第9章「別れ行く者たち」
A.「悪魔の道」
main character:カイン=ハイウィンド
location:ファブール南の森

 

 森の中だ。

 風と共に出現したゴルベーザたちの前には、闇があった。
 薄暗いとはいえ、時刻はまだ陽が頂点を過ぎた頃だ。朝っぱらから決戦開始して、まだ半日しか経っていない。
 早い決着といえば早い決着。

「ウィーダス率いる暗黒騎士団は、皆引き上げました」

 バルバリシアが報告する。
 目の前の闇―――昼間の中に、夜という穴をぽっかりと開けたような、闇。
 その大きさは、高さで言えば森の木の半分ほど。幅を言えば、大人4,5人ほどというところだろうか。

 その闇の名前を、デビルロードと言う。
 ダークフォースの導きにて、場所と場所を闇の道でつなげる秘儀。
 本来ならば、それなりの設備と儀式が必要なはずだが、それは、なにもない―――木々しかない森の中に、大きな闇の口を開けて確かに存在した。

「城内に残っていた陸兵団は・・・?」
「脱出できたものは。死んだ者は墓穴へ。逃げ遅れた者は捕虜となりました」
「・・・当たり前だろう」

 呆れたようにカインが呟く。
 だが、バルバリシアは澄ました顔で取り合わない。
 カインも、それ以上つっついたりしない―――これがローザかセリスならもう少し面白い反応が返ってくるんだろうが、とカインは苦笑した。

「それと、ガストラのケフカ将軍とルゲイエが、少女を一人つれて先に」
「少女?」
「ティナ=ブランフォード・・・ケフカ将軍がバロンを訪れたときに連れてきた、ミストの村で行方不明となった少女です」

 バルバリシアの説明に、レオが渋い顔を見せる。
 だが、その表情には誰も気が付かなかった。いや、気づいていたのかも知れないが、気にしなかった。

「ならば、この地に残っているのは・・・我々と」
「赤い翼だけです」
「そうか」
「ゴルベーザ、俺は先に戻らせて貰う」

 カインが闇に向かって一歩進む。

「エブラーナが攻めてきているのだろう? ならば、一人でも強者が必要だ」
「・・・わかった。貴様が入ったらすぐに閉じる」
「忘れ物はないかしら?」

 さっきの仕返しのつもりだろうか。
 バルバリシアがからかうように言ってくる。が、カインは無視した。バルバリシアもそれ以上つっこまない。

「・・・ゴルベーザ。バロンに帰ったら聞きたいことがある。―――待っているぞ」
「聞きたいこと・・・?」
「さあ! 早く戻りなさい、カイン! バロンは今、大変よ?」

 怪訝そうにゴルベーザが首をかしげる。それを慌ててバルバリシアが言葉でカインの背を押す。
 一瞬、カインは訝しんだが―――その表情を指さし。

「お前の顔のことだ」
「ああ、わかった」
「早く!」

 何故か急かすバルバリシアに、カインは闇の中へと足を踏み入れた―――

 

 

 

 

 

 闇の中をくぐり抜けるのは初めてだった。

 ファブールへ来るとき、カインは赤い翼の飛空挺に乗ってきた。
 その他に赤い翼に搭乗したのは、ゴルベーザを軍団長とする赤い翼の隊員。それからガストラの三将軍と、ルゲイエとか言うイカレた自称天才科学者。

 他の、陸兵団や暗黒騎士団は全てこの闇をくぐり抜けてバロンからファブールへとやってきた。

 

 この闇は道だ。
 それも真っ当な道ではない。
 それは、デビルロード―――悪魔の道、という呼称からも想像が付く。
 ゴルベーザのダークフォースの導きにて生み出された、バロンからファブールへの直通の闇の道。
 その道は、草原も山も海も全てを無視して、一直線に目的地まで続く。

 セシルの言葉通り、いかに飛空挺であろうとも、陸兵団のような大部隊を一度に運びきることは出来ない。
 そのイカサマのタネがこの闇の道だった。

 テレポなどの瞬間転移魔法とは違う。
 これは、あくまでも、道、だった。

 道だから、道であるが故に、歩かなければならない。
 魔法みたいに一瞬で目的地にたどり着くというわけでもない。
 だが、これは道であるが故に、一度作ってしまえば、自由に無制限に行き来ができる。魔法のように何度もかける必要がない。

