「この致命的馬鹿ッ!」

 怒りの声と共に、みさきの鉄拳が勇人に向かって飛ぶ。
 勇人はその拳を、甘んじて受けた―――というか、よくわかってない顔でマトモに受けとめる。

「のぶわぉっ!?」
「馬鹿、馬鹿、お馬鹿ぁッ! どーしてアンタはいつもそうなのよッ!?」
「それはもちろんいつもの記憶がないからさ!」
「誇って言うことかぁぁぁぁぁっ!」

 ジャブ、ジャブ、ストレート!
 プロボクサーも真っ青なコンビネーションブローに、勇人の身体が宙に舞う。
 そのまま飛んで、教室の机やら椅子やらを幾つか巻き込んでダイナミックな不時着失敗。
 みさきは拳を下ろすと、ぜいはあと息を切らした。
 と、そんな彼女にクラスメイトの大沢リエが、おそるおそると尋ねる。

「ね、ねえみさきちゃん。勇人くん、今度はなにやったの?」

 親友の問いに、みさきは肩をいからせて振り向いた。
 妙に迫力がたっぷり。

「聞いてよリエ! アイツったら今日

 

 

 

「こンの致命的馬鹿がぁぁぁぁぁッ!」

 ノートに文章を書き連ねていたあかねが怒りの声に顔を上げると、クラスメイトの九条 綾がポニーテールをなびかせて身を翻し、これまたクラスメイトの男子、西山 幸治に華麗な回し蹴りをブチ込んだ所だった。

「むぐほぉっ!?」

 吹っ飛んだ幸治は、教室に居た他のクラスメイトや、机やら椅子やらを巻き込んで、ダイナミックな不時着大失敗。
 朦朧と目を回して倒れたままの幸治に向かって綾は歩を進め、女性らしい優しさのカケラも見当たらないような勢いで幸治の胸倉を掴み上げる。

「この・・・馬鹿、阿呆、鳥頭ッ! どーしてアンタはそうなのよッ!」
「うう・・・・・・えーと、なにがなんだか―――」
「わからないっての!?」
「いや忘れた」
「いい加減にせんかああああああああああッ!」

 べし。
 綾は幸治を床に叩きつけると、左足を後ろに大きく振り上げるッ!
 振り上げた足のつま先を、思いっきり床に叩きつけ―――床を削るように蹴りつけ、脚をしならせて・・・・解放。その瞬間、爆発的なキック力が、幸治の身体を思いっきり蹴り飛ばしたッ!

「イッペン、死ねぇぇぇぇぇっ!」
「ぐほわああああっ!?」

 蹴り飛ばされた幸治は、弾丸の様に教室の端まで飛ぶと、そのまま壁に身体をうちつける。どぉん、と校舎全体が揺れるほどの衝撃。パラパラと、天井の埃が落ちてくる。

「い・・・今のは、日向小次郎の雷獣シュート!?」

 感嘆の声を上げたのは男子用の学生服だった。
 ・・・・・もとい。
 学生服が立って歩いて居る用にしか見えないが、同じクラスメイトで透明人間の秋津 透だ。
 透は腕組みなぞして関心したらしい(なにせ透明人間なので、表情が見えない分、感情が解かりにくい)後、ふと恐る恐る綾に尋ねる。

「あの・・・幸治くん、今日はなにをしたのかな・・・?」

 クラスメイトの問いに、綾は肩をいからせて振り向いた。その男らしさは、思わず彼女が女性だということを忘れかけさせるくらい、妙な迫力がある。

「聞いてよ透くん! あの馬鹿幸治、今日もまた私の名前忘れやがってくれたのよッ」
「あ・・・はは。でも、それだったらいつものことなんじゃないかな。ここまでしなくても」
「それがここ一週間ほど忘れて無かったのよねー。で、珍しく私よりも先に一人で登校してきたらしくって、律儀にアパートまで迎えに行ってやった私としては当然の権利を持って文句の一つを言ってやろうと思ったわけよ。先に行くなら先に行くって電話なり何なりしろって! それが私の顔を見るなりこの鳥頭。 “アンタ誰だ?” だとおおおおっ! 久々に忘れられた分、殺意が30%増しになっても誰も私を責めないと思うわ! そうでしょ!」
「えー・・・えと、あの・・・うん。そだね」

 綾の言葉の勢いに押され、透は曖昧に答える。
 ふと、壁に身体を半分減り込ませたまま動く事も、壁から落ちる事すらしない幸治を見る。

「でも、これ、ヘタすれば死んでるんじゃ・・・」
「死んでないから大丈夫よ」

 綾は言いながら、どん、と床を強く踏む。途端に壁から幸治がはがれて、床に墜落。
 大丈夫!? と透が声をかけるよりも早く、幸治はひょっこり起きあがった。どこにも怪我らしい怪我をしている様子はない。
 幸治は起き上がるなり綾と透の方を見ると、「おお」と手を上げた。

「おはよう、綾と透」
「・・・幸治くん。身体、大丈夫なのかい?」

 透が尋ねる、と幸治は首をかしげて。

「身体? 丈夫なのには自信があるが」
「・・・見たいだね」

 はは、と弱々しく透は笑う。
 ふん、と鼻息一つして、綾は幸治に向かって苛立たしげになにか言いかけて―――

 きーんこーんかーんこーん。

 ホームルームのチャイム。
 綾は言葉を溜息に変えると、自分の席についた。幸治と透、ほかのクラスメイトたちも席につく。と―――

「グッ、モーニン! マイスチューデンッ♪」

 踊る様なステップで―――いや実際に踊りながら、担任が教室に入って来る。
 そんな担任を無視して、学級委員である綾がさっさと「起立、礼」と済ませた。いつもの朝の光景。
 あかねは席について、自分の机の上に広げられたノートを眺める。ふと思いつき、先日から暇を見つけては書いている小説。登場人物に、やたらと個性的なクラスメイトをこっそり使わせてもらっている。何故か面白いほどに筆が進み、もうすでにノートの半分ほど書ききっている。

(・・・いっそのこと、本人たちにインタビューでもしてみようかな)

 そんなことを思い―――苦笑。
 出来るわけがない。綾たちとはクラスメイトではあるが、ロクに会話したことがないのだ。それ以前に、自分が他人に話かけるなんてできるはずがない。
 どこか諦めにも似た苦笑を浮べつつ、彼女はノートを誰にも見られないように机の中に仕舞い込んだ。

 

 

 


あるひあるときあるばしょで

シャレにならない彼女の事情

第一話「プロローグ。物語の始まり―――或いは主人公、小松あかねの不幸な生い立ち」


 

 

 

 小松 あかねは平凡な女の子だった。
 背は女子の平均身長を少し下回り、顔立ちも平凡で美人とは言えないが醜くもない。卵が逆立ちしたような形の丸顔。
 やや近視なのだが、教室の席が何故か一番後ろなので授業中は眼鏡をかけている。眼鏡をかけると、少し顔立ちがきりりと引き締まるが、本人は眼鏡と言う道具があまり好きではないので極力かけないようにしている。
 髪は短く、散髪屋などには行かずに鏡を見ながら自分で切っていたりするため、たまに髪のバランスがなんとなく悪いような気もするが、それでも不自然と言うほどでもない。散髪屋に行かないのは、家がビンボーと言う事もあるが、基本的に他人に触れられるのが嫌いで、髪に触れられるのも嫌だから。

 本を読むことと、小説―――というか、文章を書くのが好きなだけの、平凡な・・・平凡すぎる人間―――だと自分では思っている。

 他人が苦手で、だから友達も少ない。きっと、多分周りからはネクラな女とでも思われてるんだろうな、と思う。けど、まあ仕方ないかとも思っている。実際に自分は明るい人間ではないと自覚もあるし。
 他人が苦手―――特に自分とは違う “体温” が苦手で、誰かに触れたり触れられたりすることが大の苦手。小学校の頃は、運動会の時期が近づくたびに、どうしたらフォークダンスに参加せずに済むかということばかり考えていた。満員電車なんて想像するだけで眩暈がする。だから、電車も苦手。
 苦手なものばかりだが、そんな自分を実は嫌いでは無かった。自分を好きだとナルシスト見たいなこと言うわけじゃないが、それでも十数年以上生きてきた自分を、嫌いにはなれない。嫌いだったら、とうの昔に自殺でもしてるだろうと思う。
 小松 あかねは平凡な女の子だった。
 だった。と言ったって、過去形と言うわけではない。きっと、これからも変わらぬ自分でありつづけるのだろうと思う。それが良いことか悪いことかわからないが。
 だけど。
 小松 あかね本人は平凡かもしれないが、その生い立ちは――――――

 

 

 

 

 学校が終わり、あかねは一人家路につく。
 書いている小説のこととか、今月の欲しい本のことなどを考えながら、アパートに帰りついた。
 カンカンカン、と鉄の階段を上り、アパートの二階の部屋の立ち並ぶ通路を歩く。あかねの住む部屋は一番奥だった。途中で『西山』と書かれた表札をちらっと見て苦笑。

「ただいまー」

 鍵を開けて、呟きながらドアを開ける。
 かかっていた鍵を開けて入ったのだから、中に誰も居ない事はわかっていた。けれどなんとなく帰宅の挨拶を口に出しながら玄関に入る。
 あかねは靴を脱ぎながら、嘆息と共に呟いた。

「おかえりー、っと」

 母子家庭であるあかねの家は、母親が一家の大黒柱だ。一家、と言っても母とあかねの二人母娘なのだが。
 父親は居ない。死んだ。ことになっている。
 実際は違うが、そのことに関しては、あかねは深く考えないことにしている。
 父親が居なくて寂しいなと思うことはある。両親の揃っている友達を羨ましいと思ったこともある―――――実は、今でも寂しかったり羨んだりすることが、たまにある。
 でも、そのたびに “仕方の無いこと” だと思うことにしている。後ろ向きかも知れないが、実際に仕方ないことではあるし、頑張っても父親ができるわけもない。母親に言えば結婚を考えてくれるかもしれないが、今になって全く見知らぬ他人を「父」と呼ぶには酷く抵抗があるだろうなと想像する。母親自身が望むのなら話は別だが、そうでないのなら父など欲しくはない。
 他人の父親を羨ましいと思いながら、自分に父親など要らないと思っている。奇妙なことだと自分でも思うが、それが本音だ。

