近所の子の親が交通事故で亡くなってねぇん・・・その子を私が引き取ったのん」
「そんな・・・」霧子の妙な口調のせいで、イマイチ悲壮感が伝わらないが―――それでもあかねは口に手を当て、なんといったらいいか解らないと、霧子の蔭った表情をただ見つめつづけていた。
と、そんな風にあかねが呆然としていると、「ウソつきったら大ウソつきっ♪」
歌ってるようなリズムに乗った声が聞こえてくる。
見上げると、今しがた霧子が出てきた玄関から、少女が一人出て来る所だった。
小柄な少女で、小学校の上級生くらい―――もしかすると、中学生かもしれないと、なんとなくあかねは見て思った。御河童よりもさらになお短いショートカットに揃えられた髪。一つ見間違えば、少年に見えてしまいそうな容貌。淡いピンクのパジャマをきていなければ、初見で少女とは解らなかっただろう。
その少女は人差し指で自分自身を指差すと、リズムをつけて歌うように言葉を続ける。「―――だってそれは私のことだもん♪」
「あらん、ルナちゃんおっはよん」
「おはよっ、霧子さん」ルナと呼ばれた少女は霧子に向かって元気に声を上げると、今度は幸治に向かって笑いかける。
「幸治お兄さんもおはようございますっ」
「おー。おはよー、ルナ」
「あれ? その隣の人はだれですか?」のんびりと手を上げる幸治の隣、少女の出現に戸惑っているあかねを見て訪ねる。
幸治はうむ、と頷いて。「俺と同じ一つ屋根の下に住んでいるあかねだ」
「えええええええええっ!?」ルナは思いっきり驚いたように大きな声を上げる。具体的にどれほど大きな声かというと、朝っぱらから近所迷惑間違いなしな程。
だが、近所の迷惑など決然と顧みず、ルナはキッとあかねを睨みつける。睨まれて、あかねは思わずたじろぐ。自分よりも年下の、それも女の子に睨まれて気圧されると言うのも情けないが。「そんなのっ、認めないったら認めないッ♪」
「え、え・・・・・?」
「だって、幸治お兄さんの恋人は綾お姉さんなんだもんッ!」
「えええええええええっ!?」今度はあかねが近所迷惑な声を上げる―――が、あかねはハッと手で自分の口を押さえて、辺りを伺う様に見る。酸欠のせいか、それとも羞恥のせいか顔が真っ赤。
「え、あのっ、そのっ」
あかねは目をくるくる回しながら周囲に視線を巡らせる。
呆けている幸治、面白そうにニタニタ笑っている霧子、怒ったように睨みつけて来るルナを順に見て、それから肩を落とす。「あ・・・やっぱり・・・」
視線は気が付けば足元のアスファルトを注視している。頭がガンガンしている―――奇妙に重い。目頭にじわっ、と熱いものがこみ上げて来る。
(あ、泣く・・・)
どこか頭の中で冷静な部分がそんなことを思う。思ったとおりに涙が出た。
「あ、あれっ?」
あかねを睨みあげていたルナがぎょっとしたような顔をする。
ルナがこちらの表情を覗いていることに気付いてはいたが、しかし―――「くっ・・・う、くっ・・・・」
(駄目・・・なんか・・・止まらない)
ぼろぼろと、どんどん涙が零れて止まらない。
自分でも不思議な程、涙は流れつづける。漏れる嗚咽を留めることもできずに―――すでに周りの幸治たちには自分が泣いていることなんて解り切っているだろうが、それでも必死で涙を隠そうとして。「あかね・・・?」
「・・・ッ!」あかねは幸治の声に、ビクッと身を震わせると、そのまま逃げるように走り出した。
「あ」
そしてコケる。
「・・・ぅ」
上手く転べたせいか、痛みはない―――が、心の痛みでなかなか身体が立ち上がろうとしてくれない。
「あかねっ、大丈夫か?」
幸治が駆けよってきて、あかねは反射的に起き上がるとそのまままた駆け出そうと―――
「お待ちなさいって、おっじょおっさん♪」
―――したその手を掴んだのは霧子だった。
他人の体温に驚いて手を振り払おうとして、しかし掴まれた手はビクともしない。万力で締めつけられたような、容赦のない握力に激痛。あかねは顔をしかめて振りかえる。
振り返れば、そこには霧子がとてもにこやかな笑顔でそこにいた。「あららん、あかねちゃんったら早とちりなんだからん―――ルナもねん」
「「・・・え?」」ルナとあかねの疑問の短音が、偶然にも重なる。
そんな二人を苦笑して交互に見てから、霧子はまずルナに向かい、「―――1つ屋根の下っていうのは間違いじゃないけどぉん、ただ単に幸治クンとあかねちゃんは同じアパートに住んでるってだけなのねん。同棲してるわけじゃないのよん」
「・・・どうせい、って?」
「ええとぉん・・・兎に角一緒に暮らしてるわけじゃないってことよぉん―――それからん」と、今度はあかねに向き直る。
もう逃げないことを確認するように、ゆっくりと手を離しながら「さっきのはルナの先走りなのん。別に幸治クンと綾は幼馴染ってだけでぇん、恋人とかそーゆーんじゃないのん」
霧子はぺろっと舌を出して、
「母親としてはこの二人がくっついてくれると納まりが良くって素敵かなーと思わないでもないけどねん」
「素敵ったら、素敵だもん♪」ルナが再びあかねを睨みつけながら言う、
「だって綾さんは私のおねーさんで、幸治さんは私のおにーさんなんだからっ♪」
「こんな風にルナはあの二人を兄、姉のように慕ってるからあん、二人が一緒になって欲しいわけなのん」
「で、でも・・・」あかねはなにかを言いかけて言葉に詰まらせ―――それでも意を決したのか、顔を上げると必死な顔で霧子を見つめ、顔をやや高調させて口を開く。
「で、でもっ、ただの幼馴染が、その、あんな風に―――お弁当とか毎日作るでしょうか?」
「綾だからねえん」霧子がいいながら幸治に同意を求めると、幸治はうんうんと何故か頷く。
それを見てあかねはあぅ、と息を詰らせる。(そ、そういえば、本人が目の前にいるのにこんな話―――あああああああああ、なに言ってるの私ーっ)
再びパニックになる頭を抱える。
そんなあかねの肩を、霧子はぽんぽんと2、3度叩く。「落ち着いてぇん」
「は、はぅ〜」
「あら、可愛い声ん」
「か、か、からかわないでくださいっ」だんだん頭が真っ白になって来る。もう、なにがなんだか。どーでもよくなってきた。
(・・・そーよね、考えてみれば、幸治君とあかねさんが恋人だろうとなんだろうと関係ないものね)
でも、となんとはなしに思う。
(だけど、こんなに気になるのはどうしてなんだろう・・・)
きゅーっと苦しくなってくる胸を片手で抑えながら、あかねはぼーっとそんな答の見えない自問を頭に浮べる。