 ただし、この道は困難な道でもある。
 闇に恐怖してしまえば、道に迷って一生闇の中をさまよい歩くことにもなる。
 デビルロードの原理を多少なりとも理解できる魔道の心得を持った者や、そうでなければ精神の強い者でなければくぐりぬけられない闇だった。
 が、このデビルロードは特殊で、ゴルベーザのアレンジにより、闇に迷うことはない。その分、ゴルベーザは道を造り出すのに苦心したようだったが。

 バロン陸兵団の兵士たちは、この闇の道をくぐり抜けてファブールへ着くまでに一晩かかった。
 闇をくぐり抜けるのに必要な時間は、個人の精神力による。元からダークフォースを制御し、精神の鍛錬をしている暗黒騎士などは、陸兵団よりの半分の時間でたどり着いた。

 ・・・何故か、陸兵団隊長であるギルガメッシュは、一瞬で闇を抜けた。

「気分がいいところじゃないな・・・」

 闇の中でカインは一人ごちる。
 周囲には誰もいない。ただ、闇が居る。
 濃密で、存在感すら感じさせる闇の中だ。

 そこを、カインはバロンへ向かうと念じて歩いていた。
 そうしろとゴルベーザには言われていた。
 ただし、焦るな、とも言われていた。

(無茶を言う・・・)

 今、バロンは襲撃を受けているという。
 フォールス最強の軍事国家であるバロンの城へ攻め入るとは、信じられない話だと思った。
 だが、相手の名前を聞いてすぐに、ありえない話ではないと思い直す。

 エブラーナ。
 忍者の治める国。
 忍、と呼ばれる異能者集団は、世界各地に存在するが、エブラーナは世界でも唯一の忍者国家だ。

 近年までバロンと戦争をしていた国でもある。
 カインが産まれたときにも、規模は小さくなっていたとはいえ、小競り合い程度の争いは週単位であったという。そのために、カインの父であるアーク=ハイウィンドは、息子の出産時に立ち会うことが出来なかったと、母がぼやいていたのをカインは聞いたことがあった。

 そのエブラーナが、バロンの主力部隊の留守を狙って仕掛けてきた―――あり得る話だと思う。
 飛空挺がバロンで完成する以前、空を支配していた竜騎士団と、互角の機動性をエブラーナ軍は有していた。竜が空を駆けるのと同レベルの速さで、エブラーナの忍者は野山を駈け抜ける。
 なんにせよ、ファブールとの戦闘が長引いた。エブラーナに付け入らせるには、十分すぎる隙だ。

(セシルめ・・・これを狙っていたな・・・)

 セシル=ハービィは最初からバロンに勝とうなどと考えていなかった。
 ただ、時間さえ稼げればエブラーナが動くと踏んでいた。
 そして、その思惑通りとなった。

(ちっ。セシルの思惑通りに事が運ぶ―――昔は頼もしかったが、敵として体験するとこれほど面白くないこともないな)

 兎に角、一刻も早くバロンへ向かうことだと、カインは焦り―――その度に、意識を落ち着かせようと苦心する。
 城の守りは、ベイガンが固めている。
 ベイガン=ウィングバードなら、例えエブラーナどころかガストラ帝国に総攻撃を仕掛けられたとしても、三日三晩は持たせるだろう。攻撃的な戦術、指揮においてはセシル=ハーヴィに適う者はバロンには居ないが、守備においてはベイガン指揮能力、防衛力はセシルでさえ舌を巻く。

 だが、相手は、かつては竜騎士団を筆頭とするバロン五大軍団を相手に一歩も引かなかったエブラーナ忍軍だ。
 神出鬼没の存在にて、変幻自在の戦術を仕掛けてくる。
 組織力、兵力においてはバロン軍が圧倒的に強い、が、それでもエブラーナがバロンに引けを取らないのは、個々の戦闘能力がズバ抜けているからだ。エブラーナ忍軍の一番下の位である “下忍” と呼ばれるものたちでさえ、一般兵を10束ねて対等に渡り合うだけの能力がある。
 その上の位である中忍、上忍は、当然の如く下忍よりも強い。
 特に、上忍クラスとなれば、カインやガストラの将軍とも渡り合うという噂があるが。

(刃を交えてみなければわからんがな)

 心の中で呟く。
 さらに、負けるつもりは欠片もないが、と思い。

(とにかく今は急ぐことだ)

 城を守る兵力が少ない今では、個々の戦闘力が高いエブラーナの方が有利だ。
 ファブールでの戦闘で傷ついているとはいえ、カインの力は必要でこそあれ不必要ではありえない。
 カインは、急げ急げと念じながら、ただひたすらに闇の中を歩き続けた。

 

 

 

 

 

