次の日―――水曜日の次は、もちろん木曜日。
朝。この頃の朝は曇ることすらなく快晴―――気持ちが良く、思わず背伸びの一つでもしたくなるような朝。
そんな朝の時間、あかねはアパートの203号室―――西山家の部屋のまえに佇んで、ひたすら緊張していた。(結局・・・断れなかったなあ)
―――明日、幸治を学校まで引っ張ってきて欲しい。
昨日の学校での休み時間。突然の綾の申し出を、あかねは何度も断ろうとして―――結局、断れなかった。
・・・いや、断れなかった、というのは少し違うだろう。
別に、綾は強制したわけではない。あかねが断ろうとすれば、あっさりと了承してくれただろう。つまり、あかね自身に断ろうと言う気がなかったのだ。
休み時間が終わり、昼休み、放課後、悩み考えて無理だと唸って。何度か断ろうと綾に話し掛けようとしたのだが―――話しかけて自分の口から出てくるのは全く別の話題。
正確には、断ろうとする気持ちよりも、断りたくない気持ちの方がわずかに勝っていた・・・そういうことなのだろうと、自分で思う。(断りたくないって・・・つまり・・・私は西山君と一緒に登校したいって、そういうこと?)
自分に対して疑問詞。自分で自分のことがワカラナイ。
昨日のあかねの言葉が頭の中でリフレインする――――― “あかねは? 幸治のことをどう思ってる?”(わかりませんよ、そんなの)
昨日は答えることのできなかった言葉を胸中で呟く。
わからない。
昨日からずっと、自分が結局、幸治の世話―――というとペットかなにかのようだが、綾にしてみれば西山幸治も犬畜生も大した違いはないのだろう―――を引き受けてしまった時から、月曜日の放課後にコンビニ行こうとした時に声を掛けられた所まで遡りながら考えた。幸治のこと。自分は、彼のことを一体どう思っているのかと。気になっているのは確かだった。
ずっと前から気にはしていたのだ。小説のキャラクターとして使わせて貰うほどに。―――もっとも、その頃は幸治のことを「記憶喪失の名物男」くらいにしか考えてなかったのだが。だが最近はちょっと違う―――確かに西山幸治は記憶喪失の変人だが、それだけではないとあかねは知った。
月曜日に声をかけられたとき、幸治はあかねが他人の体温を苦手としていることを見破られた。火曜日、綾の手を振り払ってしまい、思わず逃げ出したあかねを、綾よりも早く追いかけてきてくれたこと。綾のことを諭して、仲を取り持ってくれた―――その時に見せてくれた微笑は、今もはっきりと心に焼きついている。そして昨日、あかねと綾と三人で一緒に学校へ行こうと言ってくれたこと・・・
まだ、あかねは幸治のことを良く知らない。しかし、記憶喪失の変人、という印象は崩れかけている。そして、よく知らない―――わからないからこそ、もっと良く知りたいと興味がある。だからこそ、今、あかねはここに居るのだろう、と結論。(でも―――)
でも、とあかねは自分自身に首を捻った。
(他人が苦手な私が、どうしてこんなに気になるんだろう・・・?)
いつもなら、他人に対しては極力干渉せず、関わらないようにしてきたはずなのに。
(・・・というか、向こうから関わって、撒き込まれて―――そして)
ここにいるのだ、と思い直す。
もう、この数日間で無視できないほどに自分と縁ができてしまったのだ。西山幸治と九条綾の二人には。(そういえば、前にも―――雪絵ちゃんと初めて会った時もこんな感じだったような・・・)
思い出す。中学一年の春のこと。
あれは、新一年の初日。初めてクラスメイトたちと顔を合わせたときのこと。
机が名前順で並んでいたので、小松あかねのすぐ後ろが、佐野雪絵だった。そのときに雪絵が―――「・・・・・・・・誰だ?」
声。
それから顔。
誰何の声に、物思いにふけっていたあかねが顔を上げる。
あかねの視線の先には、幸治がアパートの部屋のドアを開けて、顔だけ外に出してこちらを見ていた。「は、はうっ!? は、はのっ」
不意打ちに、あかねはこれ以上ないほど狼狽する。
心臓がバクバクと驚きに高鳴っている―――言葉が上手く発音できない。
そんなあかねを怪訝そうに見ながら、幸治はドアを完全に開いてあかねを見る。ちなみにまだ学校の用意はしてないらしく、灰色の柄の無い―――まるで幸治自身の表情と記憶のように素っ気無いパジャマを着ていた。
幸治はふむ、と眉間にシワを寄せて開口一番。「誰?」
相変わらずの記憶喪失っぷりに、いきなり気分が下がる。
やはり昨日、一昨日にあかねのことを覚えていてくれたのは奇跡だったようだ。
狼狽していた自分が消えて、思いっきり心が冷える。「・・・・・・・・はう」
めげそうになりながら、それでも冷静になったあかねは吐息して、自分をさらに落ち着ける。
うん、落ち着いた。
自分自身に頷いて、あかねは幸治の顔の真正面―――から視線を少し斜め横にズラして。「あ、あの。わ、私、西山くんと同じクラスの小松あかねで、今日は一緒に学校に行こうって」
落ち着いたと思っていた自分は幻想だったのか。
言葉に出した途端、口調がどもり、語尾がだんだんと小さくなっていく。
だが、そんなことは幸治は全く気にした風も無く、ただ疑問を一言。「西山くんって誰?」
「・・・・・・・あう」ごめんなさいダメです綾さん。私にこの人は扱えません。
かなりくじけかけて、それでもなんとか踏ん張る。「だから、私は西山幸治くんと同じクラスの―――」
「西山幸治って?」
「あなたのことです」
「俺?」
「はい。それで、私はあなたと同じクラスの小松あかね」
「あんたが小松あかね」
「はい。それで、一緒に学校に行こうって」
「学校に? 誰と誰が一緒に?」
「だから、私と幸治くんが―――」
「幸治って誰?」
「あうううううう・・・・・」ごめんなさいダメでした綾さん。私にはこの人を学校に連れていくことはできませんでした。
完全に諦めてうなだれる。仕方ない、九条家に電話して綾を呼ぶしかない。急用とか言っていたが、もしかしたらまだ家に居るかもしれない。(どうか、神様。綾さんがまだ家を出てませんように――――)
祈りながらあかねは回れ右して電話をかけるために自分の部屋に戻ろうとした時―――
「おいコラ幸治、なにしてやがる」
西山家の中から幸治のものではない男性の声。
振り返ると、幸治の頭を中年の男性が小突いていた。
火のついていないくわえ煙草で、赤ら顔の大柄な男―――幸治と二人暮ししているという父親だろうか? どちらかと言えば大人しい―――感情に乏しいとも言う―――顔の幸治に比べ、不精髭を生やしたゴツい顔の父親。体格も幸治の方は中肉中背の標準体格で、対して父親はがっしりとした身体つきだった―――顔と合わせて熊のような男。あまり似た親子ではないなぁと、あかねは心の中でこっそり思った。「あん? 珍しいな、綾ちゃん以外の女の子が迎えに来るなんてよ」
幸治父はあかねの姿を見て、意外そうに言う。慌ててあかねは頭を下げた。
「あの、わたし、幸治くんと同じクラスの小松あかねと言います・・・」
語尾がだんだんと小さくなる。他人が苦手で、だから当然のように人見知りが激しいあかねは、幸治父の顔をマトモに見ることすらできずに俯いた。
「小松・・・? もしかして、同じアパートの?」
「あ。はい。205号室の小松です・・・」
「ああ、やっぱ明子さんの娘さんか。そーいやなんか似てるな」
「あ? あの、母を知ってるんですか?」
「そりゃ同じアパートだしな」それもそうだ。
母の知り合いだと解かると、ちょっとだけ安心する。あかねは顔を上げると、事情を説明した。「なにか、綾さんが急用があるみたいで私が代わりに迎えに」
「ふーん。それで、さっきから玄関で騒いでやがったのか」
「あ。す、すいません・・・」朝っぱらから玄関で騒ぐのはやはり迷惑だっただろう。そう思ってあかねは深く頭を下げる。
「いやいやあかねちゃんはなんも悪くねぇよ。悪いのはコイツだ」
いいつつ、幸治父はポカリと息子の頭を殴る。幸治は痛そうに殴られた場所をさすった。
「こいつは言うよりも殴った方が早いんでな。ムカついたら全力で殴っていいんだぜ?」
「な、殴るなんてそんな・・・」
「蹴っても可」
「・・・は、はうぅ・・・・・・」確かに綾はよく幸治のことを蹴ってるが。
だからと言ってあかねにも同じことができるわけもない。「ほら幸治。てめぇはとっとと着替えて来い。あんまり女の子を待たすんじゃねぇぞ!」
「・・・一つ、聞きたい」幸治は自分の父を振りかえって、その顔をマジマジと見る。
「アンタ誰だ?」
「テメェの親父の西山虎雄様だ阿呆息子! わかったらとっとと着替えて来い」
「わかった」父親に怒鳴られて、素直(?)に幸治は着替えに部屋の中へと戻った。
あるひあるときあるばしょで
シャレにならない彼女の事情
第二話「木曜日の朝の騒動―――或いは小松あかねの戸惑う想い」
登校中は終始無言だった。
特に話題もないし、今朝は幸治もなにも話すことはないようだった―――というか、あかねのことをまだ思い出せていないのかもしれない。
黙々と歩き続ながら、しかしあかねの内心は穏かではなかった。(か、考えてみれば私、男の人と二人きりで登校するなんて始めて―――)
ここ数日で、幸治とは一緒にコンビニへ行ったり、下校したりはしたが、二人で登校となると話が違って来る。なにせ当然だが他にも登校する生徒はいる。同学年もいれば、同学級も居るかもしれない。そんな中で自分は―――というか自分と幸治はどんな風に見られているのだろう。そんなことを考えると、確かめるのも怖くて周囲を見ることができなくて足元をじっと見ながら歩く。
周りからなにかしら視線を感じるが気のせいだと無理矢理に無視。実際に見られているかどうか気になるが、顔を他人と目が合ってしまえば冷やかされたりしそうで恥ずかしくて、あかねは顔を上げることなく進んだ。
なにごともなく学校に辿りつく。
思ったように冷やかされることもなく、ほっとしたような残念なような―――(残念?)
