第8章「ファブール城攻防戦」
B.「ファストブレッド」
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character:セシル=ハーヴィ
location:ファブール城・食堂
人は、死ぬということを知らなければならない。
セシルを育ててくれた神父はそれを遺言として息を引き取った。
誰も知らない、遥か古代の時代に廃れた神を信ずる神父。
人と地上を見限り、天に続く塔を作り、月へと登った薄情な神の信者。彼が遺した日記の最後には、病の床から必死で書いたのだろう震える筆跡でセシルへの短い手紙がかかれてあった。
その手紙をセシルは一度しか目を通してないが、その文面は一言一句漏らさずに覚えている。
―――セシル。お前はこれからは一人だ。
だから、よく覚えておくんだ。人は、死ぬということを知らなければならない。
死はあらゆるものに確実に訪れる。しかしそれは平等ではない。
天寿を全うするもの、病に倒れるもの、事故で死んでしまうもの・・・あるいは自ら命を断つものもいる。
それらは決して、平等とは言えないと私は思う。だからこそ、私はお前に繰り返し言い聞かせてきた。
人は、死ぬということを知らなければならないと。
あらゆるものへ不平等に、しかし確実に訪れるそれを知らなければならないと。
それを知ることができたなら、お前は誰にでも優しくなれるだろうし、誰に対しても強くあれるだろう。よく心に留めておくんだ、セシル。
大切なのは死に対して負けぬことだ。
他人の死に後悔しないように、己の死に後悔しないように生きなさい。
例え人の死に涙を流しても、その死を糧にして強くなれるのが人間なのだから。だからお前は死に負けぬように、死を乗り越えて、強く強く強く生きるのだよセシル―――
目を覚ますと、そこは建物の中だった。
石造りの天井が見える。ぼんやりと寝ぼけた頭でなんとなく身を起こす。身体が酷くだるい。
周囲を見れば、ここは小さな部屋だった。仮眠部屋か何かなのか、ベッドが三つ並んでいるだけでなにもない部屋。そのうちの部屋の一番奥のベッドにセシルは寝かされていた。他の二つのベッドは空だったが、毛布が乱されてシーツには若干シワが寄り、つい先刻まで誰かが寝ていたようだった。「う・・・」
軽い眩暈がして、セシルは思わず額を抑えた。
ちょっとした酩酊感に頭がゆれる。と、「きゃああああああっ!」
女性の悲鳴が耳を貫いた。脳髄に突き刺さるような甲高い響きに、セシルは何事かと思うより先に眠っていたベッドに体を倒す。
次の瞬間には、悲鳴の主がセシルの体に覆い被さってきた。容赦のないフライングボディプレス!「ぐあっ!」
「セシルー! セシルセシルセシルー! 良かった気がついたわ良かったー♪」
「ロ、ロロロロロローザ!? ちょっと重いー」
「やだセシル、レディに重いなんて失礼だわよでも大丈夫これは幸せの重みだからー」妙なことを叫んでセシルの上でローザはばたばたと暴れる。
そのはしゃぎようは、いつもの3割増くらいの勢いだった。それほどセシルが目を覚ましたのが嬉しいらしい。付け加えれば、どうやら先ほどのは悲鳴ではなく、狂喜の奇声だったようだ。「あら、あら、朝っぱらからお盛んだねえ」
聞こえてきたのは伸びのある女性の声。よく通る、しかしややガラガラ声の女性の声に、ローザがにたりと顔を綻ばせて赤らめて、セシルの胸板に両手をついて身を起こすと、背後を振り向いた。
「いやだわそんな、奥様ったら」
「あはははははは。奥様、奥様ねえ。そんな風に呼ばれたのは初めての気がするよ。こそばゆいねえ」ローザが振り向いたそこにいたのは、黒いフライパンを手にした恰幅の良い中年の女性だった。
やや赤黒く日焼けた顔で、大きく口を開けて笑うその様はまさに豪放そのもの。炊事洗濯に長いこと使い込まれたその手は、皮膚が厚く硬く盛り上がってまるで職人の手のようだ。その手に持たれたフライパンも長いこと使い込まれて、木の柄まで真っ黒に焦げ付いている。「朝飯ができてるよ。そっちの兄ちゃんも丸一日寝込んでたんだ、腹も減ってるだろうから事がすんだら早くきなよ」
「もう、奥様ったら・・・そんなんじゃありませんわ」
「ホーリンでいいよ。どーも、その “奥様” ってのはあたしのガラじゃない見たいだ」苦笑する女性―――ホーリンにローザは「それでは」とつぶやいて、セシルの上からベッドの下へと降りると体ごと彼女に向き直る。