 カインが闇の中に消えたのを見送り、ゴルベーザは闇へと手を伸ばした。

「ダームディア」

 ゴルベーザが呟くと、音もなく腕は闇の中に突っ込まれ、その瞬間、闇が収斂していく。
 急激にではなく、少しずつ少しずつ闇は縮んでいき、やがて闇は剣の形を取ってゴルベーザの手に収まる。

 剣は、暗黒剣だと象徴するかのように、闇の色をしていた。
 形は、どこにでもあるような、柄と刃で十字の形を作っているクロスソード。だが、よくよく見るとその剣の輪郭はぼんやりとしていて実体感がない。まるで、闇を無理矢理に剣の形に固めたような剣だ。

 ゴルベーザはその剣―――ダームディアを自分の腰に当てる。
 と、剣の刃は瞬時に鞘に変化し、柄がベルトとなってゴルベーザの腰に巻き付く。

「―――バルバリシア。お前はゾットの塔へ戻れ」
「はい、ゴルベーザ様」

 ゴルベーザの命令に、バルバリシアはにっこりと微笑んでから風と共に姿を消す。

「それでは行こうか、レオ将軍」

 ゴルベーザはレオ=クリストフを振り返って言うと、赤い翼の飛空挺がある方へと歩き出した―――

 

 

 

 

 

 森の向こうから赤い翼が飛び立っていく。
 それを、フライヤは城門の上から見送っていた。

 祈るような気持ちで見送る。
 飛空挺が反転して、こちらへ攻撃を仕掛けてこないように、と。
 最早、こちらは戦える状態ではない。
 モンク僧の四分の三が負傷死傷で戦闘不能になり、セシル=ハーヴィは意識を失ったまま目を覚まさず、バッツも同様だった。
 ギルバートは先程、ヤンに活を入れられて目を覚ましたが、起きあがれる状態ではない。最低でも一晩安静は必要だろう。ファブールの重鎮たちはセシルの闇にやられ、まるで悪夢でも見ているかのように魘されたまま目を覚まさない。

 唯一、まともに行動できるのがフライヤとヤンだけだった。
 そのヤンはというと、城内での事後処理―――負傷したモンク僧や、ラモン王たちの医務所への収納やら、或いは城から逃げ遅れたバロン兵を牢屋に放り込んだり、後は動ける者を掻き集め、バロンの再襲撃に備えている。
 フライヤは、そのバロンの再襲撃があるかどうかの見張りだった。ゴルベーザは引き上げると宣言した。だから、これ以上の戦闘はないと思ったが、思いこみだけで判断するのは危険だ。

 だが、赤い翼が南東の―――バロンの城の方へと向かい、その姿が徐々に小さくなって、豆粒ほどになった時、フライヤはほっと安堵の息を吐いた。

「・・・行ったか」

 声と気配に振り返ると、ヤンが居た。
 フライヤは黙って頷く。

「なんとか・・・追い返せたな・・・」
「勝利とは・・・呼べぬか」

 フライヤの言葉にヤンは苦笑。

「言えぬよ。バロン軍に痛手を与えたが、こちらの被害も多い―――これを勝利と呼ぶには、苦すぎる」
「被害・・・か」

 人が死んだ。
 人が傷つき、果ては死んでしまうのが戦争だと分かり切ったことではあるが―――

「奪われた者もある」
「ローザ殿とティナ殿・・・か」
「セシルとリディアは?」
「セシルはまだ、目を覚まさない・・・リディアは、バッツの傍に居る」

 ヤンは説明して、ふーっ、と長いため息をはき出した。

「辛いな」
「ああ、辛い・・・人が―――それも誰かの大切な人が失われるのは・・・」

 ぎゅ、とフライヤは自分の胸を拳で押さえた―――

 

 

 

 

 

「・・・・・ぅ」
「お兄・・・ちゃん・・・?」

 バッツが目を覚ますと同時、リディアの声が耳に飛び込んできた。

「リディア・・・か?」
「良かった・・・」
「ここは・・・ぅ・・・」
「あ! 駄目だよお兄ちゃん、まだ起きちゃ!」

 リディアの制止も聞かずに、バッツは身を起こす。
 ・・・確認するまでもない、ファブールの城だ。
 ここ数日で、すっかり馴染んでしまった自分の部屋でもある。

 旅人であるバッツは、一所に留まると言うことはない。
 三日以上、連続して同じ部屋で朝を迎えるというのは随分と久しぶりのような気がした。

「リディア・・・」
「もう・・・お兄ちゃん・・・」
「・・・他の、皆は・・・?」
「ヤンのおじちゃんと、フライヤはお仕事中。ギルバートお兄ちゃんは、さっき目を覚まして、セシルは・・・まだ」