あかねは軽く頭を振る。なにを考えてるんだろう自分。
やっぱりなれないことはするもんじゃない。昨日、綾にちゃんと断ればよかったと思う。だいたい、綾の急用とはなんだったのか―――なんとなく、デマカセだったのではないかと被害妄想。もしも、あかねの態度に綾が気を利かせたというつもりなら大きな勘違いだ。確かに幸治に名前を呼ばれた時はドキドキした。でもそれはまさか自分の名前を覚えていてくれたことに驚いたドキドキであって、ホレタハレタの話なんかじゃない。(・・・本当に、そう?)
だったらなんで綾に断らず、今日幸治と一緒に登校したのだろう。断れなかった、としても逃げればいいだけだ。もしくは幸治のように「忘れちゃった」とか言って誤魔化してもいい。でも、そうしなかったのはなんでだろう・・・?
さきほどは “幸治のことを知りたいから” と結論づけた。が、ならば何故知りたいのか。(私、西山くんのことを―――どう、思っているの?)
“リエ” の台詞が頭に浮かぶ。あの時思ったのは綾が幸治のことをどう思っているかだった。そして、綾ははっきりと幸治のことを嫌いと言った。果たしてそれは本心だったのか―――なんとなく、本心のような気がする。綾は “記憶喪失である限り” 西山幸治は嫌いだと言った。きっと、それは本音なのだろう。もしも幸治が記憶喪失でなければ、どうなのかはわからないが。
私はどうなんだろうと、自問。小松あかねは西山幸治のことをどう思っている? 今はなによりも誰よりも自分のその思いを知りたいと思う。
好き?
嫌い?
好きなはずがない。小松あかねは他人が苦手だった。そんな人間が、他人のことを好きになれるはずがない。
だけど、それならどうしてあかねは綾の言われるままに幸治と一緒に登校したのだろう。と、堂々巡りになる。―――そんなことを考えてるウチに、何時の間にか教室についていた。
「・・・あ」
思わず自分の足元を見る。下駄箱で靴を替えた記憶がないのに、ちゃんと上履きになっている。どうやら考え込みながら無意識に身体がいつもの動作を行ったらしい。ちょっと自分が凄いと思ってみる。
自分で自分に感心しているあかねの前で、幸治が教室のドアを開けて入る。あかねも慌てて教室に入った。後ろ手にドアを閉める。と。「・・・?」
なにやら黒板の前にクラスメイトたちが集まっていた。
どうしたんだろうか、と思いながら、しかしあかねは特に気にせずに自分の席につく。教室の中を見まわせば綾の姿はなかった。前の人だかりにもいない、ということは矢張り本当に急用があったのだろう。幸治の方はすでに机についている。
教室の前の黒板の上にかけてある時計を、眼鏡をかけて確認して見れば、ホームルームまではまだ時間があった。
眼鏡を外し、とりあえずいつもの小説の続きを書こうと机の中の小説を書こうとしてノートを―――――ノートがなかった。
「あ、あれ・・・?」
机の中を覗き込む。が、いつものノートがない。いつもあのノートは教室に置きっぱなしにしていた。前は家に持ち帰っていたのだが、母が掃除中に見つけてしまい、こっそり読まれてしまって恥ずかしい想いをしたことがあったからだ。だからずっとこの机の中に入れておいたハズなのだが―――
「―――だけどこれってやっぱりあいつらだろ? 九条と西山」
言葉は前から。
嫌な予感がして、あかねは席をたつ。ゆっくりと目立たないように黒板の前に集まってる生徒たちの方へと。
眼鏡をかけて、生徒と生徒の間から黒板を見る。そこには。「―――あっ!」
見慣れたノートが黒板に立て掛けられて開かれて、自分の書いた文章が晒されているのを見て、あかねは思わず声を上げる。と、生徒たちが一斉にあかねを振り返った。
「あー。もしかしてコレって小松のノートか?」
「え・・・えっ」あまり喋ったことのないクラスメイト。名前も上手く思い出せない―――というか、はっきりと顔を見ることもできず、あかねは俯いた。
答えることもできず、なにも応えずにただ押し黙るのみ。「なあなあ、ここに書かれてるのって西山と九条だろー? でもリエって誰だよ?」
「あ。わかった、自分のことだろー」ぎゃはははーと笑い声。あかねは自分の足元を見つめたままなにも喋らない。いや、喋れない。
ヘタに反応すれば、それをネタにさらに笑われるような気がして、だからあかねは身動き一つ取ることもできなかった。
前の中学で、自分の生まれのことがバレたときも似たような状況になった。クラスメイトたちにそのことを指摘されて、笑われたり馬鹿にされたり。教師たちも、あまり関わりたくないようで、あかねはずっと一人ぼっちだった。
こんな時は黙って自分の足元を見つめていれば良い。そうすればそのうち皆飽きて行ってしまう。だから、暫く我慢すれば良いだけ。後になって、またからかわれたりするけど、その時になったらまた我慢すれば良いだけ・・・・「おーい、小松さーん。あかねさーん?」
わざとらしい声で呼びかけて、こちらの顔を覗きこんで来る。あかねは目をつぶった。
「オイなんだよ。感じ悪いな。なんとか言えよ!」
どんっと、肩を押された。目を閉じていたあかねはバランスが取れずにそのまま転倒する。
「おい、やりすぎだって」
「・・・でもよ、ムカつかねーかコイツ。俺はこの小説のこと聞いてるのに無視しやがって」そんな声を聞きながら、あかねは起き上がる。
「あ。立ち上がった」
立ち上がって、あかねは目を瞑ったまままた俯く。チッ、とあからさまな舌打ちが聞こえた。
「やっぱムカつくぜこのアマ。絶対、てめぇのことをイジメられてる可哀想な女とか思ってるんだぜ?」
「でもさー、実際可哀想だぜ? だってこいつ、親がアレだって言うじゃん」
「アレってなんだよ?」
「はあ、お前知らねーの? こいつ母親が無理矢理に犯されて出来た子供っていうじゃんか」
「へー! 知らなかったぜそんなこと! 小松あかねって、レイプされて出来た子供なのかー!」わざとらしい大きな声。
それでもあかねは目を閉じてその場に立ち尽す。真っ暗闇の中、時間が立てばこの闇も終わると知っているから。
チ、とまた舌打ち。「ったく、おいなんとか言えって! 俺が悪者みたいだろっ!」
「十分、悪者だろ、お前」
「くそムカつく・・・なんでこんな女産まれたんだろーな!? こいつの母親馬鹿なんじゃねーの? 降ろせばよかったのに」
「お母さんのこと、悪く言わないで!」瞳を開け、気が付けばあかねは叫んでいた。
クラスメイトは驚いたようにあかねを見るが、へっと笑ってあかねを見る。「なんだよ、喋れるんじゃねーか」
「あ・・・」怯えるあかねに、ノートが突き付けられる。自分が書いた文章。
「この勇人ってのが西山のことだろ? それでみさきってのが九条。おい、ちゃんとクラスメイトに書いてもいいかって許可を取ったのかあ? 人権侵害っていうんじゃねえか、これ」
「本人が書いたんだから良いだろ」と、答えたのはあかねではなかった。声はあかねの後ろから。
振り返ると、何時の間にか幸治が立っていた。
いつもの無表情をあかねと、クラスメイトたちに向けて。「はあ? なんだよ本人って」
怪訝そうなクラスメイトに、しかし幸治は涼しい顔でそのノートを指し示して、
「だってそれ、俺のノートだし」
「・・・西山、これお前が書いたって言うのか?」
「そう」
「はあああ?」怪訝な顔をするクラスメイトに、幸治は淡々と。
「だってその字、俺の字だし」
「嘘つけ! だったらお前、字書いてみろよ」幸治は無言でクラスメイトからノートを取り上げると、黒板の前の教壇にノートを広げ、適当に文字を書く。
(・・・ウソ)
と、その字を見てあかねを含めた幸治以外の人間が驚いた。
黒板に幸治が書いた字は、ノートに書かれていた文字と驚いてしまうほどそっくり―――というか同じ字だった。「わかったか」
「だ・・・だったら、その話の出だしは!? どんな話か言ってみろ!」
「ああ」幸治は自信たっぷりに頷いて―――から首を傾げる。
「すまん、忘れた」
