恩返し上
「なぁ、軫宿」
「なんだ、翼宿」
ときは第一部、七星士があと鬼宿ひとりさえ帰館すれば揃うぞというとき、彼は心宿の策略に堕ち、心を操られてしまっていた。
翼宿は美朱の夢を壊し、腕を砕き、心に大きな傷を与えた鬼宿が許せなかった。
鬼宿と戦い、美朱たちを守り抜いた彼だったが、その傷はそうとう重症で、軫宿があきれ返るほどだった。
軫宿は先に美朱の腕を治し、たった今翼宿の傷の手当てを終えたところだ。
さっきまで痛がってぎゃあぎゃあ悲鳴を上げていた翼宿が、突然静かになって軫宿に声をかけた。
「軫宿、その猫……たまは、お前がずっと飼っとんのか?」
「は?」
軫宿はまったく予想していなかった質問に、首を傾げて肩の上のたまを見る。
ニャン?
「なんだ、突然何を訊くかと思えば……」
「いいから、答えてんか」
翼宿の目が真剣なのを見て、軫宿は疑問に思いながらもとりあえずその問いに答えた。
「いや、たまは怪我をしていたのを拾ったんだ。丁度、お前たちが俺を訪ねてくる三日前にな」
(珠珠はまだ逢命伝を読んでないのです。すみません。あしからず。)
「……さよか。それでその懐き様か」
「これでも初めは随分と抵抗されてな。こっちの生傷が絶えなんだ。だが、そのうち本能で治してやっていることがわかったんだろう。
しだいに、抵抗しなくなって……今は、この通りだ」
ゴロゴロッ
たまは軫宿にあごを撫でられて、幸せそうな声を出す。
軫宿も顔がほころぶ。お互い、人間不信になっていたときの唯一の友だったのだ。
しかし、それを見ていた翼宿がなぜかぶすぅっとなった。
「たまは運が良かったんや。……動物助けたって、いいことあらへん」
「翼宿……?」
「せっかく助けた命もな、いつか必ず……しかも動物の命なんてなぁ、それこそ理不尽に奪われるもんなんや。
……そんなんやったら、初めから助けんほうがそいつのためじゃ」
「……翼宿、何をいってるんだ?」
ほんまや。何言うてんねやろ、俺。
……胸くそ悪い。この怪我のせいや。
思い出さんでええことまで……呼び起こしおったわ。
翼宿は首を傾げた軫宿から視線を背け、虚ろな目になった。
その目は世界を見ているわけでもない。
明るい色のはずのその目は、しかし、輝きはなく、次の瞬間、静かに闇にその身をゆだねた。
……あぁ、あんときもこんくらい暗かったな。
いつの頃やろか。
六つかそこらのとき、俺はいろんな意味で弱かった。
あんときも、暗くて……心細くて泣いとったな。
今思えば、俺はあんときから変わったのかもしれんな……。
ひっく……うぅっ……うぇっく……。
しゃっくりあげる子供の声だけが、闇に吸い込まれるように短く響く。
その声にはもう、泣き声を上げるだけの元気もなく、嗚咽を漏らすだけで精一杯といったかんじだ。
泣き疲れた子供は、しかし、それでも歩みだけは止めずに夜の林を歩き回った。
「ねぇ……ちゃ、どこ……?」
叫んだつもりなのに声が出ない。
無理もないことだった。
彼は日の暮れるずっと前からこの調子で歩き回り、既に時間にして三時間はたっていた。
たった六つの俊宇にとって、この道のりは既に拷問に等しかった。
何度も転んで、膝も腕も擦り剥けて真っ赤だ。