「かーさんは・・・ああ、今日は遅番か」

 母親の職場の出勤表を見てあかねは呟いた。独り言が多い、と自分でも思うが、ずっと昔から “独り” が多かった自分のクセだ。直そうと思ってもそう簡単に直せるもんじゃない。
 母親の勤務時間には、早番と普通と遅番と3種類あって、早番の時には朝が早いが帰って来るのも早い。あかねと同じか、それより早い場合もある。逆に遅番の時は朝出るのも遅いが、帰るのも遅い。普通はその間。

「ご飯、どうしよ・・・」

 母親が遅番の時、あかねは夕食について二択を迫られる。
 自分でご飯を作るか、それともコンビニに走るか。
 遅番の場合、母親は晩御飯を会社で食べて来る。だから、自分の分だけ作れば良いのだが、その「自分の分だけ」というのがなんとも面倒に思える。母親の分まで作るのなら、そんな「面倒」は感じないのだが。自分で作ったご飯を、自分一人で食べるのが虚しく感じるせいなのかもしれない。そんなわけで大概はコンビニまで自転車を走らせる。あかねは自分の手料理よりも、ジャンクフードの方が好きだった。―――とはいえ、料理が下手と言うわけでも無い。得意と言うわけでも無いが、むしろ問題はレパートリーの少なさ。作ろうと思えば、料理の本さえあれば何でも作れるとは思うが、手軽に出来ると言えばちょっとした卵料理と炒め物。あとは雑炊くらいなものだ。本を見ながら料理を作ろうと思うほど、料理好きでもないし。

「遅番だって覚えてれば、帰りに寄って来たのになー」

 呟きながら制服を着替え、外に出る。鍵をかけて―――

 かちゃ―――と、鍵の開く音。
 振りかえると、 “西山” さんちのドアが開かれるところだった。

「ん?」

 不意にドアを開いた少年―――西山 幸治がこちらを向く。
 反射的にあかねは視線を反らした。

「・・・・・」

 バタン。
 ドアが閉まる音に、なんとなくほっとしてあかねは顔を上げる―――――

「よう」
「ひゃあっ!?」

 何時の間に接近したのか、幸治が目の前で手を上げていた。
 驚いて声を上げるが、幸治は全く気にせず、なにを考えているのかよく解らない、感情の乏しい表情をこちらに向けて尋ねて来る。

「何処へ行く?」
「え・・・あ、は、はい。コンビニにちょっと・・・」

 突然の質問に、怯えながらも反射的に答えてしまう。
 と、幸治はふむぅ、と軽く唸って。

「コンビニ・・・? 何しに?」
「え、あのっ、夕食を・・・・・・」

  “なんでそんなこと答えなきゃいけなのかしら”
 とは、あかねは思わなかった―――いや、思う余裕がなかった。小松あかねは他人というのが苦手だった。もちろん、他人と話すのも苦手。だから、幸治に話しかけられた瞬間、頭が真っ白になって、質問に答えることに必死で他のことを考える余裕は無くなっていた。

「夕食・・・・」

 幸治が呟いて―――タイミングよく、幸治の腹がぐぅと鳴る。
 そして、どこかせつなそうに呟いた。

「ハラへった・・・」
「え? えーと・・・」

 いきなり何処へいくかと聞かれたら、今度はハラへったとか言われ、あかねはなんと答えて良いものか、完全にパニック状態。
 そんな彼女に構わずに、幸治はあかねの腕を取ると、そのままずんずんと引っ張って行く。

「えっ、ひゃっ、なにっ、なにするんですかっ!?」

 あかねの悲鳴に、幸治は動きを止める。
 振り返り怪訝そうな顔で。

「コンビニに行くんだろう?」
「そ、そう・・・だけ、ど・・・・・」
「じゃあ、行くぞ」

 と、再び幸治はあかねを引っ張って、歩こうとする。

「や―――」

 限界だった。掴まれた場所から、幸治の体温が伝わって来る。怖い。
 他人の体温が、自分の体温を侵食するのが怖い。
 はっきりとして嫌悪感に耐えきれず、あかねは幸治の手をふりほどいた。

「・・・・?」

 不思議そうに振りかえる幸治。
 あかねは羞恥と混乱で、真っ赤になりながら俯いて、

「あ、あのっ、西山くんもコンビニに用事があるんですか?」
「ハラへったし」

 簡潔に答えると、幸治は再びあかねの腕を掴んで引っ張って歩く。

「ちょっ、やめて―――引っ張らないで!」
「早く行かないと、ハラが減って死にそうなんだ」
「だ、だったら一人で行けば良いじゃないですか」

 気がつくと、なんだかんだで階段まで辿りついていた。
 幸治は、もう振りかえらずに。

「コンビニに行くと言ったのはお前だ」
「だからってなんで一緒に行かなきゃいけないんですか―――離してくださいッ」

 もはや悲鳴に近いあかねの言葉を、幸治はきっぱりと無視。
 ゆっくりと階段を降りて、強制的にあかねも腕を強引に引っ張られているために前屈みの状態でそれに続く。何度か危なく階段を踏み外しそうになったが、それでも無事に階段を降りきれた。

「人と手を繋ぐのがそんなに怖いか?」
「え・・・」

 階段を降りきったところで、幸治が立ち止まって振りかえる。
 なにを答えれば良いものか、あかねは考える。が結論が出るよりも早く、

「他人の体温を受け入れられないというのは、淋しいってことだと思うが」
「・・・あ」

 もしかしたら、わかってたのだろうか、この男は。
 わかってて、その上で自分の腕を引っ張った?

「・・・・離して」

 呟いて、あかねは強引に掴まれて居る腕をもぎ取る。
 自分の中で、なにか、冷たい感情が走る。
 あかねは、幸治を冷え冷えとした視線で睨むと、すぐに目を反らして俯く。目には涙。悔しさ怖さ嫌悪感。それらがあかねの瞳に涙を浮かばせる。

「わかってて、人が嫌だと思うことをやる人は最低・・・ッ」
「そうだな」

 無感動に―――しかし、あっさりと肯定の意味で頷く幸治。

「じゃあ、もう2度としない―――だから」

 おそるおそるあかねが幸治の顔を見ると、幸治はこちらを真っ直ぐな瞳で見つめてきていた。とても真摯な瞳。

「早くコンビニへ行こう。空腹で死にそうだ」
「・・・・・」

 呆れる。傍若無人というか、ゴーイングマイウェーというか。
 その真摯な瞳は、どうあってもあかねと一緒にコンビニへ行くと言う決意にみなぎっていた。どうせ断っても無駄なような気がしてくる。それに、どうせ自分もコンビニへ行くつもりだったのだし。

 結局、あかねは幸治と一緒にコンビニへと向かった。
 あかねは鮭のお握りとジュースを一本だけ買い、幸治は鳥のからあげの入った弁当を一つ買って店を出る。
 帰りも二人並んで帰ったが、幸治は宣言通りに2度とあかねに触れるような事はしなかった。

 

 

 

 

 

 きーんこーんかーんこーん。

 と、終業のチャイムの音で、綾は目を覚ました。
 寝惚け眼で、しかしいつもの習性で「起立」と号令をかけて自分も立ち上がると、「礼」と言って授業を終わらせる。やや年若い数学の教師は、ヨダレ垂らしながら号令をかける綾を見て、呆れながらもなにも言わない。まあ、いつものことだし。

「メシだー!」

 数学の教師と入れ替わりに、教室の中に飛び込んで来たのは冬哉だった。中途半端な赤茶の髪の毛を、無理矢理に頭の後ろで結わえたチョンマゲを揺らしながら、勢いよく教室に入ってきた。
 手にはなにやら弁当箱らしいピンク色の包みを持っている。
 教室を出ようとしていた生徒にぶつかりそうになりながら、しかし寸前で軽やかなステップで回避。そのまま幸治の席まで行くと、空いているほうの手で思いっきりすぱーんっとその頭を叩いた。

「・・・痛い」
「おいおいメシだぞ西山君! 人生で至福の一瞬。なによりも尊い貴重な時間! ああ、生きているって素晴らしい――――!」
「なんか、無闇にテンション高いわね。アンタ」

 呆れたように、綾も自分の弁当を持って幸治の席にやってくる。
 そんな綾に冬哉は三白眼を綾に向けると、そのガラの悪い顔にいつもならおよそ見ることのできないだろう満面の笑顔を浮べて、

「ハハハッハハー! 解かるかね九条女史!」
「・・・解らん方がどうかしてるでしょうに」
「実はな。今日は愛しのマイゴッデスが、俺のために弁当を作って来てくれたのだ!」
「・・・・・・・誰?」
「リョーコの姉だ」

 答えたのは幸治。まだ冬哉に叩かれた場所が痛いのか、頭をさすっている。

「ああ。あの噂の」

 綾はリョーコの姉なる存在に会った事はない。
 ただ、冬哉が心の底から惚れ込んでいるという事と、話から聞くに凄い人間だということは聞いている。曰く、この日本という島国における真の支配者だとか、曰く、世界征服を狙うある犯罪組織のボスだとか、曰く、遠い宇宙の彼方からやってきた異星系の人物だとか、曰く―――――
 まあ、とにかくホントか嘘かそういう噂だけは知っていた。もっとも、その噂の発信源はリョーコ自身であるので、綾は間違いなく100パーセント嘘だと確信していた―――そもそもこの内容では、誰が誰のことを言っても嘘だと確信するのだろうが。

「本当はリョーコが作ってもらったんだがな。あの馬鹿 “何が入っているかわからんからやる” とか言って寄越しやがった」
「それ、アンタのために作ったわけじゃないじゃん」
「いいんだよ! 俺はリョーコから弁当と同じに彼女の想いも受けとったんだ!」
「・・・あ、そいやリョーコは?」
「食堂。俺に弁当やったからパン買ってくるってさ」
「ふぅん―――じゃ、先に食べてようか」

 その言葉に、冬哉は適当な椅子を引き寄せて座る。
 綾は教室内を見回して―――弁当箱を開こうとしている学生服を見つけた。

「透くんも一緒に食べない?」
「あ、はい」

 学生服―――というか、その学生服を着た透明人間の透は頷き、椅子の上に弁当を乗せて、椅子ごと弁当を持って幸治の机に来た。
 最初は学生服だけが動くたびに、クラスメイトたちは好奇の目で見たものだが、いつのまにか “透明人間” という物に慣れてしまったようだった。いやはやげに恐ろしいのは人間の順応力か。
 適当な位置に椅子を置いて座る透を見て、幸治も教室の中を見まわす。――――居た。教室の端っこの自分の席で、弁当を広げようとしている一人の少女。
 その少女に向かって、幸治は手を振った。

