渡辺千秋(わたなべちあき)の業績 | |
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幕末期に生まれ、15歳までに両親を亡くしまし たが家族をしっかり守り、自ら勉学に励み、精一 杯の努力をして国のために尽くす道に進みまし た。若いころから役人となって県下各地をはじ め、鹿児島県知事、北海道長官など、どこの地 に行っても庶民のためによく働きました。宮内省 勤務となってからは、皇室財産の整備に尽くしま した。また、宮内大臣となり、天皇補弼の大任を 果たしました。 |
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渡辺国武(わたなべくにたけ)の業績 | |
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千秋の三つ下の弟で幼少のころより読書に打ち込み、自ら師を求めて勉強し、後日に期して資質の鍛錬に励みました。やがて、役人となり大蔵省に入りました。明治期の日本の財政制度近代化に大きな役割を果たし、その力が認められて、第二次、および第四次伊藤博文内閣の大蔵大臣に任命され、伊藤博文から厚く信任をうけていました。 | ![]() |
渡辺千冬(わたなべちふゆ)の業績 | |
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千秋の三男として生まれ、14歳で叔父国武の養嗣子となりました。千秋、国武の影響を受け、勉学に励み広い見識を持つようになりました。衆議院選挙に当選して政界に入り、のち、貴族院議員となり、様々な政治改革の先頭に立って働きました。政党に属さなかった千冬は、浜口・若槻両内閣の司法大臣となり、厳正に疑獄事件に対処して司法権の確立に尽くしました。 | ![]() |
永田徳本(ながたとくほん)の資料 | |
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江戸時代、薬草の権威者として知られ、難病を治し、医聖といわれました。 牛の背にゆられて、村々をくまなく回り、病人には身分上下の区別なく手厚い看護を施し、薬代は尊卑、貧富の別なく一服十六文であったと言い伝えられています。 東堀の尼堂墓地(岡谷市長地柴宮4丁目)にある徳本さまの藍塔の中には小石がいっぱいつめられていますが、「いぼ石」として使用された名残です。 |
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武井五兵衛(たけいごへい)の業績 | |
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江戸時代、西堀村の豪農の家に生まれ、 名主役として地域のために働きました。 農民の生活を豊かにし、農村の繁栄を願 って、汐(せぎ=用水路)の開削に尽くしま した。「この地域の開発こそ自分の使命で ある」と信じ、開削工事の莫大な費用をす べて私費で賄い、全財産を投入して完成 させました。そのおかげで東堀村では多く の水田を開くことができました。 右の写真は東堀にある武井五兵衛の顕彰 碑です |
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