「綾ってね」
不意に霧子の声が耳に飛びこんできて、あかねの意識は現実に引き戻される。
「あの子、すっごく他人のことに気を掛ける子だからん―――その割には他人の事なんてお構いなしなんだけどん」
くすっ、と霧子は笑いながら。
「だからん、別に幸治君だからってわけじゃないと思うわよん」
「そ、そーなんでしょうか」
「そうよん―――あららん、ところでその綾に何か用なのん? まだ寝てるけどぉん」霧子に言われて、あ、とあかねは首を傾げた。
そういえば、幸治は何しにこんな朝早くから綾を訪ねてきたのだろうか? 幸治を振り返ると、彼は尊大にも腕組などをして胸を張ってのたまった。「綾の寝顔を鑑賞しに来た」
意外。というのは失礼かもしれない。
それでもあかねは意外にも部屋の中は片付いていると思った。さらにクマやらキリンやらのファンシーなヌイグルミや、ピンク色の大きなクッション、可愛らしい小さな造花なども飾られて、意外すぎるほど女の子らしい部屋というか少女趣味というか。もっとも、本棚を見れば「人体の急所」とか「古武術」とか「空手」とか「滅殺」とか物騒な単語の見える本が幾つか並んで居たりもするが。
その部屋の窓際に置かれたベッド。その上で、片足を上げて、右手は小さくガッツポーズをしているような格好で、大口を開けて寝ている綾の姿があった。ちなみにパジャマは霧子とお揃いの水玉模様。多分、寝るときには被っていたと思われる毛布は蹴飛ばされて、何故か部屋の中央に落ちていた。部屋の内装とは違って、こちらは思った通りに寝穢い。
そんな綾の寝顔を覗きこんで、幸治はぽつりと何かの台本を読み上げるように呟いた。「まるで死んでいるようだ・・・」
「そ、そうですか?」毛布を蹴飛ばして、妙なポーズでしかも大口を開けて涎まで垂らしている。イビキこそないものの、はっきり言って死んでるようには決して見えない。
あかねのツッコミに、ふむ、と幸治は顎を撫でて言い直す。「まるで生きているようだ・・・」
当たり前だ。
「それで」
「?」
「なんで私たち、綾さんの寝顔を鑑賞してるんでしょう?」
「さあ?」・・・・・・・・
会話が止まる。
あかねは幻痛を感じて額を抑え込んだ。なんか、このまま幸治と一緒に行動するだけで精神修行になるんじゃないだろうかとか、そんなことを思いつつ。「用がないなら行きましょう」
「なんで?」
「なんでって・・・その、他人の寝ているのを邪魔するのって、あまりよくないと思います」
「そうか」幸治は頷くと、再び綾の寝顔を覗きこんで、おもむろに―――
「ふがっ!?」
「こ、幸治くんっ、なにしてるんですか!」あかねはぎょっとして幸治の右手―――綾の鼻をつまんでいる手を凝視する。今まで気持ち良さそうに眠っていた綾の顔が、今はとっても寝苦しそうだ。
「ん? 何って、綾の鼻を摘んでいるんだけど」
「ふがっ、ふががっ!」
「なんでっ!? いやそれより離してください! 綾さん苦しそうで―――」と、あかねが言葉を言い終える前に、綾の目が開かれる。
その寝惚けた目がぼんやりと自分の鼻を摘んでいる手を見つめ、その腕を辿って幸治の顔を睨むころにはすでに目は寝惚けていなかった。
とりあえず自分の鼻を摘む幸治の手を掴んで外すと、口を開く。「なに、してるの?」
「綾の寝顔を見ながら綾の鼻を摘んでいた」
「・・・そう」綾はバッ、と起き上がり、幸治の手を鼻からもぎ取る。さらに起きあがった反動でベッドを飛び降り、幸治が振り返ると同時に、綾は力強く全体中を乗せた右足を一歩踏み込む。ずん、と小さく家全体が揺れる。それと同時に指の第一、第二関節だけを折った掌を、踏み込んだ勢いで幸治の腹部に叩きつけるッ!
て ん く う は ち め い せ い 、 こ く う
天空八命星、虚空―――「ごふっ!?」
幸治が苦しげに息を吐き出しつつ吹き飛ぶ―――が、その前に綾はさらに左足を踏み込んで、左の掌を全く同じ場所に叩き込んだッ!
「これがッ」
こ く う れ ん し ょ う
虚空連衝ォッ!バコォンッ、と部屋のドアを突き破って、廊下の壁に叩きつけられて、幸治は廊下の床に倒れこんだ。
「こ、幸治くんっ!? あ、綾さん、やりすぎですッ」
あかねの抗議の声に、しかし綾はやるせない表情で独り言を呟いた。
「―――いい加減に記憶喪失な幸治に、絶対に忘れられないような致命的な一撃を与えるために始めたとある伝説の暗殺拳の通信教育・・・その威力は今までで最強にして最凶、最大にして最高の一撃――――のはずなのに」
「おお。綾、おはよう」
「なんでそーやって平気かなぁ!? この致命的馬鹿ぁッ!」
「ん。どうした? 機嫌が悪いな。悪夢でも見たか?」
「どっちかっちゅーと、アンタが悪夢よねー・・・」はあ・・・と、綾はまた一つなにかを諦めていった気分で吐息。あかねは事の成り行きを反芻して頭を抱え、幸治はただ平然と突っ立っていた。
綾の家を出たのは7時半を大分過ぎていた。
そういえば食べてなかった朝飯を頂いたり、昼の弁当を作ったりしているうちに結構時間が経っていた。とはいえ、まだ走らなければならない程でもない。ゆっくり歩いてギリギリ間に合う。「―――それにしても」
と、ふと思い出したようにあかねが言った。気遣わしげに綾の顔を見て、
「知りませんでした。綾さんが・・・」
「・・・? 私がどうかした?」
「いえ。その・・・」あかねはいい辛そうに言葉を一旦は飲み込み。
そして、小さく続ける。「ご両親―――本当のご両親は、もう・・・」
「・・・・は?」あかねの言葉に綾は怪訝そうな顔をする。
ぽかん、と口を開けて、自分で自分を指差して、「本当の両親って? なんのこと?」
「・・・え?」綾の反応に戸惑いつつ、あかねは朝のやり取りを説明する。
説明されて、綾は思いきり渋い顔をした。「あー・・・ソレ嘘」
「嘘?」
「そ。アレでもいちおー私の実の母親。交通事故で親を亡くしたって言うのは、居候のルナの方よ」
「あ・・・そう言われれば」あの時、ルナが出てきた時に、それは私のことだとかどうとか言っていた、というか歌っていた気がする。
「で・・・でも、綾さんのお母さん、とっても若くて―――」
「若く見えるだけだってば。あれでも○○歳よ」
「ええっ! あんなに若く見えるのに○○歳なんですかっ!?」
「そうなのよ。○○歳にはとてもじゃないけど見えないけど○○歳なのよーっ!」
「そうですか、あれで○○歳なんですか」ちなみにプライバシー保護のために実際の年齢はお教えできません。あしからず。
