第16章「一ヶ月」
J.「君が好きだと叫びたい!(6)」
main character:セシル=ハーヴィ
location:ファレル邸
部屋の中で、彼女は泣いていた―――
カーテンが閉め切られた薄暗い部屋の中。
ローザはベッドの上で、嗚咽を繰り返す。「う・・・セシル・・・ぅ・・・セシル、セシル、セシルセシルセシル・・・・・・」
愛しい人の名前を呟きながら、今にも部屋を飛び出しそうな衝動を堪えるように力無くベッドのシーツを握り、枕で涙を拭うように顔を押しつける。
そのせいで、シーツはものの見事に皺だらけで、枕も涙と涎でぐちゃぐちゃだった。バロンに戻り、自分の家に引きこもってからどれくらいの時間が経ったのか、ローザには解らなかった。
時間の感覚はとうの昔に喪失し、今が朝か夜かなのも感じられない。
ただ彼女に出来るのは嘆くことだけ。
哀しみ、悔やみ、己を責め、苦しみ続けることだけ。「セシル・・・・・・セシルに―――逢いたい」
今一番の望みを口に出す。
途端、ローザの脳裏に愛しい人に逢いに行く自分を夢想して、涙と涎でべしょべしょだった表情に少しだけ微笑みが浮かぶ―――が、すぐにその想像を打ち消した。「駄目・・・駄目・・・駄目ッ・・・・・・」
妄想を追い払うように、枕に頭を弱々しく打ち付ける。
何度も、何度も、何度も、何度も!
今の自分には、そんな幸せな妄想を抱くことすら赦されないのだから。「そうよ、駄目よ、ローザ」
自分自身に言い聞かせる。
「貴女は、セシルに、愛される資格なんかない。愛する資格すらない―――」
一言一言、自分の心に刻み込むように呟く。
それからしばらく枕を抱きかかえた状態で、考えることを忘れてしまったかのようにぼーっとしていたが、やがて。「でも、でも・・・・・・セシル・・・私、淋しくて、苦しいよぅ・・・・・・」
そしてまた彼女は独り、部屋の中で泣き始めた―――
******
(中は・・・こんなだったっけ・・・?)
玄関に入り、ホールの中を見回してセシルは首を傾げた。
セシルは子供の頃、ローザに引っ張られて屋敷の中に入ったときのことを思い出す―――が、幼い頃の記憶だ。上手く思い出せず、昔と変わっているのか居ないのか良く解らない。
だが、なんとなく懐かしいものを感じることはできた。「お嬢様のお部屋は二階にございます」
キャシーがホールの中央にある階段を指し示すと、前に立って歩き始めた。
セシル達も後に続く。
階段を上ると正面は壁で、左右に廊下が延びている。キャシーは淀みない動作で右に向かい、セシル達もそれに習う。と―――「・・・う」
思わずセシルが呻いた。
廊下の先。曲がり角の所に部屋が一つあった。その部屋の扉のすぐ外に、見覚えのある女性が腕を組んで立っている。ドアと向き合って―――つまり、セシル達には背を向けているため、顔は解らないが、セシルにはそれが誰だかすぐに解った。というか、この屋敷にはローザとキャシーを除けば、あと一人しか居ない。
ディアナ=ファレル。
ローザの母親にして、セシルがもっとも苦手とする女性だった。「ローザ、いい加減に出てきなさいな!」
ディアナは部屋の中に閉じ篭もったままの娘に呼びかけているようだ。
「・・・・・・」
しかし返事はない。
しばらく反応を待っていたディアナだったが、やがて嘆息すると諦めたのかドアに背を向けて―――「あら?」
セシル達に気がついた。
「キャシー。その後ろに居る甲斐性無し他二名は?」
「甲斐性無しって」
「ローザお嬢様に面会したいと」
「って、僕のツッコミは無視!?」
「ローザに会うって・・・でもあの子、ドアに鍵を掛けて閉じ篭もってるし」
「・・・もしかしたら、セシル様の声を聞いて出てくるかもしれませんし」
「どうかしら、ね」ディアナはじっとキャシーの目を見る。すると、キャシーは何故か視線を反らした。
そんな使用人の様子を見て、ディアナはもう一度嘆息。「一つ気になってたんだけど、その花束はなに?」
「え。いや、これは・・・ローザに・・・・・・」薔薇の花束に視線を落とし、セシルがしどろもどろに答える。