「ホーリンさん、ひとつ質問があるんですけど」
「なんだい? あたしはあんまり頭は良くないからね、難しいことは聞かないでおくれよ」
「いえ、そのフライパンはなんのために・・・?」ローザが視線を向けるのは、ホーリンが手にしているフライパンだった。
さっきまで厨房で料理をしていたのだろうが、ここは厨房ではない。まさかついついうっかりして持ってきてしまった、というボケキャラにも見えないけど、とローザが思っていると。「ああ、コイツは目覚まし代わりのモンでね。ウチの亭主が朝起きないときなんかは、こいつでガツン! とやると目を覚ますんだよ」
それ、一生目を覚まさない可能性はないんですか。
などと突っ込む人間はその場にはいなかった。
ローザはむしろ目を輝かせ、「まあ、すばらしいですわ!」
「もっとも、必要ないみたいだけどね」
「そうですわね。セシルは私が起こそうとするまでもなく目を覚ましましたし―――ほら、セシルいつまでベッドの上に居るの? ご飯食べないと冷めちゃう・・・・・あら?」さっきから何も言わないセシルを、ローザが振り返ると。
セシルはベッドに斜めに寝転んだまま、白目をむいて気を失っていた。よっぽどローザのお盛んな攻撃が効いたのだろう。「もう、セシルったら。二度寝なんてだらしない!」
ローザは憤慨した様子で腰に手を当ててセシルを睨み下ろす。
と、不機嫌そうな顔が好奇一色に転じると、厨房へと戻りかけていたホーリンを振り返って、「ホーリンさん、そのフライパン!」
・・・
数秒後、鈍い金属音が部屋の中に響き渡った。
セシルが目を覚ましたところは、ファブールの城の中の、衛兵たちのための仮眠所だった。
一昨日の夜、ファブールの近くまで来て気を失ったセシルは、そのまま仮眠所へと寝かされた。そして夜が明けたその日は一日中眠りこんで、今朝方目を覚ましたというわけだ。
丸一日眠り込んでいたことをローザに聞いて驚いたが、それと同時にローザのハイテンションぶりにも納得がいった。ついでに少し照れる、それほどローザはセシル=ハーヴィのことを想っていてくれるのだと。
・・・だからと言って、フライパンで強打された額の痛みが消えるわけでもないが。「それでそのコブか」
ははは、と笑いながら、朝方の顛末を聞いたヤンはフォークでセシルの額を指し示す。
城の食堂。
少し遅めの朝食を、セシルはほかの仲間と揃って取っていた。遅め、と言ってもセシルたちにとっては普通の時間帯だが、ファブールでは随分と朝が早いらしく、食堂にはセシルたち以外の姿は見えない。すでに食事を取ったあとだという。ヤンが言うにはファブールの人間は皆、日の出とともに起きて朝の鍛錬を行い、食事をとるのだと。
セシルも朝は早いほうだが、さすがに太陽と一緒に目を覚ますまでには至らない。ちなみにヤンもまたファブールの直前で倒れたが、それでも翌日にはしっかり目を覚ました。
鍛え方の違い、だとヤンは誇り、セシルは苦笑いを返したが、ローザがそれを気遣うような視線を向けたことにセシルは気がつかないフリをした。「もう、セシルったらお寝坊さんなんだから♪ ・・・でも、これからはホーリンさんに必殺技を伝授してもらったから大丈夫よ♪」
とてつもなくうれしそうにはしゃぐローザに、セシルは額がずきずきと痛むのをはっきりと感じた。
セシルの額には、傍目から見てはっきりわかるほどの大きなこぶが、赤くなって膨らんでいる。
ヤンとローザの二人の態度に、憮然とした顔で真っ赤なスープを木のスプーンで口に運ぶ。寒いファブール領内では、身体を暖かくするためか辛い味付けのものが多い。今飲んだ真っ赤なスープや、セシルたちの前に並べられた皿に乗る鳥と野菜の炒め物にも香辛料が多分に含まれていて随分と辛いが、何度かファブールを訪れたことのあるセシルにとっては食べられない辛さではない。が、まだ幼いリディアには辛いらしく、彼女が食べてるのは白い甘粥とパンだけだった。ちなみにローザとギルバートもリディアと同じメニューだ。ローザは単純に辛いものが苦手なだけだが、ギルバートは吟遊詩人としてあまり辛いものは喉を痛める、という理由。「私も昔はよくやられたものだ。だが今では家内が厨房でフライパンを手に取った瞬間に目を覚ますことができる」
なおも愉快そうに笑うヤンに、
「なんかすっごく自慢げだけど、それって実はカッコ悪いよな?」
行儀悪く皿をフォークでつついて音を奏でながらバッツが言う。その表情はにやりとした維持の悪い笑み。