「おおい―――――」

 動きが止まる。言葉も。
 そういえば、幸治は彼女の名前を知らなかった―――いや、聞いたかも知れないが忘れていた。
 そんな様子を見て、綾は首を傾げる。

「ん? どしたのアンタ」
「・・・なにがだ?」
「そんなカッコで固まって」

 と、手を振り上げたままの幸治はふむぅ、と唸り。

「・・・どうしたんだろう?」

 お約束通りに自分の行動を忘れた馬鹿は、その状態のまま悩む。
 綾は呆れたように嘆息。幸治の向いている方を振り向いて―――

「あかねさん?」
「誰だ、それ?」
「アンタと同じ屋根の下に住んでるクラスメイトよ」
「なにっ!?」

 と、声を上げたのは幸治ではなく冬哉。
 弁当の蓋を開けかけた状態のまま、幸治を凝視して。

「まさか・・・同棲!?」
「違う。アパートが一緒ってだけよ」

 綾の言葉に、幸治は尚もポーズを動かさずに。

「そうなのか」
「そうなのよ」

 綾は幸治に頷き返すと、しばし考え、席を立ってあかねの座る前に移動する。
 綾の存在に気付き、あかねはおそるおそる顔を上げた。

(・・・怯えてる?)

 あかねの瞳が、綾を見て怯えている様子に、綾はぎくりとした。
 九条綾はクラス中―――いや、草原高校中の生徒・教師に恐れられている。それは勿論、いつも幸治に振るっている過剰な暴力のせいで、自業自得と言うよりは幸治のせい(そうか?)なのだが。
 そうだとわかっていても、ちょっと悲しいものがある。
 それでも愛想笑いを浮べ、フレンドリーに、かつ穏かに話しかける。

「あの、あかねさんも私たちと一緒にご飯食べない?」
「えっ・・・」

 びくり、とあかねは肩を震わせる。なんか苛めてる見たいだなーとか思いながら、綾はそれでも笑顔を作って続けた。

「一人だけで食べるってのも寂しいでしょ?」
「・・・でも、わたし、いつも一人ですから」

 そう。彼女はいつも一人で、教室の隅っこで家から持ってきたお弁当を広げていた。
 綾は教室で食べる時に、いつも気になっていたのだが、特に声をかける理由もキッカケもなかったので、気にするだけだで終わっていた。しかし何故か今日に限って、幸治があかねの方を気にしたようなので、それを機に誘ってみたのだが。

(駄目かな、これは)

 と、綾は思いながら、

「じゃあ、今日から一緒に食べようよ。一人よりも皆で食べた方が楽しいわよ。きっと」
「・・・はあ」
「ね、だから一緒に食べようよ」
「・・・・・わかりました」

 綾の言葉にあかねは頷く。
 半ば断られると思っていただけに、綾は驚いてあかねを見る。

「いいの?」
「・・・え?」
「あ、いや。なんでもない! じゃ、こっちに来てよ」

 と言って、綾は幸治たちの場所に戻ると手招きする。あかねは立ち上がると、先程の透と同じように自分の席の椅子の上に弁当を乗せて、椅子ごと綾たちの場所へ移動する。
 椅子を綾の隣に降ろして、弁当を持って座る。

「お邪魔します・・・」

 呟いて―――ちょっとだけ、偶然に幸治と目があって慌てて反らした。
 幸治はいつもどおりに覚えていないらしく、怪訝そうに首をかしげたものの、なにも言わない。

「おい、綾。もういいかよ!? 早く食べようぜ!」
「はあ? 別に待たなくて先に食べてればいいじゃない!」

 苛立ちながら言う冬哉に、大き目のハンカチで包まれた弁当を開けながら綾が言い返す。
 冬哉は苛立ちを一転させて、ふっふと笑うとリョーコから貰ったという自分の弁当箱を軽く叩いた。すでにピンクの包装は解いてある。鉄色の大きな長方形のシンプルな弁当箱。いわゆる、ドカベン、というヤツだ。やーまーだー!

「いやあ俺の愛情弁当を見せつけたくてさー」
「愛情弁当って言う割には、素っ気無い弁当箱ね」
「愛は外見じゃねぇっ! 中身だ!」
「中身だってアンタのために作られたモンじゃないでしょが」

 喚く冬哉。嘲う綾。
 そんなやり取りを聞いて、あかねは自分の弁当箱を見た。赤と白のチェック柄の弁当箱で、中学の時から使っている弁当箱。中身はいつも母親が作ってくれる。仕事があるからと、何度もあかねは自分で作るといっているのだが、母は頑として聞かず、中学に上がってお昼が給食から弁当持参に変った時からずっと作ってくれている。
 愛情弁当、というのならこれもそうなんだろう。あかねはそう思って、こっそりと笑った。それに気付いた綾が、あかねの顔を指差す。透が小さな声で「人を指差すのは失礼だと思う・・・」と呟いたが、透明人間故の存在感の無さか、綾は気付かずにあかねの顔を指差したまま冬哉に向かって言い放った。

「ほら、あかねさんも笑ってる!」
「え? え・・・っと、違・・・」
「うるせー! くそ、弁当の中身を見て驚きまくりやがれテメエラ! どんなに美味そうだって分けてやらーんっ!」

 叫びながら冬哉は弁当の箱を勢いよく開けた―――――!

「・・・・・・・」
「・・・・・・・」
「・・・・・・・」
「・・・・・・・」
「・・・・・・・もぐもぐ」

 弁当の中身を見て硬直する四人。幸治だけはいつのまにか、一人で弁当を黙々と食べている。
 冬哉の弁当の中身は白かった。というか白だけだった。
 白米がびっしりと弁当箱に敷き詰められている。

「・・・おかずは?」

 綾が呟く。
 と、透が冬哉の持った弁当箱の蓋の裏を見て気付く。

「冬哉くん、蓋の裏に―――」

 言われて冬哉は弁当の蓋を見た。蓋には小さな袋が張り付いていた。
 おとなのふりかけ。
 冬哉はそれを凝視したまま動かない。

「あー・・・あのね、冬哉」

 流石に気まずげに綾は冬哉に声をかける―――が、なんと言葉をかけたものか。
 ふと思いついて、綾は自分の弁当を開けた。中身はご飯とおかずが均等に盛られた普通の弁当。綾はその中から、鳥のから揚げを一つ箸でつまむと、冬哉の弁当の上に乗せてやった。

「これ、お裾分け」
「あ、僕も」

 透も自分の弁当を開いて、ウィンナーを冬哉の弁当の上に乗せた。幸治も無言で卵焼きを白い白米の上に乗せる。
 あかねも慌てておかずを一品分けようとするが―――それよりも早く、冬哉はがたんっと席を立つ。

「うわあああああああああああんっ!」

 冬哉はそのまま泣きながら教室を飛び出していった。
 それを見送って、綾はやれやれと肩を竦める。

「憐れなヤツ・・・」
「・・・本当に、可哀想ですね」

 透も心底同情したような声で呟いた。
 あかねは苦笑。それから一応、自分の弁当からプチトマトを一つ冬哉の弁当の上に乗せてやった。

「なにかあったのか?」

 と、唐突に綾たちのところへ顔を出したのは少女・・・いや、少年。
 白米だけの弁当を作った―――作った、というか盛っただけというか―――女性の弟、リョーコだった。
 本名は羽柴 良光―――はしば りょうこう、と読む。よしみつ、ではない―――と言い、れっきとした男だが、少女みたいな顔だちと、知人からは “リョーコ” と呼ばれているせいか、よく女の子と間違えられる。
 リョーコは教室の外を見やって、

「なんか冬哉のヤツが泣きながら廊下を走り抜けた挙句、生徒会長にぶつかりかけて投げられて地面に叩きつけられた状態のまま説教を食らってたが」
「・・・生徒会長に? とことん憐れな奴ねー」

 綾はその光景を想像して容赦なく笑ってやった。

「で、どうかしたのか?」

 リョーコは冬哉がさっきまで座っていた席につきながら尋ねる。綾はまだ笑ったまま。

「あんたの姉さんの作った弁当の中身を見て大ショックを受けたのよ」
「あの姉の弁当の中身―――これか?」

 と、リョーコは自分の目の前に置かれた、いくつかのおかずが乗っかった白米弁当を見る。

「・・・あの姉にしてはマトモな弁当だな」
「いや羽柴くん、その弁当のおかずって僕たちがお裾分けしたものなんだよ」
「?」

 透の言葉にリョーコは首を傾げ、くっくっくと腹を抱えて笑いながら綾が言う。

「開けたときは、なんと白米だけで、蓋の裏にふりかけが1個だけ―――くくくっ」
「―――不思議だ」
「そーでしょ。とっても不思議―――というか笑うトコよ、これは」
「姉のくせになんと普通の弁当なんだ!?」
「は?」

