ドーン パープル


   

 1 日々

 いつもの景色というのは、とりあえずほっとするものだ。
 貴起はいつものテーブルの丸イスに座ってゆっくりと天丼を食べていた。ここは陽光大学の昼の社交場こと学食の一番隅にあるいくつかの丸テーブルの1つ、それも一番窓際の一番日当たりのいい席だ。広いのと働くおばちゃん達の平均年齢の高さだけが取り得のその学食の中はずらーっと長い白テーブルとちょっと豪華なパイプ椅子が並んでいるのだが、いつも貴起が一緒にランチタイムを過ごす仲間たちには、いや無論貴起にもその”ありふれた”長テーブルより、いわば少数派の丸テーブルの方がお気に召した、というわけ。割と個性派の揃った貴起たちはそのテーブルを自分達の指定席のように思い込んでしまうくらいにいつも昼休みを、ともすれば授業中もそこで過ごしていた。実際の話、入学したての最初のうちはこの丸テーブルの早取り合戦もあり、他の集団に先にテーブルを押えられた日にはみんななんとなくムッとしたりしながら他の席で食べたりしたものだったが、いつしかその丸テーブルは貴起たちの半指定席だというのがなんとなく周知されたのか、ほぼ毎日貴起たちはそこに座れるようになった。
 ところで、貴起が貴起なりにゆっくり天丼を食べているのには一応理由がある。午前中の講義が終わって10分経つ12時20分にでもなれば、午後の講義が始まるまでのひとときの歓談タイムをここで過ごす学生達でごった返すここ学食もまだ2限の授業中とあって、ところどころで多分授業をサボったか休講の時間を持て余しているであろう連中の笑い声がまばらに聞こえるくらいで静かなもの。厨房のおばちゃん達もこれからの忙しい時間に備えてご飯を食べているようで、世間話らしきものが聞こえてきていた。
 そんな中の貴起はというと、実際かなり時間を持て余していた。本当は午後から来れば良かった時間割だったんだけど、「2限出なきゃいけないから乗せてって」という強いお願い、というより半分は命令と共にえり子に布団をはがされたのだ。しかも急がないと間に合わないというギリギリの時間に。
「ふああ、わかったわかった。一瞬で準備するから」
と言いながら私服を着て、寝癖を直す時間はなさそうだったので帽子をかぶせた。えり子はといえば当然貴起を起こしたときには化粧も支度も終わっていてもう既に玄関に座ってブーツを履き始めていた。
「あと5分早く起こしてくれてもいいのにさー」
必要最低限のテキストが入ったショルダーバッグを肩にかけながら貴起が言う。
「だって相当気持ちよさそうだったんだもん。起こすのもったいなくって」
なんかその言葉の裏から漂ってくる何とも幸せな空気にふふっと嬉しくなった貴起は思わずブーツのひもを手際よく結びあげているえり子に後ろからくっついて、ほっぺでこっちを向かせ、その勢いでキスをしたものの、
「ほらタカキ、クチベニ付くって」
「うげっ」
ちょうど靴箱の上にあったティッシュで唇をぬぐう。
「へっへー。今日のヤツは落ちないやつだからつかないんだよーん」
言うが早いかえり子はガチャっとドアを開けてアパートの廊下を歩き出す。
「うきゅー。やられた。もう、僕の脳みそはまだしばらくおやすみ中なんだからからかうなよなー」
人差し指と中指で唇を触りながら、貴起は言って、部屋の鍵をかけてえり子の後を追った。貴起の愛車がいつも停めてある、アパートから一軒だけ挟んだ所にある砂利の駐車場に着くと、たぶん小走りで駐車場に行ったのであろうえり子は昼前の暖まってきた空気を浴びるように太陽に向かってぎゅーっと伸びをして、
「遅いぞノウミソ。2限のセンセイは5分遅れると出席を認めてくれないんだからさー」
「選手センセイ?」
「・・・。石ぶつけていい?」
「勘弁ベンゾーさんだね。でもこの時間なら余裕でしょ」
「ノート買ってかなきゃならないんだよー」
「マジ?」
「そなの、終わってたの忘れてたんだ」