すると、ディアナは少し驚いた様子で、「娘に? ・・・珍しいこともあるものね。あなたがあの子に贈り物をするなんて。まさかプロポーズでもしに来たとか言わないわよね?」
「はい。む、迎えに来ました」言って、手が震えた。
というか、全身が震えた。
セシルは知っている。ディアナがセシルのことを快く思っていないのを。だから心で構える。何言われてもくじけぬように。
しかし、ディアナは予想に反して、ふ、とセシルに向かって微笑みを浮かべる。「まあ、いいわ。がんばりなさいな」
「え!?」
「キャシー、喉が渇いたわ。案内が済んだら、お茶を入れて頂戴」
「はい、かしこまりました」驚愕するセシルの横をすり抜けて、ディアナは階下へと降りていった。
「・・・なに、そんなに驚いてるんだよ?」
ディアナが消えても驚愕したまま動かないセシルに、ロックが怪訝そうに尋ねる。
「い、いや、今、頑張れって・・・あのディアナさんが!?」
「そこまで驚くことなのか」
「驚くというか・・・驚くよ。だって、いつもあの人からは否定しかされたことがないから・・・」ディアナに会う度に、セシルは否定されていた。
“甲斐性無し” だの “親無し” だの “疫病神” だの。
ローザがセシルのような人間と付き合うことを望まず、顔を合わせるたびに、その口からは罵倒以外の言葉を聞いた覚えがない。(まあ、気持ちは解るけどね)
ディアナの口からセシルへの罵倒が出るたび、ローザは憤慨したが、実のところセシルはあの貴族夫人のことを苦手にはしていたが、嫌いではなかった。何故ならば、その真意が痛いほどに感じられたからだ。
「最早、否定するだけの価値もないと言うことでは?」
「う」キャシーの鋭い言葉がセシルの胸に突き刺さり、また呻いた。傷ついた表情を見せるセシルに構わず、キャシーは先程ディアナが立っていた部屋のドアを指し示した。
「あちらがローザお嬢様の部屋でございます」
慇懃無礼がよく似合う完璧な会釈をするキャシーを見て、セシルは怒りよりも疑問が沸いて出る。
(解らないのは彼女だよな。今まではこんなにまで敵意を見せたことはなかったのに)
ディアナの言うことに相づちを打って、セシルを貶めたりすることはあったが、ここまであからさまな敵意を向けられたことはなかった。
本人に曰く、「実は私はローザお嬢様とセシル様の味方ですので」だそうで、正しあくまでも “ローザとセシルの味方” であり、 “セシルの味方” ではなかったが。疑問はすぐに答えにはならなかった。
セシルはそれ以上考えることをやめて、ローザの部屋に向き直る。コン、コン、と二度ノック。
返事はない。
もう一度ノックするが、やはり返事はない。
仕方ないので、セシルは一度咳払いをして、「ローザ、僕だ」
「・・・・・・セシ・・・・・・ル・・・?」反応があった。
その声は、弱々しく、まるで虫の鳴き声のようにささやかなものだったが、たしかに部屋の向こうからローザの声が聞こえた。久しぶりに聞いた恋人の声に、セシルはなんとなくほっとした。
だが―――「・・・・・・ないで・・・・・・」
「え?」
「・・・こないで、セシル・・・」
「―――!」ドアの向こうから聞こえた言葉に、セシルは息を止めた。
「え、ローザ。それは―――」
「なにも喋らないで!」
「ッ!」
「・・・声も、聞かさないで。お願い・・・」
「・・・・・・」ローザの声音は震えていた。
泣いているのだと、なんとなく解った。(泣くほど・・・僕がイヤなのか・・・・・・!?)
頭の中がぐるぐるする。
目の前に暗幕でも降りたかのように視界が真っ暗になる。初めてだった。
否定されるのはなれていた。
子供の頃、 “親無し” と蔑んでいたのはなにもディアナだけではない。セシルの事を知る、殆どの人間が親無しだと、疫病神だと囃し立てた。そう言ったことを口にしないのも居たが、そうした者たちは、無視という形でセシルの存在を否定した。例外は、カインとローザの二人くらいなものだった。
初めてだった。
ローザに “否定” されたのは。
初めてだった。
否定されて、こんなに苦しく、哀しく、辛くなったのは。「お願い、だから、帰って・・・・・・お願い・・・・・・」
追い打ちの言葉。
その一撃で、セシルの心は暗黒の中へと叩き込まれた―――