 リョーコの驚きに、綾は笑うのをやめた。
 それこそ不思議そうな皆の視線の中心で、リョーコは恐る恐る白米の匂いをかいで、一粒食べてみる。

「―――毒は入っていない―――!? 馬鹿な!?」
「いや、どっちかっていうとアンタが馬鹿だと思うけど」
「というか、お弁当に毒を入れる姉弟って・・・?」

 驚愕に慄くリョーコ。呆れる綾。困ったように透。幸治は黙々と弁当を食べつづけ、あかねは話の展開についていくことすらできずに困惑している。

「とりあえず危険な気がするから棄てよう」

 ぽい、とリョーコは窓から弁当箱を投げ捨てた。

「ちょっと! 折角、アタシたちもおかずを―――」

 綾が叫びかけた瞬間。

 ちゅどん。

 ―――爆発音。
 驚いて、綾は窓の外を見る。みれば、リョーコの弁当が落下したと思われる辺りで、もくもくと黒煙が上がっていた。

「やはり爆弾か」

 平然とリョーコは言うと、買ってきたらしいサンドイッチの包装を解く。
 と、周囲を見回して。

「どうした?」
「どうした? じゃないでしょーがぁっ!?」
「ば、ばばばばばっ、爆弾ー!? なななななななな、なんで!? なんでお弁当の中に爆弾!?」

 綾が怒鳴り、透は混乱したように頭をかきむしる―――音を響かせる。幸治は弁当を食べ終わったらしく、空になった弁当の前で両手を合わせていた。あかねはやはり展開についていけずに、窓の外を呆然と眺める。
 窓の外では、爆発地点を取り囲むようにして生徒や職員が集まり、ちょっとした騒ぎになっていた―――――誰かが通報したのだろう。遠くの方から消防車のサイレンが響き渡ってくる。
 あかねが見る限り、爆発に撒き込まれた人間はいないようだった。爆弾とか爆発とか弁当とか。なんか非日常的な単語を頭から排除して、とにかく誰も怪我しなかったことに無理矢理意識を反らして安堵する。
 窓の外から視線を外し、教室の中を見回すと他の生徒たちも窓に張りついて外の騒ぎを見下ろしている―――が、あかねの目の前に例外がいた。リョーコはなにごともなかったように買って来たサンドイッチを食べているし、幸治はぼーっと空になった弁当の前になにもせずに座っている。綾と透は、自分は無関係です―――と主張するように、一心不乱に弁当に集中して箸を動かしていた。けれどその頬には脂汗が流れていたし、時折箸を置いては顔を上げて、外や教室内の様子を伺って居るようだったが。
 あかねはもう一度だけ外の様子を見た。赤い消防車が乗用車の三倍の速度で学校の敷地内に滑り込み、サイレンの音を一際大きく響き鳴らしてから止める。消防隊員達が車の中から飛び出して来るのを見てから、あかねは自分の弁当に視線を移すと箸を持った。

 

 

 

 

「で、この馬鹿幸治! また私の名前を忘れやがって―――」

 10分後。
 どうやら窓の外の騒ぎも収まったようで、綾も透もなにごともなかったかのように箸よりも口のほうを多く動かしていた。

「幸治の物忘れはいつものことだろうに」
「いつものことだからムカつくでしょうがーッ」
「うむ、そうだな」
「こ、幸治くんそんな風に頷くとまた―――」
「ッのぉ、馬鹿幸治ーッ!」

 どかべきっ!
 綾の黄金の左が幸治を教室の反対側までふっ飛ばす!
 そんな様子を眺め、あかねはクスクスと静かに笑っていた。
 いつも遠くから眺めていた綾たちのやりとり。それを近くで見るのも楽しかったが、それよりも。

(・・・一人で食べるよりもみんなで食べた方が美味しい・・・か)

 綾の言葉を胸の中で反芻する。
 皆で会話しながら食べるご飯は、いつもと味は変わらない。けれど、楽しい。楽しいと、何故かいつもと同じ味の弁当も、なんとなく美味しく感じる。―――いや、あかねは未だに綾たちの会話についていけず、時折、綾や透の言葉に相槌を返す程度で、一緒に会話しているとは言い難かったが、それでも楽しく弁当を食べていた。

「ったく! あの鳥頭ッ」
「・・・ふと、思ったんだけど・・・幸治くんの記憶力って―――遺伝かな?」

 憤然とする綾に、透が呟く。
 綾は、んー、と唸って、

「そんなことないと思うけどね。幸治の父親ってダメ人間だけど、頭はハッキリしてるし」
「ふーん・・・」
「というか、鳥頭って遺伝ってするのかしら?」
「さあ・・・でも、ウチは遺伝だし」

 ・・・・・・
 透の言葉に、綾は言葉を失う。
 じーっと、透を見る。いつもと変わらない透明人間。

「・・・遺伝?」
「うん」
「でも、前に聞いたときに家族は透明人間じゃないって・・・」
「お爺ちゃんが透明人間なんだ」

 平然と言う透。言葉を失う綾。

「ほう。透の家族は普通人なのか」

 と、リョーコが最後のサンドイッチ(たまごサンド)を片手に呟く。透はどこかひきつった声で。

「普通人って・・・まあ、そうだけど―――そういえば羽柴くんの家の家族は―――」
「両親に姉が一人。あとペットが一人」

 素っ気無く答えられて、なんとなく透は窓の外を見た。
 すでに消防車は無く、人も集まっていないようだった。透の座っている位置ではよく見えないが、庭の弁当落下地点に少し黒いコゲ跡が残っているだけ。
 何人か、リョーコが爆発物―――弁当を投げ捨てるところを見たはずだが、その事で質問されることなく消防車は帰っていった。というか、爆発を処理しただけで消防車はその大元の原因を調べることなく逃げるように帰って行ったというのが正しい。そのことについてリョーコはぼそっと、

「まあ、あの姉のやったことだしな」

 と、それだけで済ませる。
 なんだかそれ以上は踏み込んでは行けないような気がして、誰もそのことについて話題を続けようとする者はいなかった。

「えーと・・・ぺ、ペットって?」

 姉を含めたリョーコの家族のことには敢えて触れず、透が訊ねると、

「ちゃっぴぃだ」
「ちゃっぴぃ? ―――犬かな、名前からして」
「いや、ちゃっぴぃは犬ではなくちゃっぴぃだ」
「・・・えと、ちゃっぴぃ、って、犬じゃないならなんの動物?」
「ちゃっぴぃ」

 わけがわからない。
 これ以上聞いても、さらにワケがわからなくなるだけそうだったので、透は綾へと質問の矛先を変える。

「九条さんの家族は?」
「両親と居候」
「居候って―――西山くん?」

 透はいまだ教室の端っこで倒れたままの幸治を一度振り返り、尋ねる。
 問いに、綾は至極不機嫌そうな顔をして。

「どーしてそこで馬鹿幸治の名前が出て来るかなぁ?」
「え、違うの?」
「違うわよ。大体、幸治はあかねさんと同じアパートで父親と二人暮し! ね、あかねさん」
「えっ・・・」

 突然に話を振られて、あかねは戸惑った。
 が、しばらくして首を傾げて。

「そう、なんですか?」
「あれ? 虎雄おじさん―――幸治の父親だけど、見たことない?」

 綾の問いに、あかねは暫く考えて―――
 やがて、ふるふると首を横に振る。

「ふうん・・・まあ、おじさんってちょっと前までは仕事であまりアパートに居なかったし、仕方ないかも――――あかねさんの家は? 家族って何人?」
「家族は・・・母親と二人暮しです」

 ずっと昔から聞かれて、何度も答えた答え。
 続く質問も決まっている。

「お父さんは――――あ、まさか・・・もう」

 亡くなっている、と思ったのだろうか。綾はすまなそうに暗い顔をする。

「あ、いえ、そういうわけじゃないんですが―――」
「あかね・・・?」

 と、突然不思議そうにリョーコがあかねの名前を呟いた。

「あかねって、小松あかねか? 父親が―――」
「やめて!」

 リョーコの言葉に、あかねはおもわず大きな声を上げた。あまりの大きな声に、教室の中の生徒たちが驚いてあかねの方を向く。なにより、自分の声の大きさにあかね自身が驚いていた。

「あ、あの―――」

 うって変わってか細い声で、あかねは俯いて呟く。

「し、知っているのなら言わないでください―――」

 その声は聞き取れないほどか細い声だが、リョーコは―――珍しいことに―――申し訳なさそうに軽く頭を下げる。

「すまない」
「いえ・・・」

 どうしたのか。綾と透はわけがわからずに戸惑い、綾は問いただそうと口を開いた―――ところで、予鈴が鳴った。
 リョーコは食べ終わったサンドイッチの包装紙を握り締めて潰すと、そのまま席を立って自分の教室へと戻る。
 あかねも、まだ少し弁当は残っていたが、そそくさと蓋をしてハンカチで縛り、来た時と同じように椅子の上に弁当を乗せて、自分の席に戻っていた。
 困惑しながら透も弁当をしまって自分の席に戻る。
 綾は幾らか残っている自分の弁当を見下ろす。いつもならはしたなくもかきこむところだが、そんな気にはなれずに弁当をしまって、席に戻った。

 ―――ちなみに幸治は、5時間目の教師に起こされるまで、教室の隅に倒れていた。

 

 

 

 

 

 5時間目。いつもの号令をかけたあと、綾は即座に机に突っ伏して睡眠潜航モードへと突入した。いつもならきちんと授業を受け―――ようとして力尽きて惰眠にはいるのだが、昼休みの終わりの奇妙な雰囲気をまだ引きずって、授業を受ける気がしない。幸いにも5時間目は現国で、担任の吉川先生は心優しい―――というか気弱で、生徒が眠っていようが遊んでいようが一行に注意しない―――できないので、綾の睡眠を妨げるものはない。
 他の生徒たちもお喋りやらなんやらで、普通でも聞き取りにくい吉川の気弱な声は、全く綾の耳には届いてこない。綾の意識はそのまま眠りの底へと落ちていき―――

「しっかし、驚いたよな。いきなり大声出してさ」
「 “あの” 小松だろ? 親のことでなんか言われたんじゃねえの?」

 不意に聞こえた生徒同士のたわいもないお喋り。隣から聞こえてきたその会話に、綾の意識は眠りの底から一気に浮上する。
 がばっ、と起き上がると隣を見る。
 隣では、クラスメイトが二人何事かと綾の方を驚いた様子で見てた。そんな二人に綾は尋ねる。

「小松さんって、小松あかねさん? 彼女の親って!?」

 いきなり綾に問われ、二人の生徒は驚いたように顔を見合わせて、

「え、知らないの? けっこー有名な話だよ?」
「そーそー。彼女って、母親がレイプされて産まれた子どもなんだってさ」
「・・・え―――え?」

 くらっ、と来た。
 本当に軽い眩暈を感じて、綾は思わず教室の後ろの方に座っているあかねの姿を振りかえる。あかねは騒がしい中、一人だけ授業をマジメに受けているのか、ノートにペンを走らせている。目が合っても気まずいので、綾はすぐに前を向く。隣では二人は別の話題に移っていたが、そんなことはどうでも良かった。
 不意うちに重い話を聞かされて、綾は茫然自失。
 父親が亡くなったとか蒸発したとかそんなことよりも―――いやそれでも十分に重い話だが―――あまりにもヘビィな事情に、綾は机に突っ伏す。
 あのリョーコが謝った気持ちがよく解かる。
 そんなことを考えて、綾は心臓の鼓動が異常なほど速くなるのを感じていた。
 バクバクと高鳴る胸を手で抑え、綾は泣きそうな想いで考え悩む。
 どうしよう。
 どうすればいいんだろう。どうしてやることができるだろう。
 果たして自分は、あかねにどんなことをしてやれるだろうか―――
 綾は5時間目が終わり、そして6時間目も終わって放課後になるまで、そんなことばかり考えていた。