 だんだんと、リディアの表情が暗くなっていく。
 だが、今のバッツにはそんな少女に送る励ましの言葉もなく、また、そんな余裕もなかった。

「ティナと・・・ローザは・・・・・・・」
「ティナとローザがどうしたって? ・・・まさか!」
「あいつらに、連れて行かれちゃった・・・」
「・・・・・・・」
「あの黒くて悪いヤツ、言ってた。ローザお姉ちゃんとクリスタルを交換だって」
「クリスタルは・・・無事なのか」

 バッツが言うと、リディアはこくん、と頷いた。

「それは・・・皮肉だな」

 セシル=ハーヴィが守りたかったのはクリスタルではないはずだった。
 むしろ、クリスタルに対しては憎悪じみた怒りを感じていたと言っても良い。
 それが、忌むべきクリスタルは守られて、大切な仲間だけが奪われた―――

 だが、皮肉だと思いながらも、クリスタルが奪われなかったことに、バッツは何故か安堵していた。

(って、なんでだ? 俺・・・ローザやティナが連れ去られたことよりも、クリスタルが無事だったことを考えて―――ほっとしてる・・・?)

 目の前のリディアはこんなにも悲しそうなのに。
 この話を聞けば、セシルは憤るだろうと解っているのに。
 そんなことよりも、クリスタルが無事だったこと、その事実しか考えられない―――

「リディア、これからどうする?」

 自分の思考を打ち払うように、バッツは適当な質問を口に出す。
 だが、即座にそんな質問をしてしまった事に後悔する。

 リディアはバッツを見上げた。
 その瞳には、強い、強い、意志の光が見える。
 それが、今のバッツには、何故か、まぶしく感じられた。

「ティナを・・・取り返す!」

 気圧された。
 まだ、10の年月も経験していない幼い少女の言葉に、バッツは気圧されてしまった。
 いや、言葉以前にその瞳の強さに圧倒されていたのかも知れない。

「取り返すって・・・どうやって・・・」

 そう尋ねかえしたバッツの言葉は小さい。
 どうして自分の声がこんなにも小さく―――弱気になってしまうのか、バッツには解らなかった。
 ・・・解らない、フリをした。

「戦って」

 当然のように口に出す、迷いのないリディアの返事に、バッツは返す言葉を失った。

 

 

 ―――貴公が守ろうとした者たちは、誰も貴公に守られることを望んでいない。

 

 

 レオ=クリストフの言葉が、何故か、耳の奥に蘇った。

「戦って、悪いヤツを倒して、ティナを取り返す! 絶対!」
「戦うって・・・リディアはまだ小さいだろ・・・? 戦う事なんて・・・できないだろ・・・?」
「できるもん!」

 言い切られた。
 駄目だ、とバッツは自分で思った。
 さっきから、自分ではいた言葉を自分の耳で聞いて感じていた。
 今の、バッツ=クラウザーの言葉には力がない。
 対して、リディアの言葉には力がある。ちょっとやそっとの言葉では揺るぐことのない力。

「リディアはまだ小さいよ? だから、弱っちいよ・・・? でもっ、これからリディアは大っきくなる! 強くなる! だから、私は戦える! ・・・戦わなきゃ行けない。ティナを、取り返したいから・・・私の大切な人を取り戻したいから!」

 強い、言葉。
 その言葉に、バッツは打ちのめされていた。

 レオ=クリストフの言葉が、今ならはっきりと解る。
 リディアはバッツ=クラウザーに守られることを望んでいない。

 もしも、リディアが戦いってティナを取り戻す、と宣言した後に「だから、バッツお兄ちゃんも手伝って」と言われれば、バッツはリディアの言葉に「苦しみ」を感じることはなかっただろう。
 だが、リディアは欠片もバッツを頼ろうと考えては居ないようだった。望んでは、いない。
 その事実が、バッツの精神を打ちのめす。

(なんだよ・・・俺。守りたい、なんて・・・これじゃ馬鹿みたいじゃねえか)

「―――るの?」
「・・・え?」

 不意に、リディアがなにかを尋ねてきたことに気が付いた。
 だが、放心していたバッツは良く聞き取れなかった。
 バッツが話を聞いていなかったことに気が付いたリディアは、ぷーっと頬をふくらませて。

