惜桜小屋の森にある大きな岩の上に、やわらかな笑みをたたえた菩薩像が、雨ざらしのまま鎮座している。森を守り、森の森羅万象(しんらばんしょう)を支配する山の神-のかわりだ。

魑魅魍魎(ちみもうりょう)がばっこし、霊力もあるという山や森-。
 山の幸を採集し、鳥やけものを狩り、木を伐りだす森に対し、人知を超えた大きな意思を感じ、恐怖心とともに畏敬の念を抱いてきた祖先が、安全と山の幸をもたらせてくれる守り神として、山々に祀ったのが山の神である。
 どこの山へ行っても入り口付近に祀ってある。
  山菜取り程度はともかく、伐採や狩猟などで入山する際はここに手を合わせ、安全祈願するのが慣わしだけれど、惜桜小屋の森にはそれがどこにも見当たらない。
 これはあくまで推測だけれど、この森はかつて山畑、炭焼き、山菜取り程度の入山がほとんどで、用材伐採といった危険な山仕事とは無縁、加えてけものの狩り場としてはそれほどの魅力もなく、獲物を鎮魂する司祭もまれ。だから神頼みをさほど必要としなかった。

 まがりなりにも山小屋造りとなれば危険も伴う。何かよりどころがほしい。窮余の策として、独自に祀ったのがこの菩薩像なのである。
 高さ十センチそこそこの、ごくありふれた観光土産品―。
まあ、仮の姿なんだからいいだろう―と、安易な発想だった。初めて置いたのは、小屋造りに着手した年だから、もう十数年になる。
  歳月を重ねて今ではすっかり一人前の山の神だ。
 軽々によそへ移したり、取っ払ったりできない雰囲気になっている。イワシの頭も信心から―などととおちょくれば、それこそバチがあたりそうである。

 入山のたび軽く手を合わせるが、その日の山での安全が約束されたようで気が安らぐ。すりきずのたぐいは数え切れないとはいえ、大した怪我もなく小屋造りを終えている。
 その後もいたって平穏なアウトドアライフを楽しんでいる。
 なかなか霊験あらたか?なのである。

―日記からこぼれた里山暮らし余話―
里山らいふ