 

 

 

 

「あかねさんっ、一緒に帰ろっ」
「えっ・・・?」

 教室をでようとしていたあかねは、驚いた様子で振り返った。
 綾は幸治の首根っこを掴んで、引きずってあかねのところまで辿りつく。
 にぱ、と明るい笑顔を浮べて、あかねに向かって呼びかける。

「一緒に帰ろっ」
「・・・はあ」
「ほら。私もこの馬鹿を家まで送り届けてやらないと、この馬鹿家に帰る事忘れるしっ。あかねさんも同じアパートだし、たしか部活も入ってなかったよね」
「はあ・・・帰宅部です」
「じゃあ私たちと一緒だ! 一緒に帰ろうっ!」

 ぐい、と綾は幸治を床に落として、あかねの手を掴む―――

「あ・・・・っ」

 思わずあかねは綾の手を振り解いた。
 いきなり自分の手を拒絶されて、呆然と綾は振り払われた自分の手を見下ろす。
 そんな綾を、あかねは愕然と見て、

「ご、ごめんなさいっ!」

 そう言って、逃げるように教室を飛び出した。
 綾はそれを追うこともせずに、その場に立ち尽していた。。
 ――――とにかく、友達になろう。
 それが綾の出した結論だった。
 あかねの家の事情など、自分には関係のないことだ―――と、綾は何度も思い、何度もその思いを打ち消した。確かに関係ない。けれど、知らなかった事実を知ってしまった以上は、見てみぬフリはできなかった。かといって、今更、あかねが “レイプされた母親の子供” という事実は変わらない。タイムマシンがあったなら、今すぐ過去まで飛んでそのレイプ犯を殴り殺したい所だが、例えそんなことが出来たとしても、綾の気持ちが多少晴れるだけだ。
 問題は今とこれから。
 綾はあかねになんでもいいから、なにかして上げたかった。力になってあげたかった。
 綾が知るかぎり、あかねはいつも一人ぼっちだった。昼のときの他も、休み時間も放課後も。
 もしかしたら、それは、彼女の生まれのせいなのかもしれない。彼女の生まれを知れば、どんな人間だって一歩引いてしまうだろう。もしもそうだとしたら、綾は彼女の友達になってあげたいと思った。だが―――
 振り払われた手を見下ろす。自分の手なのに、自分の手とは思えないほど感覚が無く重い。

「・・・はは」

 綾は苦笑。泣きたくなるような感情を抑えて苦笑。

「やっぱ、大きなお世話だよね、こういうの―――ね、幸治」
「いや僕は幸治クンじゃないよ?」
「うわあっ!?」

 驚いて振りかえる。
 見れば、綾たちのクラスの担任こと古畑耕助が居た。

「た、担任!? ・・・あれ、幸治は?」
「幸治クンならあかねちゃんを追いかけて行ったよ?」
「いつのまに―――――!?」

 綾は教室の外に向かって足を踏み出そうとして―――止まる。

「行かないのかい」

 尋ねる担任に、綾は力なく笑って。

「・・・でも、そういうのって迷惑だし」
「迷惑なのかい?」
「迷惑でしょ!? だって―――」

 綾は自分の手を見下ろす。振り払われた、手。

「迷惑と思っているのならそれも良いかも知れないな―――――確かに、 “可哀想だから” という理由で友達になろうとするのは、あかねちゃんにとっても迷惑だ」
「なっ・・・」

 どこか超然とした担任の言い分に、綾は目をむいて担任を睨みつける。

「なによその言い方ッ! あんたこそ担任のくせに、なにもしてやってないじゃない! いつも生徒たちは僕の友達さ〜とか馬鹿なこと言ってるくせに!」
「もっちろん。生徒たちは僕の宝物さぁっ。海賊王のお宝なんかよりも光り輝くジュエルッ! そう、それは何年、何十年と時が流れても僕の心の中でフォーエバーにシャイニングする永遠の―――」
「五月蝿い黙れ! じゃあ、あかねさんは別だって言うの!?」
「別って?」

 担任に問い返されて、綾は一瞬、う、と詰ってから言い辛そうに、歯切れ悪く答える。

「彼女は―――その―――他の人とは違うから―――知ってるんでしょ? だから、担任だってあかねさんのことを・・・なにも」
「他の人と同じ人間がいるのかい?」
「え・・・?」
「そんなこと言ったら、よっぽど綾ちゃんや幸治クン、それに透クンは “他の人とは違う” と思うけどなぁ」

 確かに。
 と、納得しかけて綾は首を振った。

「そういうんじゃなくてっ! その・・・あかねさんは・・・か、可哀想でしょ!」
「それだ」

 担任はビシッ、と綾に指を突き付ける。

「なにがっ!?」
「何故、あかねちゃんが可哀想だと思うんだい?」
「それは・・・父親が、いないから・・・」
「それなら幸治君も可哀想だとおもうけどね。彼も母親を亡くしている」
「幸治とあかねさんは、片親なのは同じだけど―――そのっ、違うでしょっ!」
「なにが?」
「なっ―――わ、私の口から言わせる気!? この変態教師!」

 物凄い剣幕でまくしたてる綾に、担任は肩を竦めた。
 ―――いつのまにか、教室の中は二人だけになっていた。触らぬ神に祟り無しと思ったのか、クラスメイトたちは皆帰ってしまったようだ。

「では聞くけれど。幸治くんは可哀想だと思わないのかい?」
「幸治のどこが可哀想なのよ!?」
「母親がいないだろう? あかねちゃんと似たようなものだ」
「・・・で、でもっ。アイツは―――そんなことも、っていうか自分の名前も忘れるような馬鹿だし。母親がいないってことも忘れてそうだし・・・」
「じゃあ、何故、あかねちゃんのことを可哀想だと思うのかな?」
「だって・・・そうでしょ!?」
「―――綾ちゃん、キミはとっても優しい女の子だね」

 不意ににっこりと、担任は笑う。
 からかわれているような気がして、綾は怒鳴る、

「どういう意味よっ!」
「優しいから、その優しさゆえに相手の気持ちを無視してしまうことがあるのは悲しいことだ」

 担任はそういうと、教室を出る。

「ちょっと!」

 追いかけようとした綾に、最後に担任は、

「―――可哀想でない人間のことを、可哀想だと思うのはとても不幸なことだよ。誰にとってもね」

 ぴしゃりっ。
 と、綾の眼前で教室の戸が閉められた。危うく顔をぶつけそうになって、綾は急停止。
 すぐさま戸を開いて教室を飛び出すが、すでに廊下に担任の姿はなかった。

「あンの変態教師ーッ!」

 一人、廊下で叫ぶ。
 別の教室で残っていた生徒達が、何事かと顔を出すが、それを無視して綾は走り出した。
 一度、手を見下ろす。振り払われた手。それを握り締めて。
 担任の言葉はほとんどワケがわからなかった。けれど、なんだか、とても自分がダメだと言われたような気がする。イメージ映像はテストの答案。しかも0点。イメージの中には幸治が居て、幸治の答案は100点満点だった。しかも100点の中にさらに100点があるハイグレード100点。
 そう。きっとあの馬鹿なら担任の言葉をわかるに決まっている。すぐにあかねの後を追ったあの馬鹿なら。
 悔しいけど、西山幸治はそういうことがわかる人間だった。

「―――記憶喪失のくせにっ!」

 階段を駆け下りて、下駄箱へ突進し、素早く靴を履き替えると下ばきを破壊してしまうような勢いで下駄箱につっこむ。そしてそのまま、凄まじいスピードで外へと飛び出した―――

 

 

 

 

「あの・・・」
「なんだ?」
「・・・いえ」

 困ったようにあかねはうつむいた。

(困ったなあ・・・)

 実際、困っていた。
 握られた手。思わず振り払って―――やってしまった、と思ったときには遅かった。綾の信じられないものを見るような顔。それが頭から離れない。
 他人に触れられるのは大の苦手。それはずっと前から変らなくて、同じような失敗を何度も繰り返した。
 ただ逃げることしか頭になくて、頭を下げてそのまま逃げ出した。下駄箱まで走って、息を切らせて靴を替えている時に、幸治が追いかけてきた。
 一瞬、逃げようとも思ったが、なにもしてないのにいきなり逃げ出すのも失礼だった。
 それで、今、二人並んでアパートに向かって歩いて帰っている。誰かと一緒に帰るというのは久し振りで―――そもそも、こういうときにどんな話をすれば良いのか解からない。昨日、コンビニへ幸治と一緒に行った時も同じだった。なにか会話しようと思うのだが、話のネタがない。
 結局、話せないのなら無理に話す必要はないと考える。黙ったまま、アパートまで辿り付いて、幸治の部屋の前でそれじゃ、とか軽く挨拶でもすれば良いと思った。

「―――あのな」

(って、思った瞬間に話しかけないでよッ!?)

 あかねは心の中で悲鳴を上げる。
 が、当然のことながら、幸治はかまわず続けた。

「お前の父親の話、聞いた」

 言われて、一瞬だけあかねの呼吸が止まる。
 が、すぐに笑った。

「あ―――はは。そう、なんだ・・・うん」

 困ったように―――苦笑。
 本当に、困ったとあかねは思った。
 正直、自分は母親がレイプされて生まれた子供だ。と言われて良い気分はしない。それで小・中学校のころは散々イジメられた。何度か死にたいと思ったことがある。死んだら楽になれるんだろうなとか、死んだらどうなるんだろう? とか何度も何度も想像した。だけど、その度に別の想像もする。自分が死んだ後のこと。

「教えてくれたのは俺の隣の席のヤツだった」

 幸治の言葉に、あかねは不思議に思わなかった。
 あかねと同じ中学の人間なら誰もが知っている。そして、草原高校にはあかねと同じ中学の生徒も何人か進学していたはずだ。こんな話、広まらない方がおかしい。―――むしろ、幸治や綾が知らないことの方が不思議だった。

「綾も同じ話を聞いたんだと思う」

 ああ、だからか―――
 だから突然、一緒に帰ろうだなんて。

「綾は優しいヤツなんだ」

 そうだろうな、と思う。優しくて、強くて、カッコよくて―――ちょっと、羨ましい。同姓として少し憧れる。

「だけど、他人の気持ちを考えられないトコロもあるから」
「あ―――」

 困った。三度目、とカウントして。幸治は勘違いしているのだと、あかねは気付く。
 もしかして、さっきあかねが綾の手を振り払って逃げたこと、迷惑だったからだと思っているのだろうか?

