弱い。
デスブリンガー―――エニシェルは、背にセシルを背負い泳ぎながらそう思った。
なんと言う、人間のか弱きことか。
いくら幻獣の王たる竜が相手とはいえ、その牙も爪も、尻尾の一撃もなく咆吼だけで打ちのめされてしまうとは。弱い。
加えて、愚かしい。あの時、セシルはリディアを捉まえようとするのに精一杯で、リヴァイアサンのことなど目に入っていなかった。
圧倒的な威圧感を放つ海竜王を目の前にして、その存在を無視できる神経には呆れるが、もしもリディアの事を考えずに自分―――最強の暗黒剣たるデスブリンガーを抜いていれば、それなりに抵抗も出来たはずだった。少なくとも、咆吼だけで打ちのめされて気絶などと言う無様な事には成らなかったはずだ。
そして、そんなことはセシル自身にも解っていたはずだった。
解っていながらも、剣を抜く手間すら惜しんでリディアを捉まえようとした。聞いた話では、セシルは先の戦で自分たちの何倍ものの兵力を相手にして互角に渡り合ったという。
だが、エニシェルには眉唾としか思えない。
圧倒的な不利な状況をなんとか出来るほどの指揮官が、どうしてそんな馬鹿みたいな過ちを―――少女一人の為に、戦うことすら出来ずに打ちのめされるような愚を冒せるのか。「・・・ごめん・・・」
不意にセシルが囁く。
エニシェルの心境に対しての言葉ではないだろう。
魔道士でもない人間が、人ですらない自分の心を読めるとは思えないし、何よりもセシルは未だ気絶したままだ。
呟いたのもうわごとのようなモノで、「―――何に対して謝っているのやら」
連れ去られたという恋人にか、それとも先日別れたバッツ=クラウザーにか、或いは守れなかった少女にか―――
それら全てにかも知れないが。なんにせよ、謝るのならまず自分に謝って欲しいものだとエニシェルは思った。
自分は剣だ。
人が手に持ち、敵を屠る為に振るう道具。
決してお馬鹿な暗黒騎士を背に担いで、首を巡らせても360度水平線しか見えない大海原を泳ぐようなものではない。リヴァイアサンの咆吼を身に受けて、打ちのめされて気絶したセシルを、人形を呼び出して背負い泳いで海面に出た時にはもう、辺りには船の姿は見えなかった。沈んでいる間に流されたのか、それとも船が素早く転身したのか、もしかしたらエニシェルが見落としただけなのかも知れないが、とにかく船はなく、セシルとエニシェルは大海原にぽつんと孤立してしまった。
さらに、セシルは生きてはいるが気絶したまま目を覚ます気配がない。仕方なく、エニシェルは幼い少女の人形姿で、人形の体格の二倍はあるセシルの身体を背負い、何処にあるとも知れない陸地を目指して泳ぎだした。目指すは東。なんとなく。
適当に日が沈むまで泳ぎ、さらにずっと泳いでいたら陽が真っ正面から昇ってきたので、自分が泳いでいるのが東だったと言うだけだった。
東のファブールから西のバロンへ向かっていたのだ。あながち間違った方向ではない―――とは思うが、おそらく大分潮に流され、今なお流されているはずなので、正確にファブールの方へと向かっているかどうかは自信が持てない。
陽は昇り沈みを二度ほど繰り返し、今は夜。生憎と空は月も見えない曇天で、当然星も見えない為に星で方角を計ることもできず、自分が現在どの方角へ向かって泳いでいるのかも判別つかない。・・・が、泳いでいれば何処かにつくだろう、とは思っていた。(問題は、それまでこいつの体力が持つかだが)
背に負うセシルの様子を見る。
まだ死んではいないようだが、全然目を覚ます気配がない。どころか、段々と顔が青ざめて息が細くなっていくのを感じる。
咆吼によるダメージもあるのだろうが、何よりも海水によって体温が奪われ続けているのが、セシルの体力を奪っている一番の要因だろう。(もう丸々二日も海に浸かっている。こりゃ早いところ陸地をみつけぬと・・・)
さらにエニシェルの体も、黒く塗り上げられた皮膚は塗装が剥がれ、人形の関節部分には塩水が入り込んで少しずつの動きを阻害していく。今すぐどうこうなるとは思わないが、それでも何日もこうして泳いでいれば、そのうち関節部分が負荷に耐えきれずに破損してしまうだろう。そうなれば、もはや漂うことしかできなくなってしまう。