「もーっ。お兄ちゃん、駄目でしょ! 人の話は良く聞きなさい!」

 背伸びしたお説教ぶって怒るリディアが、妙に微笑ましくて、バッツは苦笑する。
 少しだけ和やかな雰囲気を感じて、バッツはほっとした。

「ああ、悪い悪い。で、なんだって?」
「もお・・・だから、お兄ちゃんはこれからどうするの?」

 問われるまでもないことだった。
 リディアが戦うというのなら、バッツもリディアを守るために一緒に行く。
 問われるまでもない、当たり前の事だった。
 ・・・だが、バッツは、その言葉が何故か口に出すことが出来なかった。

「え・・・と・・・そうだな、俺は・・・どうしようかな・・・・・・」
「・・・お兄ちゃんも、一緒に来てくれるとリディア、嬉しいなあ」

 リディアの言葉に、バッツは自分の胸がすぅっと軽くなるのを感じた。

 リディアに必要とされている。
 そう、感じて、バッツは心が浮き立つのを感じた。

(そう・・・だよな、俺は、リディアを守らなきゃ・・・!)

 さっきまで耳の奥に鳴り響いていた、レオ=クリストフの言葉が粉々に砕け散る。
 そして、「もちろん、リディアと一緒だ」と言おうとして―――ふと、こちらを見上げるリディアの心配そうな表情に、悪戯心が生まれた。にやりと笑って。

「えーと、俺はどうしようかなー。色々あって疲れちまったし、ここらへんで故郷へ帰るのも良いかもな・・・」

 などとうそぶいてみる。

 ええ!? お兄ちゃん、行っちゃうの!? リディア、そんなのヤダぁ!

 ・・・などと、リディアが言うのを期待して。
 しかし。

「・・・そう、なんだ。お兄ちゃん、行っちゃうんだ―――寂しいね」

 少しだけ、寂しそうな顔。
 けれど、その表情にはバッツを引き留めようとする意志は伺えなかった。

「あ・・・リディア・・・?」

 一瞬で心が冷めていくのを感じながら、にやりとした笑顔に戸惑った感情をブレンドさせた、奇妙な微笑みで、呆然とリディアの名前を呼ぶ。
 だが、リディアはバッツのベッドから一歩だけ下がると、ちょこんと姿勢を正し、両手を自分の前に組んで、ぺこりとお辞儀をした。

「バッツお兄ちゃん、今までありがと! リディア、本当のお兄ちゃんが出来たみたいで嬉しかったよ」
「お、おい・・・リディア・・・?」
「本当なら、お兄ちゃんには関係ないことだったのに、ここまで危険なことに付き合ってくれて、本当にありがと」

 その言葉で、バッツの意識が凍り付く。
 蘇るのはレオの言葉。

 ―――貴公が守ろうとした者たちは、誰も貴公に守られることを望んでいない。

 そう、彼は言って、さらに

 ―――むしろ、守られるべきは貴公なのだ。

 とも言った。
 さっきのことばで、バッツは理解した。
 リディアは、バッツのことを心配してくれているのだと。これ以上、危険な目に会わせたくないのだと。

(守られるのは・・・俺の方・・・)

「じゃあ、また、逢えたらいいね―――さよならっ!」

 リディアはそう言って、それからにっこりと微笑みをバッツに向けて、部屋を走って飛び出していった。

「・・・・・・・」

 後に残されたのは、バッツただ一人だけ。
 呆然と、バッツはリディアがいた場所を呆然と見続けて―――不意に、その視界が転じる。
 ぼふっ、と枕に顔を埋めて、それからようやく力の抜けた自分の上半身がベッドに倒れ込んだのだと気づいた。

「・・・なんだよ、それ・・・」

 ぽつり、と呟く。

(守りたかった、守りたいと思った―――だってのに、俺が守りたいって思った子は守られたいと望んでなくて、逆に俺を守ろうとしている・・・)

「なんなんだよ・・・俺って―――」

 脱力感、無力感、虚無感・・・
 それらをない交ぜにした感情の中にバッツの意志が沈んでいく。
 バッツは、のろのろとした動作で、自分が顔を受け止めた枕を両腕で抱くと、改めてその枕に顔を押しつけて。

「う・・・・・く・・・・・・・うぐ・・・・・・・ぅ・・・・・・・・・・・」

 泣いた。

 

 

 

 

 それからしばらくして。
 フライヤがギルバートの具合を見るついでに、バッツの様子を伺った時には、彼は泣き疲れて眠っていた。

(なんじゃ。リディアは目が覚めたと言っておったのに―――二度寝とは太平楽なヤツじゃのう)

 心の中で毒づくと、しかしフライヤはバッツが目を覚まさないように注意して、静かに部屋を後にした。
 ぬれた枕と、バッツの顔についた涙の痕には気が付かずに―――

 

 


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