「ち、違いますっ」

 あかねは精一杯の力を込めて叫んだ。

「さ、さっき逃げちゃったのは、そのっ、私っ、他人に触れられるのが苦手で、それで、手を振り払っちゃって! だからっ、その・・・なんか、気まずくて―――」
「うん」

 幸治は頷いた。
 きょとん、としてあかねは幸治の顔を見る。

(わ・・・)

 幸治は微笑みを浮かべていた。優しい、微笑み。―――満面の笑顔、というわけでもない。感情の乏しい表情を、少しだけ口元になにか含んだような、小さな微笑み。
 けれど、初めて見る西山幸治のその微笑みに、あかねは胸が高鳴った―――それほど、魅力のある笑顔。

「そういうこと、綾にも言ってくれ」
「え」
「綾は、あかねが他人の体温が苦手って知らなかっただけなんだから」
「は、はいっ」

 と、叫ぶように答えながら、あかねの心音はどくんどくんと高鳴っていた。
 幸治の笑顔が素敵で、そしてさらに驚いたのは幸治が自分の名前を口に出したこと。幼馴染はおろか、時には自分の名前すら忘れてしまう男が、自分の名前を覚えていてくれた―――その事実に、なにか特別な意味を考えてしまい、あかねは真っ赤になる。

「そうすれば、綾とあかねは友達になれると思うから。・・・それだけ」
「あ・・」
「?」
「な、なんでもないです」

 話が終わったらしい。幸治の表情から微笑みが消え、いつもの感情の乏しい、なにかつまらなそうな表情へと戻る。そのことを少し残念にあかねは思った。―――そんなことを思う自分に、またドキドキする。

「あかねさーんっ!」

 後ろから声。振り返ると、綾が道の向こうから物凄い勢いで走って来るところだった。
 あかねは思わず立ち止まり、道の端っこに避けようとする―――がそれよりも早く、綾はあかねの眼前にまで辿りつくと、急停止。キキーッと、足を踏ん張って、あかねの鼻先に顔を付き合わせるような距離で止まった。

「あ・・・綾さん、さっきは―――」

 と、呟きかけたあかねの手を、再び綾は掴んだ。

「や―――」

 反射的に振りほどこうとするが、今度はさっきよりも強く握られて、振りほどけない。

「は、離してくださいっ」

 あかねの悲鳴に、綾は一瞬ひるんだような顔を見せたが、すぐにキッとあかねを睨みつける。

「嫌よ! 絶対に離さないから!」
「離してください! やめてっ!」
「嫌ったら嫌! だって、こうでもしないとあかねさん逃げるじゃない!」
「綾、あかねは逃げないから離してやれ」
「・・・幸治!?」

 幸治の存在に今まで気付かなかったらしく、綾は驚いて思わず手を離した。
 解放されたあかねは、掴まれた手を、もう一方の手で庇うように包み込む。身体は怯えるように小さく震えていた。そんなあかねの様子に、綾は酷く傷ついたような表情を見せるが、すぐさまそんな表情を打ち消して、怒ったようにあかねを睨み付けた。

「あかねさん!」
「・・・なん、ですか」

 綾の怒鳴り声に、あかねは身を竦ませる。が、綾は無視した。

「私、あなたの―――その、家庭の事情を聞いたの。すっごく可哀想だと思った! なにか力になりたいとおもった。だから、友達になりたいと思った! あかねさんにとっては余計なお世話かも知れないけどっ、私、バカだから、他にどうしていいかわからないから! だから、迷惑に感じられようがどうしようが、私はあなたの友達になりたいっ! あなたを独りにしたくないの!」

 ひとしきり叫んで―――綾は、表情を緩ませた。
 自信なさそうに、怯えたように、あかねの様子を伺い見て。

「だめ・・・かな」

 あかねは当惑していた。
 ここまで真正面から「可哀想」などと言われたこともなかったし、ここまでストレートに想いを暴露してくれた人間もいなかった。
 ―――そんなことないよ。と、気弱に怯える綾に応えてあげたかった。
 そんな初めての言葉は、あかねにとって嬉しいものだったから、でも。

「・・・ぁ・・・・・・」

 何故か、声はでなかった。
 嬉しいはずなのに。答えてあげたいのに。嬉しすぎて声がでない。

「・・・あ、はは。やっぱり・・・ダメだよね」

 見れば、綾はがっくりと首を俯かせていた。その表情が見えないほどに深く。

「ごめんね、私、バカだから―――どうしたらいいかわからないから―――可哀想でない人を可哀想だというのは不幸なことだ、なんて担任に言われたけど、わかんないし・・・・・・・・ごめんね」

 最後に一言謝って、綾はあかねに背を向ける。

「それじゃ、さよならっ」

 そう言って、駆け出そうとした綾。

「待って!」

 と、綾の腕をつかんだのはあかねだった。
 一瞬後に、自分から他人に触れたことに驚き、慌て、弾かれたように手を離す。

「ごっ、ごめんなさいっ!」
「え?」

 ワケがわからずに、綾は困惑。
 あかねはそんな綾にひたすら頭をさげていた。
 そんな二人を眺め、幸治は一言。

「二人とも、もう少し落ち着いたほうが良いと思う」

 

 

 

 

 落ち着いた。
 幸治とあかねの住むアパートの近く。
 小さな児童公園のベンチに、綾とあかねは並んで腰かけていた。
 ちなみに幸治は砂場で子供に混じって遊んでいる。

「他人が・・・苦手かぁ・・・」

 さきほど、自分の手を振り解かれた理由を聞いて、綾は反芻するように呟く。
 ちなみに、綾とあかねの間は、少し微妙な間隔があった。

「他人が苦手・・・というか、怖いんです。昔から―――それで、他人に触れられると、自分との体温の違いに驚いて、嫌な感じがして、いつも逃げちゃうんです・・・」
「ふ・・・・・ん」

 綾は呆っと唸って。
 不意に、あかねの方へと身体を向き直させると、頭を下げた。

「ごめんっ!」
「え」
「そんなこと、全然気付くことができなくて、掴んだりして、ごめんっ!」
「いえ・・・その・・・わ、私こそ、逃げたりして、ごめんなさい」

 二人して頭を下げて―――先に顔を上げたのは綾だった。それを気配でなんとなく感じ取り、あかねもおそるおそると顔を上げる。
 綾はどこか困ったような苦笑を浮かべていた。吊られてあかねも苦笑。

「じゃあ、これで仲直りで良いかな・・・」
「は、はい」

 あかねが頷くと、綾は片手を差し出してくる。向けられた手に、思わずびくっとあかねは震える。その態度に、綾は少しくじけそうになるが、それでも手を引かずに口を開く。

「握手。・・・も、だめかな」
「・・・・・・・」

 あかねはじっと差し出された手を見つめ、それから意を決した様にその手を掴んだ。握手。
 綾は掴まれた手を軽く握り返す。暖かい温度が肌を通して伝わって来る―――反射的に、あかねは握手を振り払った。

「あ・・・」

 しまった、と思って綾を見る。綾はしかし嬉しそうに笑って。

「大丈夫」
「ご、ごめんなさい。私、また・・・」
「大丈夫だって。―――それよりも、握手はできたんだし、これから少しずつこういうのに慣れていけばいいのよ。そうすればきっと、いつかは他人の体温が平気になれるから」

 そうかな。と、あかねは綾の言葉に疑問。
 今までずっとこうだった。これから変れる自分を想像できない。

「そう、ですか?」
「そうよ!」

 根拠は何処にあるのだろう。わからないが、綾は断言する。断言されてしまったのならそうなのかもしれない。少なくとも、変わると思わなければ変れない。だから。

「そう、ですね」

 おずおずと、力なく、それでもあかねは頷いた。
 頷くあかねに、綾はちょっとだけ嬉しそうに微笑む――――そんな二人を、首から上だけで見上げ、幸治はせつなげに見つめていた。ちなみに首から下は、いつのまにやら砂場で子供たちに埋められて身動き一つとれない状態。

「・・・助けて欲しいんだが・・・」

 しかし、幸治のそんな状態に、二人が気付いたのはもう暫く経ってからのことだった・・・

 

 

 

 

 

「いってきます」
「いってらっしゃい。気をつけてね」

 月曜日、火曜日と過ぎて、水曜日の朝。今日も遅番だという母親に見送られ、あかねはアパートの部屋を出る。
 がちゃ、と丁度、西山家のドアも開くところだった。出てきた学生服姿の幸治はこちらに向かって鞄を掲げて。

「よう」
「あ・・・お、おはよう」

 小さく、あかねは挨拶を口にする。それが届いたかどうかわからないが、幸治はむぅとあかねを見て。

「お前、誰だっけ?」
「・・・・・・・・・」

 わかってはいる。わかってはいたが、やはりちょっと悲しい。
 昨日、幸治の微笑みを見て、思わずドキドキしてしまったから尚更だ。
 涙はでない。それほどまでに悲しくはない―――が、さてどうしようかと困る。自分の名前を名乗るべきか、それとも「なんでもない」と答えるべきか、それとも無視して立ち去るべきか。
 幸治はじーっとこちらを見ている。アパートの通路の真ん中で。その脇を行くのはちょっと勇気がいる。2階なので、アパートを出るには幸治の向こうにある階段を降りるしかない。このまま部屋に戻るべきかも、と新しく選択肢に付け加えるが―――

「・・・・・はぁ」

 息を吐き、吸う。
 軽く深呼吸をして、あかねは意を決すると足を踏み出した。前に。
 すると、幸治もそれに合わせるように後ろに下がった。

「・・・?」

 怪訝に思いながら、あかねは歩みを進める。それに合わせて、幸治も後退していった。

「ちょ、ちょっと!? なんで逃げるんですか?」
「知らん」
「知らんって・・・」
「ただ、お前に近づいちゃいけないような気がする」
「え―――」

(もしかして)

 まさか、とも思いつつ仮定を一つ。

(私に触れないように、ってことなのかな?)