人形が壊れてしまうことも問題だが、それよりも気になるのは顔だった。自分の顔が今どうなってるかは解らないが―――人形に乗り移っている時のエニシェルは、人形の “目” で物を見ている―――、おそらく顔の塗装は禿げて皸が入り、とてもおどろおどろしい異形へと変貌しているのだろうと想像はつく。もしも無事に何処かにたどり着けたならば、しばらく人形の姿は引っ込めて、デスブリンガーの姿のままで居ようと決意して。「・・・まあ、それ以前にどこかへたどり着けるかどうかが疑問だがな」
投げやりに呟いて、エニシェルは水平線へと向かって足を動かし泳ぎ続ける。・・・と。
「おや?」
ふと、暗闇の中に何か動く物が見えた。エニシェルは夜目が利く―――というか、普通の生物とは違う方法で外界を知覚している。それを人間と同じように、擬似的に視覚として「見」ているだけなのだ。だから灯火一つ無い闇夜でも、彼女は不便なく暗闇を見通すことが出来る。
”それ” は海面に見えた。ゆるやかに上下する波とは別になにやら海面ににょっきりと突き出た突起みたいなものがこちらへと迫ってきている。
なんだ、と思ってエニシェルは顔を沈めて水中からそれを見る。
グロテスクな凶悪な顔が見えた。鮫だ。
どうやら海面に出ていたのは、鮫の背びれらしい。鮫は凶悪な、のこぎりのような歯がずらりと並んだ口をがぱぁっと開けてこちらに突進してきた。喰う気マンマン。
それを見てエニシェルはにやりと笑う。「良いところに良い物が飛び込んできた」と。
(在れ)
海中で一言短く呟くと―――ごぼごぼと口から空気が漏れただけで、言葉は響かなかったが―――エニシェルの目の前に一振りの暗黒剣が現れる。自分の本体であるデスブリンガーを片手で掴むと、迫り来る鮫に対して―――
(退け)
念じると共に己のダークフォースを少しだけ解放。
強大な負の感情エネルギーに、鮫の本能は恐怖に震える。
突進してきていた勢いは徐々に留まり、エニシェルの目の前まで接近するとそのまま喰らおうとしていた口を閉じて、慌てて180度急旋回して逃げ出そうとする―――が、エニシェルはそんな鮫の横腹に、己の剣を突き立てた。剣を深々と刺され、鮫の身体がびくんと震える。
(行け)
と、エニシェルが背後から追い立てるようなイメージでダークフォースを鮫へと向ける。
鮫は恐怖に駆られ、串刺しにされた事も忘れて、必死で死力を尽くしてエニシェルから逃げ出そうと全力で前へと泳ぎ出す。エニシェルは片手で剣を掴み、片手でセシルを背に支えながら、鮫に引っ張られる。
ぐいぐいと海中を進んでいくことを体感しつつ、機嫌良く笑う。(こりゃ、ラクチンだのう)
鮫の腹から流れる血が、時折エニシェルの視界をかすめて、少々ウザかったが。
(このまま、どこか陸地にたどり着いてくれるとよいんだが)
目を閉じて、鮫が進むに身を任せ―――
(・・・なんじゃ?)
不意に、なにか強い力を感じてエニシェルははっとする―――
鮫のが進んでいるのとは反対方向で、なにかの力を感じたが―――(遠いな)
とりあえず、自分の手の届く範囲ではないと言うことに気がつくと、どうでも良さそうに改めて目を閉じた。
******
海面の下を、鮫に引っ張られて進んでいく。
程なくして目を開けると、すぐ真下に陸が見えた。
首を上げて顔を水面から出して前を見れば、前方には砂浜が見えた。見えた、と思う間もなくもの凄い速度で鮫は浜に向かって突進し、そのままロケットのように水面から飛び出して、砂浜に頭から突き刺さる。
当然、その鮫に引っ張られていたエニシェルも例外ではなく。「ぬおっ」
と、声を上げることしか出来ずに、セシルと一緒に容赦なく砂浜へと叩き付けられた。
「痛ぅ・・・」
痛みを堪えてエニシェルは砂浜から起きあがる。人形であるエニシェルには痛覚は当然ない。だが、ダメージ箇所を痛みとして感じるように “設定” してある。基本的に、 “エニシェル” である時は、限りなく人間に近い擬似的な感覚を持っている。
「むう・・・意外に陸は近かったんだのう」
鮫に掴まっていた時間は、大分長かったらしい。
気がつけばいつの間にか辺りは明るくなっている。体中にまとわりついた砂を払う―――が、海水に濡れた服や身体にまとわりついた砂は、手で払っても簡単には落ちてくれなかった。
海水で洗い流そうとも思ったが、それよりも連れの様子を確認しようとのんびりと辺りを見回す。見れば、鮫が上半身を砂浜へ突っ込んでぴくぴくしている横で、セシルが仰向けに倒れていた。その目は未だに固く閉じられていて、目を覚ます気配はない。「これ、いい加減におきんか」