「・・・・・くっ」西山幸治が忘れっぽいのは周知の事実だった。自分の書いたものを忘れてしまったとしても不自然ではない。そして文字が同じ以上、その小説は幸治が書いたものということになる。少なくともそう考えざるを得ない。
「く・・・・・・いや、まだだ。小松、お前も字を書いてみろよ!」
矛先が、今度はあかねに向けられる。
が。「小西!」
そのクラスメイトの名前だろう、幸治がやや強く怒鳴るように名前を呼ぶ。
突然自分の名前を呼ばれ、あかねに顔を向けていた小西は、ビクッ、と反射的に幸治を振りかえる。「な・・・なんだよ」
「それくらいにしろ。・・・あかねが、例え偶然にも俺と同じ字を書いたとしても、その小説を俺が書いたってことには変わりはない」正論。
というよりは、むしろ詭弁のようだが、ノートに書かれた字と同じ字を幸治が書いた以上、その詭弁をひっくり返すことはできない。
小西は引き下がりかけて―――その小西の前に、小西と一緒にあかねにノートをつきつけていたもう一人のクラスメイトが前に出る。「大島・・・」
「あのなぁ西山。別に俺たちはこのノートが誰のかなんて、どうでもいいんだ。―――俺たちはこの小説の感想を、小松と話したいだけなんだよ。なあ小松?」大島は小西が持っていたノートを取ると、あかねに向かって笑いかける。
話を振られて、え、とあかねは目を丸くする―――が、なにか応えようとするよりも早く、大島は再び幸治を見て。「だから邪魔しないでくれよ。目障りだぜ、お前」
ふむ、と幸治は顎に手をやり大島を見る。
上手い切り替えしだ。
幸治が、そのノートは自分のだと同じ字まで書いて証明見せたのは、これで無効。というか無意味に落ちる。何故なら、大島は前に置いてあった小説が誰のかは知らないが、その内容についてあかねと話したい―――そういうことを言った。その小説自体を誰が書いたかなんて関係ない。
だが、小説の内容をあかねと話し合う―――これが、実際にその小説を書いたのが幸治なら問題はないが、本当はあかねが書いたものだ。結局、小説をネタにあかねはからかわれることになってしまう。「そんなにあかねを苛めたいのか・・・?」
「―――おいおい、なに言ってるんだよ。俺たちは小松と仲良くしたいだけさ―――なあ、小西」
「あ、ああ」大島に言われて小西は慌てて頷く。
頷き返して、大島はにやりと幸治を見た。「ということだ。お前は引っ込んでろよ」
「何故だ?」
「ったく本当に記憶障害だなテメエ。俺と小西は小松と三人で仲良くお話するから、お前はどっかに言ってろって言うんだよ」
「俺も仲良くしたい」幸治に言われて大島は、は? と幸治を見る。
構わずに幸治は続けた。「俺もあかねや大島たちと仲良くしたいんだが」
「フザけんな。却下だ」
「何故だ?」
「な―――何故って・・・・・・とっ、とにかく―――」
「その小説の筆者としては、お前たちの話す感想とやらに非常に興味があるし」
「ちっ―――」大島は幸治を睨みつけて舌打ち。
幸治はにこりともせず、ただいつもの感情の乏しい表情を大島に向けて、感情の乏しい表情を、なにか挑戦的に小さく笑みを作り大島たちに語りかける。「さあそれでは四人で語り会おうか。そして俺に、俺の書いた小説の感想を容赦なく聞かせてくれ。物語の感想とは、語り手に告げる賛辞のようなものであるから容赦なく―――そう・・・情容赦のない言葉を、ありがたく俺も受けとめよう。さらに質問疑問があるのなら随時受け付けるぞ―――俺の記憶の範囲内なら、氷に熱湯を注ぎ込むように疑問を氷解させまくり―――」
「うるせぇ黙れよ記憶喪失男!」調子に乗ってか、やたらと雄弁に語り出した幸治を、大島は怒鳴りつけた。
む、と幸治は表情を消して、大島を見返す。「さっそく情容赦のない感想が来たな」
「ちげーよッ」
「怒鳴っている・・・ふふ、激しい感情だな大島―――その調子で感想を叩きつけてくれ・・・ふふふふ・・・」
「こ、この記憶喪失が・・・ッ」なにやら無表情で声だけ笑う幸治を、不気味そうに―――しかしビビったら負けとでも思っているのか、大島は強く睨み返す。
「いい加減にしやがれッ。いいからお前は引っ込めよッ!」
大島の言葉に―――ふと、幸治は笑い声を止める。
そして吐息。「いい加減にするのはどっちだ? わざわざ他人のノートを盗んで晒し物にして―――」
「はあ? 妙な言い掛かりすんなよ!」
「ん?」おや、と幸治は首を傾げる。
「・・・ちょっと待て」
「んだよ」
「このノート、お前等が机から持ち出したんじゃないのか?」
「 “誰” の机から持ち出したって?」にやにやと大島が訪ね返す。
ふむ、と幸治は頷いて。「あかねの机だ」
幸治の言葉に、大島はあっさりと告げた幸治に、一瞬虚を突かれた様だったが―――しかしすぐに気を取りなおし、意地の悪い笑みを浮かべる。
「じゃあ、やっぱりこのノートは小松のなんだな?」
「なんでそうなる」
「そのノートは小松の机の中に入っているハズのモンなんだろうが。だったら―――」
「昨日、あかねに預かっといて貰っただけだが」
「こ、この野郎・・・」ああ言えばこう言う。
幸治の平然とした言葉に、大島は苛立ちを隠そうともしない。今にも掴みかかりそうな形相で、しかしそんな大島に幸治は平然としたまま。「じゃあ、やっぱりノートを盗んだのはお前なんだな?」
「なんでだッ」
「このノートがあかねの机の中に入っていると知っているのは俺とあかねと犯人だけ―――そしてお前がそれを知っているということは!」
「お前が言ったんだろうがッ!」
「そうだっけ?」言われて幸治は腕を組んだまま、考え込む仕草をする。
「そう言われればそうかもしれんが、忘れた」
「・・・どーして九条はこーゆーヴァカを放置してるんだ・・・?」うなだれる大島に、しかし幸治は気にせずに尋ねる。
「しかしそうなると、お前は何処から盗んだんだ?」
「盗んでねえよッ!」
「ちなみに窃盗罪は懲役2時間だが、偽証罪は終身刑って昨日の国会で法案が可決されたらしいぞ」
「どこの法律だ! どこのっ!?」がなる大島を無視して、幸治は周囲のクラスメイトたちを見回して―――
「透」
見つけた透明人間は、え、と疑問の声を漏らし、中身のない―――見えない―――学生服が前に出る。
透明人間だからその表情はわからないが、学生服の動きは、どこかおどおどしているようにも見える―――が幸治は無視。「な、なに・・・?」
「大島の言っていることは本当か?」問われて透はちらりと大島と小西の方を盗み見て。
「う、うん・・・本当だと思うよ。僕は今日、日直でクラスには一番早く来たから・・・」
「一番早く来た? ならこのノートはいつから置かれてたか解かるか?」
「うん・・・僕が来た時にはもう置かれてあったよ。教壇の上に」透が言うには。
朝、クラスに入ったときにはすでにそのノートは教壇の上に置かれてあったらしい。
透は誰かが教壇の上に置いたまま忘れたのだろうと考えて、とりあえず日直の仕事を終えてから、そのノートを持ち主の机に置いておこうと考えて手にとった。が、表には名前が書かれていなかった。悪い、と思いながらも中を開いてみると、そこにはどこかで聞いたことのあるようなキャラクターの物語があって―――「ちょっと読み始めたら面白くて・・・読みふけっているうちに他の人たちがきて―――それで、いつのまにか皆に広まっちゃって」
言って、透は頭を下げたようだった―――学生服が腰の辺りから折り曲げられる。
「ごめん! 他の人にも誰のか尋ねるつもりで見せて―――幸治君のだって知らなかったから・・・」
「いや。楽しんでくれたのなら十分だ。筆者として自分の物語を楽しんでくれれば、これ以上の喜びはない」幸治が頷くと、透はもう一度「ごめん」と謝った。
「さて―――」
幸治は大島たちを振りかえる。
軽く手などを上げつつ、「お前たちが犯人じゃなかった見たいだな。やっぱり」
「やっぱりってなんだコラ」
「友達だからな。無実だって信じてた」
「疑ったのはお前だろが」
「しかしそうなると犯人は誰なんだろう?」
「誤魔化すな、この―――」(・・・ん?)