 だが昨日はそんな素振りは見せなかった―――あかねに触れることもなかったが、しかしこうもあからさまに逃げようとはしなかったはずだ。
 ―――などと、あかねが思い悩んでいる間に、何時の間にか通路の端まで幸治は後退し、それ以上後ろに下がれないと解かると、困ったように―――顔はいつもと変らず無表情だが―――周囲を見回すと、傍らの階段を見つけた。幸治は後ろに通路の端を向けたまま、カニのように横に足を動かして階段を―――――――

 踏み外す。

「西山くんっ!?」

 あかねが叫んだ直後、幸治の身体が傾く。そのまま側転のように横に階段を転がって、地面に墜落。あかねは一瞬、言葉を失い、身体の動きも止めたが、慌てて階段を降りると幸治の傍らまで駆け寄る。

「だ、大丈夫!?」
「なにがだ?」

 平然と。
 幸治は立ち上がるとあかねを見た。顔が近い。思わずあかねは後ろに三歩下がる。後ろに下がるあかねを怪訝そうに見送る。

(・・・あ、あれ?)

 自分から逃げ出さない幸治にあかねは困惑。

(今のショックで、拒絶反応を忘れたとか?)

 わけがわからずに渋い顔で首を傾げるあかねには構わずに、幸治は自分の身体を不思議そうに見下ろすと。

「・・・あれ? なんでこんな汚れてんだか」

 と、疑問を発して制服についた砂埃を払った。
 その様子に、あかねはおずおずと・・・

「あの・・・大丈夫ですか・・・?」
「なにがだ?」
「えーと」

 問い返されてあかねは悩んだ。
 どう答えれば良いのか、ということを悩んだのではなく、ただの疑問。
 どうしてこの人はこんなにも丈夫なんだろうか?
 悩むあかね。そんなあかねを、幸治はじっと見つめる。じぃぃっと強く見つめられて、思わずあかねは顔を赤らめた。視線を外す。足元の地面を見下ろしながら、顔がかなり真っ赤だと自覚。あかねはかなり困った。

「誰だ、お前?」

 冷めた。一気に。
 なんというかやるせない気持ちで、あかねはゆっくりと顔を上げる。
 幸治は本気で不思議そうにこちらを見つめている。つまり、自分のことなど全く覚えていないのだと落胆。
 昨日の朝、綾が酷く激怒していた気持ち、それがよく解かる。いくらいつものこととはいえ、親しい知人に「お前誰?」などと言われるのは良い気分じゃない。あかねにとって、幸治は「親しい」と呼べる関係ではないが、それでも昨日のことで幾らかは親しくなれたと思っていた。「あかね」と自分の名前を幸治が口にしたこと、それはとても嬉しかった。だから、その反動はとても―――

(とても・・・悔しい・・・)

 もう一度、自分の名前を呼んで欲しい。幸治に自分の名前を口にして欲しい。できれば、今すぐに思い出して。

(・・・なに、考えてるんだろ)

 舞いあがっているんだろうな、と自分で思う。
 昨日、幸治が自分の名前を呼んでくれて。綾が友達になってくれて。そんなことがあったから、舞いあがってるんだ。多分。
 でもあれは夢。現実は多分目の前。幸治があかねの名前を忘れたように、綾だってあかねのことを友達だとは思っていない。綾自身、言っていた。綾は可哀想だからあかねと友達になりたいと。だからきっと、それは一時の気まぐれにすぎない。可哀想だからと気が向いたから―――ただそれだけ。
 そう思っておこう。そう思っていれば、本当にそうだった時にそんなに傷つかなくて済む。あかねは嘆息すると、幸治を無視して背を向けた。と。

「綾」

 と、声を上げたのは幸治だった。
 振り向いたあかねの前に、綾が歩いて来る。

「あかねっ、おはよう」
「あ・・・・お、おはようゴザイマス・・・」

 小さな声。けれどその声は確かに綾に届いたようで、綾はうんっと頷く。

「うん、おはようあかね」
「よ、綾」

 と幸治も綾に気付いたようで片手を上げた。
 その様子を見て、あかねは少し胸が苦しくなる。あかねの名前は忘れてしまったのに、綾の名前は忘れていない事実。まあ、向こうの方が付き合い長いのだから当たり前―――と思う一方で、どうしようもない虚しさと悔しさを感じる自分が居る。

(調子に乗ってる―――そんなこと、考えちゃダメなのに)

 綾たちに気付かれないようにこっそりと吐息。

「それにしても幸治、珍しいじゃない。ちゃんと起きて学校にいく用意を済ませてるなんて。いつも学校に行くことすら忘れてるアンタが」
「綾を待ってたんだ。一緒に学校に行こうと思って」
「・・・・・・本当にどうしちゃったの?」

 宇宙人でも見るような目つきで綾は幸治を見る。

「どうもしない。ただ、三人一緒に学校に行こうと思っただけ」

(・・・え?)

 と、あかねは顔を上げた。目の前には幸治の横顔。

「三人って・・・」
「あかねと綾と俺の三人」

 と、あかねの呟きに幸治は即座に答えた。
 とくんっ、とあかねの胸の鼓動が強く速く激しく高鳴る。思わず泣きそうになって、それを気付かせないために顔を俯かせる。
 ふと幸治はそんなあかねを振り向くと、首を傾げて。

「お前誰―――」
「アホかーっ!」

 どげしっ!
 綾のコークスクリューブローが幸治の頬に突き刺さる。圧倒的な運動エネルギーに吹っ飛ばされて、幸治はアパートの階段に叩きつけられる。がぁぁんっ、と伸びのある高い金属音が響き渡った。

「やばっ」

 何事か、とアパートの住民たちが騒ぎ出す。窓あら玄関から顔を出す住人たちに、綾は慌てて幸治の腕を掴むとそれを引っ張って、その場を逃げ出す。

「あかねっ、早く!」
「あ、はい!」

 綾の言葉に、俯いていたあかねは顔を上げた。泣きそうな―――嬉しさに泣きそうな自分はどこかに行ってしまった。結局、西山幸治は自分のことを覚えていてくれてたのかいないのか。どっちかわからず、きっとその両方なんだろうなと思って、悔しさと嬉しさがないまぜになる。それでも、彼がまた自分の名を呼んでくれたことに抑えようもない喜びを感じている自分に苦笑。本当なら綾のように怒るか、そうでなければ哀しむべきなのだ。結局、西山幸治はあかねの名前は覚えていたが、あかねのことを忘れていたのだから。それなのに喜んでいる自分は、なにか、少し、ヘンなのかもしれない。

「綾さん!」
「なに!?」
「西山くん、思いっきり引きずっていますよ!」
「頑丈だから大丈夫!」

 ずるずると、アスファルトの地面を削るようにして引きずられる幸治の身体。
 普通は大丈夫じゃなさそうだが、まあ西山幸治なら大丈夫なのだろうと自分でもよくわからない納得をする。この二人に毒されているのかもしれない。
 そんなことを思いながら、あかねは綾の後を追って学校まで走った。

 

 

 

 

 大丈夫だった。
 学校の校門について、綾が幸治の手を解放すると、即座になにごともなかったかのように幸治は立ち上がった。―――いや、何事があったか忘れてしまったという方が正しいか。

「大丈夫?」

 と綾が訊ねる。訊ねられたのは幸治ではなく、ずっと走りっぱなしで息を切らせているあかねだった。ちなみに綾は息切れ一つしていない。幸治一人を引きずって走って全く疲れた様子を見せない綾に、あかねは暫くなにも答えられなかった。
 走るのは嫌いではない。運動は苦手だが、走るのは好きだった。足が速いわけでもないし、体力があるわけでもない。それでも走って、走ることに集中するのは好きだった。
 ―――しばらくして、息切れが小さくなる。軽く深呼吸して息を整える。

「大丈夫・・・」
「ごめんね。全くこの馬鹿があんなに騒がしい音を立てるもんだから・・・」
「困ったもんだな」
「アンタがよ」

 綾さん、あなたもです。
 腕組みをして泰然としている幸治の頭を小突く綾に、あかねは心の中でこっそりツッコむ。
 と―――

 どんっ。

「きゃっ!?」
「あっ・・・!」

 不意にあかねは誰かにぶつかられてよろめく。

「あ、ごめんなさ―――あかね?」
「えっ? 雪絵ちゃん?」

 あかねにぶつかってきたのは、あかねたちと同じ位の年の女の子だった。
 草原高校の制服を着て―――その襟元の学園を現すリボンは綾たちと同じ同色。つまり、同学年。ツヤのあるさらりとした長い黒髪、そんな長い黒髪が似合うすらりとした長身。尖ったキレのある目にふっくらとした色気のある赤い唇。雪のような白い肌。ツンと澄ました整った顔立ち―――同じ草原高校の男子生徒に聞いて回れば、九割以上は「美人」だと答えるだろう。
 そんなを整った表情を、わずか驚きに崩して彼女はあかねを見ていた。平均身長を少し下まわっているあかねは、身長差で見下ろされている形になる。

「知り合い?」

 綾が二人を交互に比べて見ると、あかねはコクンと頷いて。

「うん・・・中学の時、一緒だったの。佐野雪絵ちゃん」

 その名前は綾にも聞き覚えがあった―――というか、顔にも見覚えがある。
 確か隣のクラス―――リョーコや冬哉の同級だったはずだ。
 雪絵はあかねの紹介に、少しだけ眉をひそめると、抗議の声をあげる。

「・・・ちゃん付けは止めてって言ってるでしょ、あかね」
「あ、ごめんなさい」

 はっとしてあかねは口に手をやると、そんなあかねの行為に雪絵は苦笑。

「ま。あかねらしいけどね―――」
「雪絵? 早く行こうよ」
「授業始まるよー」

 呼ばれて雪絵は振り返る。
 見れば雪絵のクラスメイトらしい女生徒が二人。どうやらその二人と喋りながら歩いていたために前方不注意であかねとぶつかってしまったようだった。