 話しながら、愛車フェレットはエンジンがかかり、二人はシートベルトをしつつ、車は駐車場からガタガタと動き出した。そしてちょっと急ぎながら途中のコンビニに寄り、なんとか2時限目の10分前には大学の駐車場に到着した。
「ナイスワーク、ありがと、タカキ。今日は何限までだっけ?」
「3限だけ。でも夕方ミーティングあるじゃん」
「そっかそっか。じゃあミーティングでね」
 そういってえり子はサクサクと講義に向かう人たちに紛れて講義棟の中に入っていった。そして一人になった貴起はというととりあえず休講に期待して掲示板を見たけど、残念ながら今日の講義はありそうだった。
 知り合いでも歩いてれば誰かつかまえて3限までパチンコにでも行くんだけどなあ。と心の中につぶやきつつ、貴起は学食にやってきたのだった。でも見知った友人の顔は見当たらない。きっとみんな授業に出ているか、余裕で家で寝ているかのどっちかなんだろう。まあ大概は後者なのだが。貴起も含め。
 そんなわけでランチタイム出勤組は貴起周辺には多くいるので、さすがにもうぼちぼち誰か“出勤”して来るだろう、と覚悟を決めてなんとなく「僕らの席」になっている学食の隅っこの例の丸テーブルをバッグを放り投げて確保し、それでも誰かいないかなあとキョロキョロしながら食券を買いに行ったが、そういうヒマつぶしを求める時に限って対象は見つからないもので、競馬の雑誌を自分の前の白いテーブルに広げながらサンドイッチをかじるちょっと苦手なセンパイしか見つからず、一応会釈だけしてレジに行っていつもの天丼の食券を買ったのだ。この天丼が230円という貧乏学生にはぴったりの値段設定で、またその具も衣の方が厚いイカ天と衣の方が厚いかきあげという値段どおりのチープなもの。でもそこにかけられるタレの味が好きで貴起はいつもその230円の天丼を食べていた。「よく飽きませんね」と本気で不思議そうに聞いてくる後輩もいたけれど、気に入ったものに飽きるっていう感覚は貴起にはあまりなかった。

 ゆっくり食べても量が限りある天丼を食べ終わってしまい、ヒマだから誰か来るまで一眠りしようかなー。と貴起が大げさなあくびをしながら窓の外を見ると、見たことある革のギターケースが近づいてきた。いや正確にはギターケースを担いだ男が近づいてきた。その男はこのテーブルの常連の1人、原健太だった。健太はややガニ股の独特な歩き方で学食のドアを開け、貴起の方に歩いてきた。
「おっす、ケンケン」
「おーっす。ニシ、今日はえーじゃん。でも今ってあの超アンパイな中畑の授業だよなー?まさかオマエ出て・・・ねー・・よなー?」
 ギターケース(とはいっても中身はベースギターなんだけど)を下ろし、手際よく椅子にかけて転ばないようにしてから貴起の向かいの回転椅子に腰掛け、耳が隠れるくらいの長めの髪をサラサラさせながら、いつものちょっとスローテンポな話し方で健太はいきなり問い掛けてきた。ちなみに「アンパイ」というのは学生のスラングで、出席しなくてもテストかレポートで単位を取れてしまう楽勝な授業のこと。どうやら麻雀の「安全牌」が由来らしいと聞いたことがある。
「アホかい。あの仏の中畑だよ?出るわけないじゃん。出席取るわけでもないし。出るくらいなら家でぼんやり3分クッキングでも見てるって。今日はおいらアッシーだったからね」
「ああ、なんて言ったっけ。ニシの彼女って?」
「えり子?」
「そーそー。えり子ちゃんを送ってきたのかー。でもアッシーって、オマエいつの時代だよ?」
「・・・ん?六本木全盛期」
「あったのかよ、そんな時代?・・・あー、それで、その寝癖なのね?」
 ニヤッと笑いながら貴起の頭を見る健太。はっと貴起が頭に手をやると、うっかり普段はない高さにも髪の毛の感触がある。そういえば帽子は椅子の上に脱ぎっぱなしだった。どうやら家から学食までの40分足らずでの帽子での強制プレスでは足りず、寝癖はまったく収まらなかったらしい。
「あれー。おいらこれでさっき学食の中歩き回ったのかー」
「けけけ、ちょっとそのサイヤ人みたいな寝癖触らせてくれよー」
「やーだーねーーーー」