と、幸治は横目であかねの様子がおかしいことに気付いた。
さっきまではじっと耐えるように、なにも表情に顔を表さずに俯いていたのが、なにか怯えるように―――或いは哀しんでいるように震えている。
なにごとか、と思ったとき、怒鳴り声が飛んで来た。「聞いてんのかぁ! 西山ッ!」
「ああ、いや聞いてなかった」
「野郎ッ」
「―――ところで大島。お前は面白かったか?」唐突に問われて言葉に詰る。
が、大島はちっ、と舌打ちして。「お、面白いわけねえだろッ」
「むう? どこが?」
「どこがって・・・全部だ! 端から端まで! だいたい自分自身のこと書くなんて変態か!? ナルシストなのか!? えんがちょとか言うぞコラ!」怒鳴りながら、大島はバンッ、と床にノートを叩きつける。と。
ガッ。
一瞬。
その場の誰もが目を疑った。
いきなり幸治が大島を殴りつけたのだ。「な―――なにしやがるッ」
それほど強くはなかったのか―――というか幸治が非力なのか、大島は軽くよろめいただけで、殴られた頬を押さえて幸治に向かって怒鳴りつける。その胸元を乱暴に掴み、
「すまん」
と、幸治の謝罪の言葉に、大島は振り上げた手を止める。
「自分の大切な作品が汚されて思わず手が出た。許せ」
「このっ―――ふざけんなッ!」大島は止めていた腕を再び幸治に向けて――――
「あのッ」
不意にあかねが声をあげた。
それほど大きくないが、それでもその場の全員が聞き渡る声。
教室の中の人間が、あかねに注目する。
そんな中で、あかねは俯いたまま一歩前に出る。「ごめんなさい。全部、私が悪いんです」
謝りながら、大島が叩きつけたノートを拾って手に持つと、大島と大島に掴まれている幸治に向かってにこりと―――随分と無理な作り笑いを浮べる。
「幸治くんは勘違いしてます。これは私が書いたんです―――ごめんなさい。勝手に小説に使ったりして」
「あかね・・・」
「小西君の言うとおりです。人権侵害です―――もう、書きませんから許してください」ぺこり、とあかねは頭を下げると、自分の席に戻る。
なにやら教室全体が気まずい雰囲気になって、他のクラスメイトたちも席についた。
大島も幸治を解放すると、チ、と舌打ちして小西と一緒に席に戻る。
幸治は、あかねの席に向かおうとして―――その時。「ぎっりぎりセーフッ!」
ばんっ! と勢いよく開けて、綾が教室に入ってきた。
幸治は回れ右をすると、自分の席へと戻る。「おっはよー! って・・・あれ? なに、この暗い雰囲気」
怪訝そうな綾の疑問に、しかしクラスの誰も答えるものはいなかった。
一時間目の休み時間。
二時間目は移動教室ではないので、綾はゆっくりと次の授業の用意を自分の席でしていた。と。「・・・あれ?」
教室を出ていく三人の生徒を見かけて首を傾げる。
そのウチ一人は幸治で、あとの二人は確か大島と小西という同じクラスの男子だった。(珍しい取り合わせねえ)
大島と小西はよくつるんでいるのを見るが、そこに幸治が加わっただけでんいか異質なものを感じる。
見た様子からすると、幸治が二人に何事か用事があって教室の外に連れ出し、二人は渋々ながらもつきあってやっているという感じだったが。
幸治の用事、というのが全く想像できずに困惑。まあ、どうせ大したコトじゃないんだろうけど、と思いながらも気になる。(昼休みに聞けばいいか)
どうせ、いつもどおり一緒になるんだし。
などと思いながら次の授業の用意をしている綾に、あかねが声をかけてきた。「綾さん、ちょっと、いいですか・・・?」
「え? うん。いいけど―――あれ、あかね、元気なさそうね? どしたの」綾が尋ねると、あかねは力のない笑顔を浮べるだけでなにも答えない。
「昨日の小説、覚えてますか?」
「ああ。私に似ているカワイイ女の子が出てくる話ね?」綾の言葉にあかねははい、と頷く。
そこはツッコむ所よ―――などと苦笑しながら綾は話を聞いた。「ええーッ!? あれって、私がモデルだったの!?」
驚く綾に、あかねははい、とまた頷いて。
「ごめんなさい。勝手にそんなことして」
「いや別に謝らなくても―――でも小説に私が・・・」綾はあははと笑って。
「なんか、恥ずかしいね、そういうの」
「ごめんなさい。もう、書きませんから」
「・・・え? いや別にそんな――――」
「それだけです」綾の言葉を遮って、あかねは自分の席に戻る。
「ちょっと、あかね?」
あかねを追いかけようとした時、二時間目のチャイムが鳴り響いた。
なんだかんだで昼休み。
綾は弁当を二つ分持って幸治の席へ行く。「はい、幸治。アンタの分」
「? なんで綾が俺の弁当を持ってるんだ?」
「いっつも作ってあげてんでしょうがっ!」げしぃ、と蹴りつつ綾は近くの席の椅子を引き寄せる。
いつものように透も来て三人して弁当を開く。―――と、綾はあかねがいないことに気づく。ここ数日、一緒にご飯を食べていたのだが。「あれ・・・?」
あかねの席を見る―――が、あかねの姿はない。教室内にあかねはいないようだった。
「トイレかな・・・?」
むう、と唸って綾は首を傾げる。
「あかね、どうしたんだろ? なぁんか今日、様子がヘンなのよねー」
呟いて、ふと黙々と弁当に箸をつける幸治を見る。
「・・・・幸治。まさかとは思うけど、登校中にあかねになんかしたんじゃないでしょうね」
「忘れた」顔も上げずに幸治は答える。その様子に綾は違和感を覚えた。
いつもの幸治なら、例え忘れていたにしても顔を上げて、それから少しは考えてから「忘れた」とかのたまうはずだ。こんな風ににべもなく忘れたというヤツじゃない。「幸治・・・? あんた、なんか不機嫌じゃない?」
「不機嫌じゃない」
「機嫌悪いでしょうが、どうみても!」ばんっ、と綾は机を叩く。弁当箱が小さく跳ねた―――が、幸治は無視。
綾のほうは全く見ずに、反応らしい反応も見せずに箸を動かす。
いつも感情表現に乏しい幸治だから、一見するといつもと変わらないように見える―――が、大分長い付き合いである綾にははっきりと、幸治の様子がおかしい―――いつもおかしいが、それとは別の意味で―――とわかった。「幸治・・・、アンタなにか知ってるんでしょっ! あかねのこと!」
「―――九条さん」ぽつり、と透は呟く。
透明人間なので表情はわからないが、声の調子は落ち込んでいるように聞こえる。「九条さんは朝遅かったから――――」
「透!」透の言葉を遮るように、幸治が怒鳴る。幸治は透を睨みつけていた。強く。
「言うな!」
「なによ・・・なにを隠してるの!」綾は透の学生服の胸元を掴みあげた。
「言え! 言わないと殴る!」
「言うなよ、透!」
「僕はなにもできなかった・・・本当は、僕が一番悪いのに―――僕が朝早くきて読まきゃあんなことにはならなかったのに!」透は懺悔するように朝の出来事を吐露する。それを聞くうちに綾の表情がだんだんと変っていく。激怒へと。
透からあかねにノートを付きつけたクラスメイトの名前―――大島と小西―――を聞きつけると、綾は教室を飛びだした。
それを見送り幸治は吐息。少し恨めしそうに透を見る。「ごめん・・・でも、黙っていられなくて」
「だったら、朝に言ってくれ」
「ごめん」繰り返す謝る透。
透も “透明人間” という体質で、苛められた経験がある。だからこそ、あかねに同情して、誰かに仇を取って欲しいと思ったのだろうが。
なんにせよ、綾は大島と小西を探しに飛び出したのだろう。あかねに謝らせるために―――おそらく殴ってでも。そんなことをすれば、余計に話がこじれそうなものだが。(まあ、そっちの方は一応、手は打っておいたし)
「後は担任に任せるしかないか―――」
「え?」
「いや、なんでもない―――それよりも透」ふと、幸治は思い付いて透に尋ねる。
「朝、教室に来た時には誰も居なかったって、そう言ったな」
「うん」
「なら、他のクラスは?」
「担任ッ!」
ドアを乱暴に蹴破って、綾は職員室に飛び込んだ。教頭らしき物体が、外れたドアに踏み潰されたが無視。綾は自分の机で弁当を食べている自分たちのクラスの担任の席まで突進する。
担任は弁当から顔を上げると綾を見た。「おやどうしたんだい、綾ちゃん?」
「どうしたもこうしたもないッ! ウチのクラスの大島と小西、どこに行ったか教えろッ!」
「ああ、綾ちゃん。女の子がそんな言葉使いをしちゃあ―――――」ビッ、と担任は右手の親指と人差し指だけを立てて拳銃の形を作ると、その狙いを綾に向ける。
「―――駄目だぜ?」
「いーからとっとと教えろっていってんのよッ!」
「あー・・・一哉くんも高志くんも早退してるけど?」大島一哉、小西高志。
苗字では無く名前を口に出す担任に、綾はそんな名前だったかと思いつつ。「つまり家にいるのね!」
「あ、ちょっと待って」すぐさま職員室を飛び出そうとした綾の腕を、担任は引っ張った。
「なによっ、こっちは忙しいのッ!」
「朝のことに関してのコトなら、行かせるわけにはいかないな」
「・・・担任、あんた朝のこと知ってるの?」担任は綾の腕を離すと、肩をすくめる。
「ホームルームの時、クラスの雰囲気がおかしかったからね。幸治くんに事情は全て聞いたよ―――ついでに、一哉くんたちが早退したのも幸治くんに言われてみたいだよ」