でも、もう痛みを感じて、それを表現できるだけの余力さえ俊宇には残っていなかった。
薪を拾いに家の裏手にある林に入ったはいいものの、一緒に来ていたはずの姉たちとは、三時間前に転んだ拍子に小さな崖を滑り落ちたとき、
既にはぐれてしまっている。
「……つか……れた」
何度目かのセリフをはいた。
ここで初めて立ち止まる。
止まってみて改めて見ると、林はとても広く、夜の闇がかかってまた一段と寂しかった。
俊宇はここまで来て、少し後悔していた。
崖から落ちて、その場からなんで俺、動いてしもうたんや。
……気がついたときには、完璧に迷子だった。
きっと今頃、姉ちゃんたち心配しとんな。……いや、もう諦めて帰ってもうて、きっと今はおかんに叱られとる頃やろ。
おとんが村の連中かき集めて、俺を探しに来てくれるんやろか……。
いや……あの存在感の薄さじゃ、おとんには無理やろ。
ひとり頭の中でつっこみのような仕種をする。
当たり前だが楽しくもない。淋しさも余計に増した気さえする。
「……はぁ」
とりあえず、でっぱっていた木の根に腰掛けると、曲げた足がズキズキと痛んだ。
崖を滑り落ちたときに、どこも内傷を負っていなかったのがせめてもの救いだ。
泣く事にも、もう飽きたわ……。
またひとり、心の中で今度は強がりを言う。
ほんとは寂しくて、そう思うだけで目は潤むのに、涙が出てこないのだ。
もう、すっかり涸れてしまっていた。
「寒い……」
春先の冷たい風が小さい体を貫く。
今夜はここで寝ようかとも思ったが、なんだか、今寝たら寒さで死んでしまうような気がして、首をぶんぶん振った。
……このまま朝になっても、誰も来てくれんかったら俺、死ぬんやろか……。
漠然とそんな考えが脳裏をよぎった、そのときだった。
ガサッ!!
シュンッ
「わぁっ!?」
いきなり横の草原で物音がしたと思ったら、何かがそこから勢い良く飛び出してきた。
それは俊宇のすぐ脇をかすめる。
「なっ、なんや……!?」
かすれた声で言って、それが行ったほう、つまり自分の前のほうを見ると、そこにいたのは……。
「……うさぎ」
小さい……といっても、既に大人に近い大きさの一羽の若うさぎと目が合った。
「……お前、怪我……しとんのか?」
月明かりにうっすら浮かんだ白い毛の下、つまり足のほうには少し闇がかかっているように見え、
それが血だと気付くまでに、さほど時間はかからなかった。
うさぎは、しきりに自分の右足辺りに顔をうずめ、傷から出る血をなめとろうとしている。
鼻先が赤く染まるのを見て、その傷がつい最近のものであることを俊宇は知った。
「……どれ、診せてみ」
俊宇が手を伸ばすと、白い毛がぶわぁっと逆立った。
ヂヂヂッ……!
警戒音を発する。
こいつ、怪我で頭に血がのぼっとるわ。
それ以前に動物というものは、自分が負傷すると本能的に自己防衛の意識が過剰になるものだ。
それは俊宇もわかっているつもりだった。
それでも手を伸ばすのは、……助けたいからだった。
自分に何ができるかわからなかったけど、何も持ち合わせていなかったけど、せめて止血だけはしてやらないと。
そう思ったのだ。
「心配すんな。怪我人はお互い様じゃ。とって食おうなんぞ思っとらん。……助けたるから、な?」
しかし、
ガブッ!
