ドーン パープル


  

 プロローグ

 「また、電話するね」
 彼女の残したメモはあまりにも突然で、その”また”というのがいつなのか、さっぱり見当もつかなかった僕はただ、見覚えのある彼女の字たちを、ただ、ただ目で追っていることしかできなかった。
 ただ2つ明らかだったのは、その限りなく文面を削ったであろう他人行儀の文章からいやがおうにも漂ってくる、えり子が僕に対して、おそらく満を持して、そしておそらく相当の距離を置いたというこの行動が紛れもない本気に違いないという事実と、本当だったらえり子とぐうたら過ごしながらいつのまにか終わっているはずだった大学2年生の春休みの後半がぽかっとあいてしまった事だけだった。
 あまりに突然の出来事にあまりに呆気に取られながら、そのメモを片手に僕の部屋を見回してみるとそういえば、えり子の物が殆どなくなっていることに気づいた。きっとここ何週間かでちょっとづつ持ち帰っていたのだろうけれど、僕はその時まで全く気づかなかった。流石に色違いの歯ブラシは残っていたけれども。まあその辺の鈍さもわかった上での家出の準備だったんだろうし。
 でも、さすがにこんな風にいきなりえり子がいなくなるという不意打ちを食らうなんて僕には到底想像もつかなかった。だからえり子の行動を疑る事さえ考えも及ばなかった。そういえば、別に僕のアパートで洗ってもいいはずのシャツを「洗わなきゃ」と持って行ったのも今になればその持ち帰る過程だったんだなぁとも思えるけど、まさか出て行くスタンバイをしているなんで到底想像のどこにも置いていなかった。

 けれど、えり子という存在が突然欠けてしまった貴起の7畳の部屋はなんだかやけにいやらしい程広く感じて、なんとも一人取り残されたような気分でなんだかひどく空しく感じて、窓越しに差し込んでくる、普通にゆっくり手にとって感じてみれば貴起にも優しいはずの3月の朝日でさえ鬱陶しくて、部屋の真ん中に立ったままぶんぶんと意味もなく両手を振り回した。そして半ばやけくそでばふっ、とベッドに飛び込み、転がった。
 転がった衝撃で、はっと思い立って、がばっと起き上がって、貴起は枕もとのコードレス電話の受話器を取ってえり子の番号を回した。
 プルルルー、プルルルー、、、がちゃっ、
 繋がった音に反射的に呼びかけようとした貴起の一瞬の期待は一瞬の間の後の機械的な声に悲しく打ち消された。
「ピーという発信音の後にメッセージをどうぞ」という聞きなれた女の人の声と発信音のあとに「貴起です、電話待ってます」とだけ吹き込んだ。かなり不機嫌そうな声になってしまったけど、そんなことは気にしている状況ではなかった。

 とはいえ、受話器を置いて考えてみると、もうえり子はこの町にはいるわけないよなあ、と思えてくる。あのメモの意味はそのくらい重かった。そこまでえり子がおそらく決心して書いたメモなのだから、貴起が読んだ時にもう届かない距離にいるのは計算の上のことだったのだろう。普段は割とマイペースなえり子だけれど、何か思い立った時は「どこにそんな?」と呆れてしまうくらいの勢いを持っているのは充分貴起はわかっていた。この時間だったら始発に乗ってればもう埼玉にだって千葉にだっていられる時間だから。
 そんな事をぼんやり考えているうち、あ、そうだ、ポケベルもあるじゃん、と気が付いた。貴起はとにかくもう一度受話器を拾ってもうボタンの配列で覚えているえり子のポケベルの番号を回す。うざったいガイダンスのあとで「10662 1099(テルマツ タカキ)」と入れた。正直、返事が返ってくる期待は薄かったけど、かえって留守電よりもこういう文字のメッセージの方がいつまでもじわじわ伝わる気がしたから。そしてまた受話器を置いたあと、壁に無造作にかけられているカレンダーを見た。春休みの残りの日々がやけに長く思えた。
「今日は午後にでもオイル交換に行こうと思ってたのにな・・・」
 改めて横向きに転がって、貴起はふとつぶやいた。泣くかな?と思ったけど、やっぱり心も体もこの”同棲中の彼女が突然どこかに消えてしまった”という今の状況をイマイチ把握していないみたいで、涙は出ては来なかった。
 貴起は1つ溜息だけをついて、強引にぐっとまぶたを閉じてみた。
 まあ、そんなことをしても頭の中がぐるぐるするだけで、到底眠れないのは貴起にも分かっていたのだけれど、そこがいかんともしがたい男心とでも言おうか。なんとなくもう自分の力ではどうにもならない時にまぶたを閉じると一瞬だけは逃げ切れたような気分になるのだ。少なくとも、だけれども。
 それからしばらく目を閉じて到底興味のもてない昼過ぎのテレビの音の中で眠ろうとしたけれど、そんな時に限っていつもは気にならないアパートの廊下を他の住人が歩く音や、しまいには窓の外の鳥の声までも気になってしまって、結局眠ろうとするトライは1時間半くらいで断念した。といって起きだしてみたところで一人で片道10分のオイル交換に出かける気にもならず、なんとなくプレステの電源を入れて行き詰まっていたRPGをやってみたけど、多少の進展も経験値もつまらないだけで、セーブするまでもなく電源を切った。
 そして、再びベッドに寝っ転がって、やっぱりえり子のことを考えた。