「幸治が!?」担任の意外な言葉に、綾は驚き、そして苦々しく呟く。
「あの馬鹿幸治・・・なに考えてんのよッ!」
「多分、幸治くんは君とあかねちゃんのことを考えてるんだと思うけど?」
「どーしてそうなるのよっ!」
「だって綾ちゃん、君はこれから一哉くんたちの家に乗り込んでいきそうな勢いだけど―――乗り込んでどうするつもりだい?」
「ブッ殺してやる!」なんとも綾のストレートな言葉に、担任は吐息。
「君の場合、本気で殺しかねないからね。下手すれば殺人罪だよ? そうでなくとも傷害罪だ」
「そんなん知ったこっちゃないわよっ!」
「君がそうだから幸治くんは二人を早退させたんだろうね」担任に言われて綾は押し黙った。
つまり、幸治は大島と小西の身の危険を考えて、二人を早退させたのだ。どういう風に説得して帰らせたのか知らないが、余計な事をしてくれた物だと苛立ち。「・・・で、でも、それがどうしてあかねの為なの? あんなヤツら、殴ってあかねに謝らせなきゃ―――」
「謝らせるなきゃいけないだろうね。でも、殴って言うこと聞かせて謝らせても、あかねちゃんと一哉くんたちの溝が深まるだけだよ。それじゃ本当に仲直りしたとは言えないな」
「う・・・うぐぐぐ・・・」綾はぎりぎりと歯軋り。さらに苛立ちが募る―――のは、担任の言葉―――イコール、幸治の行動に少し納得してしまったからだった。
くす、と担任はそんな綾を見て微笑む。「綾ちゃん君はとても優しい子だね。でも、君があかねちゃんのことを友達と思うのなら、一哉くんたちを殴りつけるよりもやらなきゃいけないことがあるよね? ちなみに彼女は生徒棟の屋上だよ?」
「う――――はぁ・・・・」綾は吐息。
ぽりぽりと頭をかいて、もう一度大きく息を吐く。「・・・・・・・そうね、確かにその通りだわ」
殴るよりも先にやらんければならないこと。
頭に上っていた血はとりあえず冷めて、綾の怒りは活動休止。ただしすぐにも活火山になって噴火しそうだが。
呼吸を落ち着けながら職員室をでる。職員室出る寸前、綾は担任を振り返った。「これで勝ったと思うなよ!」
変な捨て台詞を残し、綾は職員室を飛び出した。ドアに潰されたままの教頭を、ドアごとふみつけて。
担任は苦笑。
それから、ドアに潰されている教頭のところまで行き、しゃがみ込むと「では教頭先生。私はこれから愛しいマイスチューデントのファミリィビジットに行って来ますので早退します」
「ふぁ、ふぁみりぃびじっと?」ドアに潰されたまま教頭が呻き声をあげる。
担任は「はい」と頷いて。「家庭訪問ですよ」
生徒棟の屋上は、教員棟とは違って出入り自由になっている。自由に出入りできる代わりに、危険がないように大きなフェンスで囲われているのだ。
が、実は教員棟と特殊教室棟が邪魔になって、眺めはあまりよろしくない。ので、ここに来る生徒はあんまりいなかったりする。
昼休み時。その数少ない生徒の中で、あかねは一人、フェンスにもたれて座っていた。「・・・・・・・はあ」
教室の中に居るのは気が重かった。
あの二人のクラスメイト―――大島と小西は、いつのまにか早退したようだったが、それでも気分が軽くなることはなかった。幸治や綾と一緒の空間に居るのがとても辛い。
綾と幸治を小説に勝手に使っていたことの後ろめたさ。 “リエ” が自分自身のことだなんて考えもしなかったが、言われてみればそうだったのかもしれない。ずっとずっと他人が苦手、だからずっと独りでいいと思っていた。それでも自分は綾と幸治と友達になりたかったのかもしれない。だからこそ小説の中にその願望を現したのか。母親のこと、どうして母親が自分を産んだのか解からない。大島たちの言う通りなんで降ろさなかったのか不思議。それでも―――きっと色々と苦しんで産んでくれた母親のことを言われるのは嫌だった。自分のことは可哀想じゃないと思っていた。思っていただけで本当は自分を可哀想な悲劇なヒロインとでも思ってたのかも知れない。幸治には驚かされた。自分の筆跡をあんなに上手く真似られるとは思わなかった。本当に偶然同じ筆跡なのかもしれないが、だとしたらすごい偶然。誰がノートを盗んで黒板に出したのか疑問。やはり大島と小西の二人なんだろうか。「・・・・・・・・・・」
色々な考えが頭にぐるぐると渦巻いては消え。色々な想いが胸を渦巻いては心の中に染みついていく。
はあ、ともう一度吐息。持ってきた弁当を見下ろすが、食べる気が起きない。蓋を開ける気力もない。「・・・食べないと、かーさん心配するかなー・・・・・・・」
母親を心配させるのは嫌だった。弁当を食べて帰らなければ、何事かと母は心配するだろう。
女手一つでここまで育ててくれた母に、これ以上の迷惑はかけたくない。
もう一度弁当箱を見下ろす―――が、食欲はどうしても沸かない。
仕方ない。持ったいないけど後で中身を棄ててしまおう。折角、母親が作ってくれた弁当だが、母を心配させるわけにはいかない。「あーかね」
自分を呼ぶ声に、あかねは顔を上げる。
と、そこには。「・・・雪絵ちゃ―――雪絵さん」
「あは。ちゃん付けでいいわよ」顔を上げれば、雪絵がそこに立っていた。
屋上に吹くそよ風に長い髪が静かに揺れている。綺麗だな、とあかねは思い、自分の前髪を指で触る。雪絵の長い髪がとても綺麗で、中学のときには何度も真似して伸ばそうと思ったこともある。が、雪絵ほど似合わないだろうし、それに実際にいくらか伸ばしては見たが、すぐに鬱陶しくなって切ってしまった。「でも―――ちゃん付けなんて恥ずかしいでしょ?」
「昨日の朝のこと? あれは冗談だって―――あかねに “雪絵ちゃん” って呼ばれるの、実は嫌いじゃないのよ? 私」
「・・・うん、雪絵ちゃん」あかねが言い直すと、雪絵は笑って頷く。
「隣、いい?」
「うん」雪絵はあかねの隣に座る―――と、一転して暗い表情で。
「聞いたわよ。今朝のこと」
「・・・・・・あ」
「酷いわよね! なんだっけ、その男子―――大西と小島だっけ?」
「あ・・・大島くんと小西くん・・・」今朝覚えた名前。
きっと、しばらくは忘れられないだろう。「そう、そいつら!」
憤然として雪絵は言う。
綾ほど激しくはないが、雪絵も大分怒っているようだった。「けど、そいつらよりも許せないのはノートを盗んだ奴よね!」
「う・・・うん・・・」気圧されたようにあかねは頷く。そんなあかねに、不意に雪絵は声のトーンを落とした。
「―――あのね」
「なに?」
「―――私、今日日直で朝早く来てたんだけど―――そこで見ちゃったのよ」
「・・・なにを?」
「あなたのクラスの―――九条綾って子が、あかねのノートを持っている所を―――」
「えっ・・・?」あかねは驚いて雪絵を見る。
雪絵は軽く頷いて。「間違いないわよ。何気なく教室を覗いたら―――」
「あかねーっ!」ばぁんっ、と騒々しく屋上のドアを開け放ち、綾が屋上に入ってきた。くるりと周囲を見回して、綾はあかねの姿を見つけるとスタスタと直進。
「あ、綾さん・・・」
「―――こんにちは」
「あれ。確か―――佐野さん」
「雪絵でいいわよ、九条さん」
「そう? じゃあ、私も綾でいいわ」そういって、綾はあかねと雪絵を交互に見る。
そして。「雪絵さん、ちょっと」
「え?」綾に呼ばれ、雪絵は立ちあがり綾の後をついてあかねから少し離れる。綾は小さな声で、雪絵に訊ねた。
「雪絵さん―――あの・・・その・・・あかねのことなんだけど」
「今朝のことかしら?」
「知ってるの?」
「ええ」そう言って、雪絵は冷たい目で綾を見る。綾は困惑したが、被害妄想だと気のせいにして。
「あのさ、あかね―――それで、色々と傷ついていると思うんだよね。雪絵さんってあかねとの付き合い長いんだよね? だったら元気付けてやってくれないかな・・・?」
「勿論。あなたに言われるまでもなくそのつもり」
「あ―――そうなんだ。やっぱり、中学時代からの友達だね。私の出る幕はなかったか」あは、と綾はどこか寂しげに笑うと、雪絵に向かって手を上げた。
「それじゃ、お願いっ」
そう言い残すと、綾は校舎内に戻る。
ふん、と雪絵は綾を見送ると、あかねの所に戻った。「綾さん・・・なにを?」
「あかねが傷ついてるだろうからよろしくって―――全く、自分でやっておいて何を言っているのかしら」
「・・・ねえ、雪絵ちゃん。それって本当に綾さんだったのかな?」
「私が嘘を付いているとでも?」
「そういうわけじゃないけど・・・でも、見間違いってことも―――」
「見間違えるはずないじゃない。九条綾って言ったら私たちの学年じゃ一番の有名人よ?」確かに。
九条綾の勇名は、あかねたちの学年だけではなく学校中に知れ渡っている。主に幸治や担任に暴力を振るっているだけなのだが。
しかし、とあかねは雪絵に言う。「でも、綾さんは今日一番遅く来たんだけど・・・?」
「そんなの、一旦家に帰ったんじゃないの?」
「だけど、綾さんがそんなことする理由・・・・・・」
「理由なんて知らないわよ。イジメっ子なんて、つまんないことで苛めるモンでしょ? なんとなくムカつくーとかそんな理由で。中学の時だって似たようなことあったじゃない」そう言われるとなにも言い返せない。
本当に、綾がやった事なのだろうか?