「叫ぶなっちゅーの、しかもな・・・イーストエンドだっけ??」
「いや、むしろクロスユリで。で、ケンケン今日は何食べんの?」
「A定かなあ。天気もなかなかいいし」
「ゴージャスじゃん。A定食かい。520円ナリだな。でもなかなかいい天気ってなんだよ?」
「洗濯物が干せるレベルの天気ってことなの。オレ的には」
「ぷぷぷ。やっぱケンケンはいつも庶民的だねー。パンツ外に干すと盗まれるぞ」
「ばーか。盗まれてもいいヤツしか外には干さねーの。常識」
「??。それってモロ女の子の防衛策じゃんか。ていうかあんまり外には干さないか。でも、・・・ってことはケンケン勝負パンツとか持ってる?」
「ばーか。嘘に決まってるじゃん。そんなの信じるなよ。それに俺んち3階じゃねーか」
「なんだよ−」
 そんなあまりに取るに足らない会話で盛り上がる二人の後ろからもう1人の常連が現れた。彼は二人が全く自分の登場に気付いてない事を知り、ちょっと大き目の声で二人に呼びかけた。
「おーい、ばーかーーー」
 反射的に、
「・・んっ?」
「・・・むっ?」
 と二人そろって声の方を振り返る。そこで楽しそうにニヤついているのは貴起の親友、網谷篤教だった。
 篤教は「ザマアミロ、バカヤロー」とほっぺに書いてあるくらいのいやらしい笑みを浮かべながら、
「今、『ば〜か』としか呼んでないのに、二人揃って振り向くなんて、オマエラ自分でバカさを認めてるよ。ばーか」
「るっせーなー」
 と、貴起と健太はほぼハモりながら2人で言い返したものの、やられっぱなしでは済まさない。貴起がちょっとムキになって切り返す。
「じゃ、アミー。”ピザ”って10回言ってみろよ。」
「はあ、いつの時代のハヤリだよ。まあいいや、ピザピザピザピザ・・・ピザ」
「旅行に持っていくのは?」
「ばーか、パスポート。ひっかからねえよ」
 その答えを聞いて貴起は満面の笑みを浮かべ、
「海外旅行とは言ってないよーん」
 途端に篤教の顔がちょっとだけ紅潮する。
「・・・あ。きったねー。ちーくしょー、覚えてなさいよー」
「ははっ、ニシやるじゃんー。ところでアミー、今日は中畑ちゃん出席取ったぞー」
 篤教、更に紅潮。
「マジ?ケンケン出たのー?」
「まー、たまたまだけどね。この前中畑ちゃんが『次回は出席取ります』って言ってたって噂聞いたからさー」
「ま、まっさか、ニシも出たとか?」
「あったりまえじゃん。だから学食でケンケンとイチャイチャしてるんじゃん」
「えー、かなりショック。単位落としたらどうしよー。もう一年追加なんてかったりーよー。」
 本気で焦りだした篤教を確認してから健太が笑いながら、
「・・・嘘。」
 これで篤教も緩む。とたんに切り返し。
「やっぱな、オマエラが揃って講義出たりなんかしたら地球滅びちゃうもんなー。」
 今度は貴起が紅潮する。でも紅潮ついでに篤教から逸らした視線の先に見慣れたヤツがいた。
「お前なあ。・・・あ、ヒガシだ。」
 貴起につられて二人も目をやると、ジャージを着て、白いバッグを肩から斜めにぶら下げた1メーター90の長身のせっかちな短髪の男が早足でずかずかと学食の通路を近づいてきた。奴は途中ですれ違いざまに会釈をしてきた後輩らしき男の子のお盆の上に乗っていた定食の味噌汁を奪い取って一気に飲み干し、空いた器をまたお盆に乗せ、「ヒガシカマさ〜ん」という悲しげなその男の子の声を背中に受けながら丸テーブルの所にやってきて、篤教の隣の椅子に腰掛けた。このテーブルの常連、東釜尭だ。
「ちゅーっす」
「おいヒガシ、オマエあんま後輩いじめんなよー」
 3人を代表してぶつけた篤教の問いかけを、まるで「なんでそないなこと聞くのか分からへん」とでも言うように聞き流し、ぶすっとして尭は一言、
「るっさい。今日は腹の居所が悪いんや。」
 一瞬は機嫌悪いの?と思わされかけた3人も、その言わんとするところが分かり、それぞれニヤリと尭を見た。そして健太が、
「なんかまた変なモン食ったんだろー?」
「またって何や。朝からおかしいねん。腹触ったら出るかも知れへんから触らんといてね」