「ええ、今行くわ―――ごめんね、あかね」
「ううん。こんなところに立っていた私も悪いんだから―――ごめんね」

 そういってあかねはにこっと笑う。
 その笑顔に雪絵は一瞬、さっきとはまた別に驚いたような表情を一瞬だけ見せ、笑顔を返すとクラスメイトを追って学校へと入って行った。

「なんだ・・・」

 雪絵の姿が学校の中に消えると、綾はほっとしたような残念なようなため息を吐く。

「あかね、友達いるじゃない」
「う、うん。―――高校に上がってから全然会ってなかったんですけどね・・・」
「え? どうして。雪絵さんって隣の―――冬哉たちと同じクラスでしょ? そりゃ同じクラスじゃないけど―――」
「うん・・・そ、そうなん・・・ですけど」

 歯切れ悪くあかねは答える。
 暗く顔を俯かせるあかねに、綾はなにかさらに尋ねようとした時、予鈴が鳴り響いた。

「あ―――早く教室に行かないと」
「あかね?」

 走り出すあかねを引き止めようとして綾は手を伸ばしかけて―――その手を幸治が掴む。不機嫌そうに綾は幸治を睨んだ。

「・・・なに?」

 幸治はなにも言わずに黙って首を横に振る。
 綾はそんな幸治を睨んでいたが―――やがて、その手を振り払った。

「わかったわよ。誰だって言いたくないことの一つや二つあるだろうし―――」
「綾さん、西山くん。早くしないとホームルームはじまりますよー!」

 遠くの方からあかねが呼ぶ。
 綾は笑顔に切り返ると「今行くー」と言って走り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あーあ! 本当にヤになっちゃうわ! 勇人っていいっつも馬鹿でバカでばかたれで――――」

 ぶつぶつと勇人に対する文句を繰り返すみさきの横顔を、リエはにこにこと眺めていた。
 それに気付いたみさきは怪訝そうな顔でリエを見返す。

「なによ」
「んんー。みさきちゃんって、いっつも勇人くんのことばかりだなって」
「なっ―――」

 思わぬ言葉、というか言い掛かりにみさきは顔に血を上らせる。それをみてリエは嬉しそうに

「あ。赤くなった♪」
「こ、これは違っ・・・リエがヘンなこと言うから!」
「あーあ、ちょっとヤケちゃうなー。いつも二人って仲良しで」
「仲良しって・・・どこが!?」

 怒鳴るみさき。しかし、全くリエは聞いていない。
 完全にみさきの言葉を無視して、リエは興味津々といった表情で訪ねた。

「ねえ、みさきちゃんって勇人くんのこと、本当はどう思ってるの?」

 

 

 

 ―――本当に、どう思ってるんだろう。
 あかねは書いたばかりの文章を読み返して黙考。
 今は二時間目の少し長い休み時間。三時間目も移動教室というわけではないので、回りではクラスメイトたちがお喋りなどして時間を潰している。
 そんなちょっとした喧騒の中で、あかねはいつもの小説を書いていたのだが。
 今、書いた小説の登場人物の台詞を見る。どう思っているか。 “みさき” の思いは簡単だ。幼馴染でいつも面倒事ばかり引き起こす勇人のことのことが好きなのだ。ずっと昔、産まれた時から一緒だった “勇人” の駄目な部分も知っていれば、それ以上に良い部分も知っている。だから殴ったり愚痴ったりしながら、勇人のことが好きで、勇人もみさきのことが好きだった。実は両思いなのにずっと ”幼馴染” という関係だから逆にそれ以上の関係に踏み込めないでいるという設定。
 この二人のモチーフである綾と幸治も同じだと、あかねはなんとなく思っていた。違うのかもしれないが、それはあかねにとってどうでも良いことだった。はずなのだが。

(なんだろ・・・ちょっと、気になる・・・)

「―――本当に、どう思っているんだろう・・・?」
「なにが?」
「きゃあっ!」

 あかねは顔を上げる、と目の前に綾が立っていた。

「あ、綾さん・・・」
「なに書いてるの? 日記?」
「い、いえそのっ―――」

 あかねは慌ててノートを閉じた。綾は苦笑して。

「心配しなくても他人の日記なんて見やしないって」
「え、えと・・・ち、違うんです。これは」
「え?」
「その・・・・・・・小説なんです」
「小説?」
「はい・・・」
「へえー! あかねって、小説家になるんだ」

 綾の言葉に、あかねはぶんぶんと首を振る。

「そんなっ。私が小説家なんて無理ですっ!」
「そうなの?」
「そうですっ」
「ならそうなんだ」
「・・・・・・・うっ・・・」

 冷たく突き放された言い方に、あかねはちょっと落ち込んだ。そんなあかねに、綾は笑って。

「あんまり無理とかそういう風に思い込まないほうが良いよ。なんでも頑張ってみなければ結果なんてわからないんだから。ほら、なんって言ったっけ? 諺にもあるでじゃない。安産型は産むが易し」
「案ずるよりも産むが易しですよ」
「そうそれ」

 あは、と間違いを誤魔化すように綾は笑う。それに釣られたようにあかねも苦笑。

「それで? どんな小説書いてるの?」

 と、綾がノートに手を伸ばす。

「あ。あ。駄目ですっ」

 あかねがガードしようとするが、綾の方が早かった。綾はノートを開くとふむふむと頷く。

「あ、あうー、駄目ですぅっ」

 顔を真っ赤にして駄目駄目と繰り返すあかねに、綾はふむと頷いた。

「わかった」
「な、なにがですか!?」
「つまり、あかねはこの “みさき” が勇人のことをどう思ってるか悩んでるわけね」

 綾はさっきまであかねが書いていたページを机の上に開いて言う。どうやらこのページだけ読んだらしい。
 しばらくきょとんとしていたが、さっき自分が「本当にどう思っているんだろう?」と呟いたのを聞かれたことを思い出し、あかねはコクコクと首を縦に振った。

「そ、そうなんですっ」

 本当は綾が幸治のことをどう思っているかで悩んでいたのだが―――と、ふとあかねは思いつく。

「あのっ、ちょっといいですか?」
「ん? なに」
「あのですね。その小説の主人公とヒロインが、西山くんと綾さんに似てるんですよ」

 本当は逆で、幸治と綾を見て主人公とヒロインができたのだが、そのことは伏せておく。

「そうなの?」
「そ、そうなんです。それで、ええと・・・あ、綾さんは西山くんのこと、どう思ってるんですか?」
「・・・へ?」
「あ、じゃなくてっ! その小説の参考にしたいからっ、教えていただけると嬉しいかなって!」
「幸治のこと・・・ねえ・・・」

 むぅ、と綾は額に指を当てて悩む。
 その様子を、あかねはおずおずと見上げて、

「あの・・・す、好きだとか・・・」
「そんなわけないでしょ」

 きっぱりと綾は言い捨てる。

「好きかと聞かれればその反対。大っ嫌いよあんなヤツ。私にとって幸治はこの世で一番ムカつくヤツ。記憶喪失でいっつも私に迷惑かけるし、そのくせに何故かテストの成績は良いし。高校上がってからは無くなったけど、中学のときは時々暴れて手がつけられなくもなったりもしたし。それに―――」

 綾は暫く悩み―――言葉を選んで―――苦笑しつつ。

「信じられないかもしれないけどね。あいつ、たまにカッコ良いのよ」

 上手く言い表せない。が、それでも綾はなんとか言葉を繋げた。

「私が気付けなかった事、出来なかった事、諦めた事をあいつは何時の間にかやり遂げてる。透くんが転校してきた時もそうだった。透くんの孤独に一番早く気付いたのも幸治だったし―――その後のちょっとした騒ぎを止めたのもあいつ」

 透が職員棟の屋上から投身自殺をしようとしたことは、一応、秘密ということになっていた。あの時は当事者や教職員以外のやじ馬も多くいたが、とりあえずは他言無用ということになっている。
 綾はその時、なにもできなかった。―――結局、透は屋上から飛び降りて(事故だったが)、それを助けたのは幸治ではなく冬哉とリョーコの二人だったが、それでも透の自殺を止めたのは幸治だった。

「だから、それが一番ムカつく。 “記憶喪失” なんて言って誤魔化して、その気になればすっごくカッコ良いことができるくせに、自分を誤魔化し続けてる。だから嫌い」
「でも・・・西山くんの記憶喪失は病気かなにかで―――よくわからないですけど、とにかく西山くんが悪いわけじゃないんじゃ・・・?」
「記憶喪失が誰のせいかなんて関係ないわよ。アイツが記憶喪失でいる限り、私はアイツのことを好きになれない」
「そ、そうですか・・・」
「・・・あ。ごめんね、愚痴っぽくなっちゃって―――あー・・・と、参考になった?」
「え?」
「だから、小説の参考」

 忘れてた。
 あかねは慌ててコクコクと首を縦に振る。

「そ。良かった―――あ、私も一つ聞いてもいいかな?」
「は、はい」
「あかねは? 幸治のことをどう思ってる?」
「え―――!?」

 ドキッとした。

「あ、あのわ、わ、私は・・・・・・」
「いや別に無理して答えなくてもいいよ?」

 そんなこと言われても。綾がちゃんと答えてくれた以上、こちらも答えなくてはいけない。あかねはそう思うと、顔を真っ赤にして答えようと言葉を吐く。

「わ、わかんないです。でも―――でも、昨日と今日、私の “あかね” って名前呼ばれて、う、うれしくて―――でも好きだから、とかじゃなくてっ。きっと、自分の名前も忘れちゃう人が、私の名前を覚えてくれて呼んでくれたことが嬉しくて。私のこと、なんか、その、私を認めてくれているんだって―――あー、ええと、やっぱり良くわかんない・・・・・・・」
「ふうん・・・」

 必死に言葉を紡いで、赤くなってあかねは俯く。
 そんなあかねの言葉を聞いて、綾はにやっと笑った。

「ねえ、あかね。実はちょっと明日の朝、急用があるのよね」
「は、はあ?」
「だから、幸治の馬鹿を迎えに行けないのよ―――だから、あかねがあの馬鹿を引っ張ってきてくれない?」
「え、えええっ!?」
「誰かが連れてこないと、あの馬鹿絶対に学校があること忘れてるし。お願いね」

 その時次の授業の予鈴がなった。
 綾はもう一度「お願いね」と言うと、自分の席に戻って行った。

 

 


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