「あ。ところで幸治、あんた結局なにがしたかったのよ?」
「ん?」綾の問いかけに、幸治はぼーっと綾を見返す。
「ん、じゃない。朝っぱらから人が寝てる所に押し掛けて鼻摘んで―――なにがしたかったの?」
「・・・・忘れた」
「忘れるなッ。・・・ったく、今日もゆっくりと眠れると思ったのに―――――」
「あれ。綾さん、今朝もなにか急用があったんじゃないですか?」にこやかにあかねが尋ねる、と綾はうっと呻いて愛想笑いを浮べる。
「んもー、あかねったら意地悪ぅっ。そんなこと言わないでよーっ」
あかねは微笑。
少しだけ真面目な顔をしてから続ける。「でも綾さん。こうやってみんなで一緒に登校するのも楽しいじゃないですか。幸治君のこと、面倒を見るのが大変だというのなら、私もできるかぎり協力しますから」
まるっきし、幸治が手のかかるペット扱いである。
が、それ以外の言い方も思いつかない。
あかねの言葉に綾は、「んー」
と、顎に指を添えて、目線をなんとなく空に向ける。
良い天気。
朝の青空と言うのは不思議と、とても澄んでいるように見える。そんな青空に、小さな雲が幾つか浮かんで流れていた。じっと凝視しないと、動いているのがわからないくらいゆっくりと動く雲を眺めて、綾は少し考えて目線を降ろした。「・・・そうね。昨日は一人で歩いたけど、なんだかちょっと物足りないような気がしたし―――ゆっくり眠れるのは魅力だけど、朝一番で幸治をドツかないと、なんだか朝が始まらないって感じもするし。面倒だけど」
「ええと、ドツくというのは、あまりやらない方がいいと思うけど・・・・・・」困ったように笑うあかね。
そんなあかねの表情を、綾は嬉しそうに見た。「え? どうかしましたか?」
「ううん。別に―――ただ、ちょっと嬉しいかなって」
「何がです?」
「なんかさ、前と比べると、あかねと仲良くなれたなーって」
「え?」あかねが良くわからずに首を傾げる。
「ほら。最初はなんかあかねって遠慮してるっていうか、自分からあまり喋らなかったし」
「あ・・・ごめんなさい。私、そういうの苦手で・・・」
「ううん。別にだからどうしたってわけじゃないんだけど―――でもさ、今は結構普通に受け答えしてくれるし、敬語が多いのがちょっと悲しいけど」
「う。・・・で、でも私って誰にでもこんな喋り方ですよ? 例外はかーさんと雪絵ちゃんぐらいで」
「まあ、いいや。タメ口で喋るあかねって言うのも想像できないしね」と、綾は苦笑。
「ねえ。手、握ってもいい?」
「え・・・ええと――――はい」あかねは頷くと、綾はあかねの手を握る。握った瞬間、少しあかねの身体が震えたような気がするが、それでも以前のように振り払われることはなかった。
「んー・・・なんか感動だなあ」
「え、え?」
「だって、最初は手も握らせてくれなかったもんね」
「え、えと。だけどそれはっ、ただ私が他人に触れられるのが苦手でっ」慌てて弁解するあかねを、綾は微笑んで見つめて。
「でも、今はこーやって握らせてくれる。・・・そのうち、あかねのあーんな所やこーんな所も一杯触らせて貰うからねー」
綾は空いた方の手をあかねにむけて、わきわきと指を動かす。あかねは困ったように笑って、
「綾さん、なんかえっちです」
「そう?」
「あかね、俺もいいか?」と、割り込んできたのは幸治だった。
幸治があかねのもう片方の手を取る―――瞬間、あかねは慌てて振り払った。「だ、ダメですっ」
「・・・・・・ダメなのか」
「やーい、嫌われたー」がっくりと、どこか残念そうに肩を落とす幸治。それを嬉しそうに囃したてる綾。
「ちっ、ちちちち違いますっ。嫌いじゃないですっ、じゃなくてっ、あああああああああっ、はうぅぅぅ・・・」
顔を真っ赤にして弁解(?)しようとするあかね。そんな様子を眺めて、あららと綾は口元に手を当てた。
(もしかして。あかねって本気で幸治のこと―――)
きーんこーんかーんこーんー・・・・
「って、やばっ。ゆっくり歩き過ぎたッ。走るわよッ!」
「は、はいっ」
「・・・・・・・・」綾はあかねの手を引いて、すでに視界に見える校門を目指して走り出す。その後を幸治が追いかけた。
「ぎっりぎりセーフッ!」
ホームルーム開始1分前。
綾が教室に飛び込んだ瞬間、チャイムが鳴り響いた。「本当にギリギリ・・・」
ぜえはあと息を切らせてあかねが続く。最後に幸治が、チャイムが鳴り響き終わる頃に到着する。
「おっハロー。みんなぁっ!」
チャイムの響きも完全に消え失せた瞬間、幸治の後ろから担任がハイってきた。もとい入ってきた。清々しい―――というか朝っぱらから暑苦しいほどの微笑を表情に浮べ、そして軽やかに教壇に立つ。その間に綾たちは自分の席についていた。
「起立、礼」
と、学級委員の綾がいつもどおり号令をかける。
おはようございます、と合唱する生徒たちに対して「おはようみんな、今日も素敵にプリティだねっ」などと良くわけのわからん不気味な戯言を口走るが、いつもの事なので生徒たちは聞き流す。「・・・おや?」
ふと、担任が背後の黒板を振りかえって首を傾げる。
黒板は赤いチョークで書かれたなにかを乱暴に消したかのように、赤く―――ピンク色に薄汚れていた。担任がそのことに気付いた瞬間、クラスの中の何人かが少しざわめく。「おかしいなぁ。黒板はいつも僕が放課後舐めるように綺麗にして帰るのに・・・」
担任の言葉に、今度はクラス中がざわついた。―――担任が、黒板を舐めて綺麗にするのを容易に想像できてしまったからだ。
「ま、いいか」
担任はそう言い捨てると再び前に向き直り、
「さてと。それじゃあ時間もないことだし―――来週の月曜日の話だけど」
などと、担任の話が続く中、幸治はじっと厳しい表情で担任の後ろの黒板を凝視していた。
「透」
ホームルームが終わった直後、幸治は席に座ったまま次の授業の用意をしていた透に声を掛けた。
「え? なに」
首だけ振り返った―――と、思われる(なにせ透明だから、帽子でも被ってなければ解り難い)透に、幸治は尋ねる。
「朝、なにがあった?」
尋ねてくる幸治に、透は座っている椅子ごと身体の向きを幸治に向けて。
「え。と」
「あの黒板」
「た、大した事じゃ―――」
「―――じゃないのなら、教えたって構わないだろう」
「・・・・・・・」透は押し黙る。
言いたくない、というよりは、言い辛いという様子だ。相変わらず透明で、表情が解からないので解り難いが。