「そう言うヤツがミソ汁一気すんなよ。でもヒガシぃ、そんな一触即発だったらトイレ行けって。ただでさえ今夜はカレーな気分なんだからさー」
「うー。妙な汗出てきた。今のうちいっとこか」
「いっとこハム太郎?」
「・・・殺していい?」
「・・・てか早く行ってこいって」
「じゃな」
 言うが早いか尭はトイレのほうに向かう。かと思えば途中でさっきの後輩を見つけ、飲みかけのジュースを奪い取ってそのまま飲みながら歩いていった。その光景を貴起たちは笑いながら見ていた。
「でもヒガちゃん、余裕かましてるけど歩き方変だよねー」
「なんかぎくしゃくしてるぞ、いつもながらせっかちだけど」
「結構真剣にリーチかかってんじゃないの?間に合わなかったりしてな」
「うそー。ハタチにして既にヨゴレの称号をゲットしちゃうの?」
「萩原ヨゴレ?」
「うはは、萩原ヨゴレ!それおもろいよおっさん。」
「ははは、オマエにしちゃあ上出来やね。ところでアミーさん、そろそろ食券買いに行こうよー」
「おー」
 早速席を立った篤教と健太は少しして、示し合わせたようにラーメンをお盆に乗せて「マネすんなよー」「オメーこそカレーって言ってたじゃねえか」とこづき合いながら丸テーブルに戻ってきた。そして戻ってきたが早いかズルズル食べ始める。とはいえ食べ始めるとおとなしくなるのが人間の常。黙々とラーメンをすする二人につられてなんとなく黙った貴起も二人の口に流れ込んでいく麺やなるとやメンマたちを頬づえをついて眺めていたが、不意に
「タカキさーん。」
 と、これまたジャージを着た貴起のサークルの後輩、石川進夢が歩いてきた。結構上背はあるのに、いつも頼りなさそうに歩くのでそんなに身長があるようには見えない進夢だったが、今日はなんか青白い顔をしている。進夢は一応篤教と健太に会釈をして、さっき一瞬尭が座った椅子に軽く座った。
「ススム、オマエなんでそんなに顔色悪いの?」
「えっ、やっぱわかりますー?タカキさん聞いてくださいよー。東釜さんひどいんですよ。昨日の夜、部屋でテレビ見ながらぼちぼち寝ようかなって思ってたらいきなり東釜さんが来て、『サークルK行こうぜ!』って言うんですよー。」
 進夢は貴起と同じスキーのサークルに入っているが、尭ともバイト先が一緒で、しかも尭とはお互いのアパートが近いこともあって結構可愛がられていた。
「別に普通じゃん、サークルKってススムんちの目の前にあんじゃん。」
 なーんだ、ヒガシのことだからまたススムをいじめたのかと思ったのになー、つまんねえのー、とちょっと失望してそう返した貴起に、ふう、と溜息を1つついてみせてから進夢は続けた。
「普通はそう思いますよね?でもそのまま東釜さんの車に乗せられて、静岡県まで連れてかれたんすよー!静岡県」
 なんか面白そうな展開にいつしか篤教と健太も興味シンシンで聞いている。
「マジでー?高速使ってかー?」
「いえ、行きは4時間ずっと下道です。ちょっと助手席でうとうとするといきなりサザンがボリュームマックスになるんですもん。参りましたよ。ふあぁ〜〜」
と、地の底から湧いたようなあくび。瞳に涙。ちょっとかわいい。
「でもなんでまた静岡なの?」
「・・・なんか東釜さんが昨日立ち読みした雑誌に載ってたらしいんですよ、なんか地方のカワイイ店員さん特集とかで。だからその子が今日仕事かどうかも分からないのに朝方にそのサークルKに着いてからしばらく駐車場で待ってたんですよー」
「はははは、モロ怪しい二人じゃん。それでその子には会えたんか?」
「それが全然現れる気配もなくて、あきらめて帰ってきました」
「意味ないじゃん。さっすが小心ヒガちゃんず。アレ?・・・ってことは帰ってきたのは?」
「ふあぁ。今ですよ。今さっき。大学の駐車場にダイレクトに」
「はははは、見事にラチられたな」