考え込むあかねの耳に、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いた―――――
放課後。
「あかねっ、一緒に帰ろう!」
「あ、綾さん」自分の席まで来た綾を、あかねは困ったように見上げた。
「あの、今日は・・・」
「?」
「あかねー」声。見れば、教室の入り口で雪絵が手を振っている。
「・・・雪絵ちゃんの家に行く約束があって―――」
「そう。なら、仕方な「俺たちも行って良いか?」振り返る。と、幸治が立っていた。
あかねは困った様に幸治を見上げて、「え、でも・・・」
「駄目か?」
「雪絵ちゃんに聞いてみないと・・・」
「別に構わないわよ」いつのまにか雪絵が教室の中まで入ってきていた。
「あかねの友達なら、私にとっても友達だしね」
「よし、決定だ」
「ちょ、ちょっと勝手に―――」いつになく強引な幸治に、綾は抗議の声を上げかける―――が、その横顔を見て息を飲む。
「幸治」
「・・・なんだ?」
「もしかして、怒ってる?」
「別に」じゃ、行きましょうという雪絵とあかねに続いて、幸治も教室を出る。その後ろ姿を見て、綾は確信した。
「やっぱり・・・怒ってるじゃない」
他人が見てもいつもと変わらない様に見えただろうが、西山幸治と誰よりも―――おそらくは父親よりも長く接している綾にははっきりとわかった。が、なにに対して怒っているのかわからない。思い返せば昼休みにも似たような感じだった。おそらく朝のことに関係することだとは思うが。
「綾」
教室の出入口で幸治が呼びかけてくる。綾は物思いを中断して、教室の外を出てあかねたちを追った。
雪絵の家は、市街からほどよく離れた住宅地にあった。街の中心からそんなに離れてないが、それでも喧騒のカケラもない静かな住宅地。
雪絵の住んでいる家は、幸治やあかねの住んでいるようなアパートではなく、ちゃんとした一戸建ての二階建てで、青い屋根に白い壁。新築したばかりのように綺麗な家だと思ったが、実は建てられて5年以上経っているらしい。
雪絵が玄関の鍵を開けて、家の中に入ると花の香りがした。見れば、玄関脇の靴箱の上に白と赤の花が花瓶に活けてある。「上がって」
と、雪絵に従って二階の雪絵の部屋に通される。
そんなに狭い部屋ではなかったが、それでも5人も入れば流石に窮屈だ。「・・・5人?」
あれ? と綾は違和感。自分と幸治と雪絵とあかねで4人ではないか?
部屋の中を見れば自分と幸治と雪絵とあかねとリョーコの5人―――「―――リョーコ!?」
どこから沸いて出てきたのか、小柄な少年を見て綾が驚いたように叫ぶ。
リョーコは女の子のような顔立ちを平然として綾の方にむけて。「ん。どうかしたか?」
「おいこらアンタ。なに澄まし顔で存在してやがるのよ!? てゆーか、何時の間に!?」
「ふむ」と、リョーコは雪絵のベッドに(勝手に)腰掛けると、諭すように綾に答える。
「そこはほら。私は佐野と同じ学級であるしな?」
「な? じゃないでしょうが! 呼ばれもしないのに来るんじゃないっ!」
「―――九条さん? 私はあなたも呼んだつもりはないんだけど」冷ややかに雪絵が告げる。
う、と気まずげに唸って、綾は小さく呟く「だ、だってそれは幸治が・・・」
「それじゃあかね、お茶でも入れて来るから適当にくつろいでいて」
「う、うん・・・」ばたん。
と、雪絵は部屋を出てドアを閉める。それを見送り、綾は床に座り込むとはうーっと息を吐く。あかねは部屋の隅のクッションを綾に渡すと、自分もクッションを引いて床に座った。幸治は窓際でつったったまま。
綾はクッションを受け取りながら苦笑する。「なんか・・・私嫌われてる・・・?」
「そ、そんなことは―――」ない、と言おうとしてあかねは押し黙った。
―――あなたのクラスの―――九条綾って子が、あかねのノートを持っている所を―――
頭の中で昼休みの雪絵の言葉が頭の中でリフレイン。
「綾さん―――」
「なに?」
「今朝の急用って・・・なんだったんですか?」
「え・・・えーと、それは―――」
「どうして、私と幸治くんを二人っきりで登校させようとしたんですか・・・?」問われて綾は困ったように顔を悩ませる。
じっとあかねに見つめられ、何故だか幸治やリョーコも注視している。注目の的。「あかね、開けてくれる?」
部屋の外から声が聞こえた。あかねは立ちあがり、ドアを開ける。外からティーセットとクッキーなどのお茶菓子を乗せたお盆を持った雪絵が入ってきて、紅茶の香りが部屋の中に伝わった。あかねが開かれたドアを閉めて振り返ったとき、綾がほっと溜め息をつくのが見えた。
「―――この紅茶美味しいわね」
「ただのティーパックよ」
「う・・・」澄ました顔で紅茶に口をつける雪絵に、綾はティーカップを持ったまま硬直した。
(やっぱり・・・嫌われているのかな・・・?)
「家族は?」
不意にリョーコが聞く。
「佐野の家は共働きだったか?」
「働いてるのはお父さんだけよ」
「あ。ウチもウチもー。―――今どき珍しいよね。お母さんが専業主婦って」綾がはいはいと手を上げる、が
「別に私の母親は専業主婦ってわけじゃないわよ」
「・・・あ、そうなの? でも働いてなくて専業主婦じゃないって―――遊び歩いてるとか。なんて」
「その通りだけど」
「う・・・」気まずい。笑顔のまま固まって、綾はひたすら果てしなく困っていた。
「おお!」
不意にぽんっと幸治が手を叩く。
「実は俺の母親も働いてない気がするぞ」
「あんたの母親はもういないでしょうがっ」
「―――九条さん」やれやれ、と雪絵が息を吐き、あかねの方をちらっと見る。
それを見て、あ、と綾は自分の迂闊さに気付いた。あかねの家は母親がいないわけじゃないが、代わりに父親がいないー――しかも、今朝そのことで色々言われたばかりだった。「ご、ごめん、あかね」
「え? ううん、別に気にしてませんから」にっこりと笑って首を横に振るあかね―――だがその微笑みも、どこか力のないように感じるのは綾の気のせいだろうか。
それからは、なるべく家族の話題はさけてとりとめもない雑談が続く。しかし綾は墓穴を掘り続けたせいか元気がなく、雪絵はあからさまに綾を嫌い、あかねは元々それほど喋る方ではない。リョーコは特に必要ない時にはあまり喋らなくて、幸治はいつもどおりの記憶喪失。こんな雰囲気と状況で話が弾むわけもない。言葉よりも紅茶をすする音の方がはるかに多い中で、綾は押し潰されそうなプレッシャーに、すぐにでもこの場を逃げ出したかった。「ただいま」
階下から声。
あ、と雪絵がほんのわずか嬉しそうな声を上げると部屋を出た。「佐野の父親が帰ってきたみたいだな」
言いながらリョーコはベッドから立ちあがる。
「さて、それではそろそろ帰るかな」
リョーコの言葉に、ホッとしたような顔をして綾も立ち上がった。
「それじゃ私も―――あかねは?」
「あ・・・私も・・・」
「じゃ、とりあえず佐野さんのお父さんに挨拶だけして―――ほら、行くよ幸治」夕暮れどき。なんだか、窓から指し込む夕焼けに黄昏ていた幸治は綾に呼ばれて頷いた。
玄関まで降りると、雪絵とその父親らしいスーツ姿の男が立っていた。高校生の娘がいる割には若く見える。
雪絵は父親似なのか、長身で、スラリとした体格。スーツ姿ではなかったら、「職業はモデルです」と言われても違和感はなかっただろう。「雪絵さんのお父さんって、カッコいいね」
「・・・そう?」こっそりと綾が言うと、雪絵はまんざらでもない様だった。
(雪絵さんって、お父さんのこと好きなんだなあ・・・)
なんとなくそんな風に感じられる。
綾も自分の父のことを嫌いではないが、だからといって自慢できるほど好きでもない―――とゆーか、綾の両親は娘が高校生になってもアツアツのバカップルで、正直ウンザリしているところもある。恋愛結婚ではなく、見合い結婚だったはずだが、どうしてあそこまで仲がいいのか。綾は我が両親ながらいつも不思議に思っている。「珍しいな、雪絵が真理と歩美以外の友達を連れて来るなんて」