 僕、貴起-西場貴起-も彼女、えり子-坂橋えり子-も神奈川県にある陽光大学の文学部の2年生(春休みが明けたら3年生)だ。学科は違うが、所属したサークルが一緒で、サークルの皆で遊んでいる中でいつしか意気投合し、しかもお互いの気持ちも通じて1年生の冬から貴起のアパートでほぼ同棲に近い生活をしていた。もちろんお互いの授業も友達もバイトもあるから四六時中一緒というわけではなかったし、むしろ大学にいる時はほとんど会っても口をきかなかった。というより、お互いの一日の予定が終わればそれから朝までは貴起の部屋で一緒に過ごすのだから別に大学に来てまでしゃべる必要もないよね、というお互いの暗黙ルールができていたのだ。別にのろけるつもりもないが、結構僕らはなかよしだった。人前では決してしなかったけれど、ホントは自慢できるくらいキスはしていた。
 2人の所属するサークルのセンパイから10万円という破格の値段で譲ってもらった、でも10万円はちょっとだけ安い買い物だった貴起の傷だらけの愛車『フェレット』の助手席にえり子が乗って大学に行くという光景も、付き合いだした当初は特に貴起の友達連中にさんざん冷やかされもしたが、さすがにそんな日々が1年も続いたらいつのまにやらそれも当たり前の風景となっていた。時々お互い予定のない日は一緒にフェレットで帰ったし、そこに貴起やえり子の友達が同乗することもあった。彼らを送るだけの時もあったし、そのまま遊びに行く事もあった。若さに任せる周りの友達ほど遠出はしなかったけど、別にそれは二人のスタイルだったし、なんにもしない休日を二人とも愛していた。元がなまけものであるだけに。痴話げんかは多かったけど、それも仲のいい証拠だろうし、事実、ケンカを重ねるたびに二人は仲良くなっていった。と少なくとも貴起は思っていた。口には出さなかったけど。えり子もそうだろうと思っていたけど、さすがにこんなことがあるとちょっとだけ疑ってしまうけれど。

 そんな、大学生なりにささやかな幸せがこんなにあっさりと、まるできれいに足払いを食らったかのように突然見えなくなった。もちろんもうすぐ新学年の始まりなんだから普通に考えればそれまでには戻ってきそうなものだったが、どうも貴起にはそうは思えなかった。あのメモはそんなに軽いものだとは思えなかったのだ。
「今は、待つのみか。」
 そう天井につぶやいて、貴起はベッドの中で軽く伸びをした。

 しかし、実は貴起はひとつここで失敗をしていた。本当はメモを見てすぐ追いかければえり子には追いつけたのだ。
 でも、そうやって一度タイミングを逃がしてしまうと、それを取り戻すのはかなり難しい。それを貴起はこれからしばらくの時間をかけて思い知ることになるのだ。

第一章:日々 へ


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