「参りましたよー。たまたま今日の2限が休講で助かりましたけど、もし授業があって休んでたらアウトだったんですよー。もう何回か休んでるんで。今学科の友達に聞いてほっとしたんですけど、帰り道は気が気じゃなかったんですよー。東釜さんもさすがに帰りは高速使って飛ばしてくれたんですけど、『人間なんて一度くらい留年しておいた方がビッグになれるんや』なんて本気で真顔で言うんですよー。東釜さんはおととい30時間ぶっ続けで寝たらしいんで眠気のカケラもなさそうでしたけどね。僕はしんどいっすよー」
「ま、結果良かったじゃん」
 なんていう貴起と進夢の会話を聞きながら、そういえば昨日の帰りがけに尭が掲示板を見ながら『ふーん、アイツ明日午前中休みかー』なんてつぶやいてたなあと篤教は思い出していた。意外とあいつ小心者なとこあるんだよねー。図体デカいのにねー。なんて心の中でつぶやいてみる。
「・・・で、タカキさん達はこれから授業なんすか?」
 昨日寝かせてもらえなかったはずのオマエの眠気はどこいったの?というくらい興奮してまくし立てていた進夢もある程度話し終えて落ち着いたのか、ふと我に返った感じでいきなり問い掛けてきた。質問は3人に向けられたものだったけど、実際進夢と篤教、健太は顔見知り程度なので、必然的に代表して貴起が答えることになる。
「おう。出ちゃうぜ出ちゃうぜー。ヒガシもみんな一緒だよ」
「・・・そんなニヤけながら言わないで下さいよー。でも珍しいっすね。タカキさんと東釜さんが一緒に授業出るなんて、相当厳しい授業なんすかー?」
「普段はそうでもないからあんま出ないんだけどさー、たまに小テストやるんだよね。最近教授が『そろそろやるぞ』って匂わせたという噂をそれぞれにかぎつけたのよ」
「さすがっすねー。なんか。・・・あ、やべ、オレちょっとメシ買ってきますね」
 ちらっと時計を見て、3限の時間が迫ってきたのに気付いた進夢が食券を買いに走る。さすがにこの時間だともう食券売り場の前にも人の列はないみたいだ。

 ガラス越しに少し早い夏を思わせる陽を受けたテーブルの上には天丼とラーメンの空き食器。そしてそれぞれの前にそれぞれのタバコ箱とそれぞれのライター。白いテーブルの上に伸びるそれらの影を見るでもなく、とはいえ見ないでもなく、貴起、篤教、健太の3人はそれぞれに目を細めながら食後の一服を楽しんでいたが、突然篤教のくわえていたタバコが横から細い指でひゅっと奪われ、近くの灰皿に押し付けられて「じゅっ」と鎮火された。
「なにすんだオメー。あれ、マユタン」
 てっきりトイレから戻ってきた尭の犯行だと思って反射的に不機嫌な顔で振り返った篤教の後ろに立っているのは同じ学科の女の子、マユミちゃんだった。マユミちゃんはメチャ可愛いわけではないが、いつも笑顔でいるので「あの笑顔はいいよねー」と貴起達の話題にも時々上っている子だ。シャツの白い襟が健康的な色気を漂わせるマユミちゃんは一緒にご飯を食べていたらしい女の子に「またねー」と丁寧に手を振って見送ってから改めて篤教のほうに向き直った。
「網谷くん。タバコはあんまり吸っちゃダメだって言ったじゃん」
 でも篤教は殆ど吸っていないタバコを消されたことにちょっとぶすっとして、
「でっけーお世話だっちゅーの。あーあ、俺のマイセーン」
「まあ、いいじゃん。ねー、それより網谷くん。ちょっと私に付き合ってくれない?」
「何で?」
「ドライブー♪」
「えー、かったりーよ」
「なんでよー。イエローハット行きたいんだけどー」
 あれ?と思ってそこで健太が口を挟む。 
「ねえマユミちゃん。3限は?」
「あれ、ケンタくん聞いてなかった?林田先生、小テストはもうやらないことにしたって先週の講義の最後に言ってたじゃん。だから今週はワタシもサボタージュ」
 それを聞いて思わず3人の顔がほころぶ。
「ラーーーーッキーーー!」
「え?え?まさか3人とも知らなかったの?あ、そうか。先週出てたの網谷くんだけだもんね。でも網谷くんは出てたのになんで知らないの?」
「たぶん寝てた」
「あはは。それでも網谷くんは出るだけ出てるからまだ偉いよね」
「でもサンキュー、マユミちゃん。おかげで今日も昼寝できる」