「ってぇ〜!!」
俊宇の体に、また新たな傷ができてしまった。
「っお前なぁ!」
ついカッとなって立ち上がると、うさぎはビクッと足を引きずって遠ざかった。
「おい!その傷で行ったら……うぅっ!」
俊宇はうさぎを追いかけようとして、呻き声をあげると再びその場にうずくまる。
……足が。
林の草木で擦り傷だらけになっていた両足では、もはや歩くことさえ叶わなくなってしまっていた。
うさぎは、手負いの自分を追ってこない人間が不思議とでも思ったのか、耳を立てて警戒しつつもそっと振り返った。
そのままうさぎは、しばらく足の痛みに耐える俊宇を見ていたが、……やがて、とっと一歩だけ来たほうに引き返した。
「……?」
俊宇とうさぎの目が合う。
うさぎは癖なのか、それとも本当に彼のことを不思議に思ってか、しきりに小首を傾げてみせる。
だが、しかし、確実にその視線はまっすぐ俊宇に向けられていて、……また、一歩だけ。
まるで、一歩一歩の間に長い自問自答が繰り返されているかのように、ゆっくりと、しかし確かにうさぎは俊宇に近づいていった。
……そうや。大丈夫。俺は敵やない。
「……信じてくれ」
「よっしゃ、これでええやろ」
うさぎは、俊宇の膝の上におとなしくちょこんと座っていた。
たった今、その右足には、俊宇が自分の衣服の端を破った即席の包帯で、止血処置を施してやったところだ。
「血ぃ、止まるとええんやけど……。しかし、悪いことすんな。人間ってのは……」
そう。うさぎのこの傷は、どうみても人の仕掛けた罠で負った傷に違いなかった。
心当たりはある。
村の男なら誰でもやることだ。
最近、畑の実りが良くない。手っ取り早く自給自足で栄養を摂るには、林の向こうの山で動物を飼ったほうが効率がいいことくらいわかっている。
あのおとんかて、やるくらいじゃ……。
「すまんな……」
しゅんとなってしまった俊宇を見て、うさぎはまたくいっと小首を傾げる。
足の治療が終わったのがわかると、うさぎはひょいっと俊宇の右手に体を伸ばし、その指先をぺろっとなめた。
「……お前」
そこはさっき、おびえるあまりうさぎが噛み付いてしまったところだった。
にじみ出ていた血を綺麗さっぱりなめ取る。
「礼のつもりか。律儀なやっちゃなー」
そう言った声は震えていた。
うさぎのその心が嬉しくて、温かくて……同時に切なかった。
そういえば、みんな今頃必死になって自分を探してくれとるんやろか。
……そう思うと、急に言いようのない不安と孤独に襲われた。
「姉ちゃん、おかん。……ごめんなさい。ごめっ……!」
涙がまた……出そうになる。
すると、うさぎが今度は、自分のほうに顔を近づけるようにしてうずくまってきた俊宇の、その頬をやさしくなめた。
「……っう」
その途端、溜まっていた涙がせきを切って溢れ出した。
それが孤独からくる不安の涙なのか、それともうさぎのその行為がこの上なく嬉しくて流れた涙なのか、わからない。
……けれど、孤独ではあったけど、もうさっきのような寂しさはどこにもない。
それだけはわかった。
その夜、俊宇は人生で最初で最後の大声を上げた泣き方をした。
この声が手がかりになって、きっとみんなが見つけてくれるだろうと信じて……。
今の彼には、それしか自分の居場所を家族に告げる手段はなかったから。
うさぎはその間中、ただ無心に彼の涙をなめ取り続けた……。
下へ続く
六歳の頃の翼宿!!
実はこの話朱赤さま(是非行ってみて下さい。憧れです)の小説の影響をもろに受けまして、ってか惚れまして。
ついつい書いてしまったのは、小さい頃の翼宿なのです。
当然、尊敬するあの方の足元にも及ばない私の文章力で、どこまで人の心情の描写を表現できるのかと不安いっぱいぱいのUP。
そうなんです。暗いのです。ノンギャグなのです。(珠珠にとってはもの凄い快挙)
でも、ここだけの話。
動物は本当に受けた恩を忘れません!!
祖父母のうちで飼っていた猫(♀)のチィコは、私が八つの頃に天寿を全うし、その生涯に幕をおろしたのですが、
弱り果てても最後の最後まで、祖父母に見守られて亡くなっていったのです。
きっと、老いてしまった彼女は最後の一瞬まで一緒にいることで、精一杯の恩返しをしてくれたのですね。
私はそう信じています。(でもなぜか私にはなつかなかったんですよね〜^^;)
それでは、引き続き下のほうもどうぞ。