「あかねは一度連れてきたでしょ? 中学の時、同じクラスだった・・・」
「そうか? いやよく覚えてないなー」ははは、と笑う雪絵父。
真理と歩美って誰だろうって思ってると、リョーコがこっそり教えてくれた。「佐野がいつも一緒にいる二人だ」
言われて思い当たるのは、昨日の朝。雪絵があかねにぶつかった時に雪絵を呼んだ二人だった。しかし、娘の友達を呼び捨てで呼ぶ父親・・・って・・・まあ今まで見た父親よりも随分若くて、雪絵の父というか兄と言っても不自然ではないし。
「―――さすがに弟は無理だがな」
「リョーコ、人の心を読まないでくれる?」
「読心術とは便利そうだが私は使えない。綾の単調な思考パターンを読んだだけだ」
「そゆこともヤメロ。あと短調は余計」ぺし、とリョーコの額を叩く。と、雪絵父がこちらの方を向いた。
「ども、雪絵の父、佐野孝雄です。娘がいつもお世話になっているようで」
「あ、はい、こちらこそ―――」
「別にお世話になんてなってないわよ」
「おいおい・・・ま、こんな娘だが、これからもよろしく」くしゃっと、雪絵は父に無理矢理頭を抑えられて、頭を下げさせられる。
その様子に綾は思わずくすくすと笑った。雪絵は綾を軽く睨んで、「なによ?」
「仲が良いなって―――ねえ、あかね・・・」言った瞬間、綾は死にたくなった。
さっきとまた同じ過ち。なんでこうまで自分は馬鹿すぎるんだろう。
しかし、あかねは気にした風もなく笑って。「うん。雪絵ちゃん、羨ましい」
「・・・・・・・!」その言葉に雪絵は一瞬だけ、あかねを睨み付けた。綾ではなくあかねを。それは一瞬のことだったが、綾ははっきりとその瞳に憎しみを感じた。
(―――って、そんなわけないじゃない私。佐野さんはあかねの中学の時からの親友で、憎むなんてこと―――)
綾は誰にも気付かれないように静かに吐息。
(・・・ちょっとジェラシー感じているのかな、私。あかねさんのこと、私よりも佐野さんの方が気を使って気にかけて、色々考えてる。それが少し寂しくて、こんな風にヘンな思い込みを―――)
「あら、賑やかね」
と、玄関のドアが開いて女性が家の中に入って来る。孝雄がおやっと彼女を見て、
「あれお前、今日は夜まで帰らないって言ってなかったか?」
「そのつもりだったんだけどね」どうやら雪絵の母親らしい。こちらも父親と同じ位に若い。絶世の美人―――というわけではないが、しかし美人の部類に入るのだろう。この二人から雪絵が産まれたのは納得できる話だ、と綾は思った。
雪絵の母は普段着で、仕事に行っていたようには見えない―――雪絵が言ったように、やはり遊び歩いているのだろうか。
彼女は無表情に綾たちを見回して、それから自分の娘を見る。「・・・お友達?」
「そうよ」
「そう」尋ねる母に、しかし雪絵はぶっきらぼうに答える。
が、雪絵の母は特に気にした風もなく、綾たちに向かって軽く頭を下げた。「娘がいつもお世話になっています」
そんなことを言って、綾たちが反応するよりも早く、さっさと家の中へ上がっていく。
「雪子」
「疲れたから寝るわ」そう雪絵父の声に、振り向かないまま気だるげにそう言い残して階段をあがっていく雪絵の母―――雪子。
その間、雪絵はずっと険しい顔をしていた。
「んー・・・やっぱり、私・・・、雪江さんに嫌われてるのかなー」
帰り道。早々にリョーコと別れ、綾は幸治とあかねの三人で帰路についていた。
「そんなことないですよ。ただ、ちょっと朝―――」
「え?」言いかけて止めるあかねを、綾が怪訝そうに覗き込んだ。
あかねは、口元に手をやって逡巡。やがて。「綾さん」
「なに?」
「今朝の用事ってなんなんですか?」
「え? えーと」あかねの質問に、綾は困ったようにあかねと幸治をちらちらと見る。
やがて、綾は観念したようにはぁ・・・と嘆息。「用事って言うのは嘘。あかねに幸治のこと押し付けようとしてただけ」
バツの悪そうな顔で、綾はあかねの顔を見ることができずに俯く。
「あかね、幸治のことを悪く思ってないようだし、アパートも同じだから一緒に登校してくれるようになれば私も少しは楽になるなーって」
「あの・・・それだけ?」
「ごめんね。やっぱり迷惑だったかな―――そりゃ迷惑だよね、こんな記憶喪失男を押し付けられて――――」
「そ、そんなことは・・・ないですけど」
「ほんとっ!?」あかねの呟きに、綾はぱあっと顔を輝かせる。とてつもなく嬉しそうにきらきらした目をあかねに向けて、
「実は私、明日の朝も急用なのよ。嘘だけど。で、いつもは自分の分とは別に、馬鹿の分まで昼のお弁当を作ってやってるんだけど、それも自分の分しか作る余裕なさそうなのよね。だからあかねに任せていいかな。いいよね?」
「え、え、ええと・・・」戸惑うあかねに、綾は表情を曇らせた。
「・・・駄目?」
「そんなことはないですけど―――」
「ほんと? よかった! それじゃ私は先に帰るから―――んじゃっ!」ばびゅんっ。
マッハGOGOGOとかそんな感じで走り去っていく綾。声をかけるヒマもなく、あかねは呆然とそれを見送った。「・・・どした?」
立ち尽すあかねに、何事もなかったかのようい幸治が首を傾げる。そんな幸治を振り返って、あかねは吐息した。
「はあ・・・結局聞けなかった・・・・・」
「―――綾がどうかしたのか?」
「え? い、いえなんでも―――」
「綾は犯人じゃない」
「えっ!?」どきり、としてあかねは幸治を目を見開いてみる。
幸治はいつものぼんやりとした無表情ではなく、真剣な瞳であかねを見返す―――思わずあかねは視線を反らした。そんなあかねに、幸治はやっぱり、と呟いて、「様子がヘンだと思ってた。―――綾が朝の犯人だと思っているのか?」
「ち、違いますっ。私は・・・そんなこと―――」
「そうだな、あかねはそんな事を考えない。だとしたら、あかねに吹き込んだ人間がいる。それは誰か」
「違いますっ。誰も―――」
「そんなヤツは一人しかいない」
「・・・・・止めてください! ヘンな想像するのは!」たまらなくなってあかねは叫んだ。しかし、幸治は止めない。
「そう一人しかいない―――――――誰だっけ?」
と、幸治は困ったように首を傾げる。
「んー・・・名前、忘れてる。誰だっけなー」
「そのまま忘れてください!」
「あ、思い出した」
「思い出さないでッ!」
「あかね、ちょっと忘れ物。戻るぞ」
「・・・は?」戸惑うあかね、を無視して幸治は元来た道を戻ろうとする。
「ちょ、ちょっと!? 忘れ物ってなんなんですか、幸治くん!」
「忘れ物は忘れ物に決まっているだろう。忘れ物だ」などと言って、幸治はなおも戻ろうとして―――止まる。
「どうしたんですか?」
「どこに忘れ物したか忘れた」あかねはコケた。
こんなのと毎日つきあってる綾さんは皮肉なしで凄い―――とか思いつつ、あかねは気力を振り絞って立ち上がった。「もう! 忘れ物をしたなら雪絵ちゃんの家―――」
言いかけて、あかねは慌てて口をつぐんだ。が、遅い。
「そうだ雪絵だ。佐野雪絵」
「あのっ、幸治くん! 雪絵は―――」
「とゆーわけで雪絵の家に忘れ物を取りに行くぞ」
「え?」戸惑いつつ、しかしあかねは安堵する。
とりあえず、朝の出来事については忘れてしまったようだ。
すたすたと雪絵の家に向かって元来た道を歩く幸治の後ろをついて歩く。別にあかねに付合う義理などないのだが、なんとなく。それに綾が先に帰ってしまったので、あかねまで帰ってしまえば幸治が自分の家に帰ることを忘れてしまいそうで怖かった。
と、暫くして雪絵の家の前まで辿りつく。あかねはインターホンを押そうとして―――ふと幸治に尋ねた。「ところで忘れ物ってなんなんですか?」
「綾だ」即答。
返ってきた言葉に、あかねは思いっきり怪訝な顔をする。「・・・・・は?」
「なんだ気がついてなかったのか? 綾がいないだろ? つまりこれは忘れて来たに違いない―――」
「綾さんだったら、さっき先に帰ったでしょう!」
「そーだっけ?」
「そうです」
「なんだそうか。そういうことは早く言ってくれ」(・・・私が悪いのかな・・・?)