幸治は、よしわかった、と頷くと、指を一本立てた。「ヒントをやろう」
「へ?」
「ヒント1。小松あかね」
「えっ」透の声の質が明らかに変った。酷く驚いた響き。
幸治はさらにもう一本指を立てて。「ヒント2。西山幸治」
「・・・・・」透はマジマジと幸治を―――見てるかどうかわからないが、ともかくそんな雰囲気で押し黙る。
幸治は三本目の指を立てて―――むう、と唸る。「ヒント3は思いつかないな」
「ヒント1と2だけで十分だよ・・・どうして?」わかったの? と尋ねる透に、幸治は言葉を濁す。
「・・・昨日、ちょっとな。―――それと、朝、教室に入ったときに、妙に俺達に向けられる視線が多かった。綾もあかねも気付いてなかったようだったけど」
「それだけで・・・・? 幸治くんって時々凄いよね」
「時々だから余計に凄いと錯覚するだけ。時々凄いだけなら大して凄くない。少なくとも、いつも凄い奴に比べれば」照れ隠しなのかなんなのか。
幸治はそんなことを言ってから、さらに尋ねる。「それで。消したのは? 昨日のあの二人か?」
「どーしてそこまで解かるのさ」
「むう?」と、幸治は少し考えて。
「担任に対する信頼、ってとこか」
などと、幸治が呟いた時。
「あかねに謝りなさいよッ!」
綾の怒声が教室中に鳴り響いた。
何事? と透が振りかえり、何事だろうな。と幸治が半ば予想をつけながら振りかえる。
見れば昨日の朝、あかねの小説を読んで笑っていた二人―――大島と小西の二人に向かって、綾が怒鳴っている。その綾の後ろで困ったような表情であかねが立っていた。「あ、綾さん、私はもういいですから・・・」
「ダメよ。こーゆーのはきっちりケリをつけておかないとッ!」
「悪かったよ」
「・・・え?」不意の言葉に、綾はきょとんと大島を振りかえる。
大島は気まずそうに目線を反らして、「だから、俺たちが悪かった。昨日のことは謝る。悪い」
「え、あ、そう・・・」
「俺も・・・ごめんな、小松」小西も謝る。と、あかねは慌てて首を縦に振った。
大島も小西も、それを見てどこかホッとしたように吐息。と、小西が続けて、「あ・・・あのさ、あの小説、面白かったからさ―――良かったら、また見せてくれよ。今度はからかったりしないから」
「えっ!? あ、ええと・・・」
「だっ、駄目なら別にいいんだ。ごめんなっ」あかねが戸惑っているうちに、小西は慌てて自分の席に戻る。
ぽかんとその様子を眺めていた綾に、今度は大島が綾に向かって伺うように。「おい、九条」
「な、なによ?」
「あのさ。―――西山とつきあってるの、お前じゃなかったっけ?」
「・・・・・は?」と、綾が答えた瞬間、一時間目の始まりを告げるチャイムが鳴り響いた―――――
「失礼する」
二時間目終了後の、少し長めの休み時間。
幸治は一人で職員室を訪れていた。
入った途端、ざわつく職員室。教員たちの視線が幸治に注がれる。「・・・に、西山くん」
と、入り口の一番近くに居た音楽教諭、板橋せつ子が恐る恐ると幸治に尋ねる。
「今日は九条さんは―――」
「綾なら教室だけど」幸治の言葉に、板橋はあからさまにホッと胸を撫で下ろす。
途端、職員室に張り詰めていた空気が緩んだ。「・・・・・・」
そんな空気の変化を読みつつ、幸治は自分の担任―――1−3の担任、古畑耕介の机に向かう。
二、三時間目に受け持ちの授業がないのか、担任は自分の机でコーヒーを飲んでくつろいでいた。幸治の姿を見ると、やあ、とマグカップを上げて。「―――そんなに綾が恐ろしいんだろうか」
開口一番。幸治がそんなことをいうと、担任はコーヒーの入ったマグカップを持ったまま肩を竦める。ちら、と職員室の中にいる、他の教師たちを眺めて。
「恐ろしいんだろうね―――とはいえ、別に彼女の腕力が恐ろしいわけではないよ。つい数年前までは、綾ちゃん以上の “暴力” が存在した学校だからね。ここは」
二年ほど前までの草原高校は、地元では結構名の知れた不良校だった。
かといって、在校生の九割がリーゼントやらソリコミを入れて格好つけた不良だとか、卒業生の殆どがカタギでない道に進んだとか、そういうレベルの話ではなく。
ただちょっと、普通よりも荒れていた学校だったというだけだ。在校生の中に瞬間湯沸し機のような輩が多く、ことあるごとにキレて、休み時間になるたびに校内の何処かで殴り合いが発生していた。
だから、「ケンカが強いやつが一番エラい」というようなルールが存在し、その最たるものが所謂 “番長グループ” というもので、番長を中心にガラの悪い生徒が集って、教師たちも手を焼いていた。「―――で、それを排除したのが担任だったか?」
幸治が言うと、担任は笑って。
「僕は自分の受持ちの生徒と根気よく語り合っただけだよ」
根気よく。語り合う。
実際に担任がどうしたかというと、一人の生徒にストーカーの如く付きまとい、休み時間だろうが放課後だろうが、その生徒の自宅だろうがトイレだろうが風呂だろうが。ところ構わず語り掛けたのだ。家の人間も、教師と言うことで強く言えない―――むしろ不良息子とこんなにも熱く向き合ってくれる良い先生だと感動さえしたという。
それを、自分の受け持ちのクラス分、実行したのだ。中にはノイローゼになって、入院までした生徒もいる。「この学校を今の学校にしてくれたのは、彼女だよ。現、生徒会長―――確か綾ちゃんも憧れていたね?」
「綾が唯一頭の上がらない相手だ」
「―――そういえば話が反れていたね。綾ちゃんのことを他の先生が恐れる理由は、あまりにも真っ直ぐだからだよ。彼女は手が早いけれど、しかし正しく生きようとしている。無意味な暴力に慣れ親しんだ教師たちは、正しさを伴った暴力にどう反応していいかわからないのさ」そう言って、担任はコーヒーをすする。
「担任は綾を恐れてないな?」
「正しい暴力を怖れる必要はないからね。―――その一撃が正しいというのなら、こちらも正しさを持って受けとめればいい。・・・或いは」と、担任は目を細めて幸治を見る。
「君のように自らを間違えて、彼女の正しさを甘んじて受けるというのもアリなのかもしれないけれど」
「―――そういう話をしにきたんじゃないんだ」誤魔化す。
幸治は担任の言葉を誤魔化して避ける。
担任は苦笑。「では、なんの用事かな?」
「礼を言いにきた」
「言われるようなことをしたかな?」
「あかねと・・・大島と小西のことだ」と、幸治は頭を下げる。
「それと、綾ちゃんのことだね」
頭を上げた幸治に、担任はにっこり笑う。
ああ、と幸治はどこか照れくさそうに頷いて。