よな? と話を振られたリディアは口の中の食べ物を良く噛んでから飲み込んで、「んー?」とよくわからないと言った顔をする。「・・・なにがだ? 寝ながら家内がフライパンを手に取る気配を察知するなど、世界広しと言えども私だけだと断言できるぞ」
「自分のカミさんの恐怖に屈しただけだろーが」
「なにをっ、決して私はホーリンを恐れてなどない!」ヤンが叫ぶと、厨房の方から当人が顔を出して、
「あんたっ、うるさいよ! もう少し行儀良く食べられないのかいっ」
「うっ・・・す、すまん」思わず厨房を振り返って謝るヤンに、ニタニタとバッツが声に出さずに笑う。
それをヤンはジロリとにらみ返した。「あ、わかった!」
不意に、リディアがはしゃいだ声をあげた。
なにが? とヤンから視線をそらして顔を向けるバッツに、リディアはうれしそうに、「ヤンのおじちゃんは、ホーリンさんにちょうきょうされたんだねっ」
その言葉に、ヤンはぴしりと石化魔法でもかけられたかのように固まり、バッツもまた唖然とリディアを見返す。
セシルやギルバートもぽかんとして、ただ一人ローザだけが変わらぬ態度で食事を続けていた。「・・・リディア? それももしかしてお前の母親から教わったのか?」
沈黙に静まり返った中、意を決してバッツがリディアにたずねる、
しかしリディアは「んーん」と首を横に振ると、ローザの方を見た。「ローザお姉ちゃんが昨日言ってたの」
「ローザっ!」セシルがローザに向かって怒鳴る、とバロン最凶の白魔道士は何故かうっとりとした表情でセシルを見返した。
「あぁん。セシルがそんなに力強く私の名前を呼ぶなんて!」
「妙な声を出すんじゃない! 君はまだ小さな子供にどういう言葉の使い方を教えてるんだ!?」額のコブのせいもあってか、かなり本気で怒鳴るセシルに、ローザは「えー?」と不満げに口を尖らせた。
「別に私がリディアに教えたわけじゃないわよ?」
「でもリディアは・・・」
「リディアは私がホーリンさんに質問したのを聞いただけよ」
「質問?」
「そ。どうしたらホーリンさんのように旦那を上手く調教できますかって」
「ぶーっ!!?」ローザの言葉に飲んでいたスープを吐き出したのはヤンだった。
「うわ、汚ぇ」とバッツが顔をしかめる。
そのバッツの隣ではリディアがギルバートに、「ちょうきょうって、ヘンなことなの? いけないこと?」
「んー・・・いやまあ言葉自体は妙でもなんでもないんだけどね。調教っていうのは、動物をしつけるってことで、人間相手に使うのはあまりよくないことかな」
「ふーん。でもリディアもいたずらした時、よくお母さん ”そんな風にしつけた覚えはありません!” って怒るんだよ。そういうのはちょうきょうじゃないの?」
「うん、違うね」リディアの微妙な切り返しに、しかしギルバートは顔色ひとつ変えずにすんなりと否定をする。
物語を言葉巧みに操る吟遊詩人ならではだろうか。
もしもこれが、相手がバッツやセシルだったなら返答に詰まっていただろう。「だから、他の人を調教する、とか言っちゃ駄目だよ?」
「でもローザお姉ちゃんは」
「だからローザお姉ちゃんはいけないことをしちゃったから、セシルは怒っただろう?」
「ふうん、そっか」どうやら納得したようで、リディアはうなずくと食事に戻る。
そんなギルバートとリディアのやりとりにも気がつかずに、セシルは怒りを通り越して、むしろあきれた顔でローザを見やる。なにか言おうとして、うまく言葉にできずに口をあけたまま悩み、それでもなんとか言葉を搾り出す。「君は・・・どういう質問を・・・」
「ちなみにその時の答えは “調子付いたら頭をブッ叩いて頭を冷やさせて、落ち込んでたらケツをブッ飛ばしてやる気出させる” ですって。アメとムチの極意よね。素敵だわ」完全に言葉の用法を間違えてるローザの台詞に、しかしセシルは何も言う気力がわいてこなかった。
ローザの表情がとても輝いていたからだった。なにか ”ホーリン教” とかなんとか言う信者になってしまったようだ、と言えばローザの様子がうまく伝わるだろうか。
セシルは吐息して、それから得心したようにつぶやいた。「あのさ、実は今朝からひとつ不思議に思ってたんだ」
「なにが?」
「あのホーリンさん? に対してローザの態度が普通と違ったからさ・・・・・・ようやくその理由がわかった気がするよ」
「?????」不思議そうに首をかしげるローザを放っておいて、セシルは朝食の残りにフォークを差し入れた―――