どっと疲れを感じて、あかねは肩を落とす。ちょっと綾の気持ちがわかったような気もした。
「とにかく早く帰りましょう。もう暗くなりますし―――どうしたんですか?」
「・・・・・・・・」落とした肩を持ち上げて、あかねが幸治に帰ろうと促そうとすると、幸治は雪絵の家を見上げていた。正確には雪絵の部屋の窓の辺り。
あかねも見上げてみるが―――しかし、なにがあるというわけでもない。「いや、窓に誰かいたような気がして」
「そりゃ雪絵ちゃんの部屋なんだから雪絵ちゃんに決まってるじゃないですか―――ほら、こんな所で騒いでると迷惑ですから帰りましょう」
「うむ。そだな―――じゃあ、あかね。明日学校で」
「って、どこ行くんですか。私たちのアパートはこっちですよ」あらぬ方向へと行こうとする幸治の手を引っ張って、あかねはアパートの方へと歩き出す。
「おお」
と、なにか納得したように、手を引っ張られながら幸治は頷いた。
「そういえば俺とあかねって兄妹だったっけ」
「違います」
「でも同じアパートに住んでる」
「同じアパートに住んでるだけです」
「そうなのか」
「そうなのです」
「ところで」
「なんですか?」
「手」
「手?」あかねは怪訝な顔をして自分の手を見下ろす。特に変わったところはない。いつもの自分の手だ。
「いやそっちじゃなくて」
「え?」と、あかねはもう一方の―――幸治と手を繋いでいる方の手を見る。こっちも特に変わったことはない。幸治と手を繋いでいることの他は――――
「――――あ」
気付く。気付いてあかねは顔に血が上るのを感じた。自分が他人の手を握っている。そのことに気付いて目を見開く。手から伝わる他人の体温が気持ち悪くて、反射的に手をはなそうと―――したあかねの手を、幸治がしっかりと握ってくる。意外と力強く大きな手に握られて、あかねは悲鳴を上げそうになった。
「あ、いやぁ――――――」
「あかねが他人の体温が苦手なのは覚えてる。でも、手を繋いでいたい―――駄目か?」
「えうっ!? は、はううう・・・べっ、そっ、駄目っ、ことはっ」問われて反射的に了承の意味を口に出す。
いや本当は、別にそんな駄目ってことはないです、と、言いたかったのだが言葉が言葉にならない。
それでも幸治には伝わったらしく、幸治はにこっと笑って頷いた。「ありがと」
(う・・・わ・・・・・に、二度目・・・・っ)
いつも無表情で無愛想な幸治の微笑だからだろうか。あかねは一昨日の帰り道と同じように、ドキドキと胸を高鳴らせる。顔が火傷するくらい熱くなるのが自分でもわかる。今が夕暮れどきで良かった。夕日の色が火照った顔の赤みを誤魔化してくれるだろうから。
「じゃ、帰ろう」
「は、はい」幸治はすでにいつもの無愛想な無表情へ戻っていた。それでもあかねのドキドキは収まらない。胸の鼓動が死んでしまうんじゃないかと思う程にバクバクして、いつもの二倍三倍くらい早くなっている気がした。頭がくらくらする。なにも考えられない程にくらくら。幸治の笑顔が網膜に焼きついて離れないし、手からは幸治の体温が伝わって来る―――普段なら苦手で嫌で気持ち悪いとまで感じるはずの他人の体温は、不思議と嫌ではなくてむしろもっともっとその体温を感じていたいとまで思う。
(わ、わたし・・・ヘン・・・だ)
ぐっちゃぐちゃになった思考の隅で、辛うじて冷静な部分が自分自身を自己診断する。
なにがなんだかわからないし、じぶんがどうしてしまったのかもわからない。自分自身が壊れてしまいそうな不安を掻き消すように、思わず幸治の手をぎゅっと握り締めると、幸治はぎゅっと強く―――しかし優しく握り返してくれる。その優しい力強さがまた、あかねを滅茶苦茶に壊してくれる。(わたし・・・わたし・・・好きなのかな)
ぐちゃぐちゃの思考の片隅でそんなことをぼんやりと考える。
(幸治くん・・・・・・)
心の中でその名前を呟く―――と、
「あかねっ」
いきなり自分の名前を呼ばれてあかねは一気に現実へと戻された。頭が冷える―――が、すぐ眼前に見えた幸治の顔に、再び頭に血が昇った。
「こ、こうじくん・・・?」
「あかね・・・いいか? 落ち着いて・・・」
「え・・・?」あかねを見つめてくる幸治の表情はいつものではなく、どこか切羽詰っているように見える。
暗い。見まわせば暗くなった夜の人気のない公園。老朽化して、薄ぼんやりとした光しか灯さない街灯の見える範囲には、あかねと幸治以外の人の姿は見えない―――頭がぐっちゃぐちゃの状態で、どこをどう歩いてきたのかあかねには解らなかったが、ともかく人気のない公園で、幸治と二人、あかねはベンチに座り、その前に幸治は立っていた。「え・・・あの・・・幸治くん、ここどこ・・・?」
「・・・・・」あかねの質問に、幸治は空々しく目を背けた―――その行為が、あかねを不安にさせる。
ふと思い出されるのは母親のこと。母親も、人気のない公園で、無理矢理―――
頭に浮かんだ嫌な連想を、ごくり、と唾と一緒に飲み込む。「幸治くん・・・まさか・・・ウソだよね?」
あかねは渇いた声で呟くが、それは本当に呟き程度の大きさだった。果たして幸治に届いたどうか疑問だったが。
しかし、幸治は沈痛な面持ちであかねに向き直ると、「悪い・・・」
「や・・・やだっそんなのっ」あかねは恐怖に身を引いた、がすぐに背中がベンチの背もたれにぶつかってそれ以上は下がれなくなる。
「わ、わたしっ、幸治くんのことっ、す、好きだと思った。でもっ、こんなのは・・・っ」
あかねの言葉に、幸治は不機嫌そうに軽くあかねを睨んだ。そして、どこかスネたように、
「なに言ってるんだ・・・お前だって悪いんだぞ」
「え・・・」
「俺だって悪かったが、お前だって悪い。俺たちがここに辿りつくまでお前もなにも言わなかっただろう? ―――だから二人してこんな所にいる」確かにこんな所―――人気のない公園に足を踏み入れたとき、あかねは抵抗しなかった・・・のだろう。
でもそれはドキドキしてクラクラして、なにも考えなかっただけで、気がついたらこんな所にいたのだ。「で、でもっ、そんな―――でもこんなのはっ、い、いやですっ。も、もうちょっとちゃんとした所で・・・ッ!」
「・・・ふと思ったんだが」ぽつり、と幸治は呟いた。どこか困ったような表情で。
「あかね、なにか勘違いしてないか?」
「・・・え?」
「今、俺たちがどんな状態かわかってるか?」問われてあかねは現状把握。
夜。人気のない公園。男女二人きり。男に迫られている女―――などとそこまで考えてあかねは真っ赤になった。「だ、だから幸治くんがオトナな夜の雰囲気に耐えきれなくなって私をッ・・・」
「・・・・・あかね」はあ。と、幸治は吐息。
「お前は激しい勘違いをしている」
「え・・・勘違い?」
「俺たちはただ道に迷っただけだ」
「え―――」そういえば、とあかねは公園を見まわす。アパートの近くの公園ではない、見覚えのない場所だった。それを踏まえて現状把握をし直してみると。
夜。帰り道。記憶に疎い幸治。頭が滅茶苦茶だったあかね。見知らぬ公園。「・・・なるほど」
納得して一気に冷める。
が、すぐに自分の勘違いがひどく恥ずかしくて赤面。(って、わ、わたし今どさくさに紛れて―――)
わ、わたしっ、幸治くんのことっ、す、好きだと思った―――
「は、はううううううううう」
「む。どうしたあかね。なにか楽しげだが」
「た、楽しくなんかないですっ」きっ、と公園の灯りに照らされた幸治の顔を睨む。強く。
「こ、幸治君! 忘れて!」
「なにを?」
「良かった・・・」とりあえず忘れたのだと思って安堵。
流石は西山幸治。その鳥頭は伊達じゃない。
―――などと思う反面、残念に思う自分がいる。考えて見れば曲がりなりにも人生初めての告白だったと思い返して。(・・・違う)
自分の思いを否定。
あれは、突発的に、つい、思わず、口走っただけだと。(でも、 “つい” ってことは本心が―――)
「違うーっ!」
「なにがだ」叫んだあかねを、幸治が怪訝そうに見る。
幸治の視線に気づいて、あかねは口を閉じて赤面。「やはり楽しげだなあ、あかね」
「は、はううう・・・」
「それはともかく―――どうしようか」
「え、えと。幸治くん、携帯電話は・・・?」照れを誤魔化すように、あかねはやや早口で問う。
幸治が携帯で電話するところなど想像できないが、とりあえず聞いてみたが。「なにそれ」
問題外だった。
ちなみにあかねも持っていない。携帯電話なぞ持つ余裕が家にないし、必要だと思ったこともない。「・・・・・・・・」
「・・・・・・・・」呆然とする男女二人。
さっきまでのいやんな雰囲気は完全になくなり、恐怖の代わりにあかねは暗澹たる気持ちで、どうやって家に帰ろうかと思い悩んだ。