いいつつ、セシルに近づいて蹴ってみる―――が、なにも反応がない。
もしやと思って、セシルの口元へと手を当ててみるが。「・・・息をして居らんな」
そう言えば、長くない時間とはいえずっとエニシェルは海面下で鮫に掴まっていた。そのエニシェルが引っ張っていたセシルも同様だろう。言うまでもないことだが、人間は海の中では息が続かずに溺れ死んでしまう。エニシェルの人形の身体はそもそも呼吸を必要としない―――普段は呼吸をしているが、それは人間のまねごとであり意味のない行為だ―――ので、特には気にしなかったが。
「ふむ・・・」
エニシェルは海水のせいか関節部分の動きに違和感のある手でゆっくりと拳をつくり、セシルの胸の中心へとあてる。
それから「ふん」と気合いを放つと同時に、拳の先にダークフォースの力場を生みだした。凝縮された負のエネルギーは、そのまま拳大の打撃となってセシルの胸を圧迫すると、「ごぼっ・・・ごほっごぼっ・・・」
胸を打たれたセシルが、肺に溜まっていた水を吐き出す。
エニシェルはセシルの顔を横にすると、口内に溜まっていた水を全て吐き出させ、それからまた頭の位置を戻して口元に手を添えると。「・・・よし。蘇生した」
か細い息だが、はっきりと呼吸を繰り返す。
そのことを確認してから、エニシェルは「さて、どうするか」と思い悩む。
果たして、ここが何処かが解らない。ファブールではないだろうということは解る。いくら潮に流されたとはいえ、泳いだ時間と鮫に引きずられた時間を考えても、ファブールに戻るにはかなり足りない。だとすればここはどこか。
考えて悩んでも、フォールスの地図を知らないエニシェルには解りようがない。「ま、よいか」
とりあえず陸地にはたどり着いた。
セシルも時機に目を覚ますだろう―――覚まさないかも知れないが、そうしたらそれで終わりと言うだけだ。もしセシルが目を覚ましたなら、後は全部任せれば良い。
自分は剣だ。
目的地を印す地図でもなく、行き先を照らすランプでもない。ただ立ちはだかる敵を屠る為の武器だ。
武器は敵を倒すこと以外の意味を持つ必要はないし、戦士に使われる以上の目的も必要ない。だから、最低限持ち主の身を守ることをするが、ここから先どうするかはその持ち主が決めることだ。そう考え、エニシェルは立ち上がる。
自分のやるべき事はひとまず済んだ。むしろやりすぎという感もある。普通の剣は持ち主が溺れたからと言って背負って泳いだり、鮫に掴まって陸地を目指したりはしない。だから今自分がこれからやらなければ行けないことは、体中にまとわりついた砂を洗い流すことだった。
海に入る前に、エニシェルは鮫に突き立った己の本体を引き抜く。
すでに血は流れていない。鮫はもう絶命していた。
ここまで自分を連れてきてくれた鮫に、しかしエニシェルはなにも感慨は浮かばずに「沈め」と呟く。途端、剣に黒いもやがまとわりついて、虚空に沈むようにもやと一緒に消えていく。次いで、エニシェルは水浴びをしようと自分の来ているミニドレスを脱ごうと手をかけて―――
―――ふと、周囲の気配を探ってみる。
人形の身体だが、一応精神的には妙齢の女性のつもりでもある。愛しい人以外に裸を見られることも嫌だが、それ以上に所々塗装のはげた醜悪な姿を見られるのが嫌だった。ダークフォースを限りなく薄く霧散させて周囲に広げる。
すると、海岸のあちこちから、魚やらヤドカリやら、その他微生物たちの小さな “恐怖“ を感じ取れた。だが、それらよりも大きな―――知的生物の感情は返ってこない。どうやら周囲には誰もいないと判断すると、服を脱ごうとして―――(・・・誰か、来る?)
大きな感情を感じ取り、エニシェルはそちらの方へと顔を向けた。
砂浜の向こうだ。まだ誰の姿も見えないが、人らしき感情が三つほど感じ取れた。(水浴びはお預けか・・・)
ち、と軽く舌打ちすると、エニシェルは片手を広げて「在れ」と一言。
瞬間、その手の中にデスブリンガーが現れる。手にしたデスブリンガーを砂浜に突き立て、意識を剣に戻す―――文字通り魂の抜けたエニシェルの人形は、そのまま砂浜に崩れ落ちるように倒れる。――― “沈め“
デスブリンガーがそう念じると、人形が黒いもやに覆われて、砂浜へと沈むように消えた。
後には砂浜に頭を突っ込んで死んでいる鮫と、その傍らで倒れている青年。
それから、砂浜に突き立った闇の剣だけが残された―――