担任は何時の間にか飲み終わったらしいマグカップを整頓された机の上に置いてから、んー、となにかを考えるように―――言葉を選んでいるのだろう、と幸治は思った―――瞳を閉じて、幸治の方へと向く。
頭の中で考えがまとまったらしい。目を開けると幸治を見て。「一つ、いいかな」
「?」
「君は、どうやって彼等を説得したのかな」
「説得?」
「君が一哉くんたちに、家に帰るように諭したんだろう? 綾ちゃんが彼らに怒りに任せて殴りかからないように――――君たちはあかねちゃんのことで、ちょっとした衝突状態だったはずだ。いくら綾ちゃんの暴力が恐ろしいといっても、君に言われてハイそうですか、と言う事を聞くだろうか?」
「そうだな」言われて頷き、幸治は昨日のことを思い返す。
―――話がある。
そう言って、休み時間に幸治は大島と小西を廊下へと連れ出した。「なんだよ、話って」
大島が不機嫌そうに言う。どうやら朝のことをまだ引きずっているらしい。小西も嫌そうに幸治を見る。こちらは、幸治のことを嫌っていると言うよりは、もう関わりたくないと言った様子だ。
あまり長々と話す時間もない。幸治は単刀直入に切り出した。「今すぐ早退してくれ」
幸治の言葉に二人は疑問符。
「なに言ってるんだ。お前」
「綾の奴が今日は遅くて助かった―――あいつが朝のことを知れば、確実にお前たちは半殺しにされる」幸治の言葉に大島と小西はビクッと身を震わせる。その言葉が嘘でも誇張でもないと知っているからだ。
「そ、そういえば九条、最近、小松と仲が良かったな・・・」
震える声で小西。
しかし大島は決然と幸治を見返して。「ヤだね」
「頼む」
「あぁ? 大体、なんでお前がそんなこと言うんだよ。俺達が九条に殴られたって、お前には関係ないだろうが」
「綾がお前たちを殴るのは問題ない―――が、それがあかねのためとなると話は別だ」一息。
「きっと綾はお前たちを殴って、無理矢理にでもあかねに謝らせようとするだろう―――そんなことをすれば、お前たちとあかねは一生、本当に仲直りができなくなる」
「だからっ」イライラと大島は怒鳴る。
自分でも、なんでこんなに苛立っているのかわからないが。「どーしてそこまでお前が気にかけるんだよ! 朝のことといい―――お前、小松に気があるのか?」
「当たり前だ」頷く幸治に、二人はぎょっとする。
構わずに幸治は続けた。「綾にも、大島にも、小西にも気があるぞ」
「は?」
「友達だからな」幸治の言葉に二人は困惑。よく意味がわからない―――
「友達同士がいがみ合っているのはあまり嬉しくない―――だから、頼む」
幸治は廊下に膝をつく。
手を床に添えて、額を床にこすりつけて土下座。
それを大島は呆然と見下ろして。蹴り。
「うっ?」
肩を蹴られて、幸治はそのまま真後ろへとあお向けに転がる。
仰向けのまま、大島を見上げて。「痛い」
「朝、殴られたお返しだ」
「なに? 誰に殴られたんだ?」
「・・・お前だお前! 忘れんな、鳥頭!」そう怒鳴ってから、大島は幸治に背を向ける。
「あーあ。なんかダリいなぁ。フケちまおーぜ、小西」
「へ?」
「オラ、なにしてんだよ。行くぞ」と言って階段の方へと歩き出す大島の後ろを慌てて小西が追いかける。
「大島!」
立ち上がった幸治の声に、大島は首だけ振りかえる。
「なんだよ」
「いや・・・ありがとう」微笑を浮かる幸治に、大島はすぐ前を向く。
照れを隠すかのように、大声で。「別にてめえの頼みを聞いたわけじゃねーからな! なんかタリーからサボるだけだ」
「大島、お前なんか顔赤いぞ」ごすっ。
顔を覗きこんで来る小西を、大島は殴りつける。
「いってーな、ナニしやがる!」
と、小西が拳を振り上げて反撃しようとした時。
「あなたたちっ! サボるってどういうことですか!?」
隣の1−2の教室から、その担任である春日早苗が飛び出して来る。怒っている用だが、小柄な体格と童顔―――まるで中学生のような彼女が怒ってもあまり怖くない。
が、それでも一応教師だ。大島と小西は慌てて駆け出す。「逃げろッ」
「待ちなさいッ。精霊さんにお仕置きしてもらうんだからぁっ!」とかなんとか言いつつ、早苗は手に何故か持っていた白いチョークを投げつける。
精霊という、概念存在と交信できる精霊使いでもある早苗が、放ったチョークには精霊が宿り、一直線には飛ばずに、物理法則を馬鹿にしたような動きで標的を追尾。具体的に言えば、UFOとか真ゲッターとかそういうものを連想させる滅茶苦茶な軌道を描き飛び、階段へ向かって逃げ出す二人を追いかけて、問答無用に小西の頭に直撃した!「痛ぇっ!?」
「思い知りましたかッ!」誇らしげに叫ぶ早苗。
だが、小西はチョークの直撃した頭を抑えつつ、そのまま階段へと飛び込み、大島も続く。「あ、あれ・・・? どうしてチョークが命中したのに止まらないんですかぁっ!?」
チョークが当っても痛いだけで致命傷になるわけがない。
そんなことにも気付かず、疑問の声を上げる早苗をほっといて、幸治はさっさと教室へと戻った。
「アンタと同じだ―――誠意をもって頼みこんだ」
「なるほどね。だから僕の誠意は必要なかったわけか」
「?」不思議そうな顔をする幸治に、担任は笑って。
「一応、僕も気になって家庭訪問をしてみたけどね―――二人とも、すでにあかねちゃんに謝る気でいたようだよ」
「そうか」
「―――いつも思うんだけど、幸治君。きみは教師になる気はないかい?」ん?
と、担任は幸治を上目づかいに見上げる。「きみは他人の想いを、良い方向へと変える不思議な力を持っているような気がする。きっといい先生になると思うけど?」
「アンタが先生じゃなく、サラリーマンだったら、良い会社員になると言うんじゃないか?」幸治の言葉に、担任は「そうかもね」と笑い。
「まあ、まだ進路を決める時間はたっぷりあるから、一応、考えておいてくれないかな」
「忘れると思う」
「ならその度に言うとしよう―――さて」と、担任は時計を見る。
「そろそろ次の授業が始まる。もう行った方が良い」
「ああ」頷き、幸治は担任に向かって一礼すると、職員室を出ていった。
自分の生徒を見送ってコーヒーを飲み干す。
ほ、と一息。(だけど気付いているかな、幸治君。きみがあかねちゃんのことを気にかける理由―――)
気付いているのだろうと、担任は思う。
だが、気付かないフリをしているのだろうとも思う。(まあ、なんにせよ。君が本気になるなら、これ以上は僕の出る幕ははないね?)
