伝統工芸品 信州辰野町 「龍渓硯」 本文へジャンプRyuukei Ink Stone
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 硯 工 房  清  泉  堂


龍渓硯の歴史

江戸時代、上島村(現、辰野町渡戸、上島地区)の農民が鍋倉沢で砥石を掘って作間稼ぎをしておりましたが、砥石になる石は少なく、掘れば掘るほど黒い石ばかりでありました。文政十一年(1828)横川、一ノ瀬村に医を開業するかたわら寺子屋式に学問を授け書道をたしなんでいた淵井椿斎が、この鍋倉山に露出している粘板岩に目をつけ硯を作って使用してみますと、墨のおりがよかったので、村人たちに硯作りをすすめました。
 その頃高遠藩では財政困難を立て直そうと色々な施策を実施した中で産物会所が創設されました。高遠藩はこの鍋倉山の石に注目し、御留山としてすべての硯石を産物会所へ取り入れ、硯作りの先進地である甲州鰍沢鬼島雨畑硯の産地から硯工を招いて硯作りの技術指導をさせました。買い上げた硯は大名などへの贈り物とされ民間に流伝することなく、一時は秘硯といわれた時代もありましたが、その後江戸や大阪など領外へ「高遠硯」、「伊那硯」、「鍋倉硯」として販売されるようになりました。硯石は渡戸鍋倉山の他上島村穴倉山からも掘らせ渡戸、上島、宮所、雨沢等で七十余名の硯工によって年産二千面を作硯していたようです。
 しかし明治時代になってから鉛筆・ペン・万年筆などの普及により硯の使用が少なくなり次第に衰えましたが、昭和になり硯が見直されると需要が増し、今村や渡戸では再び硯屋さんのいる村となりました。この中に甲州からやってきた初代の秀石もいたのです。


龍渓硯の由来

昭和十年、当時の長野県知事大村清一氏によって「龍渓石」と命名され、この石で作った硯を「龍渓硯」と呼んでいます。尚、「龍渓」の名称の由来につきましては、天龍川水系で産出するということで「龍」の一字を冠したのですが、「渓」につきましては天龍川水系の横川川の渓流、あるいは渓谷美の素晴らしさから「渓」をつけたという説と、中国広東省の古来有名な硯石の産地端渓で硯が製作され、広く世界で愛用されていることに因んで「渓」の字を頂いて命名されたという説があります。後、昭和62年に長野県知事指定伝統的工芸品に指定されました。


清泉堂の歴史

初代秀石こと深澤直は、甲州鰍沢鬼島雨畑硯の産地で生まれ、青少年時代は石工に従事していました。昭和五年頃甲府市にて石工から製硯修行に入りましたが、この頃すでに雨畑石は採石下降状態にあり、長野県辰野町から産出される硯石に目をつけ、一人又一人と硯工が上信を始めました。初代秀石もその一人だったのです。
 昭和十年初代秀石は、「清泉堂 深澤秀石」と命名創業しました。当時の書道大家月出東山先生も石工技術を生かした作硯に歓待し、為書は今も工房で輝いています。
 昭和四十年初代秀石の次男文雄が二代目秀石を襲名しましたが、当時はこの道には必ずやってくる採石不能時だったのです。鍋倉山の粘板岩は複雑にして変化の激しい地層で、新層発見に実に十三年もの歳月を費やしました。しかし二代目秀石は優れた作硯技術とデザインで平成元年には日本工芸会正会員に、同年新技術により、「鍋倉漆象嵌硯」、平成二年には新層より採石した「鍋倉水巖硯」を発表しました。又、これらの功績が認められ、平成六年には卓越技能者長野県知事表彰(信州の名工)を受賞平成十年には卓越技能者労働大臣表彰(現代の名工)を受賞しています。
 平成六年二代目秀石の長男秀教が三代目秀石を襲名、二代目秀石は「淡齋」と改名し現在に至っています。


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