「あはは。西場君っていつも寝てるね。ねーねー網谷くーん。ドライブー。行こうよー」
「えー、俺も家帰ってニシと寝るー」
 ここで少し悪乗り。当然ニヤッと便乗する貴起。
「ぽっ。シャワーは浴びさせて頂戴な」
 頬に両手のひらを当てて演出する貴起の鼻をちょんっと人差し指の先で小突く篤教。
「ばか、そんなに待てねえん・だ・よ」
「あーんっ」
 この二人のこんなからみはいつものことだけれど、それでもやっぱりチャカされた形になったマユミちゃんはちょっと表情がキツくなって、
「もーぅ。私も車乗り始めたばっかりだから誰か乗ってくれないと不安なの。ねえ、無事に芳香剤買えたらなんかおごるからー、おねがいーアッキョウくーん」
 粘るマユミちゃんに面倒くさがりだが根は優しい篤教も折れ、
「わーった。100%オレンジね。でもその呼び方はやめてくれ」
「はいはい、意外と安いんだね。じゃー行こうよ」
「しゃあねえなー。あーマユタン、ちょっと待ってて。食器かたしてくる」
 やっとこ折れた篤教はラーメンの空き容器をお盆に乗せて席を立った。その隙に健太が口を挟む。
「でもマユミちゃん、アイツ乗せても限りなく頼りないぜ。ここだけの話だけど、なんせ仮免4回落ちた男だからなー」
 ここだけの話といった割にはむしろ段々声のボリュームが大きくなった健太のチクりに思わずマユミちゃんもぷっと吹き出す。
「あははっ、こんな私でさえ一発で通ったのにねー。でもむしろそんな網谷くんが乗ってくれれば気楽じゃん」
「ははは、それも言える」
 食器を片付け、戻ってきながらマユミちゃんのセリフの最後の方が聞こえたらしく、大体話の見当がついた篤教がまた健太をこづく。
「・・・オイケンケン、オマエなんかしょーもないこと言ってただろー。ってマユタン行こうぜ。じゃあな、バカども」
「何も言ってねえよ。どっかのオバカちゃんが仮免20回落ちたなんて。じゃあなー、マユミちゃん気をつけてねー。このカリメンにはハンドル握らせちゃダメだよー。」
「たった4回だっつうの!・・・じゃ行ってくるわ。ニシ、後で夜這いするからシャワーは浴びないで待ってろよ。じゃーなー」
「あはは、ばいばーい西場君、健太君。またねー」
「焦らさないで早く来てね。カリメーン」
「ホント気をつけてね、マユミちゃん」
 マユミちゃんは地元っ子で、実家は大学から頑張れば歩いてでも行けるくらいの所にある。一年生のうちは晴れてる日は自転車で来たり、雨の日は親が送り迎えをしてくれたりだったけど、さすがに年頃の娘が飲み会なんかで遅くなって自転車で帰るのも、とマユミちゃんの親も思ったんだろう。一年生が終わっての春休みに免許を取ったマユミちゃんはつい2週間くらい前からOLをしているお姉さんの”お下がり”だという軽自動車に乗り始めた。だから今は運転したくてしょうがない時期なんだろう。マユミちゃんは今にもぴょんぴょん跳ねてしまいそうなうなくらいに足取りも軽くて、横でだるそうに歩く篤教のかわいいドクロマークの入った長袖のTシャツの袖を半ば引っ張るように学食から出ていく。ガラス戸の外の暖かい陽射しの中に出た途端、篤教はまたタバコを取り出して火をつけていた。その肩をきっとまた一言言いながらマユミちゃんがぱしんと叩いている。
 健太と貴起はその光景を椅子に深くもたれ座ってガラス越しに眺めていたが、ふと
「そういえば、なんでアミーだけ誘われたんだろ?」
 と健太がぽつりと言う。
「だってさあ・・」
 貴起が切り出そうとしたら、やっと用が済んだらしい尭が戻って来て隣の椅子にどすっと座り、しゃべりかけた貴起の言葉はタイミングを失って消えていった。かなり苦戦したらしく額に油っぽい汗をにじませて心なしか息も荒い尭がまた会話に加わってくる。
「何がやっちゅうねん、あのトイレ。まったく足疲れたで。ところでアイツはマユタン連れてどこ行ったん?」
 実は3限の小テストがさー、という説明を軽くしてから貴起が続ける。
「ドライブだってさ。マユミちゃんイエローハットで芳香剤買うんだって。でもさあ、俺ら3人きちんといたのに誘われたのってアミーひとりだけだぜー。マユミちゃんもある意味露骨だよね」