少しだけ、寂しく思いながら、担任はコーヒーのおかわりを注ぎに行った。
昼休み。
いつものように、幸治の机に弁当を広げるとあかねの席を振り返った。「あかねっ」
「え?」あかねが自分の名前を呼ばれて顔を向けると綾が大きく手を振っていた。なんとなく苦笑しながら、自分の椅子の上に弁当を置くと、そのまま椅子を抱えて―――つまりは一昨日と同じように、幸治の机に向かう。
幸治の机と隣の机を適当につなげて、幸治と綾、あかね、そして透は弁当を広げる。と、あれ、と透が首を傾げて。「幸治くんたちと小松さんのお弁当、なんか似てるね」
「む?」言われて幸治は自分の弁当とあかねの弁当を見比べた。
厚焼き卵が2切れに、焼いたウィンナー二つをそれぞれ二つに切ったものに、豚肉とジャガイモとニンジンを煮付けたもの。漬け合わせはほうれん草が添えられて、あとは白米。
ご飯とおかずの割合が多少は違うものの、内容はほぼ同じものだった。「すごい偶然だ」
「偶然じゃないでしょーが!」言いながら綾は紅い箸ケースで幸治の頭を叩いた。硬い音が響いて、幸治は箸を口にくわえたまま痛そうに頭を片手で抑える。
「痛い」
「実は今日は、あかねと一緒に弁当を作ったのよ。ね、あかね」
「あ、はい」幸治のことは無視しておいて綾が言うと、コクン、とあかねも頷く。
「ふうん・・・」
「しかしなんでまたそんなことになったんだ?」
「あー、それが幸治の馬鹿が―――って、リョーコ!? いつのまに」何時の間にか幸治の隣に座ってパンをかじっていたリョーコに、綾は驚きの声をあげる。が、リョーコは平然と
「今の間にだ」
「ったく。この神出鬼没生命体ッ。出現するときは出現すると宣言しないと心臓に悪いでしょーが!」
「笑止ッ!」は。とリョーコは口を開けて笑いの単音。
かじりかけのヤキソバパンを綾に向けて続ける。「今日の私の任務は “エージェント” ! エージェントたるもの神出の鬼没でなくてどうする」
「いやよくわからないけど・・・・・・えーじぇんと?」
「あ、僕知ってる。『マトリックス』だよね」
「まとりっくす?」リョーコと透の言葉に、綾は難しい顔して額を抑えた。
綾は英語が苦手な上に、映画にも疎かった。「何ソレ?」
「エージェント――― “agent” 代理人、周旋人などの意があるが、リョーコや透が言っているのは―――大まかに言ってしまえば、指令を受けて捜査、調査する・・・諜報活動を行う人間。調査内容によっては、そのまま工作を行う場合もある」幸治の説明に、しかしまだ綾は首を傾げて。
「・・・むぅ〜・・・・・?」
「―――興信所や私立探偵よりもランクが上のモノと言えば大して間違ってない。大昔の日本で言うなら忍者ってところか」
「というか幸治くん、よく知ってるね」透が感心したように言う。
なにか幸治が知っていては可笑しいような言い方だが、その場の誰もがそう思っていたので、誰もツッコまない。
透の言葉に、幸治は首を傾げる。「なにを?」
「だから、今の説明」
「説明・・・・・?」首を傾げる幸治。
どうやら今自分でエージェントについて説明したことを忘れてしまったらしい。「ふぅん・・・まあ、なんかよくわからないけど―――それで」
綾はリョーコの方に目を向ける。幸治が綾に説明している間に、リョーコはヤキソバパンを半分ほど食べ終わっていた。口の中で頬張っていたパンを、咀嚼して飲み込むと、ん? と綾のほうへと目を向ける。
「なんだ?」
「いや調査とか捜査してるんでしょ? なにしてるの?」
「エージェントは外部に情報を漏らしてはならない」
「・・・・まあ、いいけど」よくわからない上によくわからない。
綾はとりあえず無視して弁当を食べることにした。
放課後。
「あかねー」
「あ、はい」ホームルーム終了の礼をして、綾はあかねの席にかけよった。
用件を言わないうちに、あかねは頷きを返す。
一緒に帰ろう、と。
なにも言わないうちに伝わったのが、綾はちょっと嬉しくなって気分が弾んだ―――まあ放課後、の用事といえばそれくらいしかないのだが。
照れくさくて浮き立つ心をバレないように、綾も頷き返して幸治を振りかえる。「ほら、幸治。帰るよ」
「いや、今日はちょっと用事があるんだ」
「へ?」幸治の意外な返答に、綾は戸惑った。
「用事?」
「そう」
「・・・・・大丈夫?」
「どういう意味だ?」
「そのままの意味だけど」本気で心配な気分で綾は幸治の様子を伺い見る。
どんな用事か知らないが、そのまま家に帰ることも忘れて野垂れ死にはしないだろうかと不安。正直、幸治がどうなろうと綾の知ったことではないが、それでも一応幼馴染ではあるし、行き倒れにでもなったら目覚めが悪い。(・・・結局、知ったことあるから困るのよねー)
綾は吐息。自分の最大の不幸は、幸治と幼馴染になったことだと思っていたが、もしかしたら違うのかもしれない。自分の性格が不幸を呼び込んでいるのではないだろうか―――ふとそんな気分になってくる。
「大丈夫だ」
ややあって、幸治はしっかりと断言した。
が、断言されたからと言って、それを信じられるようなら元々心配などしない。「・・・私もついていこうか?」
「いいや。・・・本当に大丈夫だ。あかねも一緒だし」
「え?」と、困惑げな声を上げたのは、あかね自身。
幸治を見て自分の顔を指差して、「え、と。私、ですか?」
「む。お前はあかねじゃなかったか?」
「え、ええと。私はあかねですけど・・・」
「じゃあお前だ」
「ちょ、ちょっと待ってください。私が幸治くんの用事に関係あるんですか?」あかねが幸治に尋ねると、幸治はおや、と首を傾げて。
「関係ないのか?」
「関係あるんですか?」
「むう」幸治は頭をぽりぽりと掻いて。
「忘れた」
「阿呆かああああああああああっ!」だんっ。
叫び声と同時、綾は強く床を蹴る。
瞬発力を最大限に発揮して、たった一歩でほぼ最高速にまで加速、三歩目で床を蹴り宙に跳び上がった。そのまま幸治の目の前にあった机に足を着くと、それを足場にしてさらに跳躍。天井近くまで到達すると、今度は天井を蹴って幸治へ向かって急降下する。その際に両腕を眼前で “×” の形に交差させて、幸治の首元目掛けて突っ込んだッ!「ぐはぁっ!?」
首への打撃。さらにそのまま床に叩きつけられて、幸治はぴくりとも動かない。
それを見ていた透が、戦慄に身を―――とゆーか学生服を震わせる。「い、今のは・・・天空―――いやッ!」
誤りを訂正するように首を真横に振って、言いなおす。
「超天空×字拳!」
綾の足元で、幸治はピクリとも動かない。
「おい・・・動かないぞ・・・」
「さ、流石に死んだだろ。今のは」
「誰か保険の星子センセー呼んでこい―――」唖然とクラスメイトたちが見守る中、暫くしてもいつものように起きあがらない。
そんな中で、当の本人である綾は、切なそうに幸治を見下ろして、ぽつりとその名前を呼ぶ。「幸治・・・」
「ん、呼んだか?」ゾンビさながらにあっさりと起き上がる西山幸治。その時にはすでに、綾は右足を後ろに大きく振り上げていた。
「いい加減に死ねぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
全力を持って蹴り飛ばす。
幸治の身体が空を飛んで教室の後ろの壁で盛大な激突音を響かせた頃には、すでに他のクラスメイトたちはいつものように帰り支度を始めていた。
ただ独り、あかねだけが呆然と幸治の方を見る。「こ、幸治くん?」
「あかね、いーからさっさと帰ろう」なにやら綾は機嫌悪そうだ。
恐る恐る、とあかねは幸治と綾を見比べて、「あの、でも、幸治くん」
「いーのよ。あんなのほっとけば―――ったく。なんかこの頃はちょっとマトモだと思ってたらッ」
「・・・・・・・なんで・・・?」
「え?」綾に聞き返されて、あかねは慌てて手を振った。
「い、いえ。なんでもないですっ!」
(なんで?)
なんでもないと口では言いながら、心の中では激しく疑問。
なんでだろうかと思うその意味は、綾の激怒のその理由。
幸治相手だと何故にそこまで怒るのか。怒り続けるのかが全く理解できない。
一昨日、綾は幸治のことを大嫌いだと言い捨てた。多分、怒っているのも同じ理由なのだろう。だけどあかねには、綾が幸治のことを嫌っている意味も、そしてなにか “忘れる” たびに激怒する意味もわからない。(そんなに嫌いなら。そんなに怒るんだったら―――見ないフリをすればいい。関わらなければいい。でも、綾さんはそれをしない)
嘘だからだろうか。
幸治のことを嫌いと言ったのも、今こうして怒ったのも。
それらが全部嘘で、本当は幸治のことを好きだから―――(違う)
きっと、綾は本気で幸治のことを嫌いなんだろう。だから本気で怒っている。
―――だからこそ、わからない。(なんで?)
「あかね、早く帰ろうよ」
「・・・あ」
「あれ。どしたの、あかね? ぼーっとして」
「い、いえ。なんでもないです」あかねが首を横に振ると、綾はくすりと笑った。
「あかね、さっきからそればっか」
「あ・・・」
「―――ま。なに悩んでるのか解らないけど、相談があるなら乗るから」
「あのっ」
「ん?」問いかけ。に、あかねは僅かに首を傾げてこちらを向く。
こちらを覗いてくる瞳と自分の瞳が合って、ドキリとする。
思わずなんでもない―――そういいかけて、しかし実際に出た言葉は悩んで解らなかった疑問の一端。「どうして―――綾さんは、幸治くんに対してこんなに、怒るんですか?」
「へ?」あかねの質問に、綾は間の抜けた音を漏らす。
「えー? だってムカつくでしょ? 忘れられると」
「だ、だからって殴るほど、ですか? ・・・いつも幸治くんが何かを忘れるなんて、いつものことでしょう?」そう。
西山幸治は異常なほど忘れっぽい人間だ。そんなこと、幼馴染の綾なら他の誰よりも知っているはずなのに。「それなのに、どうしてその度に殴ったり蹴ったり―――どうしてですか?」
「ど、どうしてって・・・だから、幸治が馬鹿で記憶喪失でムカつくから―――」
「だったら!」大声を出して息が切れる。
はぁ、と軽く深呼吸して綾を睨む―――わけのわからない衝動。なんで自分自身、こんなにムキになって怒鳴ったりしているのか困惑しながら、さらに怒鳴る。「だったら私がなにか忘れる度に綾さんは私を殴るんですか!?」
「そ、そんなわけないじゃない」
「じゃあ、どうして幸治くんだと殴るんですか!?」
「え・・・と。な、なんでかしら?」本当に解らないように綾が目線を反らす。
その様子に、あかねの中の何かがキレた。「綾さんのやっているのはただのイジメじゃないですかッ」
「違う」と、否定したのは。
「幸治!?」
「幸治くん・・・?」先程、綾に蹴り飛ばされた幸治が、いつもの無感動な表情で立っていた。
「あかね、違うから」
「なにが・・・だって!」
「綾はいつも本気なだけ―――だから、俺みたいなヤツが嫌いなだけなんだ」
「幸治・・・」幸治の言葉に、綾はゆっくりと幸治に歩み寄る。
そして。ガン。
「あんたはぁっ!」
「む。とても痛いが」いきなり殴られた頭を抑える幸治の胸倉を、綾は両手で掴みあげるとがくがくと揺さぶる。
「解ってるならもうちょっとマトモにせんかぁぁぁぁっ!」
ひとしきり揺さぶった後、綾は幸治を床に叩きつけた。
ぜーはーと、息を切らせる綾を、あかねは。「・・・解らない」
呟かれた言葉に、綾は「あ」と声を漏らして振りかえる。
「あ・・・あのね、あかね。これは別にイジメてるとかそーゆーんじゃなくて、ただなんかホラえっと身体が勝手に動くというか反射神経というか――――って、あかねっ!?」
ぎょっとして綾はあかねの顔をマジマジと見つめる。
「あかね・・・泣いてるの」
「うっ・・・」嗚咽。
を片手で抑え、開いた手で流れる涙を拭う。「わかんない・・・わからない・・・わからない・・・」
「えっ、ちょっとあかねっ、ねぇっ! わからないって―――」・・・耳の外で綾の心配そうな声が聞こえて来る。
だけど、そのことになんの応答もできないまま、「わからない」と呟きながら泣き続ける。(嘘だ)
と、自分の呟きに対して想いで否定。
解っていた。
綾が「ただムカつくから」という理由で幸治を殴り飛ばしていたのではないということ。
きっと、心のどこかで解っていたに違いない。だからこそ、悔しかった。それを認めたくなかった。だから今、泣いている。わからないと呟きながら、泣きながら、否定している。
それを認めてしまえば、認めてしまうことになるから。
九条綾にとって、西山幸治は “特別” な存在で、西山幸治にとって、九条綾は特別な存在だと言うことを。「あかねっ!」
声。
何故か懐かしさを感じた声に、あかねは涙を拭って顔を上げた。「ちょっと! あんたたちっ、あかねになにしたのよっ!」
声は後ろから。
振りかえる。
振りかえりながら眺めた教室の中にクラスメイトの姿はなく、自分たち以外はすでに帰ってしまったようだった。「あかね、大丈夫?」
心配そうに言いながら駆けよって来た彼女を見て、あかねはホッと、心が軽くなるのを感じた。
「雪絵、ちゃん・・・」
「泣いてるの、あかね?」
「う、ううん! これは―――」
「・・・九条さん!」
「え。あ、はい!」怒鳴りつけられて、ぎくりとしたように綾は緊張した返事を返す。
そんな綾を、雪絵は憎々しげに睨みつけながら。「これは、どういうことかしら? あかねになにをしたの?」
「綾はなにも―――」
「・・・ごめんなさい」言いかけた幸治を制して、綾はゆっくりと頭を下げた。
(え・・・?)
あかねは綾を見返す。下げた頭を上げた綾の瞳とまた瞳が重なって。
すぐに綾は目を反らした。「ごめんね、あかね」
「綾さん・・・?」
「ごめんねっ」綾はあかねから視線を反らせたまま、あかねの傍を通りすぎて教室を出ようとする。
「―――待って!」
あかねは振りかえり、制止の声を上げた、が。
「ごめんっ」
言い捨てて綾は駆け出した。
「綾さん!」
あかねもそれを追おうとして―――
しんりゅう む て ん
真流 無天―――ドンッ、と空気を震わすような衝撃音。
し ょ う
"衝"ッ「げふぅぅっ!?」
綾が駆けていった方向から、身体を ”く” の字に曲げたまま綾の身体が教室の出入口の前を通りすぎて行く。
呆然と―――あかねも雪絵も、幸治でさえもそれを呆然と見送って。「あ、綾さんっ!?」
一番始めに我に返ったのはあかねだった。慌てて教室の外へと飛び出す。
「く・・・くふっ・・・き、効いたわ・・・」
「綾さん!」教室の廊下。
リノリウムの床の上に半身を起こした状態で、綾が腹部を抑えていた。「あ・・・あかね―――」
「どうしたんですか!? 大丈夫ですか!?」
「・・・いや、大丈夫、だけど」
「一体なにが・・・?」半ば混乱しながら、あかねは今しがた綾が飛んできた方向を振り向いた―――瞬間、目の前に顔があった。
「きゃあああっ!?」
「―――小松、煩いぞ」悲鳴を上げて仰け反るあかねに、リョーコは耳を押さえて顔をしかめる。
「リョ、リョーコさん!? まさか・・・」
「ううむ。よく飛べたな―――完璧にカウンター決まったと思ったんだが」
「あのねぇっ! いきなりなにすんのよッ! 自分で飛んでなかったら、今頃、子供産めなくなるところだったわよッ!?」
「いやすまん。次からはもちょっと手加減しよう」
「次、あるわけ!?」言いながら、綾は立ち上がる。
派手に吹っ飛んだ割にはそれほどダメージはないようだった。どうやら、綾が吹っ飛んだのはリョーコの一撃を緩和するために、自分で飛んだためらしい。(・・・もしかして、綾さんの周りって口じゃなくて拳でモノを言う人ばかり・・・?)
綾だけが特別暴力的というわけじゃないのかもしれない。
そういえば、幸治も昔は時々荒れていたと聞いた。
なんか全部自分の世界が間違っているような気がしながら、あかねは呆然と綾とリョーコの二人を眺める。「で。なんだ。取り込み中のようだが?」
と、リョーコの言葉にあかねははっとして。
「綾さん!」
「う・・・な、なに?」あかねに詰め寄られて、綾は気まずそうに視線を反らした。
「まあなんか色々とややこしいことになった挙句に逃げ出そうとしたら、ハプニングのせいで逃げ出せなかった上に “ややこしいこと” に全く関係のないことで心配されてちゃ気まずくもなるが」
「やかましい」綾はジロッと幸治を睨みつける。と、その視線の前にあかねが回り込んだ。
「綾さん―――」
「あ、あかね・・・その。私は・・・」
「嘘つき」
「は?」思わぬ言葉に綾はあかねを見た。
あかねはムッとした顔で―――先程の涙のあとも残されていたが―――怒っているようだった。「今朝、 私と友達になれて嬉しい―――そう言ってくれたのは嘘だったんですか?」
「そんなわけないじゃない!」
「だったらどうして悪くもないのに謝って、その場を誤魔化して逃げようとするんですか!? そんなのが友達なんですか」
「そ、それは・・・でも・・・」綾はもごもごと呟いて、しかしなにも言葉はない。
そんな綾の様子に、はぁ、とあかねは吐息。「ごめんなさい」
「え。な、なにが・・・?」
「さっきのことです。私、頭に血が上って―――」
「う、ううん! あかねは悪くない。だって、言われてみれば私、幸治のことを苛めているって思われても仕方ないし・・・」
「―――でも、イジメとかそういうんじゃないですよね?」
「う、うん。私は、幸治に・・・もっとしっかりしてほしくて―――」呟いた瞬間、綾ははっとして口元を抑える。
そんな様子に、あかねは微笑んだ。
やっとわかった。
いや、最初から薄々気付いていたんだと思う。(綾さんが、幸治くんのことを殴ったり蹴ったりするほど怒るのは―――)
――――― “記憶喪失” なんて言って誤魔化して、その気になればすっごくカッコ良いことができるくせに、自分を誤魔化し続けてる。だから嫌い。
幸治のことを嫌いだ、といい捨てたあとで、綾はそんなことを言っていた。
きっと、綾は誰よりも幸治のことをよく知っている。だからこそ、いつもなにかにつけて “忘れた” と記憶喪失になる―――綾に言わせれば、誤魔化している―――のが悔しくて、それで。
きっとそこには恋愛感情なんてないのだろう。どちらからと言えば、兄弟のようなもの。兄の良い所を知っている妹は、兄にもう少し頑張って欲しいと思っている。なんて。(そんな風に思ったら、綾さんに怒られるかな―――)
などと思ってくすりと笑った。
「ち、違うのよっ。別に私は幸治のことなんて全然どーでも―――とゆーか殴ったり蹴ったり首締めたりしているのだって、なんか腹がたつからだし、それにっ」
「わかりましたから―――あれ? その幸治くんは?」
「え?」と、ふと周りがとても静かなのに気付く二人。
周囲を見まわすが、廊下には綾とあかねの二人しかいないようだった。「雪絵ちゃんもいない」
「リョーコも・・・」
「帰った・・・んでしょうか?」
「・・・それにしたって、一声くらいかけて行くと思うけど・・・とりあえず、下駄箱に行ってみよっか。帰ったなら靴がないと思うし」綾の提案に、あかねは頷いた。
下駄箱には靴があった。
「どこいっちゃったのよ。あの三人〜!」
幸治の下駄箱の蓋をやや乱暴に閉めて、綾は唸り声を上げる。
と、そんな綾の様子に、あかねは怪訝そうに呟いた。「三人・・・ですか?」
「三人でしょ?」
「でも、三人とも別々の用事があったのかも・・・」
「・・・あ」言われてみて綾は頷く。
幸治とリョーコの二人は一緒に行動しているかもしれないが、雪絵も一緒とは限らない。「そうね。でも、そうだとしたら―――」
「はい」
「そうだとしたら―――そうだとしても、なにもわからないわね」
「はい」がくぅっ、と綾は肩を落とす。
あは、とあかねも困ったように笑った。「あ、あの、とりあえず校舎の中を探してみますか? 靴があったっていうことは、なんにしろまだ帰ってないってことですし・・・」
「ううん・・・せめて三人一緒かどうか解れば―――」
「―――三人一緒だったよ」
「え!?」いきなり答えられて、綾は驚いて声のした方を見る。と、そこには誰も居なかった。
―――いや。男子用の学生服が1セット、宙に浮かんでいた。「と、透くん! 居たの?」
「・・・うっ・・・そ、そりゃあ僕は影が薄いけど―――」
「あ、ああっ、ごめんなさいっ! ・・・それよりも、三人が一緒って・・・・・・?」綾が尋ねると、透はコホンと咳払いを一つして、
「ええと、九条さんたちがなにか話している時に、なにか幸治くんが、ええと―――」
「雪絵ちゃ・・・佐野さん?」
「ああ、その佐野さん? に話があるっていって、リョーコさんと三人で階段の方に―――」
「階段・・・上か下か、どっちに行ったか解かる?」
「ちょっと、そこまでは・・・」
「ふうん・・・わかった。ありがと」
「うん。大して役に立てなくてごめんね」
「ううん。三人一緒に―――ってゆうか、幸治が一緒なら高性能な探知機があるから」綾の言葉を、透はわからずに、表情に「?」を浮べた。
と、透は最後に一つ付け足す。「・・・なんかね、幸治くん怒ってる見たいだったよ? あれはまるで、昨日の―――――」