「そんなんいつものことやん。ことアイツのフェロモンに関しては」
「まーねー。アイツ季節関係なくぷんぷんさせてるからなー。あーあー、マユミちゃんもヤツの餌食になっちゃうのかなあ」
「あのでかいののなー」
「歯磨き粉のチューブくらいあるって自分で言うてたからなあ。一瞬オレ目ぇまん丸うなったで。そんなんでかすぎやっちゅうねん」
「通常時でね」
 尭と健太がぶっと吹き出す。
「がはは、腹痛い。でも流石にそれはないやろ。通常時にそんなんやったら立っちゃったらアフリカの民族のトンガリケースがいるやん」
「いや、ケースもパックリ割れるって」
「まーアミーは赤道直下並みの黒さだからなー」
「確かアフリカンとアフリカンのハーフやろ?アイツ」
「さすがアフリカンスケール。真ん中の足は百獣の王だもんなー。アイツ」
「たく、俺天を恨みてえよ、あんなヤツに二物も与えんなよって。」
 負け犬達の罪のない矛先が篤教に向かう。でも実際篤教はフェロモン言われるくらい、放っておいても女の子が寄ってくるタイプの人間だった。なぜか?と聞かれても仲のいい貴起たちにも今のところそれはわからなかったが。でもとにかく、なんとなくモテてしまうのがヤツの業だった。
「おいヒガシカマー」
「あ、浅井さん、ちわーっす」
 今度の声の主は尭の部活の先輩であり、バイトの先輩であり、アパートの先輩である3年生の浅井さんだった。バスケ部で副キャプテンをしていることもあって尭と身長はそんなに変わらない。淡い茶髪の角刈りがやさしい顔にマッチしている。さすがに時々神をも恐れぬような発言をして周囲をドキドキさせてくれる尭も基本的には体育会系畑の人間なのでこれだけいくつもの領域での先輩でいる浅井さんに対してはすっかり後輩でいた。
「オマエこれからヒマ?」
「今からっすか。バリバリヒマっすよ。授業空いたんで」
「そうか、じゃ、体育館行かん?」
「筋トレっすか?行きます行きます!最近サボり気味だったんすよー」
「よっしゃ、行くか」
「ういっす!このビールっ腹もどきが何がやっちゅうねんって感じっすから」
 そう決まるが早いか二人は立ち上がってガシガシ歩き出した。と、尭がふと振り返り、
「あ、悪い、俺のジュースの缶捨てといて。飲んでもええけどなー、空だけど」
 それに便乗したのか浅井さんも一言、
「あとキミラ、あんまりニコチン吸ってると網谷みたいに顔まで黒くなっちゃうよー」
 貴起と健太はニヤけながら、それぞれ”了解”と尭にサインを送りつつ、浅井さんにも「あーい」と合図で返した。
「さあ俺らはどうしよっか?」
「うーん、どっか俺の車で出かける?」
「じゃあさー、」
 何か言おうとした健太だったが、ちょうど戻って来た進夢にタイミングを奪われてしまった。
「あれー、東釜さんと網谷さんはどうしたんすか?」
「ヒガシはオマエをいじめ疲れて行っちゃったし、アミーは逆ナンされてしけこんじゃった。・・・んっ?」
 急に太ももに刺激。貴起のポケットの中のポケベルがブルブル震えたのだ。取り出してみると画面には”7777”の表示。
「おーいニーシー」
 ちょっと離れた所から聞こえる健太の声に貴起が視線を上げると、学食の中に設置してある公衆電話の前で健太がニヤッと笑って立っていた。
「だからさー、オマエ7が一個多いっての!」
 そう言いながらも帽子をかぶり直し、バッグを持って立ち上がり、歩き出す貴起。健太を軽く小突いてから出口に向かいかけて、
「あ、悪いススム、食器片付けといてー。今度ジュースおごるわ」
 二人の到底授業に出る時には見られない軽い足取りは、いつもながらの光景とはいえ「やっぱりねー」と少しあきれながら見ていた進夢はそれでも「ポンジュースでー」と軽く返して二人を見送り、食器をまとめ始めた。
「・・・結局、あのヒト達、何しに